児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年02月

今日2月28日は、妻とともに、富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる気象学者の野中到(のなか いたる)が、1955年に亡くなった日です。

1867年、いまの福岡市に生まれた野中到(本名・至)は、医学をめざして大学予備門(のちの東大教養学部)に入学しましたが、当時の日本が日清戦争に勝利して士気盛んな時期であったことから1889年に医学の道を断念し中退、富士山山頂で越冬気象観測を行って、時代の流れに応えようと決心しました。

そして1895年の1月と2月、御殿場口より風雪に苦しみながらも富士山頂観測準備のため、2度の冬季登山を行い、8月末には、私財をつぎこんで買いこんだ資材をひとりで富士山頂の最高地点剣が峰に運びあげ、9月末に日本初の富士気象観測所を建設しました。さらに、同年10月1日から12月まで82日間、1日12回、妻の千代子と共に気象観測を続けたのでした。

ところが、栄養失調のために二人は倒れ、当時の文部大臣の命令で、中央気象台の技師らが救援にむかい、12月22日にかつぎおろしたことで、越冬観測は失敗に終わりました。こうして挫折はしたものの、夫婦による富士越冬観測の試みは大きな反響を呼び、翌1896年には早くも伊井蓉峰により劇化され、落合直文は登山記録をもとにした実録小説『高嶺の雪』を刊行しました。1901年、千代子が書き続けた日誌(芙蓉日記)も収録した野中の著書『富士案内』が刊行されると、小学校の教科書にも載るようになり、夫妻の「富士気象観測」は、郡司成忠の「千島探検」、福島安正の「シベリア単独横断」とともに、明治の3大冒険の一つに数えられるようになりました。

1912年に野中は、再挑戦をしようと富士山頂付近に、第2観測所を建設しますが、観測を再開するまでには至りませんでした。しかし、野中の業績は晩年の1948年、橋本英吉による『富士山頂』が刊行され、この著作をもとに同年に夫妻役藤田進・三宅邦子で映画化され、没後の1967年にも映画化されています。夫妻が全国的によく知られるきっかけになったのは、1971年に刊行された新田次郎の小説『芙蓉の人』で、1973年にNHKでテレビドラマ化され、夫妻役長門裕之・八千草薫は大きな話題となり、1977年には東京12チャンネル、1982年にもNHKでテレビドラマ化されています。


「2月28日にあった主なできごと」

1533年 モンテーニュ誕生…名著『随想録』の著者として、今も広く読まれ評価の高いフランスの思想家モンテーニュが生まれました。

1546年 ルター死去…免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたドイツの宗教家ルターが亡くなりました。

1591年 千利休自刃…織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成し、茶道を 「わび」 「さび」 の芸術として高めた千利休が、秀吉の怒りにふれて切腹させられました。

1638年 天草四郎死去…島原・天草地方のキリシタンの農民たちは、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年天草四郎を大将に一揆を起こしました(島原の乱)。島原の原城に籠城して3か月余り抵抗しましたが、幕府の総攻撃を受けて、四郎をはじめ37000人が死亡しました。

1811年 佐久間象山誕生…幕末の志士として有名な吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟らを指導した開国論者の佐久間象山が生まれました。

1972年 「浅間山荘」強行突入…連合赤軍のメンバーが19日に軽井沢にある「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもっていましたが、この日機動隊が強行突入、激しい銃撃戦の末に人質を解放して犯人5名を逮捕、隊員2名が殉職しました。突入の様子はテレビで生中継され、視聴率は総世帯の9割近くにも達し、今なおこの記録は破られていません。

今日2月27日は、「刷り込み」の研究者で、動物行動学(エソロジー)を確立したオーストリアの動物学者ローレンツが、1989年に亡くなった日です。

1903年、オーストリア・ハンガリー帝国時代に高名な外科医の子としてウィーン近郊に生まれたローレンツ・コンラートは、1922年に渡米してコロンビア大学で医学を学びはじめ、1923年に帰国後ウィーン大学で比較解剖学、動物学、医学、カント哲学を学び、1928年に医学博士となりました。

