児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年12月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 106]
 
ある村に、ジャックという名の貧しい農夫の息子がいました。とても元気でかしこいので、「知恵ものジャック」といわれていました。

ある日、村の人たちがジャックのところにやってきて、こういいました。「むこうにみえる山の穴ぐらの住みかに、コーモランという背の高さが5メートルもある巨人がすんでいるのを知っているよね。このごろ、あいつが、きゅうにあばれだして、村人や、牛やブタやヒツジを、さらっていくのだ。みんなで集まって、どうしたらやつを退治できるか話しあってるが、よい方法がみつからなくてね。それであんたに相談にきたんだ」するとジャックは、「それじゃ、わたしがやってみましょう」と、簡単に引き受けました。

その日の夕方、ラッパとシャベルを持ったジャックは、巨人の住む山へやってくると、さっそく仕事にとりかかり、よく朝までに、直径と深さがそれぞれ7メートルもある大きな穴をほりあげ、そこに長い棒とわらをかぶせてふたをし、その上に土を少しまいて、ふつうの地面とみわけがつかないようにしました。それからジャックは、巨人の住みかからみて、穴の反対側にすわりこむと、プップラ・プップラ・ブップラプー! とラッパを吹き鳴らしました。

その音で目をさました巨人は、住みかのまどからのぞいてみますと、若者がラッパをふいています。「うるさいやつだ。まるごとあぶって、朝飯にしてやるからな」と、さけびながら飛び出すと、ジャックめがけてかけだしました。そして、ジャックをつかまえようとしたとき、足が落とし穴をふんずけたために、ドスーン! 大きな地響きをたてて、巨人は穴におちてしまいました。「どうだ、らんぼう者をつかまえたぞ」というと、バタバタバタバタあばれる巨人の上に、どんどん土を投げこみましたから、さすがの巨人も力つき、死んでしまいました。

村人たちは大喜びで「巨人退治のジャック」と、たたえました。大てがらをあげたジャックのうわさは、国じゅうに伝わりました。東の巨人コーモランが殺されたことを知った西の巨人ブランダボアは、もしもジャックという男にであったら、しかえしをしてやろうと心にきめました。ブランダボアは、ひとけのない森の中の城に住んでいました。

そんなことを知らないジャックは、国じゅうを旅していたある日、森の中で迷ってしまいました。くたびれてしまったので、気持ちのよさそうな泉のそばに腰をおろすうち、ぐっすり眠ってしまいました。そこへ、あの巨人ブランダボアが水をくみにやってきたのです。旅人が寝てるなと、ふと旅人のベルトを見ると、「巨人退治のジャック」とあります。これが有名なジャックだと知ったブランダボアは、ひょいとジャックを肩にかつぎ、家につれていくとちゅう、ジャックは目をさましましたが、寝ているふりをしていました。

やがてジャックは、ブランダボアの城の大きな部屋に投げ入れられてしまいました。あたりを見ると、人間の骨がいちめんに並んでいます。ブランダボアは、近くに住む巨人の弟といっしょに、ジャックを食べようと考えて、弟をむかえにいきました。

巨人の兄弟が帰ってきたのをみたジャックは、部屋のすみにあった縄を2本取り上げると、それぞれの縄のはしに輪をつくり、もう一方のはしを天井のはりにかけておきました。巨人たちが城門を開けているとき、ジャックは「死ぬか生きるか、勝負だ」と、ふたりの頭をめがけて縄を投げました。縄の輪はうまくふたりの首にかかり、ジャックは天井のはりにかけてあった縄を、すばやく力いっぱい引っぱったものですから、巨人どもはのどをしめあげられてしまいました。

巨人たちの顔が黒くなりはじめたのを見たジャックは、縄を伝っておりていくと、剣をぬき、巨人兄弟を退治したのでした。

すごいねジャック、巨人を3人もやっつけたよ。


「12月5日にあった主なできごと」

1791年 モーツァルト死去…ハイドンやベートーべンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家モーツァルトが亡くなりました。

1901年 ディズニー誕生…「ミッキー・マウス」を生みだし、いまや世界的なウォルト・ディズニー・カンパニーを創業したディズニーが生まれました。

1904年 日本軍が旅順203高地占領…日露戦争で日本軍は、ロシア軍の要塞があった旅順の203高地を3度目の総攻撃で占領に成功、戦局はいっきに日本軍が有利なものになりました。

今日12月4日は、オペラ『ピーター・グライムズ』や『青少年のための管弦楽入門』『戦争レクイエム』などを作曲したイギリスのブリテンが、1976年に亡くなった日です。

1913年、イングランド・サフォーク地方のローストフトに生まれたベンジャミン・ブリテンは、幼少のころから音楽の才能を発揮して、7歳からピアノやビオラを学び、9歳のときに弦楽四重奏曲を作曲するほどでした。12歳でフランク・ブリッジに師事して本格的に作曲をはじめ、1930年にはロンドンロイヤル音楽院に入学して、1934年に卒業してからは詩人オーデンに協力して記録映画音楽づくりにたずさわりました。

