児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年01月

今日1月31日は、明治時代初期、外務卿として外交に力をつくした副島種臣(そえじま たねおみ)が、1905年に亡くなった日です。

1828年、佐賀藩士枝吉家の次男として生まれた種臣(通称・二郎)でしたが、長じてから副島家の養子となりました。幼いころから藩校・弘道館の教諭をつとめる父、藩学の指導的な立場にあった兄の影響を強く受けて育ちました。やがて、大隈重信、江藤新平、大木喬任らと尊皇攘夷運動に加わり、1852年に京都に出て、漢学・国学などを学びました。その間にペリーの来航があり、諸藩の浪士と交わるうち幕府の横暴を攻撃するようになって、将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出しました。しかし、藩主の鍋島直正にたしなめられ、藩校での国学教諭を命じられました。

1864年、藩が長崎に洋学校を設立すると、副島は学監に任命され、大隈と宣教師フルベッキから英語を学ぶとともに、欧米の政治・法律・経済から聖書まで学び、それを活用する機会をねらっていました。1867年には大隈とともに脱藩をはかりましたが、乗船が難破したために捕らえられ、謹慎処分を受けてしまいました。

維新後は明治新政府の参与にむかえられ、1869年には参議となって佐賀を代表する政治家になると、1871年には外務卿(いまの外務大臣)に抜てきされました。翌年「マリア・ルス号事件」がおこりました。横浜に停泊中のペルー船に、230人以上の清国人奴隷が監禁されていることが発覚、維新後間もない政府の参議たちの多くは、国際紛争を恐れて、早く立ち去ってほしいと願っていたのに対し、副島はこの奴隷船の船長を裁判にかけて奴隷を解放しました。ペルーの抗議により外交問題に発展するものの日本の主張が認められ、副島は「正義人道の人」として国際的に支持されました。

また1873年3月には、宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へおもむき、漂流民を殺した台湾や、外交関係を拒絶する韓国問題に対し、日本が自由に行動できることを清に認めさせています。ただし、琉球(沖縄)帰属問題に関しては、清が日本帰属を認めなかったために、日清戦争まで外交問題として残されました。

ところが、同年秋におこった「征韓論争」では、朝鮮の開国を主張する西郷隆盛に賛成したことで、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの内治派に敗れて下野し、1874年に板垣退助らと愛国公党に参加し、民撰議院設立建白書を提出しました。ただし、自由民権運動には加わらず、政治の表舞台から遠ざかりました。1879年、宮内省に出仕して一等待講、1887年宮中顧問官、1888年枢密顧問官(天皇の最高位相談役)、1891年枢密院副議長になりました。1892年に松方正義内閣の内務大臣として入閣するものの、3か月で辞職しています。

なお、司馬遼太郎は長編小説『翔ぶが如く』の中で、「明治政府は、優れた経綸家(国家の秩序をととのえ治める人物)を二人しか所有していなかった。一人は西郷、一人は副島」と、副島を高く評価しています。

「1月31日にあった主なできごと」

1797年 シューベルト誕生…『ぼだい樹』『野ばら』『アベ・マリア』など600曲以上もの歌曲や、『未完成交響曲』などの交響曲や室内楽曲、ピアノ曲他を作曲したシューベルトが生まれました。

1947年 ゼネスト中止命令…激しいインフレを背景に生活を脅かされた労働者たちは、共産党の呼びかけで2月1日にゼネスト決行を計画しましたが、マッカーサーGHQ総司令官は、ゼネストは日本経済を破滅においやると、中止を指令しました。

1958年 アメリカ初の人工衛星…前年にソ連に先を越されたアメリカは、初の人工衛星エクスプローラ1号の打ち上げに成功しました。

今日1月30日は、全国3000もの村を歩き、「宮本民俗学」を打ち立てた民俗学者の宮本常一(みやもと つねいち)が、1981年に亡くなった日です。

1907年、山口県周防大島の貧しい農家の長男として生まれた宮本常一は、小学校を卒業すると父母に負担をかけまいと、中学校には進学せず小学校高等科へ行き、卒業後は郷里で農業を手伝いました。16歳で大阪に出ると、郵便局員として働きながら、天王寺師範学校(現・大阪教育大)第2部に学びました。

1929年卒業後、和泉市の小学校教師となるものの肺結核により休職、故郷の周防大島で療養をしました。その間、地元の古老からの聞き書きを開始し、研究論文を「旅と伝説」に投稿、柳田国男の目にとまって『周防大島』の発表がはじまりました。1932年に大阪の小学教師に復職すると、小旅行をしながら山野やさまざまな集落を訪ねました。1935年生涯の師となる渋沢敬三と出会い、1939年に教員を退職して上京、渋沢の推せんで「アチック・ミューゼアム」(のちの「日本常民文化研究所」)に入所して、全国民俗調査を開始します。

