児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年01月

今日1月9日は、1981年に日本初のノーベル化学賞を受賞した化学者・工学者の福井謙一(ふくい けんいち)が、1998年に亡くなった日です。

1918年、工場経営者の子として奈良市に生まれた福井謙一は、昆虫の大好きな子として大阪市で少年時代を過ごしました。特にファーブルの『昆虫記』が好きで、ファーブルが化学者だったことから化学に興味を持ち、1938年京都帝国大学(現・京都大)工業化学科に入学、化学の理論的な研究をきわめ、卒業後は大学院を経て、母校の講師となりました。第2次世界大戦がはじまると軍務につき、陸軍技術大尉さらに同少佐となって、航空添加燃料イソオクタン製造の研究に従事しました。戦時下にありながら、東京と京都間を往復するなど、自由な生活が許されていたのは幸いでした。

戦後は京都大にもどり、1951年には工学部教授となり、1971年には工学部部長となっています。その間「燃料化学教室」で、量子力学の計算に基づく化学反応のしくみを明らかにする研究に取り組み、1952年に「フロンティア軌道理論」を発表しました。これは、炭火水素のひとつのナフタレンは、炭素原子10個、水素原子8個からできていて、電子の数は68個あり、その電子の動きに注目したところ、ニトロニウムというイオンが、ナフタレンと反応して、新たな化合物になったことがわかり、いちばん外側にある軌道を「フロンティア軌道」、軌道上の電子を「フロンティア電子」と名づけて、論文に発表しました。この理論は、化学物質が混ざり合ったときの化学反応の起こり方を電子の軌道を使ってはじめて明らかにしたもので、世界の化学界に注目されました。1964年には「軌道対称性と選択則」の理論、1970年に「反応の理論」を発表して、これらの理論がすべての化学反応にあてはまることを理論づけました。

福井理論は、その特異性に注目はされたものの、疑問を持つ化学者も多くありました。いちやく脚光をあびたのは、1971年にアメリカのウッドワークとホフマンが、福井理論に基づく「化合物の立体選択制」(ウッドワーク=ホフマン則)を発表したことからでした。それから10年後の1981年、福井は「フロンティア軌道理論」と「軌道対称性と選択則」に対し、ノーベル化学賞が贈られました。日本人として6人目の受賞で、ホフマンも同時受賞でした。この理論の応用範囲は大きく、分子設計、触媒設計など多くの分野に利用されています。

なお、京都大を退いた後の福井は、京都工芸繊維大学学長、基礎化学研究所長などをつとめ、基礎学問の重視、独創的研究の必要性、科学と人間の平和的共存を訴えつづけました。


「1月9日にあった主なできごと」

802年 胆沢城…794年に史上初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、現在の盛岡市近辺に胆沢(いざわ)城を築城。胆沢城は、およそ150年にもわたって東北の蝦夷地政府ともいうべき[鎮守府]として機能しました。

1891年 不敬事件…3年間のアメリカ留学でキリスト教徒となった内村鑑三は、前年から第一高等中学校の講師として、この日講堂で挙行された教育勅語奉読式において、天皇親筆の署名に最敬礼をおこないませんでした。それが同僚・生徒などによって非難され、社会問題化しました。

1905年 血の日曜日…ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクの冬宮前広場で行われた労働者によるデモに対し、政府の兵士が発砲、2000人もの死傷者を出しました。この日曜日におきた事件は、ロシア第1次革命の発端となりました。

今日1月8日は、初期ルネッサンス期の大画家で、イタリア・ルネサンスへの先鞭をつけたジォットが、1337年に亡くなった日です。

ジォットは、1267年頃イタリアのフィレンツェ近郊に生まれました。少年時代にジォットが岩にヒツジの絵を書いていたところ、通りがかったフィレンツェ出身の巨匠チマブーエが目にし、父親にかけあって弟子にしたといわれています。

