児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年02月

今日2月21日は、ペンシルロケットなどを開発した航空・宇宙工学者の糸川英夫(いとかわ ひでお)が、1999年に亡くなった日です。

1912年、いまの東京・西麻布に教師の子として生まれた糸川英夫は、1935年東京帝国大航空学科を卒業後中島飛行機に入社すると、独創的な着想をもりこんで、九七式戦闘機、二式単座戦闘機「鍾馗(しょうき)」などの名機の設計に関わりました。とくに一式戦闘機「隼」は、太平洋戦争中には陸軍の主力戦闘機として使われたことはよく知られています。いっぽう独力でジェットエンジンの研究や開発をおこなったところ、多くの批判をあびたことから、1941年11月、帝国陸軍の命令のままに動かされることのない東京帝国大第二工学部助教授に就任、戦後は脳波測定器などを開発し、1948年には教授になりました。

1954年、東大生産技術研究所内に「航空及び超音速空気力学(AVSA)研究班」を組織すると、1955年3月に全長わずか23cmながら「ペンシルロケット」の水平発射実験に成功し、わが国の宇宙開発の基礎をこしらえました。さらに糸川は、より大きな「ベビーロケット」「カッパロケット」の発射も成功させ、1960年代はラムダロケット、ミューロケット、日本最初の人工衛星「おおすみ」の開発にも関わりました。

1967年、東大を辞職して組織工学研究所を設立すると、宇宙開発の前線から去るものの、航空・宇宙工学の研究のほか音響工学、医療電子機器工学システムなど広いジャンルの研究にかかわりながら、若い研究者を育て、一般の人たちへの啓蒙にもつとめました。著書の『逆転の発想』がベストセラーになったほか、日本の将来を予測した小説『ケースD(最悪パターン)―見えない洪水―』などを発表しています。

1976~83年まで日本の短波放送受信愛好者団体(BCL連盟)の会長職と「月刊短波」の発行人を務めたり、シカゴ大学の客員教授なども歴任しながら、民族と科学、宗教問題にも取り組みました。

なお、2003年には小惑星のひとつが糸川の名にちなんでイトカワと命名され、探査機「はやぶさ(「隼」にちなむ名)」がこの小惑星を探査しました(2010年に「はやぶさ」は地球に帰還)。また2006年には早稲田実業校門前に糸川のペンシルロケットの実験から50周年を記念した「日本の宇宙開発発祥の地記念碑」が建立され、2012年には、糸川の生誕100周年を記念して鹿児島・内之浦宇宙空間観測所内に銅像が建立されています。


「2月21日にあった主なできごと」

1911年 対米不平等条約改正…江戸幕府は1859年、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの間で通商条約を結びました。しかし、関税自主権がない上、領事裁判権を認めた不平等なもので、この改正が明治政府の課題でもありました。1894年に陸奥宗光外相がイギリスとの改正に成功していましたが、この日小村寿太郎外相はアメリカとの修正条項に調印。他国との条約も順次修正され、条約改正が達成されました。

1936年 美濃部達吉負傷…「天皇主権説」に対し、「天皇機関説」(まず国家があり、その後に天皇があり、その天皇は国家の代表として一切の権利を有する)を唱えた美濃部達吉が、天皇を絶対視する右翼の男に自宅で右足を撃たれ、重傷を負いました。

1942年 食糧管理制度…太平洋戦争がはじまり、主食が不足するようになったため、「食糧管理法」を公布しました。これにより、米・麦などを農民に供出させ、国民に配給するしくみを作りました。戦後も食糧は不足していたために、GHQはこの制度を続けるように命じ、1994年に「食糧法」が公布されるまで続きました。

今日2月20日は、『ノベンバー・ステップス』『弦楽のためのレクイエム』などの純音楽、数かずの映画音楽の作曲で話題を集め、エッセイストとしても知られる武満徹(たけみつ とおる)が、1996年に亡くなった日です。

1930年、東京・本郷で生まれた武満徹は、生後1か月で父の勤務先である満州の大連に渡りました。1937年に単身帰国すると、7年間にわたって叔父の家ですごし、叔母が箏(そう)曲の師匠だったことから琴の音に親しむものの、古典的なクラシック音楽には興味を示すことなく、戦時中は、典型的な軍国少年としてすごしました。

終戦後は、進駐軍のラジオ放送を通してフランクやドビュッシーらの近代フランスの作品に親しむいっぽう、横浜のアメリカ軍キャンプで働いてジャズに接しました。やがて音楽家になる決意を固め、短期間清瀬保二に作曲を師事するものの、ほとんど独学で作曲を学びました。私立京華高校をへて、1949年に東京音楽学校を受験するものの、学校で学ぶ意義が見いだせず、テスト途中で取りやめたと記しています。