その後、解剖学研究所で助教授をつとめながら『社会性カラスの行動学について』などの論文により1933年、動物学分野での博士号を取得し、『鳥の環境生活における仲間』などの論文で「動物行動学」の基盤をこしらえました。1936年に友人であり同僚となるティンバーゲンと、野生・家畜・雑種のガチョウを研究し、1940年にケーニヒスベルク大学の心理学教授となりましたが、1941年にドイツ国防軍に徴兵され、軍医として配属されものの、ソ連軍の捕虜となり、1942~48年まで捕虜収容所で拘束されます。解放された時に書きためていた本の原稿とペットとしていたムクドリを持ち帰ることを許され、1950年には行動心理学ローレンツ研究所が設立され、1957年にはミュンヘン大学動物学科の名誉教授、1958年にはマックス・プランク行動心理学研究所に移りますが、その間20数年にわたる鳥類、魚類を中心とした「動物行動学」の研究分野で、とても重要な発見をしました。

それを生理学や解剖学などからはわからなかった動物の遺伝的な行動形式をひきだす「リリーサー」などの概念として提言。卵からかえったヒナが、初めて動くものを親と認識して後を追うという「刷り込み」もそのひとつです。これらの発見を、『ソロモンの指輪』や『攻撃』(人間の攻撃性は、動物の攻撃性と同根であることを指摘)など一般向けの出版物に著すと、たくさんの議論を巻き起こしました。

こうした長年の「動物行動学」の研究が評価されて、同僚研究者のティンバーゲンやミツバチの研究をしたフリッシュとともに1973年、ノーベル医学・生理学賞を受賞したことは、よく知られています。

ローレンツは、マックス・ブランク研究所を退職した後も研究と執筆活動を続け、1974年にはオーストリアにもどり、オーストリア科学アカデミー動物社会科学研究所の所長となって、人間論、文明論を含めた体系的な著作を発表し、『文明化した人間の八つの大罪』などを残しています。


「2月27日にあった主なできごと」

1876年 江華条約の締結…鎖国をつづける朝鮮に国交を求めていた明治政府は、前年に日本の軍艦が朝鮮の江華島付近で砲撃を受けたのに対し、猛反撃を加えました(江華島事件)。この日更なる圧力をかけて江華条約を締結させ、念願の朝鮮開国を実現させました。この条約は釜山・江華港を貿易港として開港、朝鮮海航行の自由、江華島事件の謝罪など、日本優位の不平等条約で、日本の朝鮮侵略の第1歩となりました。

1933年 ドイツ国会議事堂炎上…この日の夜突然、首都ベルリンの国会議事堂が燃え上がり、ヒトラー はこれを共産党員のしわざだとして、共産党員をすべて逮捕し、間近にせまった選挙に出られなくさせました。このため、ナチス党は選挙を有利に進め、独裁の足がかりとしました。

1936年 パブロフ死去…消化腺と条件反射の研究で、ノーベル賞を受賞したロシアの科学者パブロフが亡くなりました。

今日2月26日は、大正・昭和初期に6内閣の大蔵大臣(蔵相)をつとめ、短期間ながら内閣総理大臣をつとめた政治家の高橋是清(たかはし これきよ〉が、1936年の「二・二六事件」で暗殺された日です。

1854年、江戸幕府の御用絵師の私生児として生まれた是清(幼名・和喜次)は、生後まもなく仙台藩の下級武士高橋家の養子となり、養祖母の愛情に育まれました。運よく仙台藩の留守居に才能を見出されて宣教師の夫人から英語を学んだことで、1967年14歳のとき、藩費でアメリカに留学しました。ところが、滞在先の主人に3年間の奴隷として売られたことに気づいた高橋は、苦労してこれを清算して翌年に帰国、森有礼の世話で官立教育機関「大学南校」に入り、英語教官となりました。その後、大阪英学校校長、東大予備門教員をへて、1881年明治新政府の農商務省に入ると、1987年には昇進して初代特許局長になっています。

生来の冒険心旺盛な性格から同僚の熱心な勧めで農商務省を退官し、1990年にペルーのカラワク銀山開発のために現地をおとずれたところすでに廃坑、詐欺にかかったことがわかって帰国しました。浪人生活後の1992年に日本銀行に入ると、めきめき頭角をあらわし、1894年にはじまった日清戦争時には戦時資金調達に業績をあげたことで翌年に横浜正金銀行支配人となり、1899年には日銀副総裁に出世します。1904年にはじまった日露戦争時にはロンドンに渡り、1億3千万ポンドという多額の外国債の募集に成功して名声をあげ、翌年には貴族院議員に選ばれ、男爵を授けられました。

