児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年01月

今日1月24日は、『糞尿譚』『麦と兵隊』『花と竜』など、ぼう大な小説を著した作家の火野葦平(ひの あしへい)が、1960年に亡くなった日です。

1907年、福岡県・北九州市に石炭運搬業を営む「玉井組」組長玉井金五郎の長男として生まれた火野(本名・玉井勝則)は、旧制小倉中学時代から文学を志して創作活動をはじめ、第一高等学院に入学すると、童話集を自費出版しました。1926年に早稲田大英文科入学後は、友人たちと同人雑誌を創刊して誌上に小説や詩を発表。1928年3年在学時に兵役に入り福岡第24連隊に配属されました。除隊後も大学にもどらず、家業の「玉井組」をひきつぎ、自ら若松港湾の沖仲仕として働きはじめました。やがて沖仲仕の労働組合を結成して指導者となるものの検挙されて転向、地元の同人誌に参加して再び文学活動をはじめました。

1937年に日中戦争に応召され、出征前に書いた『糞尿譚』が翌年の第6回芥川賞を受賞したことを中国の戦地で知り、現地をおとずれた小林秀雄から賞を手渡されました。これがきっかけとなって、一兵卒から報道部付の従軍作家となり、徐州会戦に進軍中の日本軍兵の生々しい姿やその人間性を、従軍民間マスコミの高慢な態度とあわせて活写した従軍記『麦と兵隊』がベストセラーとなり、さらに「♪ 徐州 徐州と人馬は進む・・・」という同名の歌謡曲もヒットして、いちやく人気作家となり、さらに兵隊3部作となる『土と兵隊』『花と兵隊』など、たくさんの戦争小説を書き続けたことで、戦争文学の代表作家といわれるようになりました。

敗戦後は、「戦犯作家」として戦争責任を追及され、1948年から50年まで公職追放を受けました。解除後の1952年、読売新聞に1年余りにわたって連載された、父玉井金五郎の苛烈な生き方を描いた自伝的大河小説『花と竜』を大ヒットさせました。この作品は、連載終了直後の1954年に藤田進主演で『花と龍』(第1部 洞海湾の乱) (第2部 愛憎流転)の二部作として東映で最初の映画化がされています。その後もこの作品は、1962年に日活、1965年と1966年に東映(2009年DVD化)、1973年に松竹で映画化されたほか、1963年と1970年にテレビ朝日、1964年に日本テレビ、1992年にTBSでもテレビドラマ化されています。

その後も火野は、自らの戦争責任を記した『革命前後』などたくさんの作品を著し、1960年のこの日に自宅で亡くなりました。死因は心臓発作と公表されていましたが、13回忌の際に遺族から睡眠薬自殺と発表され、社会に衝撃を与えました。「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」とノートに書かれていたそうです。


「1月24日にあった主なできごと」

1848年 ゴールドラッシュ…アメリカのカリフォルニア州の大工が偶然に金を発見、歴史に残るゴールドラッシュのきっかけになりました。1849年には一獲千金をねらう8万人もの人々が、西部カリフォルニアをめざしたといわれています。

1911年 幸徳秋水死去…明治時代の社会主義者で、「大逆事件」という天皇の暗殺を企てたという疑いにかけられた幸徳秋水が処刑されました。

1965年 チャーチル死去…第2次世界大戦の際、イギリス首相として連合国を勝利に導くのに大きな力を発揮し、『大戦回顧録』の著書によってノーベル文学賞を受賞したチャーチルが亡くなりました。

1972年 横井庄一発見…太平洋戦争の時の日本兵・横井庄一が、グアム島で発見されました。1944年に上陸してきたアメリカ軍に追われ、島の奥地のジャングルに隠れ、自給自足のくらしを28年も送っていたのです。降伏を恥とする旧日本軍の教えを忠実に守って帰国した横井の第一声は「恥ずかしながら生きながらえて帰ってきました」でした。

今日1月23日は、『記憶の固執』『ゆでたいんげん豆のある柔らかい構造』『燃えるキリン』などを描き、シュールレアリスムを代表するスペインの画家ダリが、1989年に亡くなった日です。

1904年、スペインのバルセロナに近いフィゲラスの裕福な公証人の子として生まれたサルバドール・ダリは、少年時代から絵画に興味を持つものの、厳格な父に反発して勉学を拒否、他人とちがった行動をとるようになっていきました。

