児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年12月

今日12月19日は、デンマーク出身でロシアの航海士として2回カムチャツカ探検をし、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを確認したベーリングが、 1741年に亡くなった日です。

1681年、デンマークのホーヘンスに生まれたビトゥス・ヨナセン・ベーリングは、1703年にアムステルダムの学校を卒業し、東インドへの旅の後、1704年にピョートル大帝率いるロシア海軍の将校となりました。スウェーデンと反スウェーデン同盟(ロシア・ポーランド・プロイセン・デンマーク他)がバルト海の覇権をめぐって争った「北方戦争」やオスマン帝国との戦いでも手柄をたて、大帝から大きな信頼をよせられるようになりました。

1725年1月にピョートル大帝より、アジアと北米大陸がつながっているかどうかの調査を命ぜられました。ベーリングは、隊長としてカムチャツカ・オホーツクへの探険隊を率いてペテルブルクを出発、陸路でシベリアを横断した後、1727年1月にオホーツクに到着しました。そこで冬を越した後、カムチャツカ半島に渡り、1728年夏までに船を建造して、半島東岸から北に向けて出発し、カラギン湾、カラギン島、クレスタ湾、アナディル湾などを発見、船はそのまま北上し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸とのあいだの海峡とは知らずに通過してチュクト海に入り、北緯67度18分まで達して引き上げました。そのため、海峡問題は未解決のままでした。1729年、一行はカムチャツカ半島の南部を回り、オホーツクを経由して、1730年夏、ベーリングは重い病気におかされながらも、ペテルブルクに帰還したのでした。

1733年ベーリングは、海峡問題の解決と、北米大陸北部沿岸の調査、千島列島の地図の作成と日本への海路の探索の任務を受けて、第2次カムチャツカ探検隊長に任命されました。1734年、トボリスクからヤクーツクへ、探検準備のため、ヤクーツクに3年間留まった後の1740年秋、オホーツクより、2隻の船に乗ってカムチャツカ半島東岸に向かい、翌年アラスカ南岸に到達し、海峡の存在を確認しました。この海峡は彼の名にちなんで「ベーリング海峡」と名づけられ、発見されたのは前回知らずに通過した1728年とされています。

帰路、アリューシャン列島の一部の島々を発見しましたが、嵐にあって無人島に漂着して冬を越しましたが、ベーリングはこの日壊血病で命を落としました。このときの様子は、探検に加わっていたドイツ人の医師であり博物学者のシュテラーが記録に残し、後に、この島はベーリング島と名づけられています。


「12月19日にあった主なできごと」

1614年 大坂冬の陣の和約…徳川家康は豊臣家を滅ぼそうと20万もの大兵で大坂城を取り囲みましたが、短期間で滅ぼすことはできないと和平を持ちかけました。その後、約束の外堀ばかりか内堀までうずめて本丸だけにし、半年後の「大坂夏の陣」で滅ぼしました。

1751年 大岡忠相死去…「大岡政談」の越前守として有名な大岡忠相が亡くなりました。ただし、名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談や演劇、落語などで広く知られるようになりました。

今日12月18日は、江戸時代初期に、高遠藩主、山形藩主を経て、会津藩初代藩主となり、幕府政治の中心をになった保科正之(ほしな まさゆき)が、1672年に亡くなった日です。

1611年、第2代将軍徳川秀忠の3男、3代将軍家光の異母兄弟として生まれた保科正之(幼名・幸松)は、1617年7歳のとき、旧武田氏家臣で信濃の高遠藩主・保科正光の養子として育てられました。1631年、正光に指名されて高遠藩3万石の藩主となり、肥後守を任されました。

長兄の家光が、正之の存在を知ったのはそのころのことで、ある日家光がお忍びで、5人ほどの供を連れて目黒の寺で休憩していた時、そこの僧侶から「肥後守殿は今の将軍家の弟君である」と聞かされてからでした。家光が、有能で謹しみぶかい正之をことのほかかわいがったことで、正之は、1636年に山形藩20万石、1643年には会津藩23万石の藩主となりました。