1911年には日銀総裁にのぼりつめ、1913年に山本権兵衛内閣の蔵相になって政友会に入党した高橋は、1918年には原敬内閣の蔵相となり、原が暗殺されたことで、1921年に第20代内閣総理大臣となりました。しかし、政友会内部の対立のために半年後に総辞職しました。1924年の第2次護憲運動の際には貴族院議員と爵位を返上して行動し、衆議院議員に当選。政友会、憲政会、革新会の護憲三派が大勝した内閣の農商務大臣となりましたが、まもなく政友会総裁を田中義一にゆずって、政界を引退しました。

ところが1927年、関東大震災手形の処理めぐって金融恐慌が勃発すると、田中義一内閣に請われて蔵相となり、平時では世界でもめずらしい支払猶予令を発して財界の救済にあたりました。その後も犬養毅、斉藤実、岡田啓介内閣の蔵相をつとめましたが、予算編成をめぐって台頭する軍部と対立することが多くなり、この日におこった「二・二六事件」(陸軍の青年将校ら1400人が首相官邸などを襲撃する事件)で、私邸を襲われた高橋が、銃弾と軍刀で惨殺されてしまいました。この事件は、円満な人がらで「だるま蔵相」「だるま翁」の愛称で親しまれてきた83歳の高橋の死であるとともに、国民経済がバランスを失って崩壊へと踏みだすはじまりでもありました。


「2月26日にあった主なできごと」

1609年 琉球征伐…薩摩藩の藩主島津家久は、この日大軍を率いて琉球王国に攻め入り、4月までに征服しました。当時琉球王国は、中国や東南アジアと日本を結ぶ中継貿易で栄えていましたが、これ以後は、薩摩藩が独占することになりました。

1802年 ユゴー誕生…フランス文学史上屈指の名作といわれる『レ・ミゼラブル』を著わした作家のユゴーが生まれました。

1815年 ナポレオンがエルバ島脱出…ヨーロッパ同盟軍に破れ、エルバ島に流されていたナポレオンは、この日の夜7隻の船に大砲を積みこんで島を脱出、皇帝に返り咲きました。しかし「100日天下」に終わり、セントヘレナ島に幽閉され、その地で亡くなりました。

今日2月25日は、『ガラスの動物園』『欲望という名の電車』『熱いトタン屋根の猫』など、たくさんの戯曲を書いたアメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズが、1983年に亡くなった日です。

1911年、アメリカ南部ミシシッピ州のコロンバスに靴のセールスマンの子として生まれたテネシー・ウィリアムズは、牧師の祖父、音楽教師の祖母、夫婦仲のよくない両親、2歳上の姉ローズ、弟デーキンとともに祖父の牧師館でおだやかに育ちました。ところが12歳のときに父の仕事の都合でミズーリ州の工業都市セントルイスのアパート暮らしという環境の変化になじめず、苦悩の日々を送りました。アイオア大学に入学するものの経済的事情で中途退学し、ニューオリンズのホテルでボーイをするなど雑役をしながら、詩、劇、小説を書いて注目されるチャンスをねらっていましたが、なかなかうまくいきません。

1939年、ようやく『アメリカン・ブルース』という1幕物の劇でみとめられ、1944年に初演された自伝的作品『ガラスの動物園』で、はじめて成功をおさめました。セントルイスのアパートの一室を舞台にトム(テネシーの分身)の語りで始まり、昔の夢を追い続ける南部育ちの母を主人公に、足が悪く極度に内気な姉、文学青年の弟という一家を描いた追憶劇でした。この作品は、米文学の最高峰と評価されて出世作となったばかりか、ハリウッド映画にも影響を与え、1950年と87年に映画化されています。

1947年初演の『欲望という名の電車』は、ニューオーリンズを舞台に、南部の没落農園出身の女性ブランチが、粗野な工場労働者の妻のもとに居候したことでまきおこる事件を描いています。これも自伝的な色彩の強い作品で、翌年ピューリツァー賞を受賞し、1951年に映画化され、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』とともに、戦後アメリカ演劇の傑作とされています。1955年に初演された『熱いトタン屋根の猫』は、性の抑圧に苦しむ女性が強く自己主張し、挫折せずに生きぬく野性的な作品で、これもピューリツァー賞を受賞し、1959年に映画化されています。

その他、「黒い戯曲」とよばれるシリーズで、主人公が迫害されてむざんな最期をとげる『地獄のオルフェイス』『この夏突然に』『青春の甘き小鳥』、映画化された『ベビイ・ドール』『ローマの哀愁』など、亡くなるまでに60の戯曲を残しました。これらの作品は、日本の新劇界でも注目され、さまざまな劇団に演じられ、大学でとりあげられた劇を含めると、50~80年代に数千回も演じられたといわれています。