古い時代のため、ジォットに関する正確な資料や情報は多くなく、同時代の詩人ダンテが『神曲』の中で、ジォットを最高の画家と記述したり、同時代の画家ジョバンニが「この時代における最大の巨匠で、描く人物やそのポーズはこの上なく自然に見える。その才能と卓越した技術によってフィレンツェのおかかええ画家となった」と書き残したりするのを推察するほかはありません。そして、16世紀後半の画家で伝記作家のバザーリが、その著書『画家・彫刻家・建築家列伝』にジォットに多くのページをさき、「それまでの洗練されていなかったビザンティン美術を徹底的に打ちこわし、現在見られるような現実味あふれる素晴らしい絵画をもたらした」とジョットを絶賛しているのは、特に重要な資料となっています。

ジォットの初期の作品は、イタリア中部アペニン山脈にある町アッシジの「聖フランチェスコ寺院」にある28面からなるフレスコ壁画シリーズ『聖フランチェスコの生涯』です。それまでの宗教画は、神秘的な教えを平板に表現しているだけだったのに対し、このシリーズは、日常的なしぐさや目線を人間的に表現する手法や、遠近表現を使った奥行きのある現実的な空間に描いています。中でも『小鳥に説教をする聖フランチェスコ』は有名。

ジォットの代表作は、1305年に完成したベネチアの西方にある町パドバの『スクロベーニ礼拝堂の装飾画』にある聖母マリアとキリストの生涯をフレスコ壁画で描いたシリーズで、初期ルネサンス絵画の最高傑作と高く評価されています。マリアの生誕から婚約に至る12場面にはじまり、エジプトへの逃避、第1の奇跡(カナの饗宴)、キリストの逮捕、礫刑、マリアと弟子たちの哀悼まで、わかりやすく表現されているばかりでなく、どの絵からも人々の声がきこえそうな感じを受けます。

Giotto.jpg
ジォットの作品で最も有名なのは、フィレンツェのウフィツィ美術館に展示されている『荘厳の聖母』(上の絵)でしょう。3メートルをこえる堂々とした板絵で、衣服のひだまで細かく表現されているのがわかります。


「1月8日にあった主なできごと」

1324年 マルコ・ポーロ死去…ベネチアの商人で、元(中国)に17年も仕え 『東方見聞録』 を遺した旅行家マルコ・ポーロが亡くなりました。

1642年 ガリレオ死去…イタリアの物理学者、天文学者で近代科学を拓いた功績者ガリレオが亡くなりました。

1646年 徳川綱吉誕生…江戸幕府の第5代将軍で、当初はすぐれた政治を行ないましたが、やがて「生類憐みの令」をはじめ、悪政といわれる政治を次々とおこなうようになった徳川綱吉が生まれました。「西洋絵画の父」ジォット

今日1月8日は、初期ルネッサンス期の大画家で、イタリア・ルネサンスへの先鞭をつけたジォットが、1337年に亡くなった日です。

ジォットは、1267年頃イタリアのフィレンツェ近郊に生まれました。少年時代にジォットが岩にヒツジの絵を書いていたところ、通りがかったフィレンツェ出身の巨匠チマブーエが目にし、父親にかけあって弟子にしたといわれています。

古い時代のため、ジォットに関する正確な資料や情報は多くなく、同時代の詩人ダンテが『神曲』の中で、ジォットを最高の画家と記述したり、同時代の画家ジョバンニが「この時代における最大の巨匠で、描く人物やそのポーズはこの上なく自然に見える。その才能と卓越した技術によってフィレンツェのおかかええ画家となった」と書き残したりするのを推察するほかはありません。そして、16世紀後半の画家で伝記作家のバザーリが、その著書『画家・彫刻家・建築家列伝』にジォットに多くのページをさき、「それまでの洗練されていなかったビザンティン美術を徹底的に打ちこわし、現在見られるような現実味あふれる素晴らしい絵画をもたらした」とジョットを絶賛しているのは、特に重要な資料となっています。

ジォットの初期の作品は、イタリア中部アペニン山脈にある町アッシジの「聖フランチェスコ寺院」にある28面からなるフレスコ壁画シリーズ『聖フランチェスコの生涯』です。それまでの宗教画は、神秘的な教えを平板に表現しているだけだったのに対し、このシリーズは、日常的なしぐさや目線を人間的に表現する手法や、遠近表現を使った奥行きのある現実的な空間に描いています。中でも『小鳥に説教をする聖フランチェスコ』は有名。