藩政においては、家臣団を編成して新田開発や倹約につとめ、ウルシ栽培などの産業をおこすなど、農政にすぐれた手腕を発揮しました。また、自ら会津の基本方針を定めた「社倉は民のためにこれをおく、永利のためのものなり。歳餓えればすなわち発出してこれを救うべし。これを他用すべからず」など15条からなる『会津家訓』を著しました。

正之の定めた制度は厳密で、領内の松・ケヤキ・モミなどはすべて藩の用木とし、農家の屋敷内にある木でも、それを伐採するときは願書を提出させ、その価を上納させたうえで、許可を与えていました。とくにウルシの木への監督は厳しく、すべての木に番号をつけ、秋ごとに検使をだして、ウルシ実を計量させるという徹底ぶりでした。会津の地が山間にありながら、四民が力をあわせ、百工が興り、下民も困窮することがなかったのは、この家訓がひきつがれたからでしょう。正之の子孫の会津・松平家が幕末まで会津藩主を務めました。

1651年家光は、死に臨んで枕もとに「賢君」といわれるようになった正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」といい残しました。これに感銘した正之は、第4代将軍家綱の補佐役となり、大老職について幕政に重きをなし、武家諸法度を改訂して「殉死」(主君が死んだとき、家来があとを追って自害すること)を禁止するなど、さまざまな政策にかかわり、1669年、長男の正経に家督を譲って引退しました。朱子学を学び、神道を修めた正之の著書には、『心録』『玉講付録』などがあります。


「12月18日にあった主なできごと」

1779年 平賀源内死去…江戸中期の蘭学者、博物学者で、エレキテルの製作や燃えない布の発明、小説や戯作家としても活躍した平賀源内が亡くなりました。

1891年 足尾鉱毒告発…田中正造はこの日の議会で、足尾鉱山の選鉱カスによる鉱毒、山林の乱伐、煙害や排水により、渡良瀬川の洪水と結びついて、沿岸一体の農地を荒廃させた「足尾鉱毒問題」をとりあげて、事態の重大性を訴え、銅山の即時営業停止と農民の救済を政府にせまりました。

1914年 東京駅開業…新橋─横浜間にわが国はじめての鉄道が敷かれて以来、東京では新橋が始発駅でしたが、この日東京駅の開場式が行なわれ、東海道本線と電車駅の始発駅は、東京駅となりました。

1956年 国際連合に加盟…国際連合の総会が開かれ、満場一致で日本の国連加盟を承認し、80番目の加盟国になりました。1933年に国際連盟を脱退してから23年目にして、ようやく国際社会に復帰しました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 107]
 
むかし、あるところに、右のほほに大きなコブのあるおじいさんがいました。動いたり歩いたりすると、ブラブラするので、とても困っていました。

ある日、おじいさんが山で芝を刈っていましたが、日がくれかかってきたので帰ろうしました、すると、空が急にくもってきて、ポツリポツリと雨がふりだしたかと思うと、たちまち大雨になりました。おじいさんは、あわてて、近くにあったほら穴へ逃げこみました。けれども、雨はますます強くなるばかりです。「弱ったなぁ、早くやんでくれないと、日が暮れて、家にもどれなくなってしまう」。やがて真っ暗闇になり、おじいさんは、おそろしくて、耳をおさえてしゃがんだまま、穴の中にじっとしていました。

ま夜中ころになって、やっと雲がはれて、雨がやみました。あたりはシーンとして、なんの音もしません。おじいさんは、心細くてたまりませんでした。そのうち、月が出てきたので、月明かりで山をおりようと考えました。

そのときです。なにやら、ぞろぞろ人が歩いてくるようです。「やれやれ、人がくるようだ。連れができたらありがたい」と、おじいさんが穴からでてみると、人ではなく、こわそうな鬼たちでした。赤鬼、青鬼、一つ目鬼、角のない鬼もいます。おじいさんは、びっくりして、また穴の中にもぐりこみました。鬼たちは、穴の前にくると、火をたきはじめ、たき火のまわりにあぐらをかくと、酒盛りをはじめました。「これはたいへんだ。見つかったらどうしよう」おじいさんは、穴の中で、ブルブルふるえていました。

