児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年01月

今日1月17日は、朝鮮の社会運動家・無政府主義者の朴烈(ぼくれつ=朝鮮読みパク・ヨル)が、1974年に亡くなった日です。

1902年、朝鮮の東南部にある慶尚北道の農家に生まれた朴烈は、今のソウルにあった京城高校に在学中の1919年3月1日に、日本の統治から独立しようとする運動「三・一運動」に参加した後、高校を中退して日本へ渡り、在日朝鮮人を中心とする無政府主義活動に参加しました。やがて日本人妻の金子文子とともに、1922年におこった信濃川朝鮮人虐殺事件(信濃川発電所工事場で大倉組の朝鮮人労働者数十人が虐殺された事件)を追及したり、雑誌『太い(ふてい)鮮人』を発刊して天皇制打倒を唱えました。

1923年に関東大震災がおこると、「朝鮮人狩り」からの保護を名目に文子ととも警察に拘束され、同年秋の皇太子(のちの昭和天皇)結婚時に、続いて1925年に天皇の暗殺を図ったとして告発されました(朴烈事件)。朴烈自身も義兵的な生き方へのあこがれからか、この計画を自白したことで、大逆罪として、翌1926年に死刑判決が下されました。まもなく恩赦によって無期懲役に減刑されると、朴烈は激怒して減刑拒否を宣言し、この直後に文子は自殺しています。のちに、この暗殺計画は朝鮮人の社会運動家を弾圧するための、警察のでっちあげだったことが判明しています。

けっきょく朴烈は、第二次世界大戦後の1945年10月まで、22年2か月も服役し、釈放後は、在日朝鮮人組織の結成をめざし、1946年に新朝鮮建設同盟を結成すると委員長となり、これを在日本朝鮮居留民団に改組して初代団長に就任しました。しかし1949年の団長選挙では再選されず、失意のうちに大韓民国に帰国しました。

帰国後は李承晩政権によって国務委員に任命されましたが、1950年にはじまった朝鮮戦争で北朝鮮軍に捕えられて、同国に連行されてしまいました。1966年には南北平和統一委員会の副委員長として北朝鮮政府で活動するものの、スパイ容疑がかけられて処刑され、数奇な生涯を終えたといわれています。


「1月17日にあった主なできごと」

1706年 フランクリン誕生…たこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたばかりでなく、アメリカ独立に多大な貢献をした政治家・著述家・物理学者・気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが生まれました。

1991年 湾岸戦争勃発…アメリカ軍を主力とする多国籍軍は、クウェートに侵攻したイラク軍がこの日に設定されていた撤退期限が過ぎてもクウェートから撤退しなかったため、イラク軍拠点に攻撃を開始し、1か月あまりにおよぶ湾岸戦争が勃発しました。

1995年 阪神・淡路大震災…午前5時46分、淡路島北部を震源とする巨大地震が発生しました。神戸市・芦屋市・西宮市などで震度7の激震を記録、神戸市を中心に阪神間の人口密集地を直撃して、鉄道・高速道路・港湾等の交通機関や電気・水道・ガスのライフラインが壊滅状態となりました。自宅を失なって避難した人は30万人以上、死者6400人以上、負傷者43000人余、倒壊・損壊家屋は40万棟を越える大惨事となりました。

今日1月16日は、不朽の名著といわれる『ローマ帝国衰亡史』を著したイギリスの歴史家ギボンが、1794年に亡くなった日です。

1737年、ロンドン近郊パトニーに地主の子として生まれたエドワード・ギボンは、幼少年期は病弱のため通学することができずに、読書にふける毎日でした。健康が回復した1752年、紳士階級の子息としてオックスフォード大学のカレッジに入れられたものの、ギボンが信仰をローマカトリック教会へ傾きかけたことを知った父親は、スイスのローザンヌに住むカルバン派の牧師に預けました。ここですごした5年間は実りあるもので、終生にわたるぼう大な学識の基礎となり、のちにギボンは「私をローザンヌへ追いやった幸運な追放のたまもの」と記しています。