ジォットの代表作は、1305年に完成したベネチアの西方にある町パドバの『スクロベーニ礼拝堂の装飾画』にある聖母マリアとキリストの生涯をフレスコ壁画で描いたシリーズで、初期ルネサンス絵画の最高傑作と高く評価されています。マリアの生誕から婚約に至る12場面にはじまり、エジプトへの逃避、第1の奇跡(カナの饗宴)、キリストの逮捕、礫刑、マリアと弟子たちの哀悼まで、わかりやすく表現されているばかりでなく、どの絵からも人々の声がきこえそうな感じを受けます。

Giotto.jpg

ジォットの作品で最も有名なのは、フィレンツェのウフィツィ美術館に展示されている『荘厳の聖母』(上の絵)でしょう。3メートルをこえる堂々とした板絵で、衣服のひだまで細かく表現されているのがわかります。


「1月8日にあった主なできごと」

1324年 マルコ・ポーロ死去…ベネチアの商人で、元(中国)に17年も仕え 『東方見聞録』 を遺した旅行家マルコ・ポーロが亡くなりました。

1642年 ガリレオ死去…イタリアの物理学者、天文学者で近代科学を拓いた功績者ガリレオが亡くなりました。

1646年 徳川綱吉誕生…江戸幕府の第5代将軍で、当初はすぐれた政治を行ないましたが、やがて「生類憐みの令」をはじめ、悪政といわれる政治を次々とおこなうようになった徳川綱吉が生まれました。

今日1月7日は、パリで抽象美術運動やシュルレアリスム運動と直接関わり、大阪で行われた日本万国博覧会(万博)のシンボルタワー『太陽の塔』や、大作『明日の神話』などの絵画を多く遺し、縄文時代や沖縄のプリミティブ美術を再評価するなど、個性あふれる前衛芸術家・岡本太郎(おかもと たろう)が、1996年に亡くなった日です。

1911年、漫画家の岡本一平と、作家で歌人の岡本かの子のひとり息子として生まれた太郎でしたが、父の放蕩、母の不倫という共に家庭をかえりみない環境の中で幼・少年期を過ごしました。絵がすきだったことで、慶応普通科をへて東京美術学校(現・東京芸術大)へ進学しましたが、そのころ父が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになりました。そこで太郎も美術学校を休学、親子三人にかの子の愛人青年二人を加えた5人でヨーロッパにわたりました。

1929年に神戸港を出港した一行は翌年1月にパリに到着、太郎はその後約10年間、ドイツ軍がパリに侵攻する1940年まで、ひとりでパリにとどまりました。芸術への迷いが続いていたころ、ある画廊でピカソの作品を見て強い衝撃を受け、「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ちこむようになり、1933年には、国際的な抽象芸術活動をしているアブストラクシオン協会に認められ、22歳で最年少会員となります。そのかたわらソルボンヌ大学で、哲学・社会学・精神病理学・民族学を学び、ブルトンやエルンストらと交遊するうち、抽象主義にあきたらずシュルレアリスムに転向、1937年にはシュールアンデパンダン展に『傷ましき腕』を出品しました。

1940年に帰国すると、『傷ましき腕』など滞欧中の作品を二科展に出品して受賞、個展も開いたりするものの、1942年に徴兵令状を受け取り、中国戦線へ送られました。1945年の日本敗戦により、半年ほど長安で俘りょ生活をおくったのちに帰国しますが、自宅も作品もすべて焼失していました。

やがて二科会に所属して、前衛芸術の推進者の一人として活動を開始すると、『夜明』『森の掟』など、話題作を次々と発表するとともに、新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言をします。東京・青山に自宅兼アトリエを建て生活と制作の拠点にすると、モザイクタイルや陶板を使用した壁画を、劇場や旧東京都庁舎などに制作するかたわら、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を著すとベストセラーになりました。1960年代になると、壁画や公共建造物のモニュメント、商業デザインにも力をそそぐいっぽう、縄文土器や、日本の伝統美術などに関する著作活動をおこない、『忘れられた日本・沖縄文化論』は、毎日出版文化賞を受賞しています。

1970年に大阪で万国博覧会が開催されると、巨大なシンボル・タワー『太陽の塔』を制作。強烈な個性を発揮した奇抜な像に、世の中を賛否両論のうずにまきこみましたが、万博は大成功に終わり、1975年に『太陽の塔』は永久保存が決定、今も大阪のシンボルとして愛されつづけています。