1922年にマドリードのサンフェルナンド国立美術学校に入学すると、優秀な学生だったにもかかわらず、のちに国民的詩人となるロルカや、著名な映画監督となるブニュエルらと知りあううち、学生デモを扇動したり、教師の指導を批判したりするようになりました。ダリの再三にわたる反抗に苦慮した学校は、1926年に退学処分をいいわたしました。

まもなくダリは、初の個展をマドリードで開きました。出品した『パンかご』『窓辺の人物』などが美術評論家をはじめ一般の注目を集めたことで自信をえたダリは、翌1927年にパリに出て新しい芸術運動である「シュールレアリスム(超現実主義)」運動に参加しました。グループの中心人物であるピカソ、ツァラ、エリュアール、ブルトンらと交流を深め、1928年には、美術学校時代の友人ブリュエルとシュールレアリスムの代表的映画『アンダルシアの犬』を共同制作しました。

1929年の夏のある日、エリュアールが妻のガラとともにダリを訪ねたところ、ダリとガラは出会った瞬間に恋に落ち、やがて結婚します。ふたりは生涯を共にすることになりますが、ガラはダリのモデルであり、マネージャーであり、支配者だったといわれています。

柔らかい時計に溶けかける顔、青と黄色の空など、世間の常識を打ち破る独自の手法による『記憶の固執』『ゆでたいんげん豆のある柔らかい構造』『燃えるキリン』『ナルシスの変貌』など、話題作を連発することで、画家として着実に名声をあげていきました。ところがダリは、世間の注目を集めるために狂人を演じたり、人の気持ちを逆なでする行動や言動をとっていました。ナチスを支持するような言動が仲間のプルトンの逆鱗にふれたことで、1938年にグループから除名されてしまいました。しかしダリの人気は世界的なものになっていたため、国際的なシュールレアリスム展などには、かならず招待されました。

ダリが大成功をおさめたのは、アメリカでした。1939年に第2次世界大戦の戦禍を避けてアメリカにわたったダリは、ニューヨークの一流デパートにウィンド・ディスプレーを依頼されました。最後にショーウィンドーのガラスを割って完成させたところ、この事件は全米に報道され、直後にひかえていた個展の大成功につなげたのでした。

1948年、スペインに帰国したダリは、ポルト・リガトに居を定めて制作活動を行い、ガラをモデルに大作『ポルト・リガドの聖母』(福岡市美術館蔵)を描いています。このころから、故郷スペインの人々のカトリック信仰を深めるようになり、この作品の構図をローマ教皇に見せたところ、祝福を受けたと記しています。宗教的な主題と同時に物理学、自然科学、幾何学を融合するような古典的味わいのある絵は、同時代のシュールレアリストたちから「もはやダリはわれわれの仲間ではない。偽善だ」といわれるほどの変貌でした。、

なお、ダリの多くの作品や写真などは、インターネットの「ダリの画像」をごらんください。


「1月23日にあった主なできごと」

1866年 寺田屋騒動…2日前に薩長同盟を締結させた坂本龍馬は、宿泊先の京都・寺田屋で、伏見町奉行所の捕り方に襲撃されました。同宿の養女・お龍(のちの妻)は風呂から裸のまま2階へかけ上がり危機を知らせました。龍馬は銃で応戦、左手の親指を負傷しながらも脱出に成功しました。

1869年 薩長土肥藩の版籍奉還…諸大名の封建支配が続いていては、真の国家統一はむずかしいと考えた明治政府の首脳木戸孝允や大久保利通らは、その旧主に版籍(土地と人民)を政府に返還させることにしました。この日、薩長土肥4藩主の連名で、版籍奉還の上表文を提出。これをきっかけに、3月までに諸藩主すべてが奉還を願い出ました。

今日1月22日は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者の河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)が、1893年に亡くなった日です。

1816年、江戸・日本橋にある質屋の長男として生まれた河竹黙阿弥(本名・吉村芳三郎)は、幼いころから読本に親しみ、やがて川柳や狂歌の創作にふけるようになりました。ところが14歳のときに遊びが過ぎて親から勘当されてしまいました。貸本屋につとめながら読書や芝居見物にあけくれる日々を送るうち、狂歌や俳句、舞踊などに注目をあびるようになります。

