児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年11月

今日11月15日は、『氾濫』『火の鳥』などの小説、『女性に関する十二章』他のエッセー、『チャタレー夫人の恋人』などの翻訳で知られる文学者の伊藤整(いとう せい)が、1969年に亡くなった日です。

1905年、北海道・松前に退役軍人の12人兄弟の長男として生まれた伊藤整は、1925年に小樽高等商業学校(現・小樽商科大)を卒業後、旧制小樽中学の英語教師となりました。宿直室に泊まりこんだり、夜間学校の教師を兼ねるなどして貯金をたくわえて2年後に上京、東京商科大学(現・一橋大)でフランス文学を学びながら、北川冬彦、梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと交遊を深めました。

大学を中退し、1926年に詩集『雪明かりの路』を自費出版すると、1929年に同人雑誌『文芸レビュー』(のちの『新文芸時代』)を創刊し、この雑誌に小説や評論をかいて、文壇デビューをはたしました。他人の眼に映っていると思われる自分の像を責めたて、ときには笑いとばしてしまうようなユニークな作品『街と村』『得能五郎の生活と意見』は、とくに注目されました。戦後に発表した『鳴海仙吉』は、その手法が極点に達したといわれています。

1935年から1944年まで日大講師、1946年には北海道大講師、1949年から1950年早大講師、1949年には東工大講師(英語)、1958年東京工業大学教授、1960年から1961年米国コロンビア大学やミシガン大学で講義するかたわら、知識人を主人公にした長編『氾濫』『発掘』『変容』、混血女優を主人公に芸術家の実態を追求した『火の鳥』、父親を主人公にした『年々の花』などを次々と発表していきました。

伊藤整がとくに有名になったのは、1950年に翻訳したD・H・ローレンス著『チャタレー夫人の恋人』の性描写が露骨すぎ「わいせつ文書」に当るとして、警視庁の摘発を受けて起訴されたことからでした。伊藤は裁判で「言論・表現の自由」を堂々と主張して世間の注目を集めました。1953年には、『伊藤整氏の生活と意見』を発表し、突然スキャンダラスな話題の主人公となった「伊藤整氏」をこっけい化し、笑いの方法で読者を味方に引き入れ、作品をわいせつ文書にした検察官こそスキャンダラスな存在といいきりました。結果的に1957年最高裁の判決で罰金10万円の判決を受けましたが、伊藤は法廷闘争の記録小説『裁判』を著しています。チャタレー裁判で有罪となったことは、伊藤の社会的地位にほとんど影響せず、1962年日本ペンクラブ副会長、1963年には『日本文壇史』により菊池寛賞受賞したほか、日本近代文学館理事、1965年日本近代文学館理事長に就任しています。

また、1953年『婦人公論』に連載したエッセーは、翌年『女性に関する十二章』として刊行したところベストセラーとなり、同書は市川崑監督により映画化されています。

なお、伊藤整の『チャタレー夫人の恋人』の翻訳は、1964年に伏字を使って出版されました。伏字のない完訳は、1973年に講談社文庫から羽矢謙一訳で刊行されましたが、ほとんど話題にもなりませんでした。


「11月15日にあった主なできごと」

1630年 ケプラー誕生…惑星運動に関する3つの法則を発見し、近代天文学におおくの業績をのこしたドイツの天文学者ケプラーが生れました。

1835年 カーネギー誕生…鋼鉄で利益をあげた大実業家で、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家カーネギーが生まれました。

1867年 坂本龍馬死去…薩長同盟を成立させ、徳川慶喜による大政奉還を実行させ、明治維新への道を切り拓いた土佐藩出身の志士・坂本龍馬が、33歳の誕生日に暗殺されました。

今日11月14日は、徳川家康に仕えて伊賀・甲賀忍者衆の頭領となって、家康が天下をとる影の力となった服部正成(はっとり まさなり)が、1596年に亡くなった日です。