1970年代以降は、芸術や著述ばかりでなくテレビにも進出。「芸術は爆発だ」と叫びながら現れる演出が人気をよび、コマーシャルにも使われ、流行語にもなりました。
老いを重ねても旺盛なエネルギーは衰えず、個展など精力的な活動を続けて、80歳のときに太郎が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。亡くなった3年後の1999年から川崎市「岡本太郎美術館」として開館しています。

なお、2003年行方不明になっていた大作『明日の神話』がメキシコで発見され、現在は公共アートとして渋谷駅井の頭線前通路に設置され、人々の眼を楽しませています。


「1月7日はこんな日」

「七草がゆ」を食べる日…[せり/なずな(ぺんぺんぐさ)/ごぎょう(ははこぐさ)/はこべら(はこべ)/ほとけのざ(たびらこ)/すずな(かぶ)/すずしろ(だいこん)/春の七草] と歌われる7種類の草を入れたおかゆを食べれば、無病息災という風習です。平安時代以前に中国から伝わったといわれていますが、単なる迷信ではなく、ちょうど正月料理に飽きたころ、冬枯れの季節に青物を補給するという食生活上の効用が指摘されています。


「1月7日にあった主なできごと」

1490年 足利義政死去…室町幕府第8代将軍でありながら政治に興味がなく、11年も続く内乱「応仁の乱」をひきおこすきっかけをこしらえた足利義政が亡くなりました。銀閣寺を建てるなど、東山文化を遺した功績は評価されています。

1835年 前島密誕生…日本の近代郵便制度の創設者で「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めた前島密が生まれました。

1868年 征討令…1月3日~6日の鳥羽・伏見の戦いに勝利した維新政府は、この日江戸城にこもった徳川慶喜に征討令を出し、同時に諸藩に対して上京を命じました。征討軍の総帥は西郷隆盛。同年4月11日、徳川家の謝罪を条件に江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれました。

1932年 スティムソン・ドクトリン…アメリカの国務長官スティムソンは、この日「満州における日本軍の行動は、パリ不戦条約に違反するもので、これによって生ずる一切の状態を承認することはできない」との声明を発し、日本政府を弾劾しました。これが、太平洋戦争に至るアメリカの対日基本方針となりました。

1989年 昭和天皇死去・・・前年から容態が危ぶまれていた昭和天皇が亡くなりました。皇太子明仁親王が天皇に即位し、昭和64年は平成元年となりました。昭和は日本の元号のなかでは最も長い62年と2週間でした。

「おもしろ古典落語」138回目は、『御慶(ぎょけい)』というお笑いの後半(新年編)をお楽しみください。

富に当たって、いちやく成金となった八五郎。新しい年をむかえると、さっそく、大家のところへ年始のあいさつにでかけます。

「おう大家さん、おはよう、おめでとうござんす」
「おっ、ばかに早いな。いやぁりっぱになったな、紋付にかみしもか。まぁ、そういうこしらえをしたなら、突き袖っていうのをしなよ」
「なんです? 突き袖ってのは」
「ああ、両方のたもとにこう手を入れてな、左のたもとは、脇差の上へ軽くのせるんだ。そうそう、それでいい。そのかっこうに扇子がないのはおかしい。ここに白扇があるから、おまえにあげよう。これを前のところにさして……、あはは、すっかりりっぱになった」