1937年、ザルツブルク音楽祭で初演された『ブリッジの主題による変奏曲』は、大評判となって作曲家としての名声をえました。やがて、イギリスが第2次世界大戦にのめりこむことを悲観し、兵役拒否の意味合いをこめてテノール歌手ピーター・ピアーズとともに4年間アメリカに滞在しました。帰国後の1945年に、最高傑作といわれるオペラ『ピーター・グライムズ』がロンドンで初演すると大成功をおさめ、アメリカの指揮者クーセビッキーから、ビゼーの『カルメン』以降にあらわれたオペラの最高傑作と絶賛されるほどでした。

さらに、同年につくられた『青少年のための管弦楽入門』もブリテンの代表曲のひとつで、「パーセルの主題による変奏曲とフーガ」という副題がついています。パーセルは、イギリスではバッハ以上に尊敬されている17世紀の作曲家で、ブリテンは13の変奏曲とフーガで構成された曲にさまざまな工夫をくわえて、オーケストラはどのような楽器で演奏され、それぞれの楽器はどんな音色を出しどんな感じをあたえるかということを、わかりやすく示しました。

この曲を開始するにあたって、つぎのような語りではじまります。「作曲家のブリテンは、青少年のみなさんに、オーケストラの楽器を紹介するために、この曲を作りました。オーケストラには4つの楽器のグループがあります。弦楽器・木管楽器・金管楽器・打楽器です。弦楽器は弓か指でひき、木管楽器・金管楽器は呼吸によって音を出し、打楽器はたたいて音をだします。それでは、イギリスの偉大な作曲家パーセルがこしらえたテーマを、オーケストラ全部の楽器で演奏した後、4つのグループの楽器でいろいろ演奏しますから、よくきいてください」。こうして威厳にみちたテーマではじまり、それぞれの楽器や楽器グループや独奏などで変奏曲がかなでられ、最後に全オーケストラによる壮大なフーガで締めくくられます。

ブリテンは、著名な現代作曲家のひとりですが、いたずらに目新しさを追わず、いろいろな素材や方法を合成する手法で、技巧的でありながら、大衆的でわかりやすいものが多く、『青少年のための管弦楽入門』はじめ、『ピーター・グライムズ』をふくむ14作のオペラ、『戦争レクイエム』などの作品が、時代や国や地域を問わず、いまも広く受け入れられています。


「12月4日にあった主なできごと」

1027年 藤原道長死去…平安時代中期の貴族で、天皇にかわって摂政や関白が政治をおこなう「摂関政治」を独占。藤原氏の全盛期を生きた藤原道長が亡くなりました。

1722年 小石川養生所設立…江戸幕府は、貧しい病人のための無料の医療施設として、東京・文京区にある小石川植物園内に小石川養生所を設立しました。第8代将軍徳川吉宗と江戸町奉行の大岡忠相が主導した「享保の改革」における下層民対策のひとつで、町医者の小川笙船が、将軍への訴えを目的に設置された「目安箱」に投書したのがきっかけでした。幕末まで140年あまりも、江戸の貧民救済施設として機能したといわれます。この診療所の様子は、山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』や、この原作をもとに黒沢明が映画化した『赤ひげ』で知られています。

1890年 血清療法…ドイツの細菌学者コッホのもとへ留学していた北里柴三郎は、破傷風とジフテリアの免疫血清療法を発見したことを発表しました。

今日12月3日は、戦前から戦後にかけて大蔵官僚として大蔵次官までのぼりつめ、その後は政治家として大蔵大臣、通産大臣などをへて、第58・59・60代首相をつとめた池田勇人(いけだ はやと)が、1899年に生まれた日です。

現在の広島・竹原市の旧家の子として生まれた池田勇人は、旧制五高をへて、1925年に京都帝国大法学部を卒業し、大蔵省へ入りました。函館税務署長、宇都宮税務署長をつとめましたが天然痘にかかったことで大蔵省を退職、5年間生死をさまよいながらも1934年に完治して大蔵省に復職、玉造税務署長、熊本税務監督局など地方勤務後、1941年に主税局国税課長、1945年に主税局長、戦後の1947年2月には、第1次吉田茂内閣で石橋湛山大蔵大臣のもとで、大蔵次官にのぼりつめ、翌年退職しました。

1949年、広島県から衆議院議員に自由党から立候補して当選をはたすと、すぐに第3次吉田茂内閣の大蔵大臣に就任、翌年には通産大臣を兼任しました。吉田茂の直系としてGHQから示された財政金融引き締め政策を推進したことで日本経済は深刻な不況におちいるものの、朝鮮戦争がおこって景気が浮揚したこと、大規模な造船疑獄事件が発生し、佐藤栄作とともに逮捕寸前までいくものの、法相の「指揮権発動」で逮捕をまぬがれたことは、池田にとって幸運なことでした。

