児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年12月

「おもしろ古典落語」136回目は、『抜(ぬ)け雀(すずめ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

相州(神奈川)の小田原に、夫婦二人だけの小さな宿屋がありました。
「ちょいと、おまえさん。2階にいる3番のお客さん、どうするつもりだい。あれから5日になるけど、朝から酒ばかりのんで、やれ刺身をもってこいの、酢のものがいいのと、かってなことばかりいって、それでいて勘定のことは、かの字もいわないよ」
「あんまりきついことをいうな。はじめに約束したんだからしかたがない。『酒はまいにち朝昼番に1升、まずいものは食わぬ。とりあえず100両もあずけておくか』というから、『お立ちのおりでけっこうです』っていったんだ。そのてまえ、5両たまろうが、10両たまろうが、おれから催促はいえるか」
「みえばかりはって、そんなこというんだ。それじゃ、わたしがいってくるよ」

「ごめんくださいまし」
「おう、おかみか。いま呼ぼうと思っていたとこだ。ゆうべのかつおの刺身がうまかったから、今朝もあの刺身に酒を1升たのむぞ」
「ご注文のものはもってまいりますが、じつは旦那さま、お勘定がこれまでに5両ほどたまっております。きょう酒屋へ払いをしなくてはなりません。お手元に5両ございますれば、ちょいと、お立て替えねがえませんでしょうか」
「うむ、5両か。あいにくいまは、こまかいのが手元にない」
「大きいのでもよろしゅうございます。つりをもらいますから」
「大きいのもない。きれいなもんだ。あるのは鼻紙に、たもとくそばかりだ」
「おや、あきれた。それじゃぁ、お勘定はどうしてくださるんです?」
「おまえではわからぬ。亭主をよこせ。そんなフグみたいな顔した女ではわからぬ」

プンプンふくれたおかみさんから、いきさつを聞いた亭主が、座敷にまいります。ところが男は、金はないのいってんばり。
「だってあなた、お泊りの時に、百両預けようかとおっしゃいました」
「あれは、うそだよ。おまえを安心させて、うまいものを食う計略だ」
「こりゃおどろいた。金がないのなら、早くたってくださったらいいじゃないですか」
「たつには勘定を払わなくてはならない。しかたなく、がまんしてやったんだ」
「がまんなんかしないでけっこう、さっさとたってくださいまし。やっぱりかかぁのほうが、目が高いや」

「そうぶつぶついうな。それではたってやるが、このままたっては心持ちが悪い。なにかかたをおこう。そこにある白いついたては、白いままでおくのか」
「このあいだ、あなたのように金のない表具(たてぐ)屋が泊まりましてな、宿賃のかたに張っていったもんで、書家の先生でも泊まったら書いてもらうつもりでした」
「じゃ、ちょうどいい、わしが絵をひとつかいてやろう」
「へぇ、あなたは絵かきさんですか。なんとおっしゃるんで」
「おまえのような唐変木(とうへんぼく)に、名などいえない」

亭主をこき使ってすずりと筆を用意させ、墨をすらせると、いっきにかきあげました。
「なんでございます、これは」
「おまえの顔のまゆ毛の下でギラギラしてるのはなんだ」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ。雀が5羽だ。1羽1両で5両。亭主、わしはこれから江戸へいくが、帰りには金を持ってきて、この絵をかならず請(う)けだすから、それまではだれにも売ってはならぬぞ」
「こんな絵が売れますか」
「きさまにはわかるまい、買い手があっても売るなよ」
「買い手なんぞつきっこないですから、ご安心なさい」
男は、絵の下に小さなハンコを押すと、そのまま発っていきました。

とんだ客を泊めたと夫婦でぼやいていると、2階で鳥の鳴き声がします。どうしたことかと男の泊まっていた部屋を開けると、5羽の雀が飛びまわっています。そのうち、5羽の雀が、絵の中に飛びこんだではありませんか。夫婦は、顔をあわせてびっくりぎようてん。

