児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年12月

「おもしろ古典落語」137回目は、『御慶(ぎょけい)』というお笑いの前半(年末編)をお楽しみください。

江戸っ子のあいだに富くじという、宝くじのようなのが流行った時代がありました。一攫(いっかく)千金をねらう欲の皮のつっぱった町人も多く、夫婦げんかの絶えない家もずいぶんありました。長屋の八五郎夫婦もそんな家のひとつでして……。

「どうするんだい、おまえさん。暮れの28日だというのに、仕事もしないでぶらぶらして、やれ、ゆうべこんな夢をみたからどうだとか、のんきなこといわないでおくれよ」
「なにいってやがる。仕事をしねぇったって、富というのは、ひとつ当たりゃ一夜のうちに大金持ちになるんだぞ。さっきもいった通り、おれはいい夢を見たんだ。こんどはまちがいなく当たる。だから、一分だけ都合つけてくれよ」
「なにいってんだよ。一文だって都合できるもんかね。そんなに富がよかったら、富と夫婦になったらいい。あたしを離縁しとくれ!」
「くだらねぇこというな。なぁ、なんとかしてくれよ」
「だめだよ」
「じゃ、こうしよう。おまえの半てんをぬげ。質屋の番頭に談じこんで、一分こしらえるから」
「こんなもんで一分なんて大金貸すもんか」
「貸すよ、おれが借りてみせらぁ」
「いやだよ、これを持っていかれちゃ、正月に着ていくものがないじゃないか」
「いいから脱げ。脱がねぇと張り倒すぞ」

いやがるかみさんの半てんをむりやりひっぱがすと、質屋の番頭をおがみ倒して、千両富のくじ代をこしらえると、湯島天神の札場へ飛んでまいりました。
「おっ、すまねぇ、1枚もらいてぇんだ」
「いらっしゃいまし。番号にお好みでも……」
「大ありよ。いい夢を見ちゃったんだ。鶴がはしごのてっぺんにとまってんだ。だからよ、鶴は千年てぇから、鶴の千で、はしごだから八四五。だから、鶴の千八百四十五番、こいつをもらいてぇんだ」
「ちょっとお待ちください、あるかどうか…いま調べますから。いやこりゃ、うっかりしておりました。ただいま、その番号を買ってお帰りになった方がございます」
「おいおい、よしてくれよ、それが千両になるんじゃねぇか。すまねぇけど、おんなじ番号をもう一枚、こしらえてくれ」
「そういうことはできません」
「だめかね、じゃいらねぇや。ちくしょうめ、一足ちげぇか。運のねぇのはしょうのねぇもんだ。ああ、死にたくなったな、川へ飛びこんで。……でも、この寒さじゃ、冷てぇだろうな。首をくくるんじゃ、ざまぁ悪いし、ああ、なさけねぇ……」

「ちょいと、そこへ行くかた、どうだな、ひとつ見てしんぜようか。なにか心配事があるようじゃな」
「えっ、なんだい、易の先生かい。せっかくだから、見てもらおうか」
「なにを見るかな、縁談、金談、失せもの、人さがし……」
「そんなもんじゃない。おれはね、じつはいい夢を見たんだ」
「ああ、夢判断か。それは、わしの得意とするところだ」
「じつはね、鶴がはしごのてっぺんにとまってんだ。だからよ、鶴は千年てぇから、鶴の千で、はしごだから八四五。だから、鶴の千八百四十五番買えば、千両富に当たると思うだろ、なぁ先生」
「なんだ、富にこっていなさるのか。しかし、富なんてものは、当たるもんじゃない。あんなものはやめなさい」
「なにをいってやんでぇ、この野郎。おらぁ、一足ちげぇで、その番号を買われっちまったんだ」
「よほど思いつめておるな。よろしい、ではみて進ぜよう。鶴は千年で、はしごが八百四十五と考えたのだな、それは素人の考えそうなことじゃ」
「なんだ? 素人も玄人もあるか」
「じゃ、おまえさんに聞くが、はしごというものは、のぼるのに必要なものか、おりるのに必要なものか、ご存じかな」
「ありゃ、のぼったりおりたりするもんだ」
「そうじゃが、おりるより、のぼるほうに必要なもの。八百四十五とおりてくるより、五百四十八とのぼるのが本当だ。鶴の千五百四十八番、これを買わなきゃあたらないよ」
「なるほどな、やっぱり商売だ、うめぇことをいう。ありがとうよ」
「これこれ、見料をおいていきな」
「冗談じゃねぇ、ここで見料おいた日にゃ、札が買えねぇ。当たったらおめぇに、いくらでもけぇしてやらぁ、ありがとよ」

