児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年11月

「おもしろ古典落語」135回目は、『石返(いしがえ)し』というお笑いの一席をお楽しみください。

夜なきそば屋のせがれの松公は、親父の屋台のあとをヘラヘラいいながらくっついて歩くばかりで、親父のあとをつぐ気がありません。
そんなある日親父は、
「今夜は、腰が痛くてたまらない。かわりにおまえがそばを売って来い」と、いいわたしました。

そばの作り方から、
「お寒うございます」というお愛想のいい方なんかをまず教え、商いをはじめる場所を教えます。
「おもて通りにゃりっぱなそば屋があって売れないから、できるだけさびしい場所を選ぶんだぞ」
「それじゃ、墓場で売ろうか」
「さびしすぎるだろう。いいか、火事場のそばなんかだと野次馬が大勢集まってるからもうかりやすい」
「それじゃ、お父っつぁん、道具ぅ置いといて火ぃつけてまわろうか」
「ばかやろうっ!」と、なんとも頼りない。
それでもしまいに
「そばぁ、そばぁうううい」という売り声を教えこまれ、松公は商売に出かけました。

なかなか売り声がでてきませんでしたが、ひとりの男が声をかけてきました。
「おい、そば屋」
「なんだい?」
「そばをくれ!」
「いやだよ」
「もうねぇのか?」
「どっさりある」
「どうして売らねぇ」
「こんなにぎやかなとこじゃ、売らないんだ。これからさびしいとこへ行くから、ついてこい!」
「冗談いうな」と、怒っていってしまいました。

そのうち、ひと通りのないさびしい所に出たので、声をはり上げると、片側が石垣、片側が塀になっている大きな屋敷がありました。
「こんなところで売れるかな」と思っていると、塀の上の方から声がします。
「ぜんぶ買ってやるから、そばとそば汁を別々に残らずここに入れろ」と、上から大鍋と大徳利が下がってきたので、松公よろこびいさんでそばを鍋に、徳利に汁を残らず入れ、
「さぁ、さお鍋の宙づりだ。スチャラかチャンチャン」とはやすうちに、そばはスルスルと屋敷の中に消えていきました。

「おじさ~ん、おあしをおくれよ」というと、
「金か。ここから投げてもいいが、なくなるといけねぇ。その石垣に沿っていくと、門番のじじいがいるから、そいつからもらえ」とのこと。
ところがいわれた通りいってみたら、その門番、
「そいつは、たぬきのしわざだ。あそこにゃ人は住んじゃいない、それはたぬきで、おまえは化かされたのだからあきらめろ。たぶんたぬきが、引っ越しそばでもあつらえたんだろう。そんな金を人間がはらう義理はない。帰れ帰れ」と、六尺棒で追い立てられてしまいました。
松公は、泣きべそかきながら家にもどり、親父に報告しました。

「あそこは番町鍋屋敷というとこだ。たぬきでもなんでもない。商人(あきんど)をだましていじめてるんだ。よーしわかった、これから仕返しに行くぞ」と、屋台の看板を「しるこ・日の出屋」に書きかえると、松公を連れて現場へやってきました。
「しるこぉ」と声を張り上げると、
「おい、しるこ屋」と先ほどの声がしました。
「お父っつぁん、あれがたぬきだ」
大鍋が下がってきたので、親父は、そこに大きな石を結びつけました。
「お待ちどうさま」
「おいっ、この石はいったいなんだ?」

「さっきの石(意趣)返しでございます」

* 意趣(いしゅ)返しとは、仕返しの意味です。


「11月22日にあった主なできごと」

1263年 北条時頼死去…鎌倉時代の第5代執権で、北条氏本家による独裁政治の基礎を確立した北条時頼が亡くなりました。

1869年 アンドレ・ジッド誕生…『狭き門』『田園交響曲』『贋金つかい』などを著し、ノーベル賞を受賞したフランスの作家アンドレ・ジッドが生まれました。

1890年 ド・ゴール誕生…フランス建国史上最も偉大な指導者のひとりと評価されている政治家ド・ゴールが生まれました。

たまには、子どもたちに身近な科学のおもしろさを、お話ししてあげましょう。「おもしろ科学質問箱 33」

1日というのは、地球が西から東に自転して1回まわる一定の時間のことです。1日が24時間なのは、そのようにすると便利なので、24時間に決めたためです。

科学者は、遠い星を使って1日を正確にはかることができます。観測所には、恒星時計というのがあって、1日(1恒星日)は、決めた星が子午線(しごせん=地球の赤道に直角に交差するように北極と南極を結ぶ線)を越える瞬間から、同じ子午線をふたたび越える瞬間までをいいます。その時間は、23時間56分4.09秒です。