そのうち、よっぱらった鬼たちが歌いだし、太鼓や笛にあわせて、おどりをはじめました。笑ったり、手をたたいたり、大さわぎです。そのうち、鬼の親分が「なかなか面白い。だが今夜は、だれか、めずらしい踊りをみせてくれないか」といいました。おじいさんは、おどりが大好きでしたから、このとき、出ていこうかと思いました。でも、鬼がこわそうなので、ぐずぐずしていました。「早く、出てこい。一人ぐらいうまい奴がいるだろう」という親分の声に、おじいさんは、もうこわいのを忘れて、飛び出しました。

ほっぺたに大きなコブをつけ、水ばなをたらしながら、♪ スタコラスタコラ スッテンテン ピーヒャラヒャーのスットントン……

大声で歌いながら、伸びたり、かがんだり、手をひろげたり、足をあげたり、グルグルグルとおどりまわります。鬼たちは、「やぁ、人間のじじいだ」「これはめずらしい」「うまいぞ、うまいぞ」といいながら、おじいさんのまわりをおどりはじめ、親分まで楽しそうに加わりました。笛や太鼓の音がいちだんと高くなります。

そのうち、空が明るくなると、鬼たちは急に静かになりました。鬼の親分が、「こんなおもしろいおどりは、はじめてみた。どうか、明日の夜も来てくれないか」「わたしのおどりが気に入ってくれましたか。それでは、またまいりましょう」「きっとくるか」「はい、きっとまいります」「じじいは、ああはいっても、こないかもしれません」「そうだな、よし、このじじいのほっぺたのコブをあずかることにしよう。コブはじじいの宝物にちがいない」というが早いか、いきなりおじいさんのコブをひきちぎりました。ふしぎなことに、コブをとられたのに、少しも痛くありません。

遠くのほうで、コケコッコーとニワトリの鳴き声がきこえると、鬼たちはビックリして、消えて見えなくなりました。、

「ああ、じゃまっけなコブがなくなってありがたい。夢のようだ」家にもどったおじいさんから、鬼の話を聞いて、おばあさんは、「ほんとうによかったですね」と、大喜びでした。

このおじいさんのおとなりに、左のほほに大きなコブのあるおじいさんがいました。やはり、動いたり歩いたりすると、ブラブラするので、とても困っていました。となりのおじいさんが、コブがなくなったといううわさを聞いてやってきました。「鬼にコブをとってもらったって、ほんとうかい?」「ほんとうだとも」「わしも、とってもらいたいものだ。じいさん、鬼のところにいく道を教えてくれないか」「おやすいご用だ」

こうして、となりのおじいさんは、山奥の穴の中にはいり、夜のふけるのを待ちました。ま夜中になると、昨夜の鬼たちが出てきて、酒盛りをはじめ、ワイワイ騒ぎだしました。鬼たちは「ゆうべのじじいは、まだ来ないか」「もう、来てもいい時分だがなぁ」鬼の親分は「じじい、じじい。出てこい」と呼びました。となりのおじいさんは、あんまりこわそうなので、穴から顔だけだして、もじもじしていました。そのうち鬼たちは、おじいさんを見つけて「ああ、そこにいる。早く出てこい。おどりだ、おどりだ」おじいさんは、しかたなく穴から出て、いきなりおどり出ましたが、こっちのおじいさんは、おどりがとってもヘタでした。手をふりながら、あっちへひょろひょろ、こっちへひょろひょろ。

すると、鬼の親分がどなりだしました。「なんだ、このへたなおどりは。きのうはあんなにおもしろかったのに。おい、じじい、コブなんか返すから、とっとと消えてしまえ」と、ふところからコブをとりだすと、ポンと右のほほに投げつけました。おとなりのおじいさんは、あっと驚きましたが、もうしかたがありません。両手で二つのコブをおさえ、泣きながら山をおりたのでした。