1542年、伊賀豪族・服部保長の子として三河国に生まれた服部正成(通称・半蔵)は、父が、徳川家康の祖父である松平清康が三河国を平定したおり、面会して意気投合したといわれています。正成も父の後をついで家康に仕え、1557年16歳のときに初陣、三河宇土城を夜襲して戦功を立てたのをはじめ、以後かずかずの戦に家康の勝利に貢献しました。1572年の「三方ヶ原の戦」で徳川軍は大敗するものの、正成は武功をあげたことで家康から褒美として槍を贈られ、伊賀衆150人の頭領を命ぜられました。

1579年、家康の長男信康が敵である武田勝頼と手を結んだといううわさがながれ、織田信長はこれを許さず、信康の自刃を家康に命じました。このとき介錯を命ぜられた正成でしたが、介錯ができず、家康は「鬼半蔵でも主君を手にかけることはできなかった」と正成をいっそう評価したといわれています。

1582年、信長は京都の本能寺で部下の明智光秀に討たれましたが(本能寺の変)、このとき家康は、わずかの供だけを連れて堺に滞在していました。京都を占領した光秀の目をのがれて三河にもどりたかったものの、信長の死により、その周辺はどこも危険でした。このとき、家康のわずかの供のなかに正成がおり、正成は先行して、伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉して警護させ、一行を安全に通行させ、伊勢から船で岡崎まで護衛することに成功しています。これ以降、かれらは伊賀同心、甲賀同心として家康に仕えています。1584年の「小牧・長久手の戦」での正成は、伊賀・甲賀衆100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退する働きをしています。

1590年の小田原征伐でも家康に従軍し、家康の関東入国後は、江戸城の西に屋敷を与えられ、与力30騎と伊賀同心200人を統率することで八千石を領しました。正成の死後は、長男の正就が継ぎ、今も残る「半蔵門」という名称は、半蔵の屋敷がそのあたりにあったことから名づけられました。

なお、忍者(忍び)は、戦国時代を中心に敵の情報集めなど、秘密作戦に活躍をしました。忍者たちは、敵の城などに忍びこむためのさまざまな道具をこしらえ、使いこなすために、特別な訓練をして身体をきたえました。火薬や薬品にも詳しく、レベルの高い発明者でもありました。こんな忍者の暮らしていた屋敷が、三重県上野市に「伊賀流忍者博物館」として復元されています。


「11月14日にあった主なできごと」

1630年 貝原益軒誕生…独学で儒学、国文学、医学、博物学を学び、わが国はじめての博物誌 「大和本草」 などを著わした貝原益軒が生まれました。

1889年 ネルー誕生…イギリスの植民地だったインドを独立に導き、インド発展に全力を注いだネルーが生まれました。インドでは、ネルーの誕生を祝う日であるとともに「子どもの日」になっています。

1930年 浜口首相狙撃される…東京駅で狙撃されて重傷を負った浜口雄幸首相は、「男子の本懐」と語って話題になりました。軍部の反対を押しきって行った金輸出解禁などが右翼の反感を買ったのが原因でした。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 104]
 
むかし、ある海岸近くに小高い丘がありました。この丘の小屋に、病気でねたきりのおばあさんが一人きりで住んでいました。

ある秋の寒い日の午後のこと。この日は、浜辺でにぎやかなお祭りがある日でした。町のひとたちは一人残らずやってきて、楽団の音楽にあわせ、ダンスに興じたり、歌をうたったり、テント張りのお店もたくさん出て、飲んだり食べたり、年に一度の秋祭りを楽しんでいました。

にぎやかな音楽や歌声は、小屋に寝ているおばあさんにも聞こえてきました。やがて夕方近くになって、おばあさんはベッドの中から、窓越しに海辺のほうをながめました。ふと気がつくと、遠くの地平線に、小さな黒い雲がひとつ、ぽつんと現れているのに気づきました。それを見たとたん、はっとしました。おばあさんの亡くなった旦那さんは船乗りでしたから、おばあさんも海のことを、よく知っています。(たいへんだ。もうすぐ嵐がやってきて、高潮が押し寄せてくる。そうすれば、海岸で遊んでいる人たちは、波に巻きこまれて、亡くなる人もでるにちがいない。ああ、わたしが見たものを、だれも気がつかなかったらどうしよう)