1758年ハンプシャーの実家にもどって読書生活をし、2年間の軍隊生活後の1763年、ギボンはふたたびヨーロッパ大陸に渡り、パリでディドロやダランベールらと親交を深めました。さらに旅行を続ける1764年10月、ローマにあるカピトルの廃墟で裸足の托鉢僧の夕べの祈りを耳にするうち、この都市の栄えと衰えを記そうという霊感を受けました。こうして、ギボンの主著となる『ローマ帝国衰亡史』の執筆がはじまり、「第1巻」(96~278年のローマ)が1776年に刊行され、ローマの幸せな時代=パックス・ロマーナの五賢帝統治にはじまり、五賢帝のひとりトラヤヌス帝の時代に帝国の領土は最大となり、現在の西・東ヨーロッパからトルコ・シリア・エジプトに至る地中海をひとめぐりするほど広大にしたこと。そして、マルクス・アウレリアス帝が慣行を破って実子に譲り渡したことがきっかけになって帝国衰亡の歴史がはじまり、軍人出身者が皇帝となる軍人皇帝時代を経て、属州の反乱やササン朝ペルシア王との抗争で幽閉されるワレリアヌス帝までを描きました。著書は大変な反響をよび、その後12年間をこの続編に力をそそぎました。

その後の続編についての詳細は省略しますが、ローマ帝国が専制君主制となり、帝国4分割統治を導入して国家体制を整えるものの、303年に信者を増やしてきたキリスト教を弾圧したのが裏目に出て退位後は再び混乱、コンスタンティヌス大帝の30年の統治により新首都コンスタンティノポリス(現トルコ・イスタンブール)の建設、キリスト教を公認して国教化をなしとげ、ローマ帝国の中心は、政治、経済とも東方へ移ることになりました。大帝の退位後はふたたび衰退し、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂。西ゴート族が帝国内に侵入してゲルマン民族大移動が始まるものの、テオドシウス大帝がゴート族と和解を成立させて安定期をむかえます。しかし死後、ゴート族が西ローマ帝国の首都ローマに侵入して占領、476年に西ローマ帝国は滅亡し、ガリア地方にフランク王国が成立します。ブルガリア地方出身のユスティニアヌス大帝が登場すると東ローマ帝国は、旧ローマ帝国最盛期に近い領土を回復させました。ところがその死後は、北方のスラブ民族の侵入するなど衰退。8世紀の前半にレオ三世の登場により繁栄の時代をむかえるものの、台頭してきたイスラム教に対抗するため「聖像崇拝禁止令」を発布したことで、キリスト教はローマ・カトリックと、ギリシア正教に分裂します。ビザンチン帝国(東ローマ帝国)は、ギリシア正教を中心としたヘレニズム・ローマ文化と西アジアの要素を融合した「ビザンチン文化」を生みだすものの、ビザンチン帝国は、11世紀ごろから台頭してきた大土地所有貴族によってしだいに皇帝の権力が弱体し、11世紀後半には、セルジュク・トルコによってコンスタンティノポリスを占領され、1453年に1000年も続いた東ローマ帝国は滅亡したのでした……。
 
ギボンが不朽の名著といわれる本書の執筆に費やした時間は、約20年。この間1774~80年、1781~83年の2回にわたり下院議員となっていますが、引退後は、若き日の思い出の地スイス・ローザンヌに移り、さらにつづく『ローマ帝国衰亡史』の最終編や『自叙伝』を著しています。


「1月16日にあった主なできごと」

754年 鑑真来日…中国・唐の時代の高僧である鑑真は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡航に失敗し失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。

1919年 アメリカで禁酒法…酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造・販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官を買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。

1938年 第1次近衛声明…1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の本格的な戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表して国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。

