児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年10月

今日10月9日は、経営不振にあった読売新聞を名実ともにわが国有数の大新聞に育て上げ、日本テレビ網を築きあげた正力松太郎(しょうりき まつたろう)が、1969年に亡くなった日です。

1885年、現在の富山県射水市の土建業者の子として生まれた正力松太郎は、高岡中学、金沢の第四高校をへて、1911年東京帝国大学独法科を卒業後、内務省の役人となりました。1913年には警視庁へ入り、牛込神楽坂警察署長などをへて、警視庁監察官となり、早稲田大学学園騒動や米騒動を鎮圧するなどの功績により、警務部長までのぼりつめました。

しかし、1923年の年末におきた大正天皇の摂政官裕仁(のちの昭和天皇)を狙撃するという「虎ノ門事件」を防げなかった責任をとって辞職すると、後藤新平の世話により、1924年に営業不振だった読売新聞の社長に就任しました。以来、新聞に日本初の「ラジオ版」を創設するなど新企画をつぎつぎに提案、常に新しいものに大胆に挑戦したことで、同新聞を大新聞に育て上げました。1934年に野球の本場大リーグ選抜チームを招待して、プロ野球チーム「巨人軍」の前身である大日本野球倶楽部を創立させたこともそのひとつで、「プロ野球の父」ともいわれています。

ところがその後、太平洋戦争を積極的に推進する大政翼賛会や内閣情報局にかかわったことから、1945年の敗戦後にA級戦犯として逮捕、公職追放されました。1947年に不起訴、釈放された正力は、1952年に日本テレビ初代社長に就任すると、翌年テレビ放送の本放送開始し、力道山のプロレス放送を売り物に、テレビを名実ともに大衆のものにしました。1954年には読売社主となっています。

いっぽう、衆議院選挙に富山2区自民党から出馬して当選をはたすと、連続5回議員選挙に当選、第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官、1956年には原子力委員会の初代委員長に就任、5年後に日本に原子力発電所を建設する構想を発表したことで「原子力発電の父」ともいわれました。これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「原子力発電は、わが国の原子力開発の将来に対して長期にわたって重大な影響を及ぼすに違いないのだから、慎重な上にも慎重でなければならない」と、抗議のために辞任しています。
 
1957年の第1次岸内閣では国務大臣に就任しましたが、1958年には読売社主に復帰。大衆の求めているものを提供する先見性と企画力で、読売新聞を発行部数世界一を実現させ、グループの事業発展に貢献したことはよく知られています。


「10月9日にあった主なできごと」

1547年 セルバンテス誕生…ユーモア、風刺、空想に満ちた作品『ドン・キホーテ』を著したスペインの作家セルバンテスが生れました。

1874年 万国郵便連合スタート…さまざまな国の人々が、国際交流や協力ができるように、世界の加盟国間に安い料金で郵便が送れる「万国郵便連合」(UPU)ができました。日本は1877年2月にUPUに加盟しました。

1946年 男女共学の実施…文部省(現・文部科学省)は、「国民学校令」の一部を改め、男女共学の実施を指示しました。それまでは別々にされていた男子と女子の授業は、同じ教室で受けるようになりました。

今日10月8日は、暗殺された井伊直弼のあとを受けて幕政を主導し、皇女和宮の降嫁を実現させるなど、幕府の権威失墜防止につとめた安藤信正(あんどう のぶまさ)が、1871年に亡くなった日です。

1819年、磐城(いわき)国平藩9代目藩主の長男として江戸藩邸に生まれた安藤信正は、幼いころから文武を修め、経世救民法をまなびました。27歳のときに藩地へおもむき、1847年父の死により10代藩主となって、領民から仁君としてあがめられる存在となりました。

信正が徳川幕府の職制に加わったのは、1848年江戸城中における武家の礼式を管理する奏者番になってからで、1851年には寺社奉行、1858年に大老井伊直弼のもとで若年寄となるほど、出世コースをひたはしりました。ところが、井伊直弼が朝廷の了解をえないまま独断で日米通商条約を締結したことや、反対派をつぎつぎと処罰する「安政の大獄」などに反発した人たちが、1860年3月に「桜田門外の変」で井伊直弼を暗殺すると、老中になったばかりの信正は、久世広周(くぜひろちか)と共に、老中首座となって幕政をとりしきる最高権力者となりました。

信正が行った政治は、井伊の強硬路線を否定し、朝廷と幕府が協力しあうというものでした。この政策は「公武合体策」というもので、弱体した幕府が朝廷の権威を借りて、支配力を強化しようという意図がありました。この政策をより具体的にすすめるために、孝明天皇の妹の和宮を、第14代将軍徳川家茂(いえもち)の夫人にしたいと4月に朝廷に提案、ねばりづよい交渉の上、8月に勅許をえることに成功しました。これは、信正のもっとも大きな功績といってよいでしょう。

