児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年11月

今日11月8日は、明治維新後に『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』など、江戸戯作の流れを組む作品を残したことで知られる戯作者の仮名垣魯文(かながき ろぶん)が、1894年に亡くなった日です。

1829年、江戸・京橋の魚屋の子に生まれた仮名垣魯文(本名・野崎文蔵)は、子どものころから、父の影響を受け、大衆向の娯楽小説である戯作が好きでした。しかし、火災や天保の大飢饉により家業が衰え、9歳で鳥羽屋という大家に丁稚奉公にあがりました。ここでも山東京伝らの戯作に親しみ、勤勉な仕事ぶりやさまざまな能力の高さに周囲から愛され、15歳のとき、よく知られた戯作者花笠文京の門に入りました。

1849年に、戯作者としての名を広めるための小冊子を知人たちに配布したところ、当時の最高権威だった滝沢馬琴の賞賛をえたことで自信がめばえました。しかし、戯作修行のための遊びがすぎると主家にいられなくなり、江戸を放浪、低俗な戯文などを書くうち、一部の人たちから評価をえました。そこで、1853年湯島の家に「御誂案文認所(おあつらえあんもんしたためどころ)」という看板をかかげて独立、1855年の大地震のときには書肆(本屋)の依頼を受け『安政見聞誌』3冊を、わずか3日で書き上げ、キワモノ作家としての才能を発揮しました。

1860年には女性の富士登山解禁をあてこんだ『滑稽(こっけい)富士詣』で広く知られるようになり、ワシントンやフランクリンの伝記をお家騒動風に書きかえた『童絵解万国噺(おさなえときばんこくばなし)』などを書き、幕末の動乱をよそに、三遊亭円朝、河竹黙阿弥と三題噺グループをこしらえて、町民たちを楽しませています。

1870年、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』から着想を得て、弥次さん喜多さんの孫たちがロンドン万国博へ出かける途中の失敗談をつづった『西洋道中膝栗毛』、翌年には文明開化を代表する「牛鍋屋」に出入りする客たちの会話を見事にスケッチした『安愚楽(あぐら)鍋』を刊行すると大評判となり、花形作家となりました。明治維新によって江戸以来の戯作文芸に批判的な風潮が生まれる中で、プロの作家としての力量を発揮した人たちの代表格でもありました。

ところが1872年、今の文部科学省にあたる教部省に呼ばれ、愛国や実学志向を小説で表現するようにと命じられ、「著作道書き上げ」と称する文書を提出、福沢諭吉の科学入門書『窮理図解』をもじって『胡瓜遣(きゅうりづかい)』という題名にするなど、新政府の実学尊重の方針をナンセンスとして置き換える魯文の戯作の方法が、切り捨てられる結果になってしまいました。

その後魯文は、「虚」から「実」にかえた地理教科書やルポルタージュを書いたり、神奈川県庁の役人となって県下の民衆の教導をしたりしましたが、自分を満足させるものとはならず、1875年に『仮名読新聞』を創刊し、主筆となりました。劇檀や花柳界のゴシップが注目され、芸者を「猫」と呼んだ魯文の新語が流行したといわれています。1879年に、毒婦高橋お伝の一代記『高橋お伝夜叉物語』で注目されましたがその後はふるわず、戯作界最後の大御所は、静かに生涯を閉じました。


「11月8日にあった主なできごと」

1895年 エックス線発見…ドイツの物理学者レントゲンが、実験中になぞの放射線を発見し「�]線」と名づけました。�]線に感光するフィルムを使って撮影した写真(レントゲン写真)は、肺など身体の内部をうつして診察に役立たれています。

たまには、子どもたちに身近な科学のおもしろさを、お話ししてあげましょう。「おもしろ科学質問箱 32」

X線というのは、1895年にドイツのウィルヘルム・レントゲンによって発見された放射線のことです。レントゲン線ともよばれ、物質を通りぬける性質(透過性)があるために、未知で不思議なものという意味でX(エックス)線と命名されました。

X線は、光と似た電磁気の波で、光とちがうのは、波長(波と波の距離)が光にくらべて1万から100万分の1ほど短いために、光が通りぬけられない物質でもらくらく通りぬけることができます。ところが、X線は骨や歯、特別な物質(バリウムなど)を通すことはできません。そこで、胸の骨を調べるときは、胸にX線をあてて、写真をとります。写真といっても影の写真で、皮膚や筋肉をつきぬけて写真フィルムにあて、現像してできたネガフイルムには、X線の影になった骨が白く浮き上がってみえます。