1950年、清瀬らが開催した「新作曲派協会」の作品発表会において、ピアノ曲『2つのレント』を発表して作曲家としてのデビューをはたすいっぽう、画家の『ポール・クレー論』を書いています。翌51年には、滝口修造や湯浅譲二らと画家や詩人たちのグループ「実験工房」を結成して、新しい実験音楽を創作しましたが、なかなか理解がえられませんでした。しかし、このころから、映画、舞台、ラジオ、テレビ、コマーシャルなど幅広いジャンルで活動するうち、しだいに注目されるようになってきます。

そして1957年、亡くなったばかりの友人作曲家早坂文雄へ献呈した『弦楽のためのレクイエム』を発表すると、来日していたストラビンスキーが、たまたまNHKのラジオ放送で聴いて絶賛したことで、のちに世界的評価を受けるきっかけとなりました。また、1958年に行われた「20世紀音楽研究所」の作曲コンクールで8つの弦楽器のための『ソン・カリグラフィI』が入賞すると、1959年に同研究所に参加して、2本のフルートのための『マスク』、1961年にはオーケストラのための『リング』、日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品『樹の曲』などを発表して好評をえました。また、手がけてきた映画音楽のうち、1961年羽仁進監督の『不良少年』が第16回毎日映画コンクール音楽賞を受賞したほか、翌62年小林正樹監督の『切腹』、64年勅使河原宏監督の『砂の女』、66年同監督の『他人の顔』もそれぞれ同コンクールに受賞し、一般大衆にも著名作曲家として広く知られる存在になりました。

さらに1967年には、友人でボストンで活躍する指揮者小沢征爾を通じ、ニューヨーク・フィルハーモニー音楽監督のバーンスタインに、武満が邦楽を純音楽に取り入れて成功している話が伝えられると、125周年を迎えた同オーケストラの記念作品を委嘱され、『ノベンバー・ステップス』を発表しました。オーケストラと尺八や琵琶が組み合わされた作品は大絶賛されるとともに、たくさんの武満作品が、アメリカやカナダ、ヨーロッパを中心に海外で取り上げられるさきがけとなりました。

1970年には、日本万国博覧会(万博)鉄鋼館の音楽監督をつとめ、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱されたオーケストラ曲『冬』を作曲しました。それらの体験をもとに1973年からは現代音楽祭「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、海外の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介しました。

著作にも優れ、『音楽を呼びさますもの』『樹の鏡、草原の鏡』『音・言葉・人間』『夢の引用』など、現代音楽と文化全体に対する問題提起に鋭いものがあると高く評価されています。


「2月20日にあった主なできごと」

1607年 歌舞伎踊り…出雲の阿国が江戸で歌舞伎踊りを披露、諸大名や庶民から大喝采をあびました。

1886年 石川啄木誕生…たくさんの短歌や詩、評論を残し、「永遠の青年詩人」といわれる石川啄木が生れました。

1928年 初の普通選挙…それまでの選挙権は、国税を3円以上おさめる成人男性に限定されていましたが、大正デモクラシーの勃興や護憲運動によって、納税額による制限選挙は撤廃され、25歳以上の成年男性による普通選挙が実現しました。

今日2月19日は、マルクス経済学者で、戦前の非合法政党時代の日本共産党の理論的指導者だった野呂栄太郎(のろ えいたろう)が、1934年に拷問の末に亡くなった日です。

1900年、北海道札幌に近い長沼町に生まれ育った野呂栄太郎は、旧制北海中学から秀才として注目され、慶応大学理財科(現・経済学部)に入学しました。マルクス主義を研究し、社会問題研究会を設立したり、野坂参三がおこした産業労働調査所や、日本総同盟の労働学校にかかわって『資本論』を講義するなど、社会問題や社会運動と深くかかわりました。

ところが、1926年の卒業の日、京都大学連事件に連座して、京大生38人とともに治安維持法違反として10か月の禁固がいい渡されてしまいました。野呂は、胸を患ったことで同年8月に病気療養のために保釈されますが、家宅捜索を受けたことで、集めていた日本資本主義に関する資料を没収されたため、わずかの資料をもとに、1930年に卒論を補完した『日本資本主義発達史』を刊行しました。この著書は、日本資本主義に関する科学的研究のさきがけとなるものとして、高く評価されています。

また、日本共産党に入党後の1931年、マルクス主義を体系的にまとめた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の企画・編集には山田盛太郎、平野義太郎と加わり、野呂自身は、病気と弾圧のためにこの講座に論文を執筆することはできませんでしたが、このシリーズはわが国の近代史研究の発展に大きな貢献をしています。

