児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年11月

たまには、子どもたちに身近な科学のおもしろさを、お話ししてあげましょう。「おもしろ科学質問箱 34」

磁石とは、鉄を引きつる性質を持つ物質のことで、両はしにN極とS極を持ち、N極とN極あるいはS極とS極のように同じ極同士を近づけると反発し、N極とS極を近づけると引合う性質を持っています。S極だけ、あるいはN極だけの磁石はなく、磁石を2つに切っても、4つに切っても、同じ数の磁石になります。

古代ギリシアでは、鉄を引き寄せる石として磁石はすでに知られていました。古い伝説によりますと、マグネスという羊飼いが、持っていた鉄のつえと、はきものの鉄のくぎが、そばにあった黒い石にくっついて動けなくなったことから、磁石が発見されたこと。また、このふしぎな石が小アジアのマグネシアの町でも発見されたことから、「羊飼いのマグネス」「マグネシアの石」が、ヨーロッパのさまざまな言語で磁石をさす言葉「マグネット」の語源になったといわれています。

磁石というものの正体は、まだ完全には解明されていません。有力な説は、「鉄片をつくっている無数の分子は、それぞれが小さな磁石(分子磁石)で、ふつうはこれらが、勝手な方向をむいている。そのため、磁石の性質は、おたがいに打ち消しあって、本来の性質があらわれない。ところが、強い磁気をもつ磁石にふれると、鉄片の分子磁石は、そろって同じ方向を向くために、磁石にくっつく」という理論です。磁石をまっかになるほど熱すると、磁気がなくなってただの鉄になるのは、温度が高くなると分子磁石が混乱して、勝手な方向を向いてしまうためであること。かたい鋼鉄の中では、分子がぎっしりつまっているために、動きにくいために、ふつうの鉄より磁化しにくく、いちど磁化された鋼鉄は、磁気を失いにくいこと。そんな事実も、この理論を裏づけています。

実は、この世にあるすべてのものは、どれも小さな磁石でできていますが、みんなN極とS極がバラバラな方向を向いているので全体としては磁石になりません。いっぽう鉄は、磁石を近づけると、とても小さな磁石が全部同じ方向に向きやすい性質を持っているので、磁石にくっつきやすくなるのだそうです。分子が磁石になる元素は、鉄以外にニッケルやコバルトがありますが、磁化しても弱い磁石にしかなりません。

磁石に対し、近代的な科学の光をあてたのは、エリザベス女王の侍医であったギルバートです。みずから球形の磁石をこしらえ、羅針盤がつねに北をさすのも、「地球そのものが大きな磁石である」ことを証明して見せました。その実験と論証による方法論は、その後の科学に大きな影響を与えました。

今では、工場などで、原料を熱してドロドロにとかしたりまぜたりして、さまざまな磁石が作られています。強い磁力を与えながら冷やしたり、焼きかためたりすれば、原料の中のとても小さな磁石が同じ方向を向いたままになります。さらに、コイルの中に原料を置き、コイルに強い電流を流して磁力を与えたりしながら磁石をこしらえ、さまざまな用途に使用されています。主な磁石の種類、原料、作り方は、次のようなものです。

フェライト磁石…主な原料は酸化鉄で、茶わんなどと同じように原料を焼き固めて作ります。
サマコバ磁石…主な原料はコバルト・サマリウム・鉄で、原料をとかしてまぜあわせてから焼き固めます。*サマリウムは希土類元素の一つ
ラバー磁石…主な原料はゴム・フェライト磁石の粉で、ゴムの中にフェライト磁石の粉をまぜて固めます。


「11月29日にあった主なできごと」

1529年 王陽明死去…儒教の流れをくむ「朱子学」に対し、日常生活の中での実践を通して人の生きるべき道をもとめる「陽明学」という学問の大きな流れを作った王陽明が亡くなりました。

1875年 同志社創立…新島襄らが京都に、キリスト教精神に基づく「良心」を建学精神に掲げ、漢学以外はすべて英語で教育するという「同志社英学校」(現・同志社大学)を創設しました。

1987年 大韓航空機爆破事件…イランのバクダッドから韓国のソウルに向かう航空機が、ミャンマー沖で爆破され、乗員・乗客115人が死亡・行方不明になりました。北朝鮮の工作員金賢姫(キムヒョンヒ)らが実行犯と判明しましたが、北朝鮮は関与を否定しているため、真相は不明のままです。

