児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年10月

たまには、子どもたちに身近な科学のおもしろさを、お話ししてあげましょう。「おもしろ科学質問箱 31」

私たちは日常、「熱が高い」「熱が低い」「平熱」といったことを口にしますが、いったい熱ってなんなのでしょう。むかしは、「熱は、熱いものから冷たいものへ流れる、目に見えない液体のようなもの」と考えていました。この空想上の液体は熱素(カロリック)とよばれていました。

今では、水や空気、食物や私たちの身体などは、すべて物体といって、分子や原子と呼ばれる小さな粒(つぶ)でできているということがわかりました。そして、「熱というのは、物体の中の原子や分子がたえず行っている運動」だということがわかっています。

たとえば、「水は、通常(1気圧)の時、摂氏0度以下では氷、0度~100度で液体、100度をこえると気体」になります。固体の氷は、分子がわずかに動いている状態なので、さわるととても冷たく感じます。液体の水は、0度~100度まで温度が高くなるほど分子の運動量が大きくなっていきます。気体の水蒸気になると、分子が活発に動いている状態で、さわるとやけどするほど熱く、大きな熱エネルギーを持っていることがわかります。私たちがよく使う「温度」とは、熱エネルギーの大小を表すためのもので、熱エネルギーが大きいほど高い温度になります。分子の運動するエネルギーが「熱」の正体だからです。

熱は、エネルギーのひとつの形で、熱の量をはかるというのは、エネルギーの量をはかることで、熱量はカロリーという単位で表します。1カロリーというのは、「1グラムの水を摂氏1度だけ上げるのに必要なエネルギーの量」です。


「10月24日にあった主なできごと」

1708年 関孝和死去…江戸時代前期の数学者で、「和算」とよばれる数学の理論を世界的なレベルまで発展させた関孝和が亡くなりました。

1929年 暗黒の木曜日…アメリカのニューヨークにある株式市場で、株が史上最大の暴落をしました。その日が木曜日だったため「暗黒の木曜日」といわれています。5日後にもまた値下がりが続き、わずか2週間ほどで株価が半分以下となって、アメリカ経済は大混乱となりました。多くの人が財産を失い、失業者があふれ、自殺者もでる騒ぎになりました。こうしてアメリカではじまった大恐慌は、全世界をまきこむ「世界恐慌」へつながっていきました。

今日10月23日は、鎌倉時代中期・北条一門の武将として第4~8代執権をささえた北条実時(ほうじょう さねとき)が、1276年に亡くなった日です。

1224年、鎌倉3代執権北条泰時の弟実泰の子として生まれた北条実時は、1233年に泰時のはからいで11歳で元服し、出家した父にかわって将軍身辺を警護する小侍所別当となりました。若年を理由に反対の声があったものの、泰時はそれを押さえて実時を起用したのは、当時、泰時の子の時氏・時実が相次いで早世したことと、実時に期待するものが大きかったものと思われます。以後3度にわたって同職を務めました。

1238年、将軍九条頼経が上洛の際、将軍宿舎の近くに宿がとれなかったときは、自邸を提供し自らは近くに野宿してその職責をはたすほど責任感の強い人物として知られていました。4代執権北条経時、5代執権北条時頼政権になっても、執権の側近として裁判をおこなう役職の引付衆をつとめ、1253年には幕府の最高政務機関である評定衆をつとめました。また1264年には、御家人中の有力者の安達泰盛と共に越訴奉行となって幕政に関わり、8代執権北条時宗を補佐しました。

実時は、幕府の行事である笠懸(かさがけ)や犬追物の射手に選ばれるほど武芸にすぐれているいっぽう、若いころから学問を好み、京都からきた儒学者清原教隆に親しく教えを受け、鎌倉の自邸に文庫を作っていました。ところが、1270年に火災にあったため、鎌倉に通じる重要な港である六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に私設図書館ともいえる「金沢文庫」を創設して、中国古典の解説書や『源氏物語』の書写、内外の本を集めました。

