児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年10月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 102]
 
昔あるところに、貧しい木こりがいました。木こりは、朝早くから夜遅くまで働いて、いくらかお金がたまると、息子に「このお金をつかって、勉強しておいで。なにかをちゃんと学んで、わしが年をとっても、しっかりと暮らしができるようにしておくれ」といいました。そこで息子は、町の学校に入りました。いっしょうけんめい勉強したため、先生にほめられるほどでした。ところが、いくつかの教科を修めないうちに、木こりの貯めたお金がなくなってしまったため、家に帰るよりほかありませんでした。

息子は、父親の手伝いをしようとしましたが、斧(おの)が一つしかありません。しかたなく、となりの家からしばらく斧を借りることにしました。翌日、息子は父親の手伝いをして、きびきび働きました。やがて昼になり、いっしょに昼食を食べようと、父親はパンを息子に渡しました。ところが息子は、「鳥の巣でも探してくるよ」といって、パンを食べながら森の中へ入っていきました。

あちこち歩きまわっているうち、とても大きなカシの木の下にやってきました。すると、どこからかくぐもった声が聞こえてきました。「出しておくれ、出しておくれ」といっているようです。「どこにいるんだ」と大声をあげると、「木の根っこにはさまってるんだ。出しておくれ!」という声がします。しばらくあたりを探すうち、ガラスびんが、小さなほらあなの中にはさまっているのを見つけました。びんの中では、カエルのようなものが、とびはねています。そこで息子は、びんのせんをあけると、中のものはぐんぐん大きくなりはじめました。大きなカシの半分ほどの大入道になったおばけは、「出してくれたお礼に、お前の首をへし折ってやるんだ」といいます。

「ちょっと待てよ。おまえさんが、ほんとうにこのちっぽけなびんの中にいたのか、ぼくには信じられない。だから、もう一度このびんの中に入れたら信じよう。そうすりゃ、おまえさんのしたいように、ぼくをするがいい」といいました。おばけはそれを聞くと、とくいそうに、みるみる小さくなって、びんの中に入ってみせました。息子はすばやくふたをしめ、もとの場所にびんを投げ出しました。「お願いです、ここから出してください」と、あわれな声がきこえます。「だめだよ、いちど、ぼくの命をねらったやつを、助けるわけにはいかないよ」「もし自由にしてくれるなら、一生こまらないものをあげます」「だめだ、おまえは、さっきのようにだますだろう」「なんにもしない。あんたは幸運をにがしてしまうよ」

これを聞いて息子は、おばけが、あんがい約束を守りそうだと感じて、もう一度びんのせんをあけてあげました。また大入道のようになったおばけは、「さぁ、お礼にこれをあげよう」といって、ばんそうこうのような小さな布を息子にわたしました。「一方の端で傷口をなでると、傷はたちまち治る。もう一方の端で金属をなでると、鉄でもはがねでも銀に変わる」といいます。息子は斧で木の皮に傷をつけ、もらった布でなでると、傷口がきれいになおったのをみて、ほんものであることがわかり、おたがいにお礼をいって別れました。

つぎに息子は、斧を布の反対側でなでてから、木に打ちつけました。すると、斧は銀に変わっていたために、たちまち曲がってしまいました。父親はびっくりして息子を叱りつけると、使えない斧を売っていくらになるか聞いてくるようにいいました。しかたなく息子は、町の鍛冶(かじ)屋のところへ行って、いくらで買ってもらえるかたずねました。斧はまるごと銀になっていたので、400ターラーになりました。鍛冶屋には、そんな大金がなかったので、そのときあった300ターラーを息子に払い、100ターラーは借りにしました。

大金を持って父親のところへ帰った息子は、斧がいくらくらいするのか聞きました。「1ターラーあれば買えるな」「じゃあ、お隣には倍の2ターラーあげてよ。お金はありあまるほど持ってるんだから」といい、父親に100ターラーをあげ、「けっしてお金には不自由させないよ」というと、「おまえは、どうして大金持ちになったのだ」とたずねました。そこで息子はおばけのことを話してきかせました。

息子はのこりのお金でまた学校へ行き、勉強を続けました。そして、おばけにもらった布で、どんな傷も治せたため、世界でいちばん有名なお医者さんになりました。

* なおこのお話は、8月27日に紹介した「ビンのなかのおばけ」(おもしろ民話集・97) の、パターンの違うもので、グリム童話に出てくるものに近いものです。


「10月17日にあった主なできごと」

1849年 ショパン死去…ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開き「ピアノの詩人」と呼ばれた作曲家ショパンが亡くなりました。

1887年 横浜に日本初の水道…江戸時代末に開港したものの人口の急増のために水不足となり、コレラが流行したこともあって、近代的な水道が急がれ、この日横浜で使用されるようになりました。