今日11月28日は、統計力学、核物理学、量子力学の分野で、世界最高レベルの業績を残したイタリア出身の物理学者フェルミが、1954年に亡くなった日です。

1901年、ローマに生まれたエンリコ・フェルミは、地元の公立学校で伝統的な教育を受けましたが、数学や物理学に強い興味を示し、アインシュタインの相対性理論を独学で理解するほどでした。ピサ大学付属の師範学校をへて、1922年ピサ大学で物理学の学位を取得するとローマにもどり、ドイツのゲッティンゲン大学に短期留学してマックス・ボルンらに学び、帰国後はフィレンツェ大学の講師になりました。

1926年、「フェルミ統計」とよばれる量子統計力学に関する理論を発表しました。これは、金属の熱伝導や、恒星が進化の終末期にとる形態の一つ白色矮星(わいせい)に関する理論的な基礎を与えるもので、フェルミは、理論物理学者として世界的な名声をえて、翌年には27歳の若さでローマ大学の理論物理学教授に就任しました。

さらにここで、「フェルミのベータ崩壊の理論」を完成させたり、中性子(原子核、陽子とともに原子をを構成する電気的に中性な素粒子)の研究をすすめ、自然に存在する元素にこの中性子を照射することによって、40種類以上の人工放射性元素を生成させました。これらの一連の研究成果によって、1938年にノーベル物理学賞を受賞しました。

当時のイタリアは、ムッソリーニによるファシスト独裁政権下にあり、フェルミの妻がユダヤ人だったために迫害を受けていました。そこでフェルミは、ノーベル賞受賞式に出席するためにストックホルムを訪れた際、夫人と共にアメリカに亡命、コロンビア大学物理学教授となりました。

この亡命直後、ドイツのハーンが核分裂実験に成功したことを知ったフェルミは、核分裂反応の研究に従事しだし、1942年シカゴ大学で世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」(フェルミ炉)を建造し、原子核分裂の連鎖反応の制御に成功しました。アメリカの原子爆弾開発プロジェクトである「マンハッタン計画」でも中心的な役割を演じましたが、その後の水素爆弾の開発には倫理的な観点から反対をしています。

第二次世界大戦後は、シカゴ大学内に設立された原子核研究所の教授となって素粒子論の研究を行って、多くの業績を残しました。いっぼう、フェルミの講義は評判となり、多くの若い研究者を育てました。弟子たちは後に、米ソの素粒子物理学の基礎を築きあげています。

なお、フェルミにちなみ、原子番号100の元素は「フェルミウム」と命名されています。また、10のマイナス15乗mは1フェルミとされ、小惑星の一つもフェルミと名づけられました。


「11月28日にあった主なできごと」

1262年 親鸞死去…『南無阿弥陀仏』と念仏をとなえれば来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然に学び、その教えを発展させて「浄土真宗」を開いた親鸞が亡くなりました。

1883年 鹿鳴館開館…日本初の洋式社交場が、東京・内幸町に開業。外国人を歓迎する舞踏会がさかんに行われ、欧化主義風潮の拠点となったことで、1887年ころまでの狂熱的な一時期を「鹿鳴館時代」とよんでいます。

今日11月27日は、江戸時代の文化・文政期に活躍した歌舞伎狂言作家の鶴屋南北(つるや なんぼく)4代目が、1829年に亡くなった日です。

1755年、染物職人の子として江戸日本橋に生まれた鶴屋南北(幼名・勝次郎)は、子どものころから父に連れられて観る芝居が大好きでした。やがて狂言作者を志して、1777年に桜田治助の門に入り、のちに金井三笑、中村重助、増山金八らに師事して、桜田兵藏、沢兵藏、勝俵藏を名のって作品を発表するものの、当時の作者はほとんど役者に従属するものだったため、役者の支持がうけられず、30年近くも下積みのままでした。

1804年、江戸河原崎座の尾上松助に見出され、かれのために書き下ろした『天竺徳兵衛 韓噺(いこくばなし)』は大当たりとなりました。これは、江戸時代前期の商人で探検家だった天竺徳兵衛を主人公に、奇ばつな構想と、早変わりや舞台機構を駆使した変化にとんだ展開は、長い間の修行での蓄積を、いっきに噴出させた作品でした。