「12月17日にあった主なできごと」

1772年 ベートーベン誕生…『交響曲第5番』(運命)『交響曲第9番』(合唱)などの交響曲、『月光』『悲愴』などのピアノ曲のほか、管弦楽曲、歌劇、声楽曲など各方面にわたる作品を遺した、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人であるドイツの作曲家ベートーベンが生まれました。

1903年 世界初飛行…アメリカのライト兄弟は、動力をつけた飛行機で、人類ではじめて空を飛びました。

1945年 女性に参政権…衆議院議員の選挙法改正案が公布され、女性が参政権を獲得しました。翌年4月10日に行なわれた総選挙では、82名の女性立候補者のうち39名が当選をはたしました。

今日12月16日は、江戸時代後期の農学者で、農業に役立つたくさんの著書を残した大蔵永常(おおくら ながつね)が、1861年に亡くなった日です。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の3大農学者の一人とされています。

1768年、豊後国日田(現・大分県日田市)の農家の子に生まれた大蔵永常 (通称・亀太夫)は、祖父や父から綿の栽培、蝋(ろう)の原料となるハゼ栽培・加工の技術を学びました。少年時代から好奇心が強く、地元の寺子屋に通って学問を志すものの、実践のともなわない儒学にあきたらず、実社会の益になる学問を求めるようになりました。

20歳前後に全国的にひん発した大飢饉がきっかけとなって、23歳のころに家を出ると九州諸国で労働につき、貧窮に苦しみながらも、製糖や製紙などの栽培・加工技術を身につけました。また、農具や農業技術への関心を深め、長いあいだ農業にたずさわってきた各地の老人をたずねてメモをとり、ときには自ら栽培・製造をこころみたりしました。

1796年29歳の時、長崎より大坂に渡り、苗木商を営むかたわら、ハゼノキの栽培法と製蝋技術を解説した初めての著書『農家益』を刊行しました。これをきっかけに、シナノキの樹皮から繊維を取って縄や布を織るための方法を記した『老農茶話』、あらゆる種類の農具を各部分の寸法・重量も含めて詳細に図解した『農具便利論』などを次々と出版していくうち交友が豊かになって、畿内地区はもちろん、北陸・中国地方をめぐり、1810年には江戸にもおもむいています。

1825年に再び江戸へ出た永常は、水戸藩の農政家と交わるうち藩主水戸斉昭に財政改革の意見を上申したり、たくさんの著書を関東農民のために書き直して出版しました。とくに『除蝗録』は、イナゴの害に苦しむ農民のために鯨油を水田に流す方法を教え、菜種の栽培と油のしぼり方を解説した『油菜録』は好評をえました。

1834年には田原藩江戸家老の渡辺崋山の推せんにより、田原藩(愛知県・渥美)に興産方という農業指導者の役職につき、田原に移住して藩内の農業を一新しましたが、1839年の「蛮社の獄」で渡辺がちっきょとなったことで田原を去りました。

1841年に永常は、老中水野忠邦に登用され、浜松藩の興産方となったものの、藩の所替えにあって江戸にもどってからの消息はよくわかっていません。しかし、1859年に刊行を終えた、永常農学を集大成した『広益国産考』(8巻)が残りました。ハゼノキ・綿・サトウキビなど、農民の収入に有利な60種類の品目をとりあげてやさしく解説したもので、農業経営のありかたまでも記しています。「民富は国富に直結する」という考え、儒教道徳を否定する理論は注目にあたいすると、今なお評価されています。


「12月16日にあった主なできごと」

1773年 ボストン茶会事件…この日の夜、インディアンに変装したボストン市民が、港内に停泊中のイギリス東インド会社の船に侵入。342箱の茶を海に投げ捨てました。この事件がキッカケとなって、イギリス本国と植民地の関係が急速に悪化、1年4か月後にアメリカ独立戦争が勃発しました。
 