1986年 梅原龍三郎死去…豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する画家の梅原龍三郎が亡くなりました。

今日1月15日は、白河・鳥羽上皇を武力的に支え、平清盛の父として平氏全盛の基礎をこしらえた平忠盛(たいらの ただもり)が、1153年に亡くなった日です。

1096年、白河法皇の北面武士(警備兵)として仕えた平正盛の子として生まれた忠盛は、1108年13歳で父とともに法皇に仕えはじめ、1111年には検非違使を兼ねて京の治安維持に従事したり、地方の治安に当たる追捕使(ついぶし)として瀬戸内海の海賊を討つなど、法皇から大きな信頼をえました。忠盛の長男清盛は、法皇の寵妃である祇園女御と法皇との間の子だという話や、1129年に法皇が亡くなったときは、忠盛が入棺の役をになったといった話が伝えられています。

鳥羽上皇の院政に入ったころから、忠盛はますます出世し、1132年には上皇の命を受けて得長寿院という寺を造営し、千体観音を寄進した功績で、刑部(ぎようぶ)卿となって、内昇殿(宮中の殿上の間への出入り)を許されました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、当時では破格の待遇でした。やがて鳥羽法皇の寵愛が藤原得子に移ると、藤原家成が院近臣筆頭の地位を確立、忠盛は妻の宗子が家成のいとこだったことから、より親密な関係を築いていくようになりました。

鳥羽院政期になって荘園整理がおろそかになったことで、各地で荘園が爆発的に増加しました。院領荘園の管理を任されるようになった忠盛は、1133年に宋人の船が鳥羽院領内に来航すると、院宣と称して荘園内での大宰府の臨検を排除させるなど、日宋貿易の巨利に目をつけ、西国方面への進出を指向するようになりました。1135年中務大輔に任じられたころ、日宋貿易につながる海上交通ルートである瀬戸内海は、海賊のばっこが大きな問題となっていました。追討使に任じられた忠盛は、降服した70名の海賊を連行して京にもどり、自らの家人として組織化しました。

その後、1139年に興福寺衆徒が強訴を起こすと、宇治に出動して入京を阻止。1146年には受領の最高峰といえる播磨守となり、公卿への昇進も間近となりました。ところが1147年、清盛の郎党が祇園社神人とこぜりあいをおこしたことで、祇園社の本寺である延暦寺は、忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こしましたが、鳥羽法皇は延暦寺の要求をしりぞけています。しかし病には勝てず、公卿昇進を目前としながら、清盛によって樹立される平氏政権の基盤を残して、58歳で亡くなりました。

忠盛は、歌人としても優れ、家集『平忠盛集』のほか『金葉和歌集』など勅撰和歌集に十数種選ばれています。


「1月15日にあった主なできごと」

1862年 坂下門外の変…大老の井伊直弼が「桜田門外の変」(1860年)で殺害されたあとを受けて老中となった安藤信正が、江戸城の坂下門外で、水戸浪士ら6人に襲われました。

1918年 ナセル誕生…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトのナセルが生まれました。

1939年 70連勝成らず…大相撲春場所4日目、69連勝中の横綱双葉山はこの日、関脇安芸の海に敗れ、70連勝をのがしました。当時の大相撲は、1月と5月の1年2場所・10日制で、現在の1年6場所・15日制と条件の違いはありますが、69連勝という記録は、いまだに破られていません。

今日1月14日は、イギリスの天文学・地球物理学・数学・気象学・物理学者で、「ハリー彗星」の存在やその軌道を示したことで知られるハリー(またはハレー)が、1742年に亡くなった日です。

1656年、富裕な石鹸製造業者の子としてロンドン・ハッガーストンに生まれたエドマンド・ハリーは、セント・ポール校を経て、1676年オックスフォード大学で天文学を学び、1676年に卒業後、当時ほとんど知られていなかった南半球の恒星を研究するため南大西洋のセントヘレナ島に派遣されました。ここに天文台を建て、1678年11月まで観測を行い、341個の恒星を観測しました。その詳細な記録『南天星表』を帰国後に発表したことでオックスフォード大学の修士号を取得し、王立協会の会員に推せんされました。