運よく、鶴の千五百四十八番が買えた八五郎、札をふところに、境内に入ってくると、もういっぱいの人だかりです。欲の張った連中ばかりですから、うるさいのなんの。いよいよ、富の箱の中を長いキリを持った小坊主が出てきて「突きまーす」と叫ぶと、場内はしーんと静まります。さぁ、この番号を聞きもらさないようにと、せきばらいひとつありません。そこに、子どものかん高い声がして、当たりくじの読み上げがはじまります。

「つるのおぅ、せん、ごひゃくぅ、よんじゅう、はちばぁん……」
「ああ、あー、あ、あたあたあたたた……」
八五郎、腰をぬかして気絶寸前におちいりますが、まわりの人たちに助けられて意識をとりもどします。当たりは千両でも、すぐ受け取ると二百両差しひかれると説明されますが、来年までなんぞ待ってられるかと、八百両受け取った八五郎、飛ぶように長屋へご帰宅。富が当たったと聞いたかみさんも卒倒。
「だからあたしゃ、おまえさんに富をお買いっていった」
「うそつきゃあがれ、こんちくしょー」

さあ、それから大変な騒ぎです。正月の年始回り用に、着たこともない紋つきのかみしもと脇差しを買いこむやら、大家にたまった家賃と十年分の前払いだといって十五両たたきつけるやら。酒屋が来て、餠屋が来て、まだ暮れの二十八日だというのに、一足先にこの世の春のようです……。


「12月27日にあった主なできごと」

1571年 ケプラー誕生…惑星の軌道と運動に関する「ケプラーの法則」を発見したケプラーが生まれました。

1780年 頼山陽誕生…源平時代から徳川にいたる武家700年の歴史を綴った 「日本外史」 を著した学者・歴史家で、詩人・書家としても活躍した頼山陽が生まれました。

1822年 パスツール誕生…フランスの細菌学者・化学者で、狂犬病ワクチンを初めて人体に接種したことなどの業績により「近代細菌学の開祖」といわれるパスツールが生まれました。



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本年のご愛読をありがとうございました。
新年は6日からスタートする予定です。
皆さま、よいお年を !

今日12月26日は、第33代アメリカ合衆国大統領で、日本へ原子爆弾を投下して第2次世界大戦を終結させ、戦後は冷戦外交をおこなったトルーマンが、1972年に亡くなった日です。

1884年、ミズーリ州ラマーの農家に生まれたハリー・トルーマンは、6歳の時ミズーリ州インディペンデンスに移り住み地元の高校を卒業、カンザスシティ州の銀行や新聞社の事務をしながら夜間の法律学校へ通い、1906年に父親のあとをついで農業にたずさわりました。第1次世界大戦にアメリカが参戦すると、州兵としてフランスにわたり、大尉として砲兵部隊を終戦まで指揮しました。

退役後は、カンザスシティ州ジャクソン郡の裁判官となって地方政界につながりをもつと、1934年50歳で、ミズーリ州の民主党上院議員に初当選をはたしました。ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持し、1940年に再選をはたすと、1941年には軍事費の不正使用に関して調査報告を行う「トルーマン委員会」が設立され、同委員会は軍事契約にからむ150億ドルものむだづかいや汚職をあばいて、トルーマンは全米に知名度をあげました。