こう思ったおばあさんは、気が気でなりません。自分が知らせてあげなくてはと思うと、ふしぎにも、身体に力がわいてきて、1年近くもベッドに寝たきりだったのに、窓の近くまで、はっていくことができたのです。やっとの思いで窓をあけ、思いきり大声をあげました。でも、とても海岸まではとどきません。そこで、近くにあった棒で、戸をたたいたり、窓をたたいたりして合図しましたが、陽気にさわいでいる人たちにとどきそうもありません。ガシャンと、窓のガラスをこわしてもだめでした。

雲はいよいよ気味悪く、真っ黒にふくれあがってきました。どしゃぶりの雨がふりだし、高潮がおしよせてくるまで、もう少しの時間もありません。このとき、おばあさんはひらめきました。(そうだ、この小屋に火をつけよう) おばあさんは、ストーブのところまではっていき、火を取り出すと、ベッドのワラに火をつけました。そして、やっとの思いで、戸口の外まではいだし、そこにたおれてしまいました。

ほのおは、すぐに窓から吹き出して、屋根へ燃えうつり、いちだんと強くなってきた風にあおられて、燃え上がりました。「火事だぁ!」「火事だぞう!」浜辺にいた人たちは、暗くなった空に真っ赤にもえあがった火に気がつき、高台をかけのぼりました。そして、おばあさんの小屋に飛んできて、火の粉をかぶっているおばあさんを、安全なところに運びました。

この時、海岸にはすさまじい嵐がふきまくり、カミナリの稲光とゴロゴロという音とともに高潮がおしよせ、海岸のテントの店も、酒樽もなにもかも、おそろしい波の中に呑みこまれていきました。けれども、町の人たちはみんな岸にあがり、おばあさんの小屋にむかっていたために無事でした。

こうしておばあさんは、命がけで、町の人たちを救ったのでした。


「11月13日にあった主なできごと」

1523年 インカ帝国皇帝捕えられる…15世紀から16世紀にかけてペルー南部に栄えたインカ帝国は、クスコを中心に石造建築や織物、金銀細工など優れた文明を築きましたが、この日スペインのピサロは、帝国のアタワルバ皇帝をだまして捕えました。翌年インカ帝国は滅亡、スペインは南アメリカ大陸の大半を長い年月支配することになりました。

1614年 高山右近国外追放…織田信長、豊臣秀吉、徳川家康につかえた高山右近は、築城術もたけ茶道にも長じたキリシタン大名でしたが、禁止されたキリスト教を捨てなかったためにこの日国外追放、40日後にマニラで亡くなりました。

「おもしろ古典落語」134回目は、『安兵衛(やすべえ)キツネ』というお笑いの一席をお楽しみください。

ひとり者ばかりが住んでいる六軒つづきの長屋がありました。みんなが気があうかといいますと、そうでもありません。四軒の方のグループは仲がいいのですが、奥の変わり者の二軒とは、犬猿の仲です。奥のひとりは源兵衛といって、人が暑いといえば寒い、白といえば黒というところから、「へんくつの源兵衛」といわれています。もうひとりの安兵衛は、いつもグズグズしているので「グズの安兵衛」、つまってグズ安。へんくつとグズは、どういうわけか仲がいい。

ある秋の日、四軒のほうの連中が集まりました。
「おう、みんな、こんなにそろって仕事が休みなんてめずらしいや、どうでぇ、どっかへでかけねぇか」
「ちょうど、萩が見ごろっていうから、亀戸あたりへくりだすか」
「そいつはいい、せっかくだから源兵衛とグズ安にも、声をかけてやろうじゃねぇか」
「おーい源兵衛、長屋の連中が萩を見に行こうってんだ。おめぇもいかないか」
「そんなの見たってしょうがねぇ。見たけりゃ大家のとこへいくよ」
「大家んとこにゃ、萩はねぇだろ?」
「ハギはねぇが、ハゲがあらぁ」
「あんなこといってやがる」
「おらぁ、大勢で萩なんぞ見にいくより、ひとりで墓でも見にいきてぇ」
「あいかわらずのへんくつだ、かってにしろ。おーい、安兵衛、萩を見にいかないか、酒があるぜ」
「なに? 酒が飲めるのか。タダか?」
「タダじゃねぇ、ワリカンだ」
「それじゃやめた、めんどうくせぇ」