今日10月16日は、講談社の創業者で、国民各層にむけた雑誌を刊行し、昭和前期の出版界をけん引した野間清治(のま せいじ)が、1938年に亡くなった日です。

1878年、群馬県新宿村(現在の桐生市)に教師の子として生まれた野間清治は、1895年に尋常小学校の代用教員となり、1896年群馬県立尋常師範学校(現在の群馬大学)に入学、1902年東京帝国大学文科大学(現在の東大)臨時教員養成所に入学、中等教員の資格をえて、1905年に沖縄県立中学校(現・首里高校)の教師となりました。信望をあつめて県の視学に昇進しましたが、1907年に東京帝国大学の首席書記に迎えられて上京、学内の弁論部創設に力をつくしました。

1910年に独立すると、大日本雄弁会を結成して弁論雑誌「雄弁」を創刊。政治・経済など世の中で起こっている事象についての意見を掲載するものでした。

1911年には講談社を創業し、雑誌「講談倶楽部」を創刊しました。この雑誌は、講談の速記を掲載するものでしたが、やがて血わき肉おどる大衆文学の舞台として発展していきました。1914年には「少年倶楽部」を、1916年には、<おもしろく、ためになる>をキャッチフレーズにした「面白倶楽部」を創刊しました。さらに総合雑誌「現代」(1920年)、「婦人倶楽部」(1920年)、「少女倶楽部」(1921年)をつぎつぎに創刊させたばかりか、1925年には<誰にでも読める日本一の雑誌>を宣伝文句にした「キング」を創刊して、爆発的な大ヒットをさせました。翌年には「幼年倶楽部」を創刊、最盛期は、国民のすべての階層にむけた9種類の雑誌を刊行して大衆向け雑誌文化をリード、「雑誌王」とまでいわれました。1930年には報知社(1932年から報知新聞社)を買収して社長となり、「キングレコード」の社長にもなって、戦前のマスコミ王国を築きあげました。

野間の思想の根幹には、親から受けつがれた「剣道による心身の鍛練」や講談的道徳観があり、それが「講談社文化」を形成して国民の中間層に受け入れられたことは、結果的に、修身教育をめざす国家主義的イデオロギーを普及させることにつながったとみることができます。

なお、野間のはじめた創業から続く社業の流れは、そのまま現在へとつながっています。「雄弁」の精神は「週刊現代」や「フライデー」、学芸出版などのノンフィクション分野へ。「講談倶楽部」の世界は『少年マガジン』『モーニング』『なかよし』、あるいは文芸出版へと受けつがれて、出版界の一角を形成しています。


「10月16日にあった主なできごと」

1012年 藤原道長絶頂期の歌…藤原氏の全盛をきずいた道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば」という有名な歌を作りました。長女を一条天皇の、次女を三条天皇それぞれの皇后にし、そして三女を後一条天皇の皇后にしたこの日の祝宴で、自分の栄華を満月にたとえたものです。

1793年 マリー・アントワネット死去…フランス国王ルイ16世の王妃で、フランス革命の際に国外逃亡に失敗、この日38歳の若さで断頭台に消えました。

1946年 ナチス戦犯の絞首刑…南ドイツの都市ニュールンベルクで行なわれた、第2次世界大戦中にドイツが行なった戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュールンベルク裁判)は1日に最終判決がなされ、ヒトラーの片腕だった航空相ゲーリング、外相だったリッベントロップら12名は死刑をいいわたされていましたが、この日11名が13階段を登って絞首台に立ち処刑されました。(ゲーリングは処刑される寸前に拘置所で服毒自殺)

今日10月15日は、自由民権運動の指導者であり、国権主義をめざした社会運動家の大井憲太郎(おおい けんたろう)が、1922年に亡くなった日です。

1843年、豊前国中津藩(今の大分県宇佐市)の庄屋の子として生れた大井憲太郎(幼名・高並彦六)は、幼少のころから漢学の手ほどきを受け、1863年長崎へ出て蘭学や英学を学びました。そのとき、大井氏と知りあったことでその養子となり、大井憲太郎を名のりました。その後江戸に出て、幕府が洋学教育のために設けた「開成所」でフランス語と化学を学び、1865年に舎密(せいみ)局という理化学研究機関に出仕しました。

明治維新後は、フランス法学で知られた箕作(みつくり)麟祥からフランス流政治学を学ぶかたわら、新政府の兵部省(のちの陸・海軍省)、立法機関である元老院の役人となりました。1874年に、板垣退助らの国会を作れという意見書「民撰議員設立建白書」が新聞に掲載されると、時期が早すぎるとする加藤弘之に対し、大井は馬白台二郎のペンネームを使用して、国会即時開設論をとなえて注目されました。そして、1875年には元老院の少書記となるものの翌年に官界を辞し、代言人(弁護士)として活動しながら、もりあがりはじめた自由民権運動急進派の指導者として活躍をはじめました。