1939年出雲など中国地方調査、1940年下北半島イタコ調査、1941年土佐源氏調査というように、戦前から高度成長期まで、離島をふくむ日本各地の3000以上の村を訪ね、1200軒以上の民家に宿泊しながら、ぼう大な記録を残しました。

とくに1950年、「八学会連合(のちに九学会)」による対馬総合調査に民族班員として参加したことは、宮本の学問上に大きな刺激となりました。「ここには、中世社会が生きている」と大きな感銘を受け、離島研究を本格化させるきっかけとなりました。1952年に全国離島振興協会を設立させて初代事務局長になり、再発した肺結核に苦しみながらも、代議士や官僚に離島の現状を説明し、誤った認識を改めさせる努力をしました。こうして1953年、念願の離島振興法を成立させたことで「離島振興法の父」と慕われるようになりました。

1960年『忘れられた日本人』、同年完結させた『日本残酷物語』(全7巻)でいちやく脚光を浴び、1961年に東洋大から文学博士号を授与され、『日本の離島』は第9回日本エッセイスト・クラブ賞を贈られました。1965年に武蔵野美術大学教授に就任、1966年には日本観光文化研究所(現「旅の文化研究所」)の初代所長、1980年には故郷の周防大島に「周防大島郷土大学」を設立しています。

なお、宮本が残した調査記録の多くは、1967年から刊行されはじめた『宮本常一著作集』に収められています。宮本が、柳田国男とは異なり、漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したことで、柳田民俗学派からは冷遇されましたが、没後の1990年代後半になって再評価の機運が高まり、益田勝実は「宮本民俗学は、柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れることで、柳田民俗学を超える」という評価をしています。


「1月30日にあった主なできごと」

1649年 チャールズ1世処刑…1628年、イングランド議会から国王チャールズ1世に対して出された「権利の請願」は、大憲章(マグナカルタ)・権利章典とともにイギリス国家における基本法として位置づけられていますが、チャールズ1世はこれを無視して議会と対立。3日前に公敵として死刑の宣告を受けた国王が、この日処刑されました。こうして議会が国政に参加する権利を確立した「清教徒(ピュリタン)革命」が終結しました。

1902年 日英同盟…清(中国)や韓国に進出しようとするロシアに対抗するため、この日ロンドンで「日英同盟」が結ばれました。イギリスの清の権益、日本の清や韓国の権益を相互に認め、一方が戦争になったときは中立を守り、そこに第三国が参入したときは援助しあうというものでした。当時のイギリスは、アフリカでの戦争に消耗しており、ロシアの南下をおさえる「憲兵」の役割を日本に期待したもので、日本は日露戦争への道を歩みはじめました。

今日1月29日は、オーストリア出身の世界的バイオリニストで、『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』『ウィーン奇想曲』など、数々の名品を作曲したクライスラーが、1962年に亡くなった日です。

1875年、医者の子としてウィーンに生まれたフリッツ・クライスラーは、音楽好きな父に3歳のころからバイオリンを習いはじめ、めきめき上達し、特別に7歳でウィーン高等音楽院に入学すると10歳で首席で卒業。その後、パリ高等音楽院に入学しましたが、ここでも首席で卒業しました。

1888年アメリカに渡り、ボストンやニューヨークで演奏会を開いて成功をおさめ、翌年ウィーンにもどると、「神童」ともてはやされることを嫌った父の勧めで、地元の高校をへて大学で医学を学ぶものの、父の医業を継ぐ気にはなれませんでした。1895年に帝国陸軍に入隊し、将校となったものの、やはりバイオリンを捨てきれず、1889年音楽界に復帰しました。

ヨーロッパ各地で演奏活動を開始するうち、ベルリン・フィルハーモニーと共演する機会にめぐまれ、バイオリン独奏を激賞されたことで、クライスラーの演奏活動は軌道に乗り、1902年にはロンドン・デビューも大成功のうちに終えました。気をよくしたクライスラーは、しばらくイギリスを本拠地として活動した後、アメリカにわたり、レコーディング活動も始めました。

ところが、1914年に勃発した第一次世界大戦に召集を受け、将校として東部戦線に出征するものの、重傷を負ったことで名誉の除隊となり、ニューヨークの自宅にもどると、療養しながら演奏活動を再開しました。大戦終結後はヨーロッパの音楽界に復帰し、「ウィーン風」といわれる優雅で温かみのある演奏は、大曲も小曲も親愛感あふれるものとなり、世界じゅうにたくさんのファンを作りました。1923年には来日を果たしています。