1859年 グリム弟死去…兄弟で力をあわせ、ドイツに伝わる民話を集大成したグリム兄弟の弟ウィルヘルムが亡くなりました。

1864年 奇兵隊の挙兵…11月の第1回長州征伐に敗れた長州藩でしたが、高杉晋作の率いる足軽・百姓・町人の有志で組織された「奇兵隊」がこの日挙兵して、藩の主導権を握りました。

今日12月13日は、玉川学園の創立者として国際的に知られる教育家の小原国芳(おばら くによし)が、1977年に亡くなった日です。

1887年、現在の鹿児島県南さつま市に生まれた小原国芳は、鹿児島師範学校や広島高等師範学校を卒業し、1913年に香川師範学校の教師となりました。真の教育をめざす小原は、1915年に29歳で京都帝国大哲学科に入学し、1918年に卒業しましたが、卒業論文「宗教による教育の救済」は、原稿用紙1500枚におよぶ長大なもので、後に『教育の根本問題としての宗教』として出版されています。教育にかける小原の意気ごみがあらわれていて、興味深いものがあります。

卒業後は、広島高等師範付属小学校の教師となりましたが、1919年、文部次官や東北・京都帝国大学を歴任した沢柳政太郎が「成城学園」をつくるにあたり、まねかれて上京、成城小学校主事として赴任、1926年には成城高校校長となりました。その間、同学園の経営に尽力するいっぽう、成城学園前駅を招いて宅地開発を行い、その利益で学校を建設するという手法で、成城学園を拡大させました。

1929年には、小原の理想とする教育を実現したいと、まだ開発がすすんでいない南多摩地方に「玉川学園」を創設しました。冷静な理知、豊かな感性、広い心を持つ調和のとれた人格形成をめざす「全人教育」の理念のもとに、作業を大事にする労作教育・宗教教育・個性尊重・効率高い学習・自学自立・師弟同行・自然尊重などから国際教育にいたるまで、12の教育信条をかかげて出発しました。

当初は、成城学園と並行しながら進めるもののかなわず、1933年以降は玉川学園のしごとに専念し、同校を維持するため「玉川学園前駅」を招いて土地分譲を行うなど、経営の才能も発揮しました。また、イギリスの「児童百科辞典」を参考に、日本に本格的な百科辞典をつくろうと学園内に出版部をもうけ、日本で初めての『玉川児童百科大辞典』(30巻)を刊行しました。この百科辞典は、戦後も、さまざまな悪条件のなか2回目の『玉川児童百科大辞典』(30巻)を出し、再建日本をになう小中高生たちの勉学の支えとしました。さらに『玉川こども百科』(100巻)、より内容を充実させた『玉川児童百科大辞典』(32巻)などを刊行して、小学生から大学生・一般にまで、その幅を拡げていきました。そして、入試教育のひずみをなくすために、幼稚園・小学部・中学部・高等部・大学・大学院をそろえた大規模な総合学園に成長させ、海外への学生・生徒の芸術団を派遣するなど、国際的な幅広い活動を行いました。

日本の代表的自由主義教育を推し進め、国際的にも注目をあびる総合学園を創り上げた小原は、90歳で亡くなる数か月前まで、点滴を受けながらも大講義室の壇上で熱弁を奮い、まさに教育にささげた一生でした。ぼう大な量の著作は『小原国芳全集』(48巻)や『小原国芳選集』(6巻)にまとめられています。


「12月13日にあった主なできごと」

1797年 ハイネ誕生…『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表し「愛と革命の詩人」といわれたドイツの文学者ハイネが生まれました。

1901年 中江兆民死去…フランス革命の精神的導きをしたことで名高いルソーらに学び、自由民権思想を広めた明治期の思想家の中江兆民が亡くなりました。

1937年 南京大虐殺…同年7月、北京郊外の盧溝橋近くで日中両軍が衝突(盧溝橋事件)して全面戦争になっていましたが、日本軍は当時の中国の首都南京を占領し、軍人ばかりでなく、女性や子どもを含むたくさんの市民を殺しました。この日の犠牲者は、中国側の発表では30数万人、日本の研究でも3万人以上とされていますが、いまだに真相はわかっていません。

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