翌年には河原崎座で『四天王楓江戸粧』も成功させ、1808年には市村座『彩入御伽草』で怪談物の狂言が人気となると、1811年に四代目鶴屋南北を襲名しました。その後は、松本幸四郎、坂東三津五郎、岩井半四郎という当時の3大スターに、「世話物」という、当代の事件に取材した社会劇で、文化・文政時代の町人生活を生き生きと描写したことで、江戸歌舞伎界の第一人者なっていきました。とくに、代表作『東海道四谷怪談』をはじめ、7変化する『お染久松 色読販(うきなのよみうり)』など、独自の怪談劇を中心に、亡くなるまでに120編もの作品を書いています。

今も、怪談劇の傑作として人気のある『東海道四谷怪談』は、江戸四谷周辺につたわる、いくつかの話をまとめたものを脚色したもので、こんな内容です。

田宮左門の娘・お岩は、夫である伊右衛門の悪事(公金横領)を理由に、実家に連れもどされていました。伊右衛門は左門に、お岩との復縁を迫るものの許しがでません。そこで伊右衛門は、辻斬りに見せかけて、左門を殺害します。その同じ場所には、お岩の妹・お袖に恋していた薬売りの直助が、お袖の夫・与茂七(実は別人)を殺害していました。ちょうどそこへお岩とお袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つけます。なげき悲しむ2人に、伊右衛門と直助は仇をうってやるといいくるめ、伊右衛門とお岩は復縁し、直助とお袖は同居することになります。ところが伊右衛門は、病がちなお岩を、しだいにきらうようになります。
いっぼう、伊右衛門の上役伊藤喜兵衛の孫・お梅は伊右衛門に恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿にしたいと思います。結託したふたりは、あんまをおどしてお岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策しました。喜兵衛から贈られた薬のために顔が崩れたお岩を見て、おびえたあんまは、伊右衛門の計画をお岩に暴露します。お岩はもだえ苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって亡くなります。
伊右衛門は伊藤家の婿に入るものの、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、お梅と喜兵衛を殺害して逃亡します。お袖はあんまに姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許しますが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってきます。不貞を働いたということで、お袖は、与茂七、直助ふたりの手にかかって死にます。お袖の最後の言葉から、直助は、お袖が実の妹だったことを知って自害。伊右衛門はお岩の幽霊に苦しめられて狂乱状態のところへ、真相を知った与茂七がやってきて、しゅうとの左門と義姉のお岩を殺した伊右衛門を討つのでした……。


「11月27日にあった主なできごと」

1095年 十字軍の提唱…ローマ教皇ウルバヌス2世は、この日フランス中部クレルモンの宗教会議で、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために、聖なる戦いを勧告。これにより、胸に十字の標識をつけた兵士・キリスト教徒が聖地にむけて出発する「十字軍時代」が始まりました。

1769年 賀茂真淵死去…江戸時代中期に活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が亡くなりました。

1894年 松下幸之助誕生…パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者であるとともに、PHP研究所を設立して倫理教育に乗りだ出す一方、松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも意を注いだ松下幸之助が生まれました。

1958年 皇太子婚約発表…皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)の婚約がこの日に発表され、美智子さんが民間から出た最初の皇太子妃となることで日本中がわきたち、ミッチーブームがおこりました。

今日11月26日は、世界初の実用的なガソリン動力による自動車を発明したドイツのエンジン設計者・自動車技術者のベンツが、1844年に生まれた日です。

ドイツ南西部にあるカールスルーエに生まれたカール・フリードリヒ・ベンツは、子どものころから錠前などに興味をもち、1853年9歳で地元の工業学校に学ぶうち、蒸気機関車に興味をもつようになりました。1860年カールスルーエ大学の機械工学科に入学すると、機械工学や内燃機関について深く学び、卒業後はさまざまな機械工場などを転々としながら技術者としての腕を磨きました。

1871年、マンハイムに機械工作所を設立して独立すると、新型機関の開発に取り組み、1877年ころから馬なし馬車=自動車の設計にとりくみはじめました。そして翌1878年の年末に2サイクルエンジンを作ることに成功、まもなくこの特許を取得しました。

1883年ガス動力車両工場ベンツ社を創業すると、これをきっかけに、電気着火法や気化器などその後に広く普及するさまざまな機関を発明し、1885年には1気筒4サイクルのガソリンエンジンを搭載した自動三輪車を作り、世界で最初の「ガソリンを動力とする車両」としての自動車を、工場敷地内で走らせることに成功しました。しかし、スピードは時速16kmにすぎず、これを改良した2号機、3号機を製作。ミュンヘンやパリの博覧会で披露して高く評価をされたものの、自動車の販売の拡大にはなりませんでした。