クライスラーは、今も人気の高い『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』『ウィーン奇想曲』『中国の太鼓』『ロンディーノ』など、気品あふれるたくさんのバイオリンの小品を作曲しましたが、興味深いのはその発表の仕方です。演奏会のプログラムには、自作とはいわず「埋もれた古い時代の作曲家の曲を編曲した」としたことです。こんな作曲者偽称を、60歳の誕生日までやっていたようです。

1924年から1934年までベルリンを拠点にしましたが、ナチスが政権を獲得し、1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されたのを機にパリに移住しましたが、ヨーロッパが戦場になりそうな雲行きに、翌年アメリカ永住を決意してニューヨークに移り、1943年にはアメリカ国籍を取得しています。

以後の生涯では一度もヨーロッパにもどることはなく、交通事故で重傷を負ったことで視力障害や突発的な記憶喪失などがおき、1950年に引退。1962年ふたたび交通事故にあって、ニューヨークで死去しました。


「1月29日にあった主なできごと」

1866年 ロマン・ロラン誕生…『ジャン・クリストフ』『ピエールとリュース』『ベートーベン研究』などを著したフランスの理想主義的作家、思想家のロマン・ロランが生まれました。

1872年 初の人口調査…近代的人口調査を実施してきた明治新政府は、この日総人口3310万9826人と発表。この年から江戸時代の人別帳にかわる戸籍が作成されました。

1957年 南極に昭和基地…南極観測隊はオングル島に到達し「昭和基地」を開設しました。34名の隊員のうち、西堀隊長以下11名が初の越冬観測のためここに残りました。

今日1月28日は、日英関係の強化につとめ、4度にわたる外務大臣を歴任、第24代総理大臣のときは「普通選挙法」「治安維持法」を成立させた加藤高明(かとう たかあき)が、1926年に亡くなった日です。

1860年、尾張藩(愛知県)の下級藩士の子として生まれた加藤高明(幼名・服部総吉)は、旧制愛知一中、名古屋洋学校を経て、1881年に東京帝大(現・東大)法学部をトップで卒業、役人の道を選ばずに三菱に入社、岩崎弥太郎にみとめられて、1983年イギリスへ渡って海運業と議会制度を学びました。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、新たに設立された郵船会社に移り、岩崎の長女と結婚して財界との結びつきを強めました。

1887年、イギリス滞在中に知り合った陸奥宗光に要請されて外務省に入ると、井上馨・大隈重信両外相の秘書官として、抜群の実務能力・英語力を発揮して条約改正の実務にあたり、1890年には大蔵省に転じて、銀行局長、主税局長として有能ぶりを示しました。日清戦争がはじまった1894年にはイギリス公使となり、戦争前後の4年間、イギリスと良好な外交関係をたもつことにつとめました。

1900年、第4次伊藤博文内閣の外務大臣になると、イギリスやドイツに働きかけて、帝政ロシアの満州占領に抗議するなど、ロシアに対する強硬外交を推進しました。1902年秘密のうちに「日英同盟」がむすばれ、1904年に日露戦争が勃発しますが、同年に「東京日日新聞」を譲り受けて社長になると経営に専念し、日露講和条約の不備を紙上で攻撃しました。1908年には、小村寿太郎外相の求めに応じ、翌年イギリス大使として着任、1911年には関税自主権を撤廃する「新・日英通商航海条約」に調印しています。

1913年加藤は、第3次桂内閣の要請により3度目の外務大臣となりましたが、立憲政治を守ろうとする尾崎行雄らによる「第1次護憲運動」によって内閣が倒れると、桂のつくった立憲同志会を受けつぎ、総裁に就任しました。これをバックに、1914年に成立した第2次大隈内閣の外相となり、日英同盟を理由に第1次世界大戦に参戦し、翌1915年に中国政府に対し「二十一か条の要求」を認めさせました。これは、ドイツが山東省に持っていた権益を日本に引き継ぐなど、中国の主権をおびやかすもので、中国の民族運動を発展させるきっかけになりました。加藤の判断で推し進めたこれらの外交は、山県有朋らの反感を買い、同年に外相を辞任して政界から遠ざかりました。

1924年、憲政会の総裁となっていた加藤は、政友会の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅と3党首会談を行い、「護憲3派」を結成して、第2次護憲運動を展開しはじめました。5月の総選挙で第1党となった憲政会は、高橋、犬養を閣僚に加え、加藤は護憲3派内閣の総裁となりました。1925年に公約だった「普通選挙法」を成立させるとともに、治安維持法も成立させました。