1932年10月の「熱海事件」(熱海温泉で共産党幹部が地方代表者会議を開催するという情報を入手した警視庁特別高等警察[特高]が、全員を逮捕した事件)により、壊滅状態におちいった共産党をたてなおそうと、肺結核で療養中でありながら野呂は、翌年8月1日の国際反戦デーにストライキ及びデモ活動を呼びかけたり、9月18日の満州掠奪戦争一周年記念日には反戦のための行動を指示するもののいずれも失敗し、まもなく検挙されてしまいました。各署たらいまわしの末、この日品川警察署での拷問により病状が悪化、北品川病院に移された後、33歳の若さで絶命したのでした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、岩波書店社主の岩波茂雄や平野義太郎あての野呂の書簡ほかを読むことができます。 


「2月19日にあった主なできごと」

1185年 屋島の戦い…源義経ひきいる源氏軍は、平氏のたてこもる屋島(現・高松市)が、干潮時には騎馬でわたれることを知ってわずかな兵で強襲を決意。この日、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけて一気に攻めこむと、平氏軍はろうばいして海上へ逃げ出しました。こうして、平氏は瀬戸内海の制圧権を失い、一ノ谷、壇ノ浦の戦いを経て、源平合戦の大勢が決しました。

1473年 コペルニクス誕生…宇宙が太陽を中心として回転しているという「地動説」を唱えた天文学者コペルニクスが生まれました。

1837年 大塩平八郎の乱…大坂(現大阪)で大坂町奉行所の元与力の大塩平八郎とその門人は、「幕府の役人の悪政や富商の莫大なもうけを攻撃する」と檄文をまき、多数の富商に火をつけ、大坂の2割を消失させました。乱そのものは小規模でしたが、江戸幕府の弱体ぶりを示した大事件でした。

1972年 あさま山荘事件… 連合赤軍のメンバー5人が、この日河合楽器の保養寮「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に10日間にわたって立てこもりました。

今日2月18日は、理論物理学分野で国際的な業績をあげ、アメリカの原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」を主導した物理学者のオッペンハイマーが、1967年に亡くなった日です。

1904年、ドイツ移民で裕福な織物業者の子としてニューヨークで生まれたジュリアス・オッペンハイマーは、早熟な子どもで、早くから地質学、数学、化学、18世紀の詩や芸術に興味を持ち、数か国の言語をあやつるほどでした。

1922年にハーバード大学に入学し化学を専攻すると、わずか3年で最優秀の成績を修めて卒業。イギリスのケンブリッジ大学に留学してキャベンディッシュ研究所で学ぶうち、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へ移り、理論物理学が発展していたドイツのゲッティンゲン大学へ移籍して博士号を取得しました。帰国後の1929年、25歳の若さでカリフォルニア大学・カリフォルニア工科大学の教授となって、1942年までに両校で、量子力学や原子核物理学の研究を行い、宇宙線を観測中に発見した新粒子が陽電子と中間子であることを指摘したり、宇宙線シャワーとして知られたその機構を明らかにし、ブラックホールをめぐる先駆的な研究を行うなど、アメリカの理論物理学界をリードするとともに、たくさんの物理学研究者を育てました。

第二次世界大戦の勃発後、1942年にアメリカ陸軍が中心となって秘密のうちに原子爆弾開発をめざす「マンハッタン計画」がはじまると、ロス・アラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームをの責任者となって世界初の原爆を開発、1945年6月にニューメキシコでの核実験を成功させ、同年8月に日本の広島と長崎に投下されました。

大戦後は大学にもどりましたが、1947年にはアインシュタインらの所属するプリンストン高等研究所の所長に任命されると、核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会の議長兼アドバイザーとなりました。水素爆弾(水爆)などいっそう強力な核兵器が開発されると、これらの製造に反対、ソ連との核兵器競争を防ぐための努力をします。

ところが1954年、水爆に賛成する科学者らに危険人物とされ、公職を追放されたばかりか、原子力関連文書に近づくことさえ禁止されてしまいました。こうして、オッペンハイマーは、私生活も常にFBIの監視下におかれてしまいました。1961年、ケネディ大統領の時代にアメリカ政府はこの措置を取り消し、1963年には「フェルミ賞」を贈りましたが、現代における「科学と国家との関係を象徴する事件」といわれています。

なお、オッペンハイマーは1966年までプリンストン高等研究所長をつとめましたが、後年は、原子爆弾開発を主導したことを後悔し、それへの罪の意識から、わが国の湯川秀樹や朝永振一郎らを含む世界中の科学者を招待するなど、この研究所を理論物理学の研究センターに築き上げたことは、いまも高く評価されています。