その頃、日本国内の政情不安によりアメリカ公使館通訳ヒュースケンが殺害されるなど、さまざまな問題が起こりましたが、アメリカに南北戦争がはじまったため日本に介入できなかったこともあって、信正は無難にこれらを処理することに成功しました。また、諸外国と通商条約を結んだことで問題化していた金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても防止政策を行うなど、幕末の政局安定化に努めました。

ところが1862年1月、信正は和宮降嫁問題にうらみをいだいた尊王攘夷派の浪士の襲撃を受け、背中に傷をうけてしまいました(坂下門外の変)。また、和宮降嫁は、朝廷の幕政への介入という結果につながり、信正らが桜田門外の変の処理やアメリカ公使ハリスへ不正があったなどと指摘され、4月に信正は老中を罷免され、隠居・謹慎を命じられたました。さらに、石高を減らされ、永蟄居(えいちっきょ)を厳命されてしまいました。

永蟄居は、1866年の家茂死去により許されましたが、1868年に明治政府が立ち上がり、戊辰戦争がはじまると、信正は奥羽の諸大名と手を結んで官軍と戦おうとしたという嫌疑がかけられ、居城の磐城平城は落城、翌年信正は許されたものの、2年後に病没してしまいました。


「10月8日にあった主なできごと」

1856年 アロー号事件…中国の広州湾外で、清の役人がイギリス船アロー号を立ち入り検査し、船員12名を海賊容疑で逮捕しました。イギリスは清に厳重に抗議、宣教師を殺害されたとするフランスと連合して、1857年から1860年にかけて、清と英仏連合軍とが戦う「アロー戦争」となりました。最終的に北京条約で終結、清の半植民地化が決定的なものとなりました。

今日10月7日は、「時事新報」主筆をへて、三井の工業化をすすめて三井財閥の基礎を築きあげた中上川彦次郎(なかみがわ ひこじろう)が、1901年に亡くなった日です。

1854年、豊前国(大分県)中津藩士の子として生まれた中上川彦次郎は、15歳ころまで藩校「進脩館」で四書五経などを学んだ後、1869年に上京、母の弟である福沢諭吉の家に住みながら慶応義塾に学びました。卒業後は義塾の教師となりましたが、伊予宇和島藩立洋学会校長にばってきされました。1874年には、小泉信吉と共にイギリスへ留学、ロンドンで井上馨を知り、親しく接しました。

1877年に帰国すると、翌年に工部卿となった井上に誘われて工部省に入省、井上が外務卿となると中上川も外務省に入り、外務省太政官権大書記官となって井上の下で条約改正案の作成にあたりました。しかし、1881年大隈重信らが政府を追われる「明治十四年の政変」に伴い、外務省を辞し、福沢が創刊したばかりの「時事新報」の社長兼主筆となりました。5年間の努力があって、同紙を一流新聞に育て上げると、1887年に請われて新設された「山陽鉄道」(現・JR山陽本線)の社長となりました。

1891年には、井上の要請を受けて経営危機にあった「三井銀行」に入行、副長として実質的経営権をにぎると、武藤山治ら慶応義塾の若き俊秀を多く採用し、「世辞と愛嬌」というこれまでの三井の商法を改め、明治政府との不透明な関係を一掃して不良債権を回収するなど、近代化を次々に打ち出して、成功をおさめました。さらに、これまでの「商業路線」から、三井の事業の中心を「工業路線」に大転換をはかりました。芝浦製作所、王子製紙、鐘淵紡績、富岡製作所などを、三井の系列化にしたのもその一貫でした。このような改革は、日本産業界全体の「心臓入れかえ」ともいわれて注目を集めました。

1893年には、三井銀行、三井物産、三井鉱山の3合名会社制をとって、益田孝内閣といわれた三井物産を機構の下に組みこみ、三井銀行が総合指令部となり、中上川が総帥として君臨する形をとりました。

井上の反対を押し切って桂太郎の邸宅を差し押さえるなど、中上川の敏腕ぶりは財務体質の健全化を図りましたが、水面下ではすこしずつ中上川反対派が結成されつつありました。そして、日清戦争後の恐慌のなかで、井上や益田にあやつられたある新聞の三井銀行攻撃にあって腎臓病に倒れ、産業発展のかじ取りをするという遠大な夢を実現するにはあまりにも短い、48年の生涯を閉じてしまいました。