「えへへ、なんだか芝居をやってるようだな。それじゃあらためて、おめでとうござんす」
「ああ、おめでとう。だがな、りっぱな身なりで『おめでとうござんす』というのはおかしい。『旧年中はなにかとお世話になりまして、ありがとう存じます。本年も相かわらずお引き立てのほどを、よろしくお願いいたします』とか、そのくらいのことをいったらどうだ」
「冗談じゃねぇ、そんな長ったらしいこといえるもんかい。もっと短くって、気のきいたあいさつはねぇかい」
「短くてか、『銭湯で はだかどうしの 御慶かな』『長松が 親の名でくる 御慶かな』なんていう句があるから、『御慶』ってのはどうだ」
「えっ、どけぇ?」「どけぇじゃない、ぎょけい」
「なんだい、そりゃ」
「まぁ、おめでたいという意味だ。むこうで、『おめでとうございます』っていったら、御慶っていうんだ」
「そいつはいいや。それから?」
「まぁ、正月のことだから、おとそを祝いましょう、どうぞおあがりくださいとでもいわれるだろう」
「冗談じゃねぇ、いちいちあがってた日にゃ、まわりきれねぇや」
「だから、そういわれたら、春永(はるなが=日が長くなってから)にうかがいますってんで、永日(えいじつ)といいな」
「へぇー、おめでとうで『御慶』、おあがりなさいで『永日』か。これならおぼえられらぁ。へぇ、ありがとうござんす。えへへ、ありがてぇ、どこからやろうかな。そうだ、虎んとこへいっておどかしてこよう」

「おーい、虎、虎公いるか…」
「あのぅ、もし、おとなりさんはお留守よ。あーら、まぁ、どこの旦那かと思ったら、八っつぁんじゃないの」
「ああ、のり屋のおばあさんか。虎はいないのけぇ」
「なんかね、さっき友だちがきて、三人ででかけたよ」
「ちくしょうめ、人がせっかくこのなりを見せてやろうと思ったのに、張り合いのねぇ野郎だ。じゃいいや、おばあさん、虎公のかわりに、ひとつやってくんねぇ」
「えっ、なんだい?」
「おめでとうってのを、やってくんないか」
「あっ、そうそう、まだいってなかったねぇ。申し遅れました。おめでとうございます」
「うん、御慶ぇ」
「な、なんでございます」
「なんでもいいんだ。そのあとをやってくんねぇ」
「そのあとって?」
「どうぞ、おあがりって、いってくんねぇか」
「それがねぇ、そういいたいけど、ちらかってるもんだから……」
「いいんだ、あがりゃしない。おまえがそういってくれねぇと、おらぁよそへ行けねぇんだからよ」
「そうかい、じゃ、どうぞおあがりください」
「永日ぅ…、べらぼうめ……、びっくりしてやがら。おや、向こうからくるのは金坊だな、おーい、金坊」

「おう、八公じゃねぇか、すっかりりっぱになっちまって、千両富にあたったんだってな」
「やってくれよ、おめでとうってのを」
「あっそうか、おめでとう」
「御慶ぇ」
「なんだい?」
「いいから、あとをやれ」
「あとってのは、なんだ」
「どうぞおあがりくださいってのをやってくれ」
「よせよ、ここは往来じゃねぇか」
「いいんだよ、おめぇがそういってくんねぇと、おりゃ向こうへ行けねぇんだ」
「じゃ、いうよ、どうぞおあがりください」
「永日だ、べらぼうめ」
「べらぼう?」

「あっはっは、目を白黒させてやがる。ああ、ありがてぇ、ありがてぇ。おっ、きやがった、虎公が半公と留と三人で、まゆ玉かついで帰ってきやがったな。おーい」
「やっ、八公が、たいへんななりしてきやがったなぁ。大当たりだそうだな」
「あはは、おい、おめでとうってのをやってくれ」
「よっ、こりゃどうも、おめでとう」
「おめでとう」「おめでとう」
「えへへ、三人まとめてやるからな。御慶ぇ、御慶ぇ、御慶ぇ」
「よせよ、みっともないから、にわとりが卵を産むような声をだしやがって」
「わからねぇ野郎だな。ぎょけぇっていったんだ」

「どけぇ? ああ、恵方(えほう)まいりに行ってきたんだ」

*「恵方(えほう)」は、その年の干支に基づく吉の方角のことで、「恵方まいり」は、その方角に当たる神社に参拝すること。


「1月6日にあった主なできごと」

1215年 北条時政死去…鎌倉時代の初期、源頼朝がうちたてた鎌倉幕府の実権を握り、北条氏の執権政治の基礎を築いた武将・北条時政が亡くなりました。

1412年 ジャンヌ・ダルク誕生…「百年戦争」 でイギリス軍からフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクが生まれました。

1706年 フランクリン誕生…アメリカ独立に多大な貢献をした政治家、外交官、また著述家、物理学者、気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが生まれました。

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