蒙古が襲来した「文永の役」の翌1275年、政務を引退して金沢に住み、翌年に53歳で亡くなりましたが、実時の死後に同文庫は、母の供養のために建てた「称名寺」の境内に移され、今は神奈川県立金沢文庫となっています。


「10月23日にあった主なできごと」

1849年 西園寺公望誕生…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した政治家の西園寺公望が生れました。

1873年 征韓論争勃発…朝鮮への派兵をめぐって、この日政府内に激しい論争がおこりました。西郷隆盛や板垣退助らは鎖国を続ける朝鮮を武力で開国させようと主張したのに対し、岩倉具視や大久保利通らが内政を優先させることが先決とこれに反対しました。結局、西郷と板垣らは論争に破れて、翌日要職を辞任して政府を離れました。

1973年 オイルショック…10月はじめに第四次中東戦争が勃発。石油輸出国機構(OPEC)に加盟しているペルシア湾岸産油6か国は、原油公示価格の21%引き上げ、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸をこの日に発表、第1次オイルショックの引き金となりました。日本では、原油価格と直接関係のないトイレットペーパーや洗剤などの買占め騒動がおきたり、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生するなど、高度成長にストップがかかる事態に陥りました。

今日10月22日は、大著『歴史の研究』をはじめ『試練に立つ文明』『一歴史家の宗教観』『世界と西欧』など、独自の歴史観に基づく多くの著書をのこしたイギリスの歴史学者・トインビーが、1975年に亡くなった日です。

1889年、医師の父、歴史家の母の子としてロンドン生まれたアーノルド・J・トインビーは、9歳のとき、母にすすめられてエジプトやバビロニアについての本を読み、歴史家になる決意をしたといわれています。オックスフォード大学で古代史を学び、1911年に卒業すると、母校で講師をつとめたあと、第1次世界大戦がはじまったことで、外務省の情報部に務めました。

大戦後のパリ講和会議に外交官として出席してから公務をしりぞき、1919年にロンドン大学でギリシャ語とギリシャ史の教授となり、1924年には大学を退いて王立国際問題研究所の主任研究員となって、最新の国際情報を取りあつかう「国際問題研究」の編集・執筆にあたりました。トインビーの現代世界の動きを分析する鋭い指摘が定評をえたことで、1929年から『歴史の研究』の執筆にとりかかりました。

この大著は、世界史上に盛衰した21の文明を詳細に分析し、西欧文明が危機に直面していることを警鐘するスケールの大きな文明批評でした。1961年に全12巻が完成するまでには、第2次世界大戦をはさんで25年かかりましたが、前半の6巻が1冊にまとめられ、1946年にアメリカで出版されると、世界的な大反響となりました。

トインビーは、「エジプト、メソポタミア、中国など、どんなに高度に発達した文明でも、いつか必ず内部的にこわれて没落する」といいます。文明は最初は小さな異端的集団から発生し、次第に巨大化して一つの文明圏を作りだすこと。最初のころは創造力にあふれ、人々の生活は活気に満ちたものになります。トインビーはこれを「挑戦と応戦」といい、このことをキリスト教的に解釈して、神は人間に試練として「挑戦」を与え、人はそれに「応戦」して創造力を発揮します。ところが、やがて慢心によるマンネリ化が生まれ、欠乏は創造の原動力であるのに対し、満腹は怠惰を生み、創造力をそいで行く。こうして、文明没落の萌芽が現れると分析します。ペロポネソス戦争におけるアテネと、第一次世界大戦におけるヨーロッパ文明に与えた影響との間に類似性があること、現代人が経験していることは、すでにずっと昔にあったことのくりかえしであり「歴史は現在に生きている」ことを気づかせてくれます。

トインビーのこうした独自の分析は、『試練に立つ文明』『一歴史家の宗教観』『世界と西欧』などたくさんの著書にもあらわれ、現代文明の行方を気づかいながら86年の生涯を閉じました。なお、トインビーは、1929年、1956年、1967年の3回日本を訪れています。1967年に訪日したときは、私が大学を卒業後、社会思想社に入社した翌年のことで、同社の20周年記念出版として「トインビー著作集」(全8巻)を刊行、パンフレットづくりから、講演会のバックアップ、新聞・雑誌の広告宣伝などをひとりで担当したことを、なつかしく思い出します。