これが、「世にも不思議な5羽の抜け雀」と、小田原じゅうの評判を呼んで見物人がひっきりなしです。
そのうわさは小田原城主にも伝わり、お忍びでこのついたてを見ると、いたく気に入って千両で買い上げるといいます。でも宿の亭主は、この絵をかいた男から、買い手があっても決して売るなといわれているといわれ、その男が請けだしにきたら知らせるようにと帰りました。
殿さまが千両といったという話は、またまた評判になって、宿屋は押すな押すなの大繁盛です。

そんなある日、六十すぎの品のいい老人が絵をみたいと、やってきました。
「うーむ。この雀は死ぬぞ」
「えっ、ご冗談でしょ。絵にかいたものが死ぬなんて」
「いや、そうでもない。たとえ絵でも抜けだして飛ぶくらいのものは、必ず死ぬであろう」
「どうして死ぬんですか」
「抜けだしても、羽を休めるところがないから、そのうち疲れて落ちてしまう。落ちたら3文の価値もない。なんというものがかいた」
といいながら、下にあるハンコを見て、
「ああ、このものならこのくらいはかくであろう。亭主、すずりを持ってまいれ。ちょっと筆を入れてやろう」
「ごめんこうむります。千両のついたてを、汚されてはかないませんから」
「汚したりはせぬ。わしが筆をくわえりゃ、千両が二千両になる」

「えっ、二千両? お願いいたします」
すずりをもってくると老人は、ついたてに、ちょいちょいちょい。

「なんでございます、これは」
「おまえの顔のまゆ毛の下でギラギラしてるのはなんだ」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ」
「のんだくれと同じこといってる」
「鳥かごじゃ。飛んでる鳥も、このかごに入って羽を休める。そうすりゃ、この雀たちは無事だ」
なるほど、雀が飛んでくると、鳥かごに入り、止まり木にとまりました。
「いゃー、おどろきましたなぁ。あなたさまのお名前は?」
「おまえのような唐変木に、名などいえない」
「いゃー、まえの先生と、いうことまでおんなじだ」
そのまま、老人はにっこり笑って行ってしまいました。

さぁ、これがまた大評判になって、とうとう殿さまがまた現れて感嘆し、この絵を二千両で買いとるといわれると、亭主は腰を抜かしましたが、りちぎに絵師が帰ってくるまで待ってくれと売りません。
それからしばらくして、りっぱな身なりの侍がやってきました。
「あー、許せ。ひと晩やっかいになるぞ」見ると、あの時の絵師ですから、亭主は飛び上がって喜びました。

老人が鳥かごを描いていったいきさつを話すと、絵師は二階にあがり、びょうぶの前にひれ伏すと「いつもながらご壮健で……」
聞いてみると、あの老人は絵師の父親だといいます。
「いかに年若とはいえ、かかることに心づかざりしかと、さだめしお笑いあそばしたでござろうが、不孝のだんは、お許しください」
「おや、泣いてるぜ……もし、旦那さま、あなたぐらいの名人になったら、なにも不孝なことはございますまい」

「いや亭主、りっぱな不孝であろう。親を『かごかき』にした」


「12月12日にあった主なできごと」

1834年 福沢諭吉誕生…慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される福沢諭吉が生れました。

1862年 英国公使館を焼き討ち…1858年の「日米修好条約」に反対する長州藩士・高杉晋作らは、幕府を窮地に立たせようと江戸・品川に建設中のイギリス公使館を焼き討ちにしました。

今日12月11日は、野鳥の研究や保護の基礎をきずき、「日本野鳥の会」を創立した野鳥研究家で詩人・随筆家の中西悟堂(なかにし ごどう)が、1984年に亡くなった日です。

1895年、石川県金沢市に生まれた中西悟堂は、生後まもなく両親を亡くし、天台宗の僧侶だったおじの養子となってそだてられました。1907年に養父や祖母とともに東京・調布の祇園寺に移住、1911年16歳のとき深大寺の僧となって修行をつむかたわら、短歌や詩に親しむうち詩壇に入り、1922年に第1詩集『東京市』を出版しました。

1926年、千歳烏山に移り住むと詩壇と決別して田園生活に入り、質素な生活をしながら昆虫や野鳥の観察を始めました。3年半後には杉並・善福寺に移り、自宅に野鳥の放しがいをしたり、全国の山々をめぐって野鳥の観察を行いました。