そこでベンツは、四輪構造の自動車の研究に入り、1892年から93年にかけて、四輪用自動車装置を発明し、点火方式、冷却装置などにも改良をくわえて、本格的な販売を開始しました。こうして1889年に従業員50人だったマンハイム工場は、10年後の1899年には430人となり、世界最大の自動車メーカーとして、600台の自動車を生産するまでになりました。しかしベンツは、生産増にともなう資金調達問題に端を発した会社内の争いにいやけがさして、1903年に引退、2人の息子にラーデンブルクに新会社を設立させ、余生をすごし、1929年に亡くなっています。

なお、ベンツ社は1926年、ベンツと同時期に自動車を開発したダイムラーの工場と合併し、ダイムラー・ベンツ社となりました。その後同社は1998年ダイムラー・クライスラー社、2007年からはダイムラー社となっています。同社製の乗用車メルセデス・ベンツに代表されるベンツの名は、世界の高級車の代名詞になっていることはよく知られています。


「11月26日にあった主なできごと」

1086年 院政のはじまり…白河天皇がわずか8歳のわが子に、堀川天皇として位を譲りました。上皇となった白河天皇は、幼い天皇の後見役として政治の実権を握り続けました。上皇のいるところが「院」と呼ばれ、そこで政治が行なわれたために「院政」とよばれます。

1906年 満鉄設立…日露戦争に勝利した日本は、ロシアが建設した東清鉄道を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)として経営することになりました。満鉄は、鉄道事業を中心に広範囲にわたる事業を展開、日本の満州(中国東北部)進出の中核となりました。

1911年 小村寿太郎死去…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官の小村寿太郎が亡くなりました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジアの探検にそそぎ、砂にうずもれた楼蘭の町や、インダス川の水源や、ヒマラヤ山脈の北にあるもう1つの山脈トランスヒマラヤなどを探りあてたスウェーデンのヘディンが亡くなりました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 105]
 
昔、あるところに、夫婦とかわいいひとり娘がくらしていました。ところがあるとき、母が病気で死んでしまい、父親は新しい母親(まま母)をもらいました。けれど、まま母は、かしこく美しい娘がにくらしくてなりません。なんとかして追い出そうと考えていました。そこで、父親に「あの子は、わたしと暮らすのがいやなので、神さまに祈って、わたしをのろい殺そうとしています」と、つげ口をしたのです。

つげ口を信じた父親はひどくおこりました。そしてある日、祭を見にいこうと、娘にきれいな着物をきせて家を出ました。ところが、祭というのに山を越えようとするので「父さま、祭はどこにあるのです」と聞くと、「ふた山越えた、城下の祭さ」といって、山の奥へ入っていきました。ひと山越えた谷間のあたりで、「昼飯にしよう」と、もってきた握り飯を食べはじめました。そのうち娘は、歩きくたびれたために、いねむりをはじめました。それを見た父親は、腰にさしていた刀で、娘の右腕を切り落とし、泣きさけぶ娘をそのままにして、ひとりで山をおりてしまいました。

血まみれになって転げながら後を追いましたが、もう父親のすがたはありません。すてられたのがわかると、どうしてこんなひどい目にあわされたのか、娘はかなしくてなりませんでした。それでも、谷川の水で切られた腕の傷口を洗い、草の実や木の実などを食べて、どうにか生きぬいておりました。

あるとき、馬にのった若者が、山へ猟にきました。そのうち若者は、片腕の娘をみつけました。「どうしてこんな山の中にいるのかい?」娘は目にいっぱい涙をためて「ある人に腕を切られて、この山にすてられたのです」娘から事情をきいた若者は、娘に深く同情しました。「なにはともあれ、わたしの家にくるがよい」と、若者は娘を馬にのせて山を降りました。りっぱな家に帰ると、「母さま、狩は不猟でしたが、山の中で片腕のない娘をひろって帰りました。とてもかわいそうな娘ですから、どうか家において下さい」。若者の母親も心やさしい人で、自分の娘のようにかわいがりました。そのうち娘は、若者の嫁になり、そのうち、赤ちゃんが生まれることになりました。