私立の法律学校をひらいたり、新聞記者となって自由民権論をといたりしていましたが、1881年に自由党が結成されるとこれに参加。各地で演説をし、1884年には秩父困民党を指導するなど自由党左派のリーダー格となりました。ところが、1885年、日本の自由民権と朝鮮の政治改革を結びつけて民主主義革命をめざそうとしたことが大阪で発覚(大阪事件)で逮捕され、禁固9年の判決を受けてしまいました。

1889年に憲法発布の大赦により出獄を許されると、中江兆民らと解散していた旧自由党勢力をきゅう合する大同団結運動をおこし、1890年に立憲自由党を結成しました。ところが党主流派と意見を異にしたことで2年後に脱党、東洋自由党を結成して党首となりました。1893年には東洋自由党を解党し、翌年の衆議院議員総選挙に大阪より立候補して当選、1898年には自由・進歩両党合同による憲政党結成に尽力し、憲政党総務を務めましたが、政治家としての限界を感じて引退をしました。

1899年片山潜らと普通選挙期成同盟会(のちの普通選挙同盟)や日本労働協会、小作人の権利を守る小作条例調査会を設立させました。これらは社会運動の先駆けとなっています。大井には、「対外硬運動」という列強に対する強硬な外交をとなえて、アジア変革の指導者でありたいという考えが基本にありました。そのため、1902には海外移民調査会を作って海外移民のありかたを調べ、1905年には満州にわたり翌年関東州労働保護会をこしらえて、労働者たちに満州移民を奨励しました。ところが、そのころはアジア民族との連帯が失われ、一般の侵略的行為との差別がなくなりつつありました。

こうして、「民権と国権の確立」という大井のテーマは、失意のうちに終えてしまったのでした。


「10月15日にあった主なできごと」

1564年 ベサリウス死去…16世紀神聖ローマ帝国の支配下にあったベルギーの解剖学者で、現代人体解剖の創始者といわれるベサリウスが亡くなりました。

1582年 グレゴリオ暦開始…4年ごとに閏年をおく「ユリウス暦」は1500年以上も使われてきましたが、すでに10日間もの遅れが出ていました。そのため教皇グレゴリウス13世は、以後100で割れても400で割れない年については閏年としないこと、この年の10月4日の翌日は10月15日とすることを決めました。これが今世界のほとんどの国で使用されている「グレゴリオ暦」で、これに変えなかったイギリスは1752年まで、ロシアは1918年までユリウス暦を使用したため、日付にずれが生じています。

1929年 官吏給与1割カット発表…政府はこの日、官吏の給与を1割カットすると突然発表しました。大蔵大臣井上準之助は、長引く不況を乗り越えるには、国民が節約につとめることによって物価を下げ、金輸出解禁にふみこむことが必要と主張。それには政府が模範を示さなくてはと給与カットを発表しましたが、反対にあって1週間後に撤回。しかし、昭和不況が深刻化した2年後の6月に実施されることになりました。

今日10月11日は、ベートーベン以降最大の交響曲作家とされるオーストリアのブルックナーが、1896年に亡くなった日です。

1824年、オーストリアのアンスフェルデンにオルガン奏者の子に生まれたアントン・ブルックナーは、13歳の時に父が亡くなったのを機に、近くの聖フロリアン教会少年聖歌隊に入りました。付属の音楽学校で音楽理論やバイオリンとオルガンを学ぶと、リンツに出て教師となるための勉強をするかたわら、オルガン演奏にみがきをかけ、1845年に聖フロリアン教会音楽学校助教授兼オルガニストになりました。それを足がかりに、1856年にリンツ大聖堂のオルガニストとなり、そのかたわら作曲にも意欲を示すようになりました。

1863年にワーグナーの「タンホイザー」初演に深い感銘をえて、作曲家となることを決意、高名なウィーン国立音楽院ゼヒター教授に音楽理論を学びました。翌年最初の「交響曲」(通称0番)を生みだしました。さらに1866年、ウィーンで聞いたベートーベンの交響曲第9番に強い影響を受けます。

1868年、ゼヒターの後任としてウィーン国立音楽院の教授に就任すると、多くのエネルギーを交響曲を書くことに集中させ、「交響曲第1番」(1866年)、「交響曲第2番」(1872年)を発表、1873年にワーグナーとあい、その際に「交響曲第3番」をワーグナーに献呈しました。