1934年、悟堂は野鳥という言葉を発案し、鳥学者の内田清之介や英文学者の竹友藻風らと「日本野鳥の会」を構想すると、柳田国男、北原白秋、金田一京助、新村出、内田清之助らたくさんの文化人の後援を得て会を発足させました。これまでは、鳥を愛するといえば、鳥籠に飼う程度だったのを、悟堂は「野の鳥は野に」と叫び、同年6月には富士山裾野の須走で、後に「探鳥会」と呼ぶようになる野鳥観察会を初めて開催しました。また、悟堂が編集責任者となった機関誌「野鳥」を刊行、会員数はおよそ1800名となりましたが、1944年9月に物資不足による用紙配給が中止されたことで停刊となりました。1947年の活動再開と同時に再刊、今日に至っています。

戦後の悟堂は、国の鳥獣審議会(のちの自然環境保全審議会)委員となって、復活したカスミ網猟の撲滅、乱用されていた空気銃の使用禁止、狩猟制度の見直しをとなえて大奮闘し、鳥類保護法の制定を実現させました。その間に、天台宗僧侶13階級のうち大僧正・権大僧正・僧正につぐ「権僧正」となり、1970年に「自然を返せ」という自然保護運動がおこったときは、75歳の高齢をおして、若い人たちとデモの先頭にたって歩きました。

代表作には、読売文学賞を受賞した『定本野鳥記』(8巻)、日本エッセイスト賞受賞の『野鳥と生きる』など、著書は百数十冊にものぼります。自然の中で鳥を楽しむことを提唱したその考えには、少年時代から深めた「万物に命が宿る」という仏教の自然観があったのでしょう。いまの「日本の野鳥ブーム」は、この悟堂の行動からスタートしたといっても過言ではありません。


「12月11日にあった主なできごと」

1223年 運慶死去…国宝となっている東大寺南大門の「仁王像」などの仏像彫刻を残した、鎌倉時代初期に活躍した仏師・運慶が亡くなりました。
 
1485年 山城国一揆…日本最大の内乱といわれる応仁の乱(1467-77)の主な原因は、8代将軍足利義政に仕える守護大名畠山持国の実子義就(よしなり)と、養子政長の家督争いでした。この争いが、乱後も続いたため、この日住民たちは大規模な一揆をおこし、平等院に集合して、8年もの間、山城国の政治を自治的に運営しました。
 
1834年 岩崎弥太郎誕生…三井財閥と並ぶ財閥「三菱財閥」の基礎をつくった実業家の岩崎弥太郎が生まれました。
 
1843年 コッホ誕生…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが生まれました。
 
1950年 長岡半太郎死去…原子核の存在を予見したり、磁気にひずみあることの研究など、地球物理学、数理物理学の発展に貢献した物理学者の長岡半太郎が亡くなりました。

たまには、子どもたちに身近な科学のおもしろさを、お話ししてあげましょう。「おもしろ科学質問箱 35」

鼻の穴は、空気を身体の中にすいこむための入り口の役目をしています。空気の中には、ほこりやばい菌など、いろいろなゴミがまじっているので、なんでもそのまま吸いこんでしまうと、病気の原因にもなります。 そのため、空気を吸いこむときには、ゴミをできるだけ少なくしてから、肺に送りこまなくてはなりません。人間の身体はよくできていて、まず、鼻の中にあるたくさんの鼻毛が大きなゴミが入りこむのをふせぎ、鼻の中のしめった粘膜が小さなゴミやほこりをすいとることで、空気をきれいにしています。

ときには、この小さなゴミが鼻の粘膜にある神経(しんけい)を刺激することがあります。 くしゃみは、「鼻の粘膜にある神経が、粘膜についたゴミやのどについたゴミを、勢いよく吹きだす行動」で、人間の反射作用のひとつです。くしゃみは、かぜをひいたときのように、鼻の粘膜がはれて興奮しやすくなっていると、ちょっとした刺激でもおこります。また、コショウやトウガラシのような鼻の粘膜をしげきしやすい物が鼻にとびこんでくることが原因でおこったり、視神経が急に、明るい光に刺激されたときにもおこるようです。