「10月22日にあった主なできごと」

794年 平安京に遷都…桓武天皇はこれまでの長岡京から、この日平安京に都を移しました。南北を38町に区切り、39の大路・小路を東西に通して1条から9条に分けた京の都は、東京に移るまで1100年近くも続きました。

1906年 セザンヌ死去…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家セザンヌが亡くなりました。

1962年 キューバ危機…ソビエトがキューバに攻撃用ミサイル基地を建設中との情報を入手したアメリカのケネディ大統領は、この日全米に「海上封鎖を予告する」とテレビで演説、ソビエトのフルシチョフ首相に対し「封鎖を破るものは、ソ連船でも撃沈する」と警告を発しました。ソビエトはこれをアメリカの海賊行為と非難したため、核戦争の始まりかと世界中を震撼させました。しかし28日、ソビエトはミサイル基地の撤去を発表、危機は回避されました。

今日10月21日は、江戸時代後期の絵師で、わが国初の銅版画を作り、地動説を広めるなど思想家・科学者としてもユニークな活躍をした司馬江漢(しば こうかん)が、1818年に亡くなった日です。

1747年、江戸・四谷の町家に生まれた司馬江漢(本名・安藤峻)は、幼いころから絵をかくことが好きで、1761年に父が亡くなったのを機に、狩野派の狩野美信の門に入りました。しかし次第に狩野派の形式的な画法にあきたらず、19歳のころには鈴木春信に学んで浮世絵を描き、1770年に春信が亡くなると、鈴木春重の名で春信の美人画とうり二つの美人画を描きました。

25歳のころに江漢は、エレキテル(摩擦起電機)の平賀源内と知り合い、源内の紹介で宋紫石の門に入って中国絵画の影響をうけた南蘋(なんびん)派の写生画法を吸収したり、1781年には蘭学者の前野良沢の門に入り、1783年に源内、良沢、大槻玄沢らの協力をえて、わが国初となる銅版画を制作することに成功しました。これは、源内らの所有していたオランダ語の百科事典や「動物図譜」などから、銅版画技術を独学で身につけたといわれています。

源内らとの交遊によって、オランダ文明の深さを知った江漢は、自作のたくさんの銅版画や油絵を持って、1788年長崎・平戸への旅に出ました。それは人々に、得意の銅版画をのぞき眼鏡でのぞかせ、地動説を説く旅でしたが、出島で見た西洋文明に驚き、貿易の必要なことをさとり、そのためには「天文・地理学を深く学ばねばならない」という決意につながる旅でもありました。この旅の印象は、のちに『西遊日記』に著しています。

しかし、ちょうどその前年に松平定信による「寛政の改革」がはじまって、「朱子学」以外の学問が禁止されたことで、江漢の外国と貿易すべきといった考えは幕府の政策に反するとされました。また、「上は天皇・将軍、下は士農工商、ものごいに至るまで、みな同じ人間」と説く江漢の平等思想は、危険思想の持ち主と取り締まりの対象とされてしまいました。それでも、1789年には「銅板天球全図」などを描いて、地動説をとく科学者として活躍をしました。

幕府の蘭学への圧力がさらに強まると、江漢は自画像入りの死亡通知書を配り、墓を建てて世の交わりを絶って、『独笑妄言』『無言道人筆記』などの著作にはげみました。1812年に描いた「富士の図の連作」は、和洋の画法が見事に融合された傑作といわれています、しかしその6年後、ユニークな72年の生涯を閉じたのでした。


「10月21日にあった主なできごと」

1520年 マゼラン海峡発見…スペイン王の協力を得て、西回りで東洋への航路をめざしたポルトガルの探検家マゼランは、出発からすでに1年が経過していました。そしてこの日、南アメリカ大陸の南端に海峡(マゼラン海峡)を発見、7日後の28日に南太平洋に到達しました。マゼランは、翌年3月にフィリピンで原住民の襲撃にあって死亡。9月に乗組員が世界一周を終えてスペインに到着したときは、5隻の船は1隻に、256名の乗組員はわずか18名になっていました。