1944年ルーズベルトが4度目の大統領になったとき、トルーマンは副大統領に選出され、ルーズベルトが1945年4月に急死すると、大統領に昇格しました。そして、ドイツの降伏後の7月17日から8月2日まで開かれた英国のチャーチル、ソ連のスターリンとの3巨頭会談である「ポツダム会談」に出席していたとき、原子爆弾の完成を知り、戦後の覇権争いでソ連より優位に立とうと、日本への原爆投下を決定しました。広島・長崎への原爆投下が、日本が「ポツダム宣言」を受け入れ、無条件降伏の要因とはなりました。しかし、トルーマン自身は生涯にわたり原爆投下を正当化し、アメリカでは「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」と、いまだに評価されているのは、いかがなものでしょうか。

第2次世界大戦の終結と、戦後処理に指導的な役割を演じたトルーマンは、ソ連との対決姿勢を強めました。1947年には、共産主義の圧迫を受ける国々を援助する「トルーマン・ドクトリン」という外交方針を発表、ギリシャやトルコに軍事・経済援助を行ったり、ヨーロッパ復興計画「マーシャル・プラン」を発表して、共産諸国の封じこめをおこない、1949年には「NATO」(北大西洋条約機構)を結成しました。これらの方針は、「冷戦の合図」といわれています。1950年に朝鮮戦争がおこると、韓国援助のためにアメリカ軍を送りこみました。この戦争に、原爆を使用すべきと主張するマッカーサーを解任させたのは、日本に原爆を投下した罪ほろぼしではないかといわれています。

1952年にトルーマンは政界を引退しましたが、1951年に日本との講和条約(サンフランシスコ平和条約)を結んだほか、任期中に国際連合の創設や、国防総省、中央情報局(CIA)などの政府機構の改革を行い、公民権擁護の姿勢を一貫してしめすなど、戦後におけるアメリカの内外政策の基礎を築きました。

引退後は20年も余生をおくり、カンザスシティで88年の生涯を閉じました。


「12月26日にあった主なできごと」

1542年 徳川家康誕生…応仁の乱以降100年以上も続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を、さらに磐石なものとする江戸幕府を開いた徳川家康が生まれました。

1758年 松平定信誕生…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」を行った松平定信が生まれました。

1888年 菊池寛誕生…『屋上の狂人』『父帰る』『恩讐の彼方に』などを著した作家で、文芸春秋社を創業し、芥川賞・直木賞をを創設した菊池寛が誕生しました。

1890年 シュリーマン死去…ホメロスが紀元前800年ころに書いたといわれる 「イリアス」 「オデュッセイア」 に出てくる伝説の都市トロヤが、実在することを発掘によって証明したドイツの考古学者で実業家のシュリーマンが亡くなりました。

今日12月25日は、明治天皇の父で、幕末の混乱期に攘夷を主張し、公武合体の道をつらぬいた孝明天皇(こうめいてんのう)が、1866年に亡くなった日です。

1831年、仁孝天皇の第4皇子として生まれた孝明天皇(幼名・煕[ひろの]宮は、1846年に父の死去にともなって16歳で即位すると、海防を厳重にせよと幕府に指示し、以後一貫して攘夷(外国人おいはらい)を主張しました。また、学問好きな性格の持ち主で、父の遺志を継いで京都御所の東側に公家の学問所である「学習院」を創設しました。

1853年、日本はペリー来航という大きな転機を迎えて幕末の動乱が始まると、天皇は政治への積極的な関与を強めはじめました。

1858年に大老の井伊直弼が「日米通商条約」の調印にふみきるや、退位の意思をあらわして激しく反対をとなえたばかりか、徳川御三家のひとつの水戸藩などへ、攘夷決行への密勅を行いました。この行動に井伊を「安政の大獄」にむかわせたといわれています。

1860年3月「桜田門外の変」で井伊が暗殺され、その後の幕府が公武合体路線をとりはじめ、孝明天皇の異母妹である和宮を、第14代将軍・徳川家茂に降嫁させる話をもちかけられました。天皇は幕府に「近い将来に攘夷を実行する」という誓約をとってこれを許可しました。 これ以後、公武合体に反対する急進的な尊王攘夷運動がひろがりをみせ、長州藩士をはじめとする尊攘派の志士たちは京都に参集し、これに賛同する公家と結んで朝廷を動かそうとしました。