1835年に五代目鶴屋南北の弟子となって、歌舞伎作者としての本格的な修行を重ねました。28歳で河竹新七の名を襲名して立作者となると、1854年に上方から江戸に来た四代目市川小団治のために、盗賊を題材に庶民生活を生きいきと描いた「白浪狂言」「生世話(きぜわ)狂言」とよばれる芝居を次々に書き、歌舞伎作者の第1人者といわれるようになりました。二人の関係は、市川小団治が亡くなる1866年まで続き、その10年間に、今もくりかえし演じられる『三人吉三』『鼠小僧』『十六夜(いざよい)清心』『弁天小僧』『村井長庵』などの名作を著し、幕末の退廃的な世相のなかで、刺激的な享楽を求める庶民の心に強烈なアピールをしたのでした。

明治維新後もその筆は衰えることなく、五世尾上菊五郎、初世市川左団次、九世市川団十郎らの名優のためにたくさんの狂言を書き、生涯に書いた演目は360編を数えるといわれています。歌舞伎に西洋劇の合理性を取り入れようと試行錯誤したり、シェークスピアの翻訳で知られる坪内逍遙は、河竹新七(黙阿弥)を「明治の近松門左衛門」「わが国のシェークスピア」と絶賛しています。

ところが1881年、『島ちどり』を書き上げると、これが一世一代の大作として引退を宣言、さらに名を黙阿弥と改名しましたが、周囲は引退を許さず、『魚屋宗五郎』『筆屋幸兵衛』などを78歳で亡くなるまで書きつづけ、いまだに多くの作品が上演されている作家のひとりです。黙阿弥が「役者に親切、座元に親切、見物に親切」という「三親切」をモットーに奉仕的な作家道を貫いた人だったからに他なりません。


「1月22日にあった主なできごと」

1793年 大塩平八郎誕生…江戸時代後期の儒学者で大坂町奉行所の与力を勤めるも、窮民救済を叫んで反乱(大塩平八郎の乱)をおこして失敗した大塩平八郎が生まれました。

1905年 血の日曜日事件…ロシアの首都ペテルブルクで、労働者10数万人が皇帝へ請願のデモ行進をしていたところ、軍隊が突然発砲し3千人余りの人たちが死傷しました。当時は、日露戦争のさなかで、年初に旅順が陥落するなど、人々の生活の苦しさはピークに達していました。この事件をきっかけに、各地にソビエトが生まれたことで「ロシア第1革命」ともよばれています。

今日1月21日は、絶対王政期のブルボン朝5代目のフランス国王ルイ16世が、在任中の1789年に革命がおき、王妃マリー・アントワネットの故国オーストリアにのがれようとしたところを捕えられ、1793年に処刑された日です。

1754年、ルイ15世の孫として生まれたルイ・オーギュストは、兄たちや父の死去により、1765年にフランス王太子となりました。長い間敵対してきたオーストリアのハプスブルク家と和議を結ぶため、1770年にオーストリア王女マリー・アントワネットを王太子妃に迎えました。1774年に国王ルイ16世となると、ぜいたくな宮廷生活をおくりはじめました。

翌年、アメリカの独立戦争(1775~83年)がはじまるや、イギリスに対抗するために独立軍を援助したことなどから財政が極度に悪化してしまい、チュルゴーやネッケルを財務総監に起用し、税を免除されている聖職者や貴族ら特権身分に税をかけるなどの財政改革を開始しました。ところが、善良ではあるものの弱い性格だった国王は、王妃マリー・アントワネットに支持された特権身分の反対にあって、ふたりの罷免を余儀なくされました。次いで財務総監に登用されたカロンヌが、1787年に名士会を開いて新税の承認を得ようとするものの失敗し、国王は、三部会(聖職者・貴族・平民の代表を召集し課税問題を討議する制度)の召集を約束せざるをえませんでした。

1789年に三部会が招集されると、税が重くなることを知った平民(第三身分)は国民議会を開いて憲法の起草に着手するいっぽう、バリの民衆は1789年7月14日にバスティーユ牢獄の襲撃を開始し、フランス革命は民衆をまきこんだ大規模なものとなっていきました。国民議会は封建制を廃止し、ルイ16世を君主とする立憲君主制を打ち立てましたが、国王が強硬な態度崩さなかったことから、10月に国王一家はベルサイユ宮殿から、パリに強制連行されることになりました。1791年6月、ルイ16世は家族とともにパリを脱出しオーストリアに逃れようとしましたが、バレンヌで発見され、一家はただちにパリへ護送され、テュイルリー宮殿に軟禁されてしまいました。

1792年8月10日の民衆蜂起により王制は廃止され、ルイ16世は、王妃、2人の子、妹とともに修道院に幽閉されましたが、翌1月半ばの国民公会で投票が行われ、賛否わずかの差で国民に対する反逆の罪により、ギロチンにかけられてしまったのでした。