こんなに細かい時間を1日にしては不便なので、24時間にして1年を365日とし、4年ごとにうるう年をもうけて366日として、その差をできるだけなくすようにしました。

それでも、まだ日付と季節がずれることがわかって、1582年に法王グレゴリオ13世が、まず1582年を10日間短い355日にしました。そして、各世紀の終わりの年は、400で割れる日をのぞいて、うるう年としないことにしました。つまり1700年、1800年、1900年はうるう年でなく、2000年はうるう年となります。この暦は、グレゴリオ暦といって、今では、世界じゅうのほとんどの国がこれを使っています。(一部のひとたちは、宗教上の目的のために、独自の暦を使っています)


「11月21日にあった主なできごと」

1481年 一休死去…形式化した禅宗と僧侶たちを厳しく批判し、世間的な常識に真っ向から対立する奇行と人間味あふれる狂詩で世を風刺した室町時代の名僧・一休が亡くなりました。

1724年 近松門左衛門死去…江戸時代中期に人形浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎の作者として活躍した近松門左衛門が亡くなりました。

今日11月20日は、明治・大正・昭和3代にわたる官僚政治家で、第25代、第28代の総理大臣をつとめた若槻礼次�カ(わかつき れいじろう)が、1949年に亡くなった日です。

1866年、出雲国(島根県)松江藩の下級武士奥村家の子として松江に生まれた礼次�カは、3歳のとき実母をなくし、父と兄は藩命で京都に勤務したため、11歳の姉が内職をしながら3歳の礼次郎の世話をしたといわれています。小学校を出て漢学塾へ通うものの学資が続かず、山へ薪を取りに行くなど家事の手伝いをし、16歳のころからは、3年ほど小学校の代用教員となりました。1884年、叔父の若槻敬の支援をえて上京、倍率30倍という狭き門の司法省法学校を突破して入学することができ、2年後に若槻家の養子となりました。

1891年、東京帝国大学法学部を首席で卒業すると、大蔵省に入っておもに税務行政を担当、1906年の第1次西園寺内閣のときには、大蔵次官までのぼりつめました。その後官僚を退き、1911年に衆議院と対等の権利を有する貴族院の勅選議員となりました。1912年には第3次桂内閣で大蔵大臣、1914年から1915年まで第2次大隈内閣で再び大蔵大臣となり、1916年の加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となると、1924年の加藤内閣で内務大臣となって、翌1925年の普通選挙法と治安維持法を成立させました。

1926年1月、加藤高明首相が在職中に死去したため、憲政会総裁として内務大臣を兼任しながら総理大臣となって、初の内閣を組織しました。しかし、翌年に銀行が破たんするという金融恐慌の嵐に遭遇しました。若槻はその処理を急ぐとともに英米と協調外交を進めると、枢密院や軍部と衝突、破たんしかけていた台湾銀行救済案を枢密院で否決された結果、4月に総辞職をしました。

若槻はあくまで英米と友好関係を重視したことで、1930年には、首席全権としてロンドン海軍軍縮会議に参加し、政友会や海軍の一部・右翼の反対を押しきって軍縮条約に調印しました。そして1931年4月に、前年末に右翼から狙撃された浜口首相の容体が悪化して退陣したあとを受けて、立憲民政党総裁に就任、第2次若槻内閣の総理大臣となりました。しかし、9月には「満州事変」という、公然と中国大陸侵略が開始され、若槻は軍部と衝突して、同年12月に総辞職に追いこまれてしまいました。これは、政党政治・平和外交の終えんを意味するものでもありました。

これ以後の若槻は、政治の第一線を退き、元老の西園寺公望の重臣として、日米開戦に反対したり、東条英機の退陣工作に参画したりしましたが、和平の実現に力を尽くすまでには至りませんでした。

敗戦後の若槻は、極東裁判(東京裁判)の証人となりました。アメリカの検事から「日本の平和愛好者は、あなた方4人だった」として、宇垣一成、岡田啓介、米内光政とともに、ティー・パーティに招待され、その席上で、天皇を東京裁判によばない決定をしたと聞かされ、その感激をつづっています。


「11月20日にあった主なできごと」

1179年  後白河法皇を幽閉… 平清盛は、院政を行なっていた後白河法皇をこの日、鳥羽殿に幽閉。まもなく孫を安徳天皇にして、平氏の独裁体制を築いていきました。

1858年  尾崎行雄誕生…明治・大正・昭和の3代にわたり、憲法に基づく議会政治を擁護し、清廉な政治家として活躍した尾崎行雄が生まれました。

1910年 トルストイ死去…『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの長編小説や随想録『人生読本』で名高いロシアの作家トルストイが亡くなりました。平和主義者としても知られ、『イワンの馬鹿』など民話の再話も有名です。