「2月18日にあった主なできごと」

1207年 法然と親鸞流刑に…「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえれば、来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然と弟子の親鸞は、旧来の仏教宗派に念仏の中止を訴えられ、法然は土佐に、親鸞は越後に流されました。

1546年 ルター死去…ドイツの宗教家で、免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたルターが亡くなりました。

1564年 ミケランジェロ死去…レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロと並び、ルネッサンスの3大巨匠といわれる彫刻家・画家・建築家・詩人として活躍したミケランジェロが亡くなりました。

1930年 冥王星の発見…アメリカの天文学者トンボーは、存在が予測されていた冥王星を発見し、太陽系の一番外側を回る9番目の惑星とされました。しかし、2006年に国際天文学界は、惑星ではない「準惑星」に分類しました。

今日2月17日は、『風博士』『白痴』『桜の森の満開の下』などの小説、『堕落論』などの評論をはじめ、歴史小説、説話文学、地誌など多分野の作品を残し、太宰治、織田作之助らとともに「無頼(ぶらい)派」といわれた坂口安吾(さかぐち あんご)が、1955年に亡くなった日です。

1906年、新潟市の旧家で衆議院議員の子(13人兄弟の12番目)として生まれた坂口安吾(本名・炳五)は、少年時代から自由奔放な性格で、近所の子どもたちを引き連れては町中や砂丘で遊びまわり、旧制新潟中学へ入っても授業にほとんど出席しなかったため、東京の私立豊山中学3年に転校させられ、卒業後は、小学校の代用教員をしながら、仏教の研究を決意して、21歳で東洋大学印度哲学倫理学科に入学しました。仏教書、哲学書を読みあさるいっぽうサンスクリット語、チベット語の学習とともに、アテネフランセに通って、フランス語を学びフランス文学に傾倒しました。

1930年に東洋大を卒業すると、翌1931年同人誌に発表した短編小説『風博士』が牧野信一に激賛され、『黒谷村』も島崎藤村、宇野浩二らに高く評価されて、いちやく新進作家として注目されるようになりました。牧野の主宰する「文科」に『竹藪の家』を連載したり、1938年には自身の半生を総決算する長編『吹雪物語』、1939年に説話小説『紫大納言』、1942年に評論『日本文化私観』『青春論』などの佳作を発表しました。

安吾が人気作家として、いちやく表舞台に躍り出たのは戦後のことで、1946年4月に評論『堕落論』(従来の政治観・道徳観・伝統美を批判し、人間が人間らしく生きるには堕落の道を進み、その中から真実を見つけ出せという主旨)、6月に短編集『白痴』を発表すると、その思い切った発想に、敗戦に打ちのめされていた人々に大きな衝撃を与えて、織田作之助、太宰治、石川淳らとともに、「無頼(ぶらい)派」と呼ばれて、時代の寵児となりました。そして、『デカダンス文学論』『外套と青空』『桜の森の満開の下』などの評論や小説を次々に発表するいっぽう、『道鏡』などの歴史小説、自伝的な『暗い青春』、推理小説『不連続殺人事件』ほか、多彩な分野の作品を立て続けに発表していきました。

ところが、友人の太宰が自殺した1948年6月ころから、うつ病的精神状態に陥り、これを克服するためにアドルムやヒロポンなどを大量に服用したため、幻聴、幻視が生じるようになり、1949年初頭には狂乱状態となって入退院をくりかえし、晩年は、あまり書くことができなくなって、『中央公論』に連載していた『安吾新日本地理』の取材中に脳出血に倒れてしまいました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『堕落論』をはじめ、安吾の代表作を含む440編を読むことができます。


「2月17日にあった主なできごと」

1856年 ハイネ死去…『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表したドイツの文学者ハイネが亡くなりました。

1872年 島崎藤村誕生…処女詩集『若菜集』や『落梅集』で近代詩に新しい道を開き、のちに『破戒』や『夜明け前』などを著した作家の島崎藤村が生まれました。

1925年 ツタンカーメン発掘…イギリスの考古学者カーターはこの日、3000年も昔の古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンの、235kgもの黄金の棺に眠るミイラを発見しました。

1946年 金融緊急措置令…第2次世界大戦後の急激なインフレを抑えるため、金融緊急措置令を施行。これにより、銀行預金は封鎖され、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方、旧円の市場流通を停止、新紙幣(新円)との交換を月に世帯主300円、家族一人月100円以内に制限させるなどの金融制限策を実施しました。しかし、この効果は一時的で、1950年ころの物価は戦前の200倍にも達したといわれています。

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