1684年 徳川吉宗誕生…江戸幕府第8代将軍で、「享保の改革」という幕政改革を断行した徳川吉宗が生まれました。

1805年 トラファルガーの海戦…スペインのトラファルガー岬の沖で、ネルソン率いるイギリス海軍がフランス・スペイン連合艦隊に勝利しました。しかし、旗艦ビクトリア号で指揮していたネルソンは、狙撃されて死亡しました。

1871年 志賀直哉死去…長編小説「暗夜行路」などを著し、武者小路実篤とともに「白樺派」を代表する作家の志賀直哉が亡くなりました。

今日10月18日は、明治時代の婦人運動家で、男女同権を主張し続けた楠瀬喜多(くすのせ きた)が、1920年に亡くなった日です。

1836年、当時の土佐で運送業を営む家に生まれた西村喜多は、幼いころから漢学を学び、町人の出身でありながら、1857年に土佐藩の剣道指南役をつとめる楠瀬実と結婚、剣道や薙刀(なぎなた)などを修め、女丈夫(じょじょうふ=女傑)として知られるようになりました。ところが1874年に夫が亡くなり、子どもがなかったため、喜多が戸主として楠瀬家を相続しました。その後、地元出身の政治家板垣退助ら立志社の人たちと交わるようになって、自由民権思想にふれました。

1878年、高知で初めての県区会議員選挙が行われたとき、女性であることを理由に投票が認められませんでした。当時の府県会規則には、「選挙資格は、満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者」と定められていました。しかし、府県会の下部組織である区町村会については全国的な統一基準が設けられていませんでした。喜多は 「本来義務と権利は両立するのがものの道理、戸主として納税しているのにもかかわらず、女性であるだけで、選挙権がないのはおかしい」と抗議して、税金の納付を拒否して、高知県庁へ抗議文を提出しました。 これは婦人参政権運動の初めての実力行使となり、全国紙の大坂日報や東京日日新聞などでも報道されました。

高知県側も喜多の要求を拒否したため、内務省にまで意見書を提出しましたが、この選挙での投票は拒否されてしまいました。この行動は、自由民権運動と結びつき、地方自治の気運も高まって、1880年9月に政府より区町村会法が発布され、区町村会選挙規則制定権が各区町村会に認められるに至りました。高知県上町町会の3か月にわたる抗議行動に県令もついに折れ、日本で始めての女性参政権を認める法令が成立、隣の小高坂村でも同様の条項が実現しました。当時、世界でも女性参政権を認めていたのはアメリカのワイオミング州議会だけで、 高知県の上町・小高坂村の動きは世界で2番目に女性参政権を実現したものでした。しかし、それも長く続かず、1884年の区町村会法の改正によって、参政権は男性のみと規定されてしまいました。

その後も自由民権運動に参加して、演説会などで弁士として自分の意見を堂々とのべるなど、女性解放運動を続けたことで、楠瀬喜多の名は「民権ばあさん」として全国的に知れわたりました。晩年は、家財をなげうって盲唖学校の経営にあたりましたが、大正デモクラシーが叫ばれる最中に、貧民窟で84年の生涯をさみしく閉じました。


「10月18日にあった主なできごと」

1866年 シーボルト死去…江戸後期に長崎のオランダ商館つき医師として来日したシーボルトが亡くなりました。シーボルトは、すぐれた西洋医学を広めたものの、1829年に帰国の際、禁じられた日本地図などを持ち去ろうとしたことで、江戸幕府から国外追放を申し渡されました。(シーボルト事件)

1881年 日本初の政党…国会開設をを求めていた自由民権派は、板垣退助を党首に選び、日本初の全国組織による政党「自由党」が誕生しました。

1931年 エジソン死去…映画、レコード、電信機、電話機、電球、蓄電池など、生涯におよそ1300もの発明をしたアメリカの発明家・事業家のエジソンが亡くなりました。

↑このページのトップヘ