こんな動きに天皇は、1863年3月に攘夷を勅命し、これを受けて下関戦争や薩英戦争など攘夷運動が勃発しました。しかし、幕府を倒そうとする過激な攘夷運動には嫌悪の念を示し、京都守護職の会津藩主松平容保や中川宮と手を結んで、急進派の志士や公家を京都から追放(八月十八日の政変)しました。 こうして、公武合体派が幕政の実権をにぎりましたが、1865年、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて通商条約の認可を天皇に要求、天皇も事態の深刻さをさとって条約を認可しました。

これにより、倒幕運動は激しさをまし、岩倉具視ら二十二卿が天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める事件が発生するなか、天皇は在位21年にして急死したのでした。この死は、病死とされていますが、倒幕派にうらまれて毒殺されたといううわさが流れ、真相はいまだに不明です。

 

「12月25日にあった主なできごと」

800年 カール大帝即位…カール大帝 (シャルルマーニュ)は、この日聖ピエトロ寺院で、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。大帝は、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成、フランク王国は最盛期を迎えました。

1642年 ニュートン誕生…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが生まれました。

1897年 赤痢菌の発見…細菌学者志賀潔は、この日赤痢菌の病原菌を発見したことを「細菌学雑誌」に日本語で発表しました。しかし、当時の学会はこれを承認しなかったため、翌年要約論文をドイツ語で発表、この論文で世界的に認められることになりました。

1926年 大正天皇死去…1921年には当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任していましたが、この日大正天皇が亡くなり、裕仁親王が天皇の位を受けついで「昭和」となりました。

1928年 小山内薫死去…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が亡くなりました。

1977年 チャップリン死去…イギリスに生まれ、アメリカで映画俳優・監督・脚本家・プロデューサーとして活躍したチャップリンが亡くなりました。

今日12月24日は、大学在学中に代表作『滝口入道』を著し、作家・文芸評論家・思想家として明治期の論壇で活躍した高山樗牛(たかやま ちょぎゅう) が、1902年に亡くなった日です。

1871年、山形県・鶴岡に生まれた高山樗牛(本名・林次郎 樗牛=号)は、幼いころにおじの養子になり、その転任にともなって各地を転々としました。東京英語学校、仙台の旧制第二高校をへて、1893年東京帝国大哲学科に入学しました。 2年在学中に「読売新聞」の懸賞小説に応募し、『平家物語』から題材を取った『滝口入道』が1等に入選をはたして同新聞誌上に掲載されました。滝口入道時頼と横笛の悲恋物語を美文調でえがいた小説は話題をよび、1895年に単行本となってベストセラーとなりました。

その後、同級生や先輩たちと雑誌『帝国文学』を発刊、誌上に文芸評論を発表しましたが、『滝口入道』以降は小説を発表していません。 1896年に大学を卒業後、旧第二高校の教授になりましたが、校長排斥運動をきっかけに翌1897年に辞任、明治期の代表的な総合月刊誌『太陽』の編集主幹になりました。

ちょうどそのころの日本は、日清戦争後の下関条約で日本に割譲されることになった遼東半島を、フランス、ドイツ、ロシアの三国が清に返還することを求める「三国干渉」の時期にあったため、国粋主義的な気運が盛り上がっていました。樗牛は、『太陽』誌上に日本古来の伝統を重んじ、国粋主義的な「日本主義」を唱える評論を多く書き、内村鑑三らのキリスト教を攻撃しました。いっぽう、『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いて、森鴎外と論争をおこなっています。

1900年、文部省から美学研究のため海外留学を命じられた樗牛は、帰国後に京都帝大教授が内定していました。ところが洋行の送別会後に喀血したために、留学を辞退し、病中で『文明批評家としての文学者』を書いて、ドイツ哲学者ニーチェの個人主義思想を紹介しました。