その後ハリーは、ケプラーの惑星運動の法則を証明することを求められていました。そこで1684年、ケンブリッジ大学にニュートンを訪ねたところ、すでにニュートンがこの問題を証明しているものの、未発表であることを知りました。ハリーはこれを発表するようニュートンを説得、これを受けてニュートンは、有名な万有引力の法則を基とした『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)を執筆しました。ところが出版を確約していた王立協会が資金難のため、ハレーが経費を負担して自費出版として出版されたといわれています。

1682年に現れた大彗星に関心をもったハリーは、自ら観測した彗星が、ケプラーらが過去に観測した1456年、1531年、1607年の大彗星と同一天体ではないかと推測しました。そして、万有引力の法則から、彗星も惑星と同じように公転軌道をもつものと考え、75~76年の周期で太陽に近づくこと、「プリンキア」をもとに軌道を細かく計算して、次に現れるのは1758年であることを予言しました。ハリー自身はこの予言が正しかったことを確かめる前に亡くなりますが、1703年にはオックスフォード大学教授、1720年から亡くなるまで、グリニッジ天文台長をつとめました。

なお、ハリーの業績は、ハリー彗星の存在ばかりでなく、恒星天文学(恒星の固有運動の確認、流星の起源、変光星や星雲の観察など)、地理学(貿易風とモンスーンに関する研究・気圧と海抜高度の関係・オーロラと地磁気との関係の発見など)にも先駆的な業績を残したほか、終身年金に関する論文を発表し、死亡年齢の統計的解析(生命表)を記しています。これは、人口統計学史上の重要な発見で、イギリスに世界で初めてこの生命表をもとに年齢別保険料を使った生命保険会社が生まれたことは、あまり知られていません。


「1月14日にあった主なできごと」

1602年 狩野探幽誕生…日本画を代表する狩野派の、江戸幕府代々の御用絵師として栄える基礎を築いた狩野探幽が生まれました。

1843年 新島襄誕生…同志社を設立するなど、明治の初期に教育者・宗教家として活躍した新島襄が生まれました。

1875年 シュバイツァー誕生…アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネで、生涯を原住民への医療などに捧げたドイツの神学者・医師 シュバイツァー が生まれました。

1898年 ルイス・キャロル死去…イギリスの数学(幾何学)者でありながら、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したルイス・キャロル(本名ドジソン)が亡くなりました。 

1925年 三島由紀夫誕生…ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家でありながら、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげた三島由紀夫が生まれました。

1950年 ベトナム民主共和国再独立宣言…1945年9月、ホーチミン を大統領とするベトナム民主共和国が独立を宣言し、東南アジア最初の共産主義国家として独立しました。しかし、翌年支配国だったフランスが待ったをかけ、8年にもわたる第1次インドシナ戦争に突入、1949年6月、「ベトナム国」(南ベトナム) がサイゴンを首都に成立しました。この日ホーチミンは、ベトナム国に対抗して「ベトナム民主共和国」(首都ハノイ・北ベトナム)として再独立を宣言したものです。なお1976年、北ベトナムは南ベトナムを吸収、ベトナム民主共和国は「ベトナム社会主義共和国」となって統一をはたし、現在に至っています。

1953年 チトー大統領…独立まもないユーゴスラビアは、この日ユーゴ解放の国民的英雄 チトー を大統領に選びました。チトーの指導のもとに、非同盟中立という、社会主義国ばかりでなく資本主義国とも手をつなぐという独自の方針を貫き、6つの共和国をまとめあげました。しかし、1980年チトーの死とともに、共和国間の紛争があちこちでおこり、1991年「クロアチア」「マケドニア」「スロベニア」、1992年「ボスニア・ヘルツェゴビナ」が独立、2003年にユーゴスラビアは、セルビア・モンテネグロとなって独立、2006年には「セルビア」と「モンテネグロ」に分離したため、旧ユーゴスラビアは、「クロアチア」「マケドニア」「スロベニア」「ボスニア・ヘルツェゴビナ」「セルビア」「モンテネグロ」の6か国になっています。