「10月7日にあった主なできごと」

1674年 狩野探幽死去…江戸幕府代々の御用絵師として、日本画を代表する狩野派の栄える基礎を築いた狩野探幽が亡くなりました。

1949年 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立…西ドイツ成立後1か月もたたないこの日、東ドイツが誕生。ソ連の助けを借りて、社会主義国家として第1歩をふみだしました。なお、41年後の1990年10月3日に両ドイツは統一を回復。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝4か国は、ドイツに対してもっていたさまざまな権利を放棄して、統一ドイツは完全な主権をもった国家として国際社会に復帰しました。

「おもしろ古典落語」132回目は、『勘定板(かんじょういた)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「ところ変われば品変わる」というように、同じものでも、場所によってよび名が変わるということはよくあることです。東京で「坊ちゃん」というのを大阪では「ぼんぼん」、東京の「おじょうちゃん」が大阪では「いとはん」といいます。東北のほうへいきますと、「おりる」というのを「おちる」、ものごとが「済(す)んだ」というのを「しんだ」というところがあるそうです。そういうところの人が電車の車掌さんになって、「『お乗りのかたは、降りたかたが、済んでからに願います』というのを、『お乗りのかたは、おちたかたが、しんでからに願います』」とやったものですから、お客さんがビックリしたなんて、うそのようなほんとの話があります。

むかしは、便所というのがない村があったそうで、用をたすときは、川にヒモのついた板が流してありまして、この板をひっぱりあげて、この板の上で用をすませます。終わるとこの板をまた川へもどすと、川の水がきれいに洗ってくれる。水洗便所の元祖のようなものですね。こうして用を足すことを「勘定(かんじょう)する」といっていました。ひまな所と書く「閑所(かんじょ)」がなまったという学者もいますが……。「勘定する」ときの板が「勘定板」、その場所が「勘定場」ということになります。

この村から、江戸見物にやってきた親子連れが、上野の宿屋に泊まりました。「父っつぁまよぉ、おれ、急に勘定ぶちたくなっただ」「そりゃ困ったな。昼に食べたすしのせいかもしれねぇな。食いつけねぇもん食ったせいだろ」「すしだけじゃねぇ、さっきはうどんも食ったし、いろんなもん食って、腹がいっぺぇだ。早く、だすもんださねぇえと、気分が悪くっていけねぇ。勘定場はどこだべぇ」「それじゃ、若い衆にきいてみるべぇ」

手をたたきますと、すぐに宿の若い衆がやってきます。「へぇ、お呼びでこざいますか。ご見物は明朝からということで、案内人に先ほど申しつけまして、明朝早めにお迎えにまいります。ただいま、お風呂の支度もいたしておりますが、お呼びになりましたご用件は?」「せがれが、勘定をちょっくら、ぶたしてもらいてぇ」

「ただ今ですか? 5日ほどお泊りとうかがっておりますが…、宿のお勘定なら、お帰りになるとき、まとめていただいております。それで、けっこうなんで……」「はぁ? するてぇと、勘定ぶつのは、5日も先か?」「へぇ、さようで」「とても、そうは待てねぇ、江戸はどうか知らねぇが、おらっとこは、毎日勘定ぶつだ」「さようですか。そりゃ、毎日勘定をいただいてもかまいませんが、そんなにお急ぎにならなくとも」「おめぇは急がなくたって、おらぁ、急ぎてぇ」「そりゃ、えらく、おかたいことで」「かてぇか、やわらけぇかは、やってみねぇとわからねぇ」「わかりました。では、さっそくですから、いただいてまいりましょう」「いただく? 勘定場へ案内ぶってくんねぇかな」「へぇ、帳場のほうが、ただいま、ごたごたしてますんで、なるべくなら、こちらでねがいたいんですが」「ありゃ、ここでぶってかまわねぇのけ。そんじゃ、勘定板かしてもらいてぇ」「勘定板?」

勘定板と聞いて宿の若い衆は、算盤(そろばん)のことだろうと、気をきかせて帳場から持ってきました。そのころの算盤ですから、裏に板が張ってあるもので、それを持ってきました。「どうも、お待ちどうさま……」「えっ、これが勘定板? えらく幅もせめぇし、たけも短けぇな。これじゃ、勘定がはみだすようなこと、なかんべぇか」「そんなことはございません。どんな大きな勘定でも、そのなかにおさまりますので」「うーん、これでおさまればええがなぁ。で、どこでぶつべぇか。人の見てる前じゃ、こっ恥ずかしくてためだ」「なるほど、では、お隣りの部屋が空いておりますから、お使いください。床の間の前が、日当たりがよろしゅうございますから」「えっ、なにかい? 床の間の前でぶってもかまわねぇのけぇ」「へぇ、お済みになりましたら、ちょっと、お手を願いまして、手前があとでちょうだいにあがります」「いやぁ、そりゃすまねぇ、お頼み申すだよ」