そのフイルムを見ながら、医師は異常がないかを調べるわけです。医学では、このX線を使って肺結核や骨折のぐあいを調べたり、ガンにX線をあててガン細胞を殺したりします。骨や造影剤を使って消化管や血管、さらにはCT(コンピューター断層撮影)などで、さまざまな内蔵や身体の中の状態を正確に検査することができます。胃のレントゲンでバリウムを飲むのは、そのままでは写らない胃袋を造影剤で映し出すわけです。X線は医学以外にも、工業では金属材料や製品にきずがあるかないかを透視したり、生物学ではX線を生物にあてて変種をつくる研究に、物理学では結晶の構造の研究に使われるなど、人類にとってとてもたいせつなものになっています。

X線は、空気をもとの量の1億分の1までポンプでぬいた「X線管」の中で作られます。管はふつうガラスでつくられ、中には2つの電極(いっぽうにタングステンの針金をまいた陰極、もういっぽうにはターゲットというタングステンのかたまりの陽極)がはいっています。ターゲットと陰極の間に高い電圧をかけると、陰極から出た電子が激しくターゲットにぶつかり、速度が毎秒10万kmから28万kmに達します。すると電子は急に止まり、電子が持っていたエネルギーは熱にかわり、その一部がX線となって、X線管のガラス窓から外に出ます。

なお、X線は放射線の一種なので、被ばくは大丈夫かという心配があります。日本人は、年間に平均2.1ミリシーベルトという放射線をあびているそうです。これに対して、胸部のX線撮影では、0.06~0.3ミリシーベルトの被ばくとなり、胃のレントゲンでは、3~4ミリ(以下シーベルト略)、 腸レントゲン 4~6ミリ、頭部CTで0.5ミリ、腹部CTで3~6ミリの被ばくとなります。放射線量が250ミリ以下は、医学的検査での症状は認められないとされています。でも、不必要な被ばくは避けるに越したことはありません。


「11月7日にあった主なできごと」

1336年 室町幕府始まる…足利尊氏が政治方針を示した「建武式目」を制定し、室町幕府が成立しました。光明天皇(北朝)を立て、政権を握った尊氏は、後醍醐天皇(南朝)を吉野に追いやったため、南北朝が対立することになりました。

1867年 キュリー夫人誕生…ラジュームを発見して夫ピエールと共にノーベル物理学賞をもらい、夫の死後ラジュームの分離に成功してノーベル化学賞をえて、2度もノーベル賞を受賞した女性科学者のマリー・キュリーが生れました。

今日11月6日は、ロマノフ朝第8代ロシア帝国の女帝で、領土をポーランドやウクライナにまで拡大したエカチェリーナ2世が、1796年に亡くなった日です。

1729年、ドイツ貴族の娘として北ドイツに生まれたエカチェリーナ(前名・ソフィア・アウグスタ)は、キリスト教ルター派の洗礼を受け、2歳ころからフランス人の家庭教師に育てられ、合理的な精神を持った少女に育ちました。7歳のときにはすでに王妃となる夢を抱き、美人でないために賢い女性になろうと努力したといわれています。

1744年14歳のとき、思いがけなくロシア皇太子ピョートルに嫁ぐことが決まり、翌1745年に結婚しました。エカチェリーナは短期間にロシア語を習得し、ロシア国民に支持される努力をおしみませんでした。ロシア正教に改宗したことで貴族たちを感激させましたが、ピョートルの男性能力欠陥のため、結婚生活は不幸なものでした。

1762年1月にエリザベータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝ピョートル3世に即位、エカチェリーナも皇后となりました。ピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者で、プロイセンとの7年戦争では、ロシア軍がプロイセン領内に入りフリードリヒ2世を追いつめていたにもかかわらず、自身が即位するといきなり和約を結んだことは、ロシアの内外で不評を買ったばかりか、ロシア正教会にも弾圧を加えました。同年7月、エカチェリーナは近衛軍やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行すると、ほぼ無血で成功。ピョートル3世はわずか6か月で廃位・幽閉され、まもなく監視役に暗殺されました。(公式には持病の悪化で急死とされています)