今日1月10日は、『夫婦善哉』『世相』『競馬』などを著し、「無頼(ぶらい)派」として太宰治、坂口安吾らとともに人気を博した作家の織田作之助(おだ さくのすけ)が、1947年に亡くなった日です。

1913年、仕出屋の子として大阪・天王寺に生まれた織田作之助は、幼いころに父親が商売に失敗したため、貧しい少年時代を送りました。成績は優秀で旧制大阪高津中学を経て、第三高校(京大教養学部の前身)に入学しますが、両親が相ついで亡くなったため、結婚した姉の援助をうけるものの、1934年卒業試験中に喀血し、転地療養を余儀なくされました。その後復学はするものの勉学の意欲を失い、後に妻となる一枝と出会って同棲生活を始めると上京、フランスの作家スタンダールや井原西鶴に刺激を受けて作家をめざすようになりました。青山光二らと同人誌「海風」を創刊、1938年に処女作『雨』を発表、作家の武田麟太郎らから高く評価されました。

1939年帰阪すると、翌年に出世作となる『夫婦善哉』(ぐうたらな若旦那柳吉と、しっかり者の曽根崎新地の芸者蝶子が駆け落ちの末にたくましく生きる作品)を発表、作家としての地位を確立しました。また、「海風」に発表した『俗臭』も評判となり、室生犀星の推せんで芥川龍之介賞候補作となって注目を集めました。こうして、本格的な作家生活に入った織田でしたが、長編小説『青春の逆説』が発禁処分を受けたり、『夫婦善哉』を収めた単行本が風俗を乱すと警告を受けたり、検閲をおそれて出版社が刊行をひかえたりする作品もありました。

戦後になると、混乱した社会の姿をたくさんの短編小説に著し、親交をかわす太宰治や坂口安吾とともに、「無頼派=新戯作作家」として人気を博しました。ところが、流行作家としての無理がたたり、1946年12月結核による大量の喀血を起こして入院すると、病状はすこしずつ悪化、わずか33年の短い生涯を閉じてしまいました。読売新聞に連載していた長編小説『土曜夫人』(未完)が最後の作品でした。

織田の生誕100年にあたった昨年は、NHKの土曜ドラマとして『夫婦善哉』が放送され、評判になったことは記憶に新しいところです。この作品は、1955年には豊田四郎監督により映画化され、ぐうたら若旦那の森繁久弥としっかり者芸者の淡島千景の演技が評判となり、柳吉のセリフ「おばはん、頼りにしてまっせ」が流行語になったことでも知られています。また、1987年に石川さゆりの歌った演歌『夫婦善哉』は、レコード大賞を受賞、同年の『NHK紅白歌合戦』に出場を果たしてたほか、2006年(第57回)にも歌われたほか、演歌のロングセラーとなっています。

織田のたくさんの作品は、今も色あせぬ魅力を秘め、最近見つかった日記や資料もあって、あらためて研究がすすめられています。


「1月10日にあった主なできごと」

1709年 徳川綱吉死去…江戸幕府の第5代将軍で、当初はすぐれた政治を行なったものの、悪名高い「生類憐みの令」をはじめたために「犬公方」といわれた徳川綱吉が亡くなりました。

1920年 国際連盟発足…第1次世界大戦の反省から、初の国際平和機構である「国際連盟」が発足し、日本を含む42か国が加盟しました。

1922年 大隈重信死去…明治時代に参議・外相・首相などを歴任した政治家であり、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設させた大隈重信が亡くなりました。

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