隣の部屋へ入ったせがれ、算盤を裏返してこれにまたがって着物をまくったところ、床が少しばかり傾斜しているのか、算盤がころころと廊下へ転がり出ました。

「ありゃりゃりゃ……。父っつぁま、ちょっくら出てきておくんなせぇ。江戸は便利だ、勘定板が、車仕掛けだ」


「10月4日にあった主なできごと」

1669年 レンブラント死去…『夜警』『フローラ』『自画像』など数々の名画を描き、オランダ最大の画家といわれるレンブラントが亡くなりました。

1814年 ミレー誕生…『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家ミレーが生まれました。

1957年 初の人工衛星…ソ連が世界初となる人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功しました。これ以降、アメリカとソ連の宇宙開発競争が激しさを増していきました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 101]

むかしむかし、山のふもとの小さな村に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日おじいさんは、山へ炭焼きに出かけました。山の木を切って、炭を焼いて俵(たわら)に詰めて、近くの町ヘ売りに行くための用意です。でもおじいさんは、年を取ってきたために、仕事がつらくなりました。「ああ、腰は曲がるし、目はしょぼしょぼするし、いやになってしもうたなぁ」でも、なんとか炭俵をかついで、ヨタヨタ山を下りはじめめました。

とても暑い日だったので、のどががカラカラに渇きました。ふと見ると、突き出た岩かげから、きれいな水がチョロチョロと吹き出していました。「こいつは、ありがたい」 おじいさんは、その冷たい水を飲みました。「ああ、うまい。なんだか腰がシャンと伸びたようだぞ」おじいさんは水のおかげで元気が出たのだと思い、よく考えもせずに山を下りて家へ帰ってきました。「ばあさんや、帰ったよ」ガラリと戸をあけて家の中に入ると、おばあさんは、とびさがって、「あなたさまは、どなたでしょうか。うちのじいさんの服なんか着こんで」「なにをいうんだい、この家のじいさんだよ」おばあさんがよくよく見ると、まちがいなくおじいさんです。それも、おばあさんがお嫁に来たころの、若いおじいさんでした。おじいさんも、おばあさんにいわれて、はじめて自分が若返っているのに気づきました。

「じいさんや、おまえさんは、どうして、そんな若者になれたのだい?」おじいさんは、岩からあふれでていた清水をのんだ話をし「若返りの水というのがあると聞いたことがあるが、あれがそうだったんだな」と、いいました。「じいさんばかりが若がえって、わたしがしわくちゃばばぁじゃ、つりあいがとれません。わたしもすぐに行って、いただいてきましょう」 「まぁ、ばあさんや、そろそろ日も暮れてくる。あしたの朝にでも、ゆっくり出かけておいで」「とんでもない。その水が止まってしまったら、たいへん。今すぐに行ってくる」と、山のほうへとびだしていきました。

おじいさんは、はちまきをキリリとしめて納屋に入ると、農具をせっせとみがき、台所につり棚をこしらえたり、屋根に登って雨もりの修理をしたりしました。どんなに働いても、若者になったおじいさんは、すこしも疲れません。「若いというのは、こんなにいいものだったかなぁ」とつぶやきながら、夕焼けの山を見上げました。

おばあさんが、若くきれいになって帰って来るのを楽しみに、夕飯のしたくをして待っていましたが、いつまでたっても帰ってきません。「山で、なにかまちがいでもおきたのかな」心配しながら、うとうとしているうちに、夜が明けていました。はね起きて、家じゅうさがしましたが、おばあさんはどこにもみあたりません。「こうしてはおられぬわい」おじいさんは、村の人にわけを話して、みんなで山へ探しにいそぎました。とくに、あの清水のあたりを念入りに探しても、みつかりません。「いったい、どこへ行ってしまったんだろう?」「キツネにでも化かされて、山奥へ連れて行かれてしまったのじゃあるまいか」みんなが話し合っていると、どこからか、赤ちゃんのなきごえが聞こえてきました。「はてな、こんな山奥に、赤子が泣いてるぞ」

声をめあてに近づいてみると、岩から流れる清水のそばの草むらに、おばあさんの着物にくるまった赤ちゃんが、顔をまっ赤にして泣きじゃくっていました。おじいさんは、あっと叫んで近よると、赤ちゃんをだきあげました。「おまえは、ばあさんだな。うんと若くなりたくて、水を飲み過ぎて赤子になってしもうたにちがいねぇ」仕方なく、おじいさんは、赤ちゃんになったおばあさんをだっこして、あやしながら家へ帰ったんだって。


「10月3日にあった主なできごと」

1804年 ハリス誕生…アメリカ合衆国の外交官で、江戸時代後期に初代駐日本公使となり、日米修好通商条約を締結したハリスが生れました。

1990年 東西ドイツ統一…第2次世界大戦後、東西に分裂していたドイツは、45年ぶりに統一されました。

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