1901年には東大の講師となって、日本美術を講じながら『美的生活を論ず』を著し、美の本質は本能の満足にあると論じる主張は、坪内逍遥や島村抱月と大論争を展開することになりました。やがて、日蓮研究を進めているうち、日蓮宗を信仰するようになります。

1902年、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されましたが、病状が悪化して32歳の若さで生涯を閉じました。日本や中国の古典に造詣が深く、欧米の思想にも通じ、文豪と呼ばれて多くの人々をひきつけましたが、日本主義、ロマン主義、ニーチェ主義、日蓮主義など、主張の変遷が激しかったことに、今では疑問がもたれています。しかし、個人主義による自我の発揮による論調は、ロマン主義の気運を燃え上がらせ、石川啄木らに大きな影響を与えたことは、高く評価されています。 なお、オンライン図書館「青空文庫」では、樗牛の代表作『滝口入道』『美的生活を論ず』ほか2編を読むことができます。

 

「12月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した最後の元老政治家といわれる西園寺公望が亡くなりました。 1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を行いました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。

今日12月20日は、中国・清の第4代皇帝で、清の基礎をきずいた康熙帝(こうきてい)が、1722年に亡くなった日です。

1654年、清の第3代順治帝の第3子として生まれた康熙帝は、わずか8歳で即位しました。順治帝の遺命で4人の大臣の合議制で政治が行われましたが、1669年以降はみずから政治を行うようになりました。当時はまだ、明朝を支持する勢力が活動を続けているときで、明の武将だった呉三桂、尚可喜、耿(こう)精忠は三藩といわれ、それぞれ雲南・広東・福建を領地として兵力をもち、独立小国家のようなふるまいをしていました。

これをにがにがしく思っていた康熙帝は、1673年に「三藩廃止」の令をくだすと、呉三桂らは反旗をひるがえし(三藩の乱)、清の軍隊を各地でやぶりました。これに鄭氏・台湾も加わったため、一時期は長江以南をすべてを彼らに奪われてしまいました。しかし、民衆は三藩を支持しなかったことで、康熙帝はすこしずつ優勢になり、1681年に乱を鎮圧しました。その2年後には鄭氏・台湾も降伏させて、名実ともに完全な中国の支配者となりました。

台湾を制圧した1683年には、ロシア帝国のピョートル大帝(1世)が満州族の故地であるアムール川(黒竜江)付近に南下してきたことで、この地域の軍事力を強化してロシア軍を1685年にやぶり、1689年にネルチンスク条約を結んで国境を定めています。また1690年、モンゴルの内紛に介入して外モンゴルの一部を制圧し、1693年には康熙帝みずから軍勢を率いて戦い、1696年清の支配下におきました。1720年には、チベットも支配下におさめています。

内政面での康熙帝は、黄河の治水に心をくばり、運河を整備して米などの輸送を便利にしたばかりか、倹約につとめ、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれ、財政が豊かになったことで、減税をたびたび行っています。

また、好学ぶりは有名で、4万9000字を収録した『康熙字典』を1716年に完成させました。これは後の、字画でひく辞典のお手本になっています。また、イエズス会宣教師らに10年かけて作らせた中国全土の実測図『皇輿全覧図』、ほかに『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』なども編さんしています。

こうして康熙帝は、在位60余年のあいだの政策により清王朝の基礎をつくり、次代をついだ雍正帝、乾隆帝と3代約130年間は、清の最盛期といわれています。唐の太宗とともに中国歴代最高の名君であり、「聖祖」とする歴史家もいるほどスケールの大きな人物でした。


「12月20日にあった主なできごと」

1848年 ルイ・ナポレオンが大統領…皇帝ナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンが、選挙に全投票の75%を得て、フランス第2共和制大統領に就任しました。その後ルイは、大統領の権限を強化し4年後に第2帝政をはじめて、ナポレオン3世となりました。

1853年 北里柴三郎誕生…ドイツのコッホに学び、ジフテリアや破傷風の血清療法の完成やペスト菌の発見など、日本細菌学の開拓者・北里柴三郎が生まれました。

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