1945年 ニュールンベルク裁判開始…第2次世界大戦の戦犯を裁く国際軍事裁判が、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連から選ばれた裁判官のもとに、ドイツのニュールンベルクで始まりました。この裁判で史上初めて「戦争犯罪」という考え方が明確に打ちだされました。

2001年 イチロー大リーグMVP獲得…アメリカの大リーグマリナーズに移籍1年目のイチロー外野手は、日本人初のMVP(最優秀選手)に選ばれました。あわせて、新人王、盗塁王、アメリカンリーグ首位打者、ゴールドグラブ賞にも輝く活躍でした。

今日11月19日は、豊臣秀吉の朝鮮出兵による文禄・慶長の役において、朝鮮水軍を率いて日本軍と戦った李氏朝鮮の将軍・李舜臣(り しゅんしん/朝鮮読み=イ スンシン)が、 1598年に亡くなった日です。

1545年、現ソウル特別市の漢陽に、貧しい世襲官僚の子に生まれた李舜臣は、少年のころから儒学を学び、勇猛果敢な性格だったと伝えられています。22歳から科挙(官僚登用試験)を受けはじめ、31歳で文科・武科2つのうちの武科に合格、国内さまざまなところで武官として勤務しました。1586年に北部国境の守備隊長となって、女真族(中国東北部にいたツングース系民族)の攻撃に反撃しましたが、上司との不和により、2年間の反逆罪「白衣従軍」(いっさいの官位をうばわれ一兵卒)を命ぜられました。その後、軍官(士官)に抜てきされて地方各地をめぐったのち、1591年に全羅道(朝鮮南西部)の水軍司令官に任命されました。

このころから、日本征服をはたし海外に領土を拡げようとする豊臣秀吉が、朝鮮出兵を準備していました。1592年4月に、小西行長軍が釜山から上陸したのをはじめ、加藤清正らの率いる主力軍15万が慶尚道(朝鮮南東部)の水軍を壊滅させて次々に上陸し、5月には首都漢城(ソウル)を占領しました。李舜臣は、日本からの侵略を予測して、亀甲船という頑丈な船を作らせました。この船は、細く鋭い針のついた鉄板でおおわれ、左右の船腹から櫂(かい)を出してこぐもので、側面に大砲のための穴をそなえ、敵が船にのぼれないさまざまな工夫がほどこされていました。短期間のうちに整備した水軍を率いた李舜臣は、亀甲船を駆使し、日本軍後方にいる諸隊の日本船を攻撃して成果をあげると、7月には朝鮮連合水軍を指揮して、日本水軍を閑山島海上など南の海上で打ち破りました。この勝利で、日本軍は退路をふさがれ、各地で義兵とよばれる民兵の攻撃をうけて、翌年漢城から撤退しました。(文禄の役)

和平交渉がおこなわれましたが、交渉は決裂して、1597年に加藤清正らが大軍を率いて再び上陸しました(慶長の役)。ところがこの時、李舜臣は周囲の反感から再び「白衣従軍」処分をうけていたために、後任の水軍統制使が応戦しましたが巨済島の海戦などで大敗をきっし、朝鮮水軍は壊滅してしまいました。あわてた李氏朝鮮政府は、李舜臣の処分を解いて、全羅・慶尚・忠清の三道水軍統制使に任命しました。しかし、全滅した水軍の打撃は大きく、残兵を集め、船艦を修復して、水軍をたてなおしました。そして、中国「明」の助けをかりたことで、翌年7月には明水軍の指揮下に入りました。

その1か月後の8月に秀吉が亡くなり、日本軍に退却命令が出されたことで、小西行長は明との間に講和を成立させ海路を撤退しようとしましたが、李舜臣はこれを拒絶したことで戦は長引き、この日、日本軍の鉄砲の流れ弾にあたって戦死したのでした。

なお、李舜臣の名は、日本では長い間ほとんど無名の将軍でした。日本の統治期に、日本人および朝鮮人文学者や研究者によってその偉業が「発掘」されました。これにより、韓国では「救国の英雄」として人々から尊敬され、肖像画が紙幣や硬貨に描かれたり、韓国各地に銅像が建てられています。


「11月19日にあった主なできごと」

1805年 レセップス誕生…地中海と紅海を結び、インド洋へとつながる海の交通の要となるスエズ運河を建設したレセップスが生まれました。
 
1827年 小林一茶死去…江戸時代後期の俳人で、子どもや動物、自然を愛して素朴な歌を読み続けた小林一茶が亡くなりました。

1828年 シューベルト死去…『ぼだい樹』『野ばら』『アベ・マリア』など600曲以上もの歌曲、『未完成交響曲』などの交響曲や室内楽曲、ピアノ曲などを作曲したシューベルトが亡くなりました。
 