なお、1975年には『回想録』を発表し、自身がゲイだったことなど赤裸々に記したことで、世界じゅうにに衝撃を与えました。晩年は死や孤独に対する恐怖からアルコールやドラッグが手放せない生活になり、ニューヨークのホテルでボトル・キャップをのどにつまらせて窒息死したと伝えられています。


「2月25日にあった主なできごと」

903年 菅原道真死去…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者 菅原道真が亡くなりました。

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の藤原道長は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

1841年 ルノアール誕生…フランスの印象派の画家で、風景画や花などの静物画から人物画まで、世界中でもっとも人気の高い画家の一人ルノアールが生まれました。

1953年 斉藤茂吉死去…写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった斎藤茂吉が亡くなりました。

今日2月24日は、『楓図』『松林図屏風』『大涅槃図』などを描き、狩野永徳らと安土・桃山時代を代表する画人といわれる長谷川等伯(はせがわ とうはく)が、1610年に亡くなった日です。

1539年、能登国七尾(いまの石川県七尾市)の戦国大名畠山氏に仕える下級家臣の子として生まれた等伯(幼名・又四郎)は、幼年期に染物屋を営む長谷川家の養子になりました。養父が仏画を描いていたことから、やがて父から手ほどきをうけ仏画や肖像画などを描くようになると、京都と七尾を往復し京の町衆から絵画の技法や図様を学びました。

1571年ころ、養父母が亡くなったのを機に上洛し、当時日本画の主流だった狩野派の門をたたいてその様式を学ぶものの、狩野派に対し強烈なライバル意識を持ちます。こんどは京都と堺を往復しながら千利休ら堺で活躍する茶人たちから中国絵画の知識を吸収し、独自の画風を確立していきました。のちに、等伯が語ったことを京都・本法寺住職の日通上人が書きとめた『等伯画説』によると、雪舟系の画家等春に学び、雪舟の5代目を自称したことや、雪舟の学んだ宋・元画、特に南宋の牧谿(もっけい)に学ぶことが多かったと記されています。また江戸時代の中ごろに書かれたという資料『本朝画史』には、等伯の画風は、「豪気な感じがあふれ、激しい筆の動きによる強い線、思い切った構図に特色がある」と高く評価しています。

現在確認される作品は約80点、秀吉が幼くして亡くした愛児捨松追善のために建立した祥雲寺の金碧障壁画(その一部『楓図』は京都・智積院蔵)と、『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が代表作といわれています。『楓図』は絢爛豪華な桃山美術を代表する作品とされ、『松林図屏風』はわが国の水墨画の最高傑作といわれています。そのほか、京都竜泉庵の『枯木猿猴図』や金地院、真珠庵などの襖絵、『千利休像』『武田信玄像』などの肖像画などがあり、そのほとんどが重要文化財となっています。とくに京都・本法寺にある『大涅槃図』は、縦10m横6mもある大画面に、亡くなった釈迦のまわりにたくさんの弟子たちばかりでなく、象や獅子、鳥やうさぎなど大小さまざまな動物たち、草木までもが悲しみにくれている姿には圧倒されます。才能は等伯以上といわれた息子久蔵と、庇護者だった千利休を失った悲しみがこめられているこの絵は必見で、ふだん展示されているのは実物大の複写ですが、年に何回かは実物が展示されるそうです。

晩年の等伯は、信仰する法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼され、その業績により1604年には法橋、翌年には法眼に叙せられ、本法寺の檀家を代表する「大檀越」となり、京都における有力者となっています。


「2月24日にあった主なできごと」

1815年 フルトン死去…1807年、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功したアメリカの技術者で発明家のフルトンが亡くなりました。、

1873年 キリスト教禁制撤廃…1612年以来禁止されてきたキリスト教を、明治政府も国禁にしてきましたが、この日「キリスト教国禁」の高札を撤去。欧米諸国の非難や、条約改正を妨げる一因をなしていることを知った政府は、キリスト教を黙認する決断をしました。

1933年 国際連盟総会で抗議の退場…日本の国際連盟代表の松岡洋佑ら代表団は、スイスのジュネーブで開かれた臨時総会で、議場からいっせいに退場しました。前年に日本が中国東北部に建設した「満州国」を国際連盟が認めず、軍を引き上げるよう求める勧告案を、賛成42、反対1、棄権1で採決したことに抗議したものです。この総会の後日本は、3月27日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立する道を歩みはじめました。

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