大むかしから、くしゃみは特別な意味があると考えられてきました。古代ギリシア人やエジプト人は、未来のできごとを知らせるもの、危険を警告するもので、右にむかってくしゃみをすればよいことがおこり、左をむけば悪いことがおこるといわれていました。ローマ人は、くしゃみは悪霊をおいはらってくれると考えて、だれかがくしゃみをすると「悪霊追放・がんばれ」というようになったといわれています。16世紀にイタリアで疫病がはやったとき、ローマ法皇グレゴリオ13世は、お祈りをとなえるようにというおふれを出しました。欧米人が、くしゃみをした人に「ゴッド・ブレス・ユウ」(あなたに神のめぐみがありますように) という習慣は、このときからしっかり根づいたそうです。

なお、くしゃみのスピードは時速320km、新幹線並みの速さになるので、くしゃみがでそうになったら、手のひらやハンカチで口や鼻をふさぐようにしたいものです。


「12月10日にあった主なできごと」

1896年 ノーベル死去…ダイナマイトを発明したスウェーデンの化学技術者ノーベルが亡くなりました。「人間のためになると思って苦労して発明したものが、人々を不幸にしている」── そう気づいたノーベルは、死ぬ前に遺言を書きました。「財産をスウェーデン科学学士院に寄付するので、そのお金の利子を人類の平和と進歩のためにつくした人に賞として贈ってほしい」。こうしてノーベルの死後5年目の1901年から、遺志にしたがって「ノーベル賞」を贈ることがはじまり、命日であるこの日が授賞式となりました。なお、今年の日本人受賞者はありませんでしたが、昨年は、iPS細胞を作製し再生医療実現に道を開いた山中伸弥が、19人目のノーベル賞(医学生理学賞)を受賞しています。

今日12月9日は、江戸時代前期の儒学者・神道家で、幕末の志士たちに大きな影響を与えた山崎闇斎(やまざき あんさい)が、1619年に生まれた日です。

鍼(はり)医の子として京都に生まれた山崎闇斎(名=敬義、闇斎=号)は、幼いころから比叡山延暦寺の稚児となり、1632年に京都・妙心寺に移って僧となりました。1936年には実力を評価されて土佐国(高知)・吸江寺に移り、土佐南学派の谷時中から朱子学の手ほどきを受け、同門の野中兼山らと交わるうちに儒学者として身を立てたいと思うにいたりました。1642年、25歳で還俗(げんぞく=僧をすて一般人になる)すると儒学者となり、1655年38歳のとき京都に、野中から贈られた家で塾を開設しました。

1658年江戸に出ると、知人の家に身をよせながら門弟を育て、笠間藩主や大洲藩主らと交流するうち、1665年に会津藩主・保科正之に迎えられ、藩政への助言者となりました。正之は徳川3代将軍家光の異母兄弟で幕政にも強い発言力をもっており、闇斎とその門下を盛りたててくれたことは幸いでした。京都、江戸を半年ごとに行き来しながらその思想を広めました。

1671年に正之が亡くなったことで、闇斎は京都にもどり、やがて吉川惟足(これたり)の影響で、神道研究にも本格的に取り組むようになり、従来の神道と儒学を統合して、垂加神道(すいかしんとう)という独自の体系を生みだしました。

闇斎は1682年に亡くなりましたが、『垂加草全集』『文会筆録』など、たくさんの著書を残しました。朱子学を中心にした独自の儒学は「闇齋学」、その系統を「崎門(きもん)学派」といわれ、弟子たち崎門門人は、儒学系と神道系とあわせ6000人にものぼりました。

なお闇斎の思想は、崎門門人たちに受けつがれ、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたことはよく知られています。


「12月9日にあった主なできごと」

1860年 嘉納治五郎誕生…講道館柔道の創始者であり、日本のオリンピック初参加に尽力するなどスポーツの海外への道を開いた嘉納治五郎が生まれました。

1916年 夏目漱石死去…『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『草枕』などの小説で、森鴎外と並び近代日本文学界の巨星といわれる夏目漱石が亡くなりました。