ちょうどそのころ、若者はきゅうに江戸へいくことになりました。「母さま、子どもが生まれましたら、すぐに早飛脚を立ててください」といいおいて、旅立ちました。それからまもなく、かわいい男の子が生まれました。母親はすぐに、近くに住む使い走りの男に頼んで、早飛脚を立てました。むかしは、遠くに手紙をとどけるために、飛脚がわざわざ持っていったのです。たのまれた飛脚は、野をこえ山をこえて走りました。とちゅうでのどがかわいたのである家に立ちより、水をもらって飲みました。ところが、その家は娘が生まれた家でした。

まま母は、早飛脚に「飛脚さん、どこまでいくのですか」と、たずねました。「おらが村の長者殿の、片腕のない奥方が男の子を生んだので、江戸にいる若さまへ早知らせを持っていくところだ」と、いいました。娘がまだ生きていると知ったまま母は、飛脚に酒を出してもてなし、飛脚がうとうとしているすきに、文箱の手紙をとり出すと、「玉ともなんともたとえようのない、かわいい男の子が生れました」と書いてあります。そこでまま母は、「鬼とも蛇ともわけのわからない化けものが生れた」と書いたものとすりかえ、「帰りにもかならず寄って、江戸のみやげ話を聞かせてください」と、親切そうにいいました。

江戸で飛脚からの手紙を見た若者は、とても驚きました。けれども「鬼でも蛇でもよい、私が帰るまで大切に育てて下され」という返事を書いて、早飛脚に持たせました。早飛脚は、帰り道も、ふるまい酒にありつこうと、また寄りました。まま母は、また酒を飲ませて飛脚を酔いつぶすと、「そんな子など見たくもない。手なし嫁を見るのもいやになった。子どもといっしょに追い出して下さい」と書きかえて、文箱に入れました。

娘は、夫からの返事を読んで、どんなに悲しいと思ったかしりません。(もしかしたら、あの人は、都ですてきな女性と出あって、私なんかいやになったのかもしれない)
そう考えた娘は「母さま、このかたわものの私にかけて下さったご恩を一つも返せないで出ていくのは悲しいことです。でも、若さまの心とあればしかたありません。出ていきます」というと、子どもを背負わせてもらい、泣くなく家を出ていきました。

家は出たもののいくあてもなく、泣きさけぶ赤んぼうをあやしながら、とぼとぼ歩いていました。とてものどがかわいてきたので、小川の水をくんで飲もうとすると、背中の子どもが背からぬけ落ちそうになりました。娘はあわてて、背中の子をおさえようとしました。するとふしぎなことに、なかったはずの右手が生えて、ずりおちる子どもをしっかりと抱きとめていたのです。「わぁ、子どもが助かってよかった。右手がはえてよかったわ」とあたりを見まわすと、そばのお地蔵さんの右手がなくなっていました。「ああ、このお地蔵さんが、わたしに手をくれたんだわ。そうだ、もらったお金でここに小屋を建てて、お地蔵さんをお守りしよう」

それからまもなく、若者は、江戸での用事をすませ、子どもや妻や母に早く会いたいと、いそいで帰って来ました。けれども、子どもと妻が家を出たということを知り、がっかりしました。いろいろ話を聞くうち、仕立てた早飛脚が、手紙をすりかえられたことを知りました。

若者はあちこち探し歩きましたが、どこにもみつかりません。1年がすぎ、2年がすぎ、もうあきらめかけて、流れのそばの地蔵小屋の隣にある店屋へ腰かけました。すると、3つばかりの男の子が、「お父さん、お父さん」と寄ってきます。「それは、よそのお父さん」という女をみると、自分の妻とそっくりです。でも、手があるから妻ではないと思いました。でも、よくよく見ると、探していた妻にまちがいありません。娘は、小川のほとりで右腕をさずかったことをくわしく話しました。

こうして3人は、どんなにうれしかったことでしょう。家にもどると、母親と大祝いをして、みんなで仲良くくらしました。


「11月25日にあった主なできごと」

1890年 第一回帝国議会…明治憲法発布翌年のこの日、帝国議会が開かれました。議会は、貴族院と衆議院の2院からなり、貴族院議員は皇族・華族、多額納税者などから選ばれ、衆議院議員は、25歳以上の男子で国税15円以上を納める人に限定されていました。
 
1892年 オリンピック復活の提唱…フランスのクーベルタン男爵は、アテネで古代競技場が発掘されたことに刺激され、スポーツによる世界平和を築こうとオリンピック復活の提言を発表、オリンピック委員会が作られ、4年後に実現しました。

1970年 三島由紀夫割腹自殺…『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』など、ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家の三島由紀夫が、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげました。

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