1956年 東海道本線全線電化…米原~京都間がこの日電化され、東海道本線が全線電化。電化完成により、東京、大阪間を走る最速特急が7時間半となりました。これを記念し、1964年からこの日を「鉄道電化の日」としています。

今日11月18日は、オペラ『魔弾の射手』『オベロン』や、ピアノ曲『舞踏への勧誘』などを作曲したドイツロマン派音楽の祖といわれるウェーバーが、1786年に生まれた日です。

北ドイツ・リューベック近郊のオルデンブルクに生まれたカール・マリア・フォン・ウェーバーは、生まれて間もなく父が劇団主となったために、ソプラノ歌手の母とともに一家でオーストリア全土を巡業の旅ですごしました。9歳のころに本格的な音楽教育を受けると才能を発揮しだし、14歳では歌劇『森の娘』を作曲したり、ビアニストとしても活躍をはじめました。

1813年にはプラハ歌劇場の芸術監督に就任、オペラの改革に尽力して、低迷していた歌劇場を再興させました。1817年には、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場に移ると、当時宮廷ではイタリア・オペラが主流であったのに対し、真のドイツ国民のオペラの樹立を念願するようになりました。ウェーバーは、中世から伝わるドイツの森林の伝説を、ドレスデンに住む詩人に台本を依頼し、3年近くをかけてオペラを完成させました。それが1821年、ベルリンの王立歌劇場で初演された『魔弾の射手』でした。

3幕からなる作品で、こんなあらすじです。

主人公の若い狩人マックスには、アガーテという森林護衛官の娘の恋人がいます。彼女と結婚するためには、射撃大会で優勝しなくてはなりません。腕に自信がないマックスは、仲間の狩人で悪人のカスパールにそそのかされて、魂とひきかえに悪魔から7発の魔弾を受けとってしまいます。この弾は、6発までは射手の思い通りに命中するものの、最後の1発は悪魔の自由になって、悪魔が欲するものに当たります。いよいよ射撃大会がはじまると、マックスの最初の6発をみごとに的に命中させ、立派な成績をおさめますが、最後の1発は、木の枝にとまっている白ハトを撃つことを命じられます。じつはその白ハトは、悪魔がアガーテをかえた姿でした。いまにも撃ちおとされようとしたとき、森の聖者の力が働き、魔弾は木の陰に隠れていたカスバールに当たりました。こうして、マックスとアガーテは、悪魔の手から救われ、めでたく結婚を許されるのでした……。

この作品は圧倒的成功をおさめ、雄大で魅きつける「序曲」をはじめ民謡風のメロディがあちこちにおりこまれたことから、ドイツ国民オペラの最初の作品といわれるようになりました。とくに、第3幕の「狩人の合唱」はよく知られています。この『魔弾の射手』を観賞したことで、ワーグナーやベルリオーズら、後に大作曲家となる人たちが、作曲家を志したともいわれています。

ウェーバーの代表作には、1819年に発表された『舞踏への勧誘』があります。優しく美しいピアノの小品で、宮廷の大広間で紳士と淑女が会話を交わし、ワルツを踊り、それが終わるまでを描いた描写音楽です。のちにベルリオーズが管弦楽用に編曲したものもよく演奏されます。

『魔弾の射手』で、「これ以上の成功は2度とないだろう」と栄光を味わったウェーバーでしたが、その作風に暗い影がただよいはじめ、1826年、ロンドンのコベント・ガーデン歌劇場の依頼によりオペラ『オベロン』を作曲しますが、そのときは結核にかかっていて、病苦を押して渡英、自ら指揮棒を振って成功を収めました。しかしまもなく病状が悪化して、その年の6月にロンドンで亡くなりました。まだ39歳の若さでした。


「11月18日にあった主なできごと」

1901年 八幡製鉄所操業…福岡県北九州市に建設された八幡製鉄所が操業を開始しました。近代化を推進していた明治政府が、殖産振興・富国強兵をもとにしたわが国初の本格的な製鉄所で、日露戦争、第1次世界大戦での鉄鋼需要の急増で、急速に発展しました。

1903年 パナマ運河条約…太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河は、スエズ運河をひらいたレセップスが開発に着手しましたが、難工事のため断念。アメリカ合衆国はパナマとの間でパナマ運河条約を結び、10年以上もかけて建設を進めて、1914年に開通させました。そのため長いあいだアメリカによる支配が続いてきましたが、1999年末、パナマに完全返還され、現在はパナマ運河庁が管理しています。

1904年 古賀政男誕生…『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家の古賀政男が生まれました。

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