エカチェリーナ2世に即位すると、ボルテールやディドロらフランスの啓蒙思想家と親しくし、「君主は国民のためにある」といって教育の振興、病院の設立、文芸の保護などを行いましたが、政策は専制的で、農奴制を強化させたりしました。1773年、重い負担に苦しむ農民たちは、ブガチョフの指揮のもとで「農奴解放」を叫んで大規模な農民反乱(プガチョフの乱)をおこしましたが、1775年にはこれを鎮圧。これをきっかけとするようにますます反動的になり、対外的にも侵略的になって、オスマン帝国との戦争に勝利し、ウクライナの大部分やクリミア・ハン国を併合し、黒海の制海権を奪い取りました。さらに、ブロイセン・オーストリアと組んで、ポーランド・リトアニア共和国を消滅させて、3度にわたりポーランドを分割してしまいました。また、アラスカにも進出して千島列島を占領したほか、1793年にはラクスマンを使節とし、箱館(函館)に入港して上陸、日本人の漂流民を帰国させ、日本に通商を求めています。

ロシアの文化や教育の整備にも力を注ぎ、ロシア語辞典の編さん事業にとりくんで、後世のロシア文学発展の基盤を作り、ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿の建設にとりくみ、のちのエルミタージュ美術館の基盤をこしらえました。自身も文筆にすぐれ、回想録、童話、戯曲などの文芸作品を著すなど、「大女帝」として歴史に大きな足跡を残しました。


「11月6日にあった主なできごと」

1494年 スレイマン誕生…オスマン帝国第10代スルタンとして13回にもおよぶ遠征の末、地中海の制海権をにぎって「世界の帝王」と呼ばれたスレイマンが生まれました。

1945年 財閥解体…太平洋戦争敗戦後に日本を占領し、間接統治を行なっていたGHQ(連合国軍司令本部)は、三井、三菱、住友、安田など15財閥83社の解体を指令しました。これらの財閥が、日本経済をささえ戦争をすすめる原動力になっていたと判断したためです。しかし、財閥は解体されたものの財閥の流れをくむ企業の大半は、大規模な企業グループを形成していきました。

1956年 スエズ戦争停戦…スエズ運河の国有化宣言をしたエジプトに対し、イギリスとフランスが反対を決議。さらにエジプトと対立関係にあったイスラエル軍がエジプトに侵入したのをキッカケに、英仏軍も武力攻撃を開始してスエズ戦争(第2次中東戦争・スエズ動乱)が始まりました。エジプトの抵抗、アラブ諸国のエジプト支持、国際連合の批判などにより、この日英仏は軍隊を引き上げることに同意しました。

今日11月5日は、幕末期の長州藩兵学者で、長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮して勝利の立役者となり、明治新政府の兵部大輔(たいふ)となって軍隊制度の基礎をこしらえた大村益次郎(おおむら ますじろう)が、1869年に亡くなった日です。

1824年、周防国(現在の山口市)の村医の長男として生まれた大村益次郎(旧名・村田蔵六)は、1842年に防府の梅田幽斎に蘭学を学び、翌年梅田の勧めで豊後国(大分)日田にある広瀬淡窓の私塾に入って漢学を学びました。1846年、大坂に出て緒方洪庵の適塾で蘭学と医学を学び、適塾在籍の間に1年間長崎で蘭学をきわめた後、円熟した人格と学力が認められ、適塾の塾頭となっています。

1850年適塾を辞して、郷里にもどって医者となりましたが、1853年にアメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど「今は医者をしているときではない」と、兵学を学び、伊予宇和島藩に招かれて、西洋兵学や蘭学の講義と兵書の翻訳を手がけ、宇和島城北部に砲台を築きました。1856年には江戸に出て、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教えたり、幕府の洋学研究所というべき「蕃書調所」で外交文書、洋書翻訳、兵学講義、オランダ語講義などを行いました。1857年11月には、幕府の「講武所」教授となって、最新の兵学書の翻訳と当時の最高水準の講義を行ったことで褒章を受けるほどでした。

翌年、長州藩上屋敷で開かれた蘭書会読会に参加して、兵学書の講義を行ったとき、桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合ったことがきっかけとなって、1860年には江戸在住のまま長州藩士となり、塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移されています。1861年に帰藩すると、西洋兵書の翻訳や兵学の講義を行い、下関周辺の海防調査を行ったり、軍制改革に取り組みはじめました。1865年には西洋式の軍備をととのえ、翌1866年の幕府による第2次長州征伐では、石見方面の戦いで幕府軍を打ち破り、軍事指導者として高い評価をえました。明治維新でも軍事面を担当し、旧幕府軍との戦いの戊辰戦争では、上野寛永寺にたてこもる3千人もの「彰義隊」をわずか1日で打ち破ったことは、よく知られています。