四人はあきれて行ってしまいます。源兵衛は、ほんとうはみんなと酒でも飲みたいのに、墓にいくといったてまえ、ひょうたんに酒を入れて、谷中の墓地までやってきました。どうせ墓で一杯やるなら女の墓がいいと「ナントカ信女(しんにょ)・没年26歳」と書かれた塔婆(とうば)の前で、チビリチビリとやっていました。すると、風がでてきて、急に塔婆が倒れてしまいました。後ろに回ってみると大きな穴があいています。塔婆で突っつくと、コツンと音がするので、よく見ると白いものがあります。
「おやっ、こりゃ骨だ」
むかしは火葬をしなかったので、土葬といって、棺桶に入れた死体を穴を掘ってうめ、その上に墓をこしらえましたから、桶がくさって、穴が浅いと、白骨が見えることがよくありました。
「こいつは気の毒だな。これもなにかの縁だ。回向(えこう)してやろう」と、残っていた酒をかけ、「ナムアミダブツ」と手をあわせて家に帰りました。

その日の真夜中のことです。「ごめんくださいまし」と女の声がします。はておかしいと出てみると、大変な美人が立っています。谷中からやってきたゆうれいで、生前酒好きだったので、昼間あなたがお酒をかけてくれて浮かばれたから、ご恩返しにきたといいます。ゆうれいは強引に、源兵衛のおかみさんになってしまいます。出てくるのは夜だけで、夜明けとともに消えてしまいます。

さて、女の酌でごきげんに一杯やっている源兵衛の姿を見たとなりのグズ安、いやみをいおうと、翌朝源兵衛に声をかけます。
「おい、源さん。水くさいじゃねぇか。かみさんをもらったんだろ」
「見たのか」
「見たぞ、ちょっと青白いけど、いい女じゃないか」
「こいつが、わけありなんだ」と、これまでのいきさつを話すと、安兵衛は、目を丸くしておどろき、自分も女房を見つけようと、同じように酒を持って谷中の墓地へでかけました。

なかなか手ごろな墓が見当たらず、奥のほうに行きますと、猟師がワナをかけてキツネをとったところにでくわしました。
「キツネつかまえてどうするんだ?」
「皮をはいで売るんだ。おれの商売なんだ」
「皮をむかれたら、キツネは痛いだろうね」
「そんなこと、キツネに聞いてくれ」
気の毒になった安兵衛、キツネとりと交渉して、金を払い、キツネをにがしてやりました。

さて、その晩のこと。若い娘に化けたあのキツネが、安兵衛のところにやってきて、お礼がしたいと、押しかけ女房になります。源兵衛のおかみさんがゆうれいで、安兵衛のおかみさんがキツネ、奥の二軒がきゅうににぎやかになったものですから、長屋の四人は、落ちつきません。
「源兵衛とこのかみさんは人間みたいだけど、安兵衛んとこのかかぁは、おかしくねぇか」
「そうだな。目がキョトンとして、口がとんがってやがる」
「おまけに、言葉づかいがおかしくねぇか。『おはようございます、コン』なんて、言葉のしまいに『コン』とか『コーン』てつくだろ」
「まるでキツネみたいだ」
これはどう見てもおかしいと、安兵衛が留守の間に家に押しかけました。

「まあ、安兵衛は用足しに出かけたんですよ。コン」と声がします。
いじの悪いやつが、戸をガラッと開けて「ワン!」と犬の鳴き声をすると、キツネ女房は、引き窓から跳んでにげてしまいまいました。
ことによると、安兵衛もキツネかもしれないと、近所にすむグズ安の父親をたずねました。でも、耳が遠くていっこうに話が通じません。
しかたなく、耳に口をつけるようにして、大きな声で「あのね、安兵衛さんは、お宅にいってませんか?」
「なに、安兵衛がどうした?」
「来てませんか?」
「安兵衛はコン(来ん)」

「あ、じいさんもキツネだ」


「11月12日にあった主なできごと」

1840年 ロダン誕生…19世紀を代表する彫刻家で『考える人』『カレーの市民』『バルザック』などの名作を数多く残したロダンが生まれました。

1866年 孫文誕生…「三民主義」を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」と呼ばれている孫文が生まれました。
 