ところが、当時ウィーンの音楽界を二分していたワーグナー派とブラームス派の確執にまきこまれることになり、ブラームス派の急先鋒の批評家ハンスリックから敵対視され、この時期に発表した「交響曲第4番」<ロマンティック>(1874年)、「交響曲第5番」(1876年)に対し、しつような批判を浴びせ続けられ、一部の人たちは評価したものの、なかなか陽の目をみることはありませんでした。

そして1880年代に入り「交響曲第6番」(1881年)、「交響曲第7番」(1883年)を発表したころから人気が高まり、1884年60歳のときに演奏された「交響曲第7番」は、大成功となり、ブルックナーの名声は世界的なものになりました。

ブルックナーの作品の中心は、その後に発表された「交響曲第8番」(1890年)、「交響曲第9番」(未完成)を含む10曲ですが、いずれも1時間~1時間40分と長大であること、全体に流れる神秘思想的といわれる神秘性が特長で、楽章中に「ブルックナー休止」「ブルックナーリズム」と呼ばれる大休止や3連音リズムが好んで使われ、大規模な管弦楽による壮大な終楽章で締められる曲は、多くのファンを魅了し続けています。


「10月11日にあった主なできごと」

1841年 渡辺崋山死去…江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』で幕政批判をしたとして「蛮社の獄」に倒れた渡辺崋山が亡くなりました。

1915年 ファーブル死去…昆虫の行動研究の先駆者で、『昆虫記』を著わしたことで知られるフランスの生物学者ファーブルが亡くなりました。

1945年 GHQが5大改革を指令…連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーは、「女性の解放」「労働者の団結」「教育の自由化」「専制政治の廃止」「経済の民主化」という5つの改革を指令。戦後の民主化をすすめる第1弾となりました。

1947年 栄養失調で判事死亡…戦後の食糧不足のなか、国民の多くは配給で足りない分を、違法な「闇米(やみごめ)」や闇市でまかなっていましたが、東京地方裁判所の山口判事は、食糧管理法違反という闇米を取り締まる役目をおっていた責任感から、闇米など違法な買い出しをいっさい拒否したため栄養失調で死亡しました。

たまには、子どもたちに身近な科学のおもしろさを、お話ししてあげましょう。「おもしろ科学質問箱 27」

火は、光と熱を発してものが燃えることです。ものが燃えることを、科学では「燃焼(ねんしょう)」といいます。燃焼にはいろいろな種類がありますが、どの燃焼も、空気中の酸素がもえる物質と結びつくことによっておきます。物質と酸素が結びつくことを酸化といい、この酸化反応(化合)が急激にすすむと熱のために温度が高まり、物質は赤く光ったり、明るい炎が出たりします。これが、私たちが感じる「火」の正体です。火は物質ではなく、物質と酸素が反応して熱と光を出している「現象」といってよいでしょう。

自動車のエンジンの中でも燃焼がおこっています。ガソリンが酸素と化合するのですが、燃焼がとても急速にすすむために、燃えるといわず「爆発」といいます。また、おなじ酸化反応でも、鉄がさびる場合のように、低温でゆっくりと起こる酸化も、燃焼とはいいません。また、ゆっくりと酸化がすすむうち、その熱が外へ逃げ出せないために熱がたまって温度があがり、ついに炎がでることがあります。これが自然発火です。油をふいたあとのボロキレを、密閉した場所に積んでおいたりすると、燃焼がおこることがあるので、気をつけましょう。

燃焼に必要なものは、 �@ 酸化反応を促す「熱」があること �A 酸素と結びつく燃えるもの(燃料)があること �B 酸化反応をおこす「酸素」があること 以上の3つです。これを火の3要素といって、このうちの一つでも奪うことができれば、消火することが可能となります。

「酸素」は、私たちをとりまく空気中に21%含まれているのでしたね。燃焼がおきると、空気中の酸素が燃料の炭素と結びついて、二酸化炭素(炭酸ガス)ができます。

私たちの身体の中でも、ある燃焼がおこって熱とエネルギーを生みだしています。そのために呼吸により酸素を吸収し、燃焼させたあとの炭酸ガスを、呼吸で外へはきだしているのです。


「10月10日にあった主なできごと」

1911年 辛亥革命…中国の清に対し、湖北省の武昌で兵士による反乱(辛亥革命)がおこりました。これがきっとかけとなり、翌年1月に古代から続いた君主制が廃止され、孫文を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が南京に成立しました。

1964年 東京オリンピック開催…第18回オリンピックが、東京・国立競技場で開会式が行われ、この日から15日間、94の国と地域から選ばれた5558人の選手が競いあいました。日本は、重量挙げ、体操男子、レスリング、柔道、女子バレーなどで過去最高の金16、銀5、銅6のメダルを獲得、国民の多くはテレビに釘付けとなりました。

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