1869年大村は、明治新政府が新しくもうけた「兵部省」(のちの陸・海軍)では兵部大輔となって、士族の軍隊でなく、国民軍隊をめざす軍隊制度の基礎を作り上げました。ところが8月、こうした改革に反対する長州藩の士族らに、京都の宿で切りつけられて重傷をおい、治療のかいなく亡くなりました。

東京・九段の靖国神社の境内入口には、大村の大銅像がたたずんでいます。


「11月5日にあった主なできごと」

1688年 名誉革命起こる…国王ジェームズ2世に反発したイギリス議会はクーデターを起こし、次の国王としてウイリアム3世(オランダ総督オレンジ公)とメアリー2世夫妻を招き、夫妻は軍隊を率いてイギリスへ上陸しました。ジェームズ2世はフランスに亡命し、流血のないまま新王が即位したため、「名誉革命」といわれています。

1922年 ツタンカーメン王墓発見…イギリスの考古学者カーターが、古代エジプト18王朝(BC1340年頃)18歳で亡くなったツタンカーメン王の墓を発見しました。3000年以上の歴史を経てもほとんど盗掘を受けておらず、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめ、副葬品の数々をほぼ完全な形で出土しました。そのほとんどは「カイロ博物館」に展示されています。

今日11月1日は、江戸時代中期「元禄時代」を代表する名優で、江戸の市川団十郎とともに歌舞伎を隆盛させた上方歌舞伎の始祖とされる坂田藤十郎(さかた とうじゅうろう)初代が、1709年に亡くなった日です。
 
1647年、芝居の座元(興行師)だった坂田市右衛門の子として京都に生まれた坂田藤十郎は、幼いころから演劇に親しむ環境に育ち、1676年に京都万太夫座で初舞台をふみました。1678年大坂の荒木座の『夕霧名残の正月』(近松門左衛門脚本)に伊左衛門を演じると大評判となり、翌年には4回も演じたばかりでなく、生涯に18回演じるほどの当たり役となり、「夕霧に芸たちのぼる坂田かな」とうたわれるほどでした。

その後は、近松門左衛門が藤十郎のために書いた『傾城(けいせい)仏の原』(この作品は、若殿梅永文蔵の活躍する歌舞伎最高傑作といわれていたものの脚本が紛失、数年かけて複数の資料をもとに舞台台本が復元され、1987年に300年ぶりに上演されて話題となる)をはじめ、『傾城壬生大念仏』『仏母摩耶山開帳』などの近松の作品を次々と上演し、遊里を舞台とした恋愛をテーマとする傾城買い狂言を深めていきました。当時の情報誌ともいえる『役者論語』によると、セリフまわしがうまく、観衆を自由自在に喜怒哀楽の境地に引き入れ、出演者ともうまく協調したと伝えられています。

当時江戸では、市川団十郎が「荒事」という怪力勇猛の武人を主役とする歌舞伎が受け入れられていたのに対し、藤十郎は「和事」という写実的な芸風で男女の恋愛などを扱った上方歌舞伎を完成させ、京都・大坂を中心に、やつし事、濡れ事、口説事などの役によってしっかりした地位を固めました。

1695年には都万太夫の座元になりましたが、1708年10月京都亀屋座の『夕霧』を最後に舞台活動を去って翌年に死去。藤十郎の名跡は2代、3代と続きましたが、元禄歌舞伎は初代の死とともに終えんしたといわれています。

それから250年もの時を経て、現代歌舞伎の大看板のひとりでもある2代目中村扇雀が4代目坂田藤十郎をつぎ、上方歌舞伎の復興プロジェクトでも主導的な役目を務めて、近松門左衛門作品を原点から勉強し直すために劇団近松座を結成。日本中にブームを巻き起こした『曾根崎心中』のお初は、初演以来1000回をこえ、今なお記録を更新中です。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、坂田藤十郎(初代)の名優ぶりがよく描かれている、菊池寛作『藤十郎の恋』を読むことができます。


「11月1日にあった主なできごと」

643年 蘇我入鹿 山背大兄王を襲う…蘇我入鹿は、聖徳太子の子山背大兄王(やましろのおうえのおう)を襲って自害に追い込み、強大な権力をにぎりました。

1847年 中江兆民誕生…フランス革命の精神的導きをしたことで名高いルソーらに学び、自由民権思想を広めた明治期の思想家 中江兆民が生まれました。

1974年 アメダス運用開始…全国約1300か所に無人自動観測所をおいて雨量を観測するシステム(アメダス)の運用を開始しました。これにより、集中豪雨などの異常気象の監視や、気象予報技術が向上しました。

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