その後池田は、自由党幹事長に就任、1955年の保守合同による自由民主党が成立すると、石橋内閣、岸信介内閣の大蔵大臣をつとめ、国務大臣、通産大臣を歴任しました。通産大臣時代に「貧乏人は麦を食え」「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」といったことで、大臣をやめさせられたことはよく知られています。

1960年、60年安保闘争により退陣した第2次岸内閣のあとをうけて首相となった池田は、安保改定後の厳しい情勢のなかで、国民の批判をかわすために、「低姿勢」「寛容と忍耐」をとなえ、「所得倍増計画」や「農業人口の6割削減」を掲げ、「わたくしはうそは申しません。経済のことは池田におまかせください」と、積極的な経済成長政策をとりました。こうして、高度成長はいくつかの問題をのこすものの、1964年11月まで、4年4か月にわたり、大平正芳、宮沢喜一らにささえられて、保守本流内閣として政権をにないました。

池田は翌1965年8月にがんで亡くなりますが、日本経済が戦後復興をなしとげ、高度経済成長レベルに突入する過程をになったことは高く評価されています。


「12月3日にあった主なできごと」

1552年 ザビエル死去…1549年に、初めて日本へキリスト教を伝えたカトリックの宣教師ザビエルが亡くなりました。

1872年 太陽暦の実施…この日旧暦(陰暦)から新暦(太陽暦)に変わり、旧暦明治5年12月3日が、新暦明治6年1月1日となりました。日本では、7紀末以来1200年以上も陰暦が使われてきましたが、幕末から欧米諸国との交渉が始まると、太陽暦と1か月前後の差が不便になり、国際的に広く使われているグレゴリオ暦の採用が急がれていました。

1894年 スティーブンソン死去…冒険小説『宝島』によって名をなし『ジキル博士とハイド氏』『誘惑されて』など独自の文学を開いたイギリスの作家スチーブンソンが亡くなりました。

今日12月2日は、明治日本のお雇い外国人の一人として、「大日本帝国憲法」の制定に大きな役割をはたしたドイツの法学者・経済学者のロエスレルが、1894年亡くなった日です。

1834年、ドイツ・バイエルン地方のラウルに、弁護士の子として生まれたカール・フリードリヒ・ヘアマン・ロエスレルは、エルランゲン大学やチューリッヒ大学で法学や国家学を学んだ後、ロストック大学の教師となると、1861年に27歳の若さで同大学の国家学教授となりました。1878年に訪日するまでその地位にあって、イギリスの経済学者アダム・スミスを批判した書や社会行政法に関する書を著し、学界の指導者として知られていました。

ドイツ公使だった青木周蔵のあっせんにより、外務省の法律顧問として訪日したロエスレルは、1881年3月ころから民法の起草をするかたわら、岩倉具視の知恵袋といわれ、のちに大日本帝国憲法(明治憲法)の起草者のひとりとなる井上毅に、ドイツ(プロイセン)流の君主主義的憲法の採用をアドバイスしました。いっぽう大隈重信は、イギリスにならった開明的憲法をつくるように政府に提案していましたが、同年7月、岩倉によって憲法制定の根本方針は、ドイツ的立憲主義とすることが上奏され、他の事件とのからみもあって大隈は罷免されました(明治十四年の政変)。

その後ロエスレルは、内閣顧問にばってきされて伊藤博文の信任を得ました。1886年秋ごろから伊藤の私邸で伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎を中心に大日本帝国憲法の草案作成が極秘のうちに着手されると、ロエスレルも私邸近くに宿泊して助言を求められました。1887年夏に「日本帝国憲法草案」ができあがりましたが、その草案の多くは、ロエスエルが4月に提出した私案の大半が採用されたといわれています。そして、「日本帝国憲法草案」はそのまま受け入れられ、1889年に発布、1890年に公布されました。

その後ロエスレルは、商法を起草しましたが、民法とともに施行延期となっています。1893年に帰国、翌年に妻子の住むオーストリアに移って亡くなりました。


「12月2日にあった主なできごと」

1922年 ベル死去…聾唖(ろうあ)者の発音矯正などの仕事を通じて音声研究を深めているうちに、磁石式の電話機を発明したベルが亡くなりました。

1970年 歩行者天国…東京銀座・新宿・渋谷などで、歩行者天国が実施され、ふだんの日曜日の2.4倍もの人びとがくりだしました。この日の一酸化炭素濃度が、ふだんの日の5分の1になったことから、車の排気ガス汚染を食い止め、汚染のない環境をとりもどそうと、全国各地に広まるきっかけになりました。

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