1945年 農地改革…連合国軍総司令部(GHQ)は、占領政策として経済構造の民主化をはかりましたが、そのひとつが、この日指令された「農地改革に関する覚書」でした。1947年から49年の間に、全国260万町歩の小作地のうち200万町歩が自作農に解放され、地主制はほぼ壊滅することになりました。

今日12月6日は、戦前から軍国主義批判をくりひろげ、戦後は多くの反権力裁判やえん罪裁判にかかわった弁護士の正木(まさき)ひろしが、1975年に亡くなった日です。

1896年、現在の東京都墨田区に生まれた正木ひろしは、旧制八高(名古屋)、旧制七高(鹿児島)を経て、1920年に東京帝国大学法学部に入学しました。在学中から親の世話にならないようにと、特別な許可をえて千葉・佐倉中学や、長野・飯田中学の英語教員として勤務しながら大学を卒業すると、経済記者をへて、1927年に東京・麹町に弁護士事務所を開業しました。民事訴訟を中心に、仕事を順調にすすめました。

1937年に正木は、個人月刊誌「近きより」を発刊しました。当初は、仕事に関連する「法律問答」の記事など、雑文を掲載していましたが、1939年4月に1か月にわたる中国旅行中、日本軍将兵が中国人を抑圧する光景を目にしたことから、「近きより」の内容を転換し、戦争や軍部の横暴を批判するようになりました。そのため旅行記の号は発禁の対象となったのをはじめ、たび重なる廃刊要請にもこれを無視して、時の首相東条英機への厳しい批判など、日本の行く末を憂える論調をくりひろげました。

不法なことは絶対に許さない性格の正木は、1944年警察官が拷問して被疑者を死亡させた事件の弁護を引き受け、事実をたしかめるために死体を墓から掘り出して頭部を切断して持ちかえり、暴行の証拠をしめしたりしました。これは警察当局を弾劾した「首なし事件」として有名です (警察官は1955年に有罪確定)。「近きより」はほぼ月刊を維持して、1949年まで発行されました。雑誌への寄稿者には長谷川如是閑、内田百�閨A武者小路実篤らがいるほか、読後感想を寄せた購読者には坪田譲治、藤田嗣治、三木清、萩原朔太郎、宇垣一成、小林一三らの名があり、正木の交友関係の広さがわかります。

戦後の正木は、人権を守るための弁護活動を行い、無実にもかかわらず有罪の判決を受けているといわれた「三鷹事件」や「八海(やかい)事件」「観音堂事件」「菅生事件」など、えん罪事件の弁護を担当し、反権力派弁護士として幅広い活動を続けました。とくに、1951年に山口県でおきた殺人事件「八海事件」に関しては、第一次控訴審判決後から被告人らの無罪が確定した第三次上告審までを詳細につづった『裁判官』を1953年に著しました。この本はベストセラーになり、1956年に『真昼の暗黒』(今井正監督・橋本忍脚本)のタイトルで映画化されたばかりか、この作品は、「キネマ旬報」日本映画監督賞・ベストテン第1位、「毎日映画コンクール」日本映画賞・脚本賞、「ブルーリボン賞」作品賞・脚本賞・ベストテン第1位など、1956年の映画賞を総ナメにしています。

1955年の「丸正事件」では、上告審から弁護を担当しましたが、1960年の最高裁判所による有罪確定直後に、判決確定者以外の者を真犯人であると名ざしする『告発 犯人は別にいる』を共著で出版しました。これによって、翌年に名誉毀損罪で起訴された正木は、同刑事裁判で一審、控訴審とも有罪判決を受け、その上告中に亡くなってしまいました。


「12月6日にあった主なできごと」

1700年 徳川光圀死去…徳川家康の孫で、「水戸黄門」の名でしたしまれた第2代水戸藩主の徳川光圀が亡くなりました。

1839年 水野忠邦の老中就任…浜松藩主だった水野忠邦が老中筆頭となりました。11代将軍家斉が亡くなると、忠邦は幕政改革「天保の改革」を行ないました。側近たちを退け、商業を独占する「株仲間」の解散、ぜいたくの禁止など、あまりに厳しい改革に民心は離れ、成功とはほど遠いものに終わりました。

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