その後3派は分裂して総辞職したことで、憲政会単独で組閣するものの施政方針演説後にそのまま倒れ、亡くなったのでした。


「1月28日にあった主なできごと」

712年 古事記完成…太安万侶が元明天皇に「古事記」を献上しました。「古事記」は「日本書紀」と並ぶ古代の2大歴史書の一つで、稗田阿礼が記憶していた歴史を、安万侶がまとめあげたものです。

1547年 ヘンリー8世死去…イングランド王で、カトリック教会から離れ、イングランド国教会の首長となったことで知られるヘンリー8世が亡くなりました。

1582年 天正少年使節…九州のキリシタン3大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠は、伊東マンショら少年4名を「天正少年使節」として、ローマ法王に謁見させるため、長崎の港から送り出しました。

今日1月27日は、小柄な体型にもかかわらず、「空気投げ」など数々の新技をあみだし、最高位の十段(名人)に昇進した柔道家の三船久蔵(みふね きゅうぞう)が、1965年に亡くなった日です。

1883年、現在の岩手県久慈市に生まれた三船久蔵は、「悪ガキ」とよばれるほどわんぱくな少年でした。みかねた父親は社会勉強をさせようと高等小学校を卒業後、役所勤めをさせましたが、わずか2週間で退職してしまいました。心を入れかえた三船は勉学に勤しみ、名門仙台二中に入学。ここで柔道に出会ったことが三船の将来を決定づけました。学生時代のほとんどを柔道に打ちこみ、旧制第二高校に通っては師範の大和田義一に熱心に教えを受けるうちにめきめき上達、中学生の三船が高校生を相手に10人をごぼう抜きにするほどの腕前となりました。

仙台には互角に戦える相手がいなくなったことで、三船は1903年に上京し、柔道を創設した嘉納治五郎が館長をつとめる「講道館」に入門しました。日本じゅうから柔道をめざす若者たちのなかには、三船のような身長159cm、体重55kgという小柄な体格の者はいませんでした。そんな三船でしたが、厳しい稽古にはげみ、3か月後には初段、講道館有段者試合で8人抜きをするや、入門半年目にして2段になりました。さらに毎年のように段をあげ、1909年には25歳で5段に昇進、「講道館の風雲児」とよばれるようになりました。その間、1904年に東京専門学校(後の早稲田大)予科をへて、翌年からは慶應義塾理財科に学んでいます。

その後は、講道館の師範役となって、東京帝国大(東大)、明治大、日大など11の学校の柔道師範をつとめながら、1923年には、7段に昇段しました。神業といわれた「空気投げ(隅がえし)」を編み出したのは、この年のことです。この技は、相手が動きに移ろうとした瞬間に自分の重心を下げて相手を浮かし、足も腰も使わずに投げ飛ばすという空前の技でした。「倒す倒されるは力学」と知って物理学の研究にも力をそそいだ成果でした。三船はこの他にも、「球ぐるま」「横わかれ」「大ぐるま」「きびすがえし」など、数多くの新技を生みだしています。

1930年の第1回全日本柔道選手権や1937年の天覧試合では、「模範乱どり」を披露して、柔道の面白さを一般の人に広めたのをはじめ、1940年には海外柔道講演旅行にでかけて、世界に柔道の奥深さを知らせることにつとめました。そんな柔道の発展や普及に努めたことも高く評価され、1945年、ついに柔道界の最高位である十段にのぼりつめたのでした。

「柔道は『動』の世界だが、人間は『動』ばかりでは調和がとれない。『静』の境地に入って、じっくり考える習慣が必要」という信念で、柔道ばかりでなく、書道にも、将棋にも一級の腕前を示し、集中力の養成や精神修養を怠りませんでした。

柔道審判員としても活躍し、1956年に東京で開催された世界柔道選手権大会で審判をつとめたほか、1964年の東京オリンピックでは柔道競技運営委員をつとめ、国際競技としての「柔道の発展」を見守りました。その翌年、「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、「柔道の神様」とあがめられた生涯を閉じましたが、名誉市民となった出身地の岩手県久慈市には、「三船十段記念館」が建てられています。


「1月27日にあった主なできごと」

1219年 源実朝死去…鎌倉幕府の第3代将軍で、歌人としても著名な源実朝が、兄の2代将軍頼家の子公暁に暗殺されました。公暁も殺され、源氏の血が絶えてしまいました。

1756年 モーツァルト誕生…ハイドンやベートーべンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家のモーツァルトが生まれました。

1832年 キャロル誕生…イギリスの数学(幾何学)者でありながら『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したキャロル(本名ドジソン)が生まれました。

1902年 八甲田山遭難事件…日本陸軍の歩兵隊が青森県八甲田山で冬季訓練中に遭難し、訓練への参加者210名中199名が死亡。軍の無謀な訓練が問題になりました。

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