1871年 日本初の女子留学生… 岩倉具視を団長に、伊藤博文、木戸孝允ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、その中に後に「女子英学塾」(現・津田塾大)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。
 
1898年 中浜万次郎死去…漂流した漁船にのっていてアメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した中浜万次郎(ジョン万次郎)が亡くなりました。
 
1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。

今日11月11日は、明治・大正・昭和と三代にわたりジャーナリスト・思想家として活躍した長谷川如是閑(はせがわ にょぜかん)が、1969年に亡くなった日です。

1875年、東京・深川材木商の子として生まれた如是閑(本名・万次郎)は、10歳のときに曽祖母長谷川家の養子となり、肺結核になやまされながらも、1898年に東京法学院(中央大の前身)を卒業しました。1902年に陸羯南(くがかつなん)のおこした『日本新聞』の記者となり、羯南や三宅雪嶺らの自由主義的色彩の濃い「日本的」な伝統を保持するという視野に共鳴して1906年まで勤務しました。

1908年には大阪朝日新聞社に入社して、1912年ころから「天声人語」を担当、その他にも小説や紀行文をかいたりして多忙だったため、ペンネームくらいは閑そうにみえるようにと、如是閑(こんなにひま)を使用するようになりました。1914年に社会部長となると、翌年、夏の甲子園の前身である全国中等学校優勝野球大会を企画創設しています。同紙は、大正デモクラシー風潮の指導的な言論機関といわれるようになり、とくに1916年、寺内軍閥内閣が出現すると、軍閥批判、非立憲政治批判、シベリア出兵政策批判は烈しいものとなりました。ところが1918年にはじまった寺内内閣退陣要求は、政府からの弾圧(白虹事件)を招き、右翼団体からも激しい攻撃を受けて社長は交替、如是閑をふくむ幹部記者は退社せざるをえませんでした。

1919年、如是閑は大山郁夫らと雑誌『我等』(のちに『批判』と改題)を創刊して言論活動を続け、「断じて行わず」をモットーに、どんな組織や運動にもかかわらず、厳正中立、言論だけにその活動を限定しました。東京帝大助教授だった森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの研究によって起訴された事件(森戸事件)では、学問の自由・研究の自由・大学の自治を主張して、同誌上で擁護の論陣を張っています。1921年に公刊した『現代国家批判』や翌年の『現代社会批判』は同誌に発表した論文を主としたもので、1924年の『真実はかく佯(いつわ)る』は、同誌の斬新な巻頭言集でした。これらは大正デモクラシーを代表する著作と、高く評価されています。

昭和にはいっても、進歩的、反権力的な論陣を張り、1932年に『日本ファシズム批判』を刊行、ファシズムの猛威が吹き荒れようとする初期の段階でこれを批判したことは注目されます。しかし、「唯物論研究会」の設立に参加したことから、翌年に共産党シンパ容疑で逮捕されてしまいました。そのためか、それ以後は、日本文化に没頭するようになり、幼いころに育った職人および職人の世界を深く愛し、日本の文化的伝統と国民性の探求をライフワークとしました。

戦後は、1946年に米教育使節団の日本側委員となり、1948年には文化勲章を受章、93年の長寿をまっとうしました。


「11月11日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワーの誓い…2か月前にイギリスのプリマス港を出航したメイフラワー号は、この日北アメリカのケープコッドに到着。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる移民たちは船上で、自治の精神に基づき自由で平等な理想的な社会を建設することをめざす誓いをかわしました。こうして、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地のさきがけとなるとともに、その精神はアメリカ民主主義の基となりました。

1840年 渋沢栄一誕生…幕末には幕臣、明治から大正初期にかけて大蔵官僚、実業家として活躍した渋沢栄一が生まれました。

1881年 ドストエフスキー死去…『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪ドストエフスキーが亡くなりました。

1918年 第1次世界大戦終結…前年、アメリカ合衆国の参戦により決定的に不利となったドイツは、この日休戦条約に調印。第1次世界大戦が終結しました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジア探検にそそいだ、スウェーデンの探検家ヘディンが亡くなりました。

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