「1月21日にあった主なできごと」

1530年 上杉謙信誕生…戦国時代に武田信玄、北条氏康、織田信長らと合戦を繰りひろげた越後の武将の上杉謙信が生まれました。

1866年 薩長同盟…これまで抗争をくりかえしてきた薩摩藩と長州藩は、坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介により、薩摩の西郷隆盛らと長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)が会談、協力して倒幕し新国家建設を進めることを誓いました。

1924年 レーニン死去…ロシアの革命家で、世界で初めて成功した社会主義革命「ロシア革命」を主導し、ソビエト連邦、ソビエト共産党の初代指導者となったレーニンが亡くなりました。

今日1月20日は、映画『ローマの休日』をはじめ、『ティファニーで朝食を』『シャレード』『マイ・フェア・レディ』など、可憐で繊細な魅力を発揮する銀幕のスターとして世界じゅうの人々を魅了したオードリー・ヘップバーンが、1993年に亡くなった日です。

1929年、貿易商の父とオランダ貴族出身の母との子としてベルギーのブリュッセルに生まれたオードリー・ヘップバーンは、5歳のころ戦争をさけるためにイギリスへ渡りました。ロンドン郊外の寄宿学校に通いましたが、10歳のときに両親が離婚したことで、母と共にオランダのエラムという小村に移住してバレエのレッスンを始めました。ところがまもなく第2次世界大戦がはじまり、村はドイツ軍に侵攻されて生活に行きづまり、チューリップの球根と水だけで過ごす日もあったようです。それでも、オードリーは母とともにドイツ・ナチスに抵抗する危険なレジスタント運動に加わるかたわら、1939年から45年までアムステルダムのアーネム音楽院に通い、通常の学科のほかにウィニャ・マローバのもとでバレエを学び、自身の心と身体を厳しく鍛えました。

戦争が終わった1948年、単身ロンドンに渡ってマリー・ランバート・バレエ学校に入学し、モデルや映画の端役などをしながらプロデビューの機会をねらっていましたが、なかなか思うようにはいきません。そんなある日、ある映画撮影現場で、フランスの作家コレット女史に出会いました。自作のミュージカル『ジジ』の主役を探していたコレットは、オードリーを主役に抜てきしようと決意したのです。こうして、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じたところ大評判となり、総公演は219回を数えました。この舞台を観たことで、次回作の『ローマの休日』の主役を探していた映画監督のウィリアム・ワイラーは、のちにこう語っています「オードリーは、私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は『この娘!』と叫んだよ」……と。

こうして1953年に公開されたアメリカ映画『ローマの休日』(ヨーロッパ某国の王女アンを演じるヘプバーンとグレゴリー・ペック演じる新聞記者とのローマでの切ない一日の恋を描いた作品) は空前のヒットとなり、一大ブームを巻き起こしました。この作品でオードリーは、アカデミー賞最優秀主演女優賞をはじめ、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞などを獲得しました。その後はスター街道を突き進み、『麗しのサブリナ』『尼僧物語』『ティファニーで朝食を』『シャレード』『マイ・フェア・レディ』『暗くなるまで待って』などに主演し、大きな話題を提供しつづけました。

1989年の『オールウェイズ』を最後に映画界を引退したオードリーは、戦争中に飢餓を体験したことで、子どもたちが飢えたり、死んでいく現状を見過ごすことができず、後半生のほとんどは、国際連合児童基金(ユニセフ)に親善大使として参加することを決意。内戦や飢餓に苦しむアフリカのソマリアをはじめ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身しました。1992年末には、ユニセフ親善大使としての活動に対して米国大統領自由勲章を授与されましたが、受勲わずか1か月後に、スイスの自宅でがんのため、63年の生涯を終えたのでした。


「1月20日にあった主なできごと」

1875年 ミレー死去…『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家ミレー が亡くなりました。

1926年 ダイヤル式自動電話の設置…日本で初めてダイヤル式自動電話機が、東京・京橋電話局に設置されました。それまでの電話は、電話交換手に相手先を伝えて、接続してもらっていました。

1947年 学校給食…太平洋戦争後の食糧難で栄養失調となる児童を救うため、アメリカの慈善団体ララ(アジア救済連盟)から贈られた脱脂粉乳などの物資をもとに、全国主要都市の小学生およそ300万人に学校給食がはじまりました。

↑このページのトップヘ