児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年10月

今日10月31日は、幸田露伴亡き後、父の思い出をつづった数々の名随筆で注目され、長編小説『流れる』『おとうと』などを著した女流作家・随筆家の幸田文(こうだ あや)が、1990年に亡くなった日です。

1904年、作家の幸田露伴の次女として東京・向島に生まれた幸田文は、5歳のときに母を失い、のちに姉や弟も亡くなりました。女子学院を卒業し、1928年に清酒問屋の息子と結婚し長女を出産しますが、嫁ぎ先の家業は長く続かず、夫との性格不一致もあって10年後に離婚、文は娘の青木玉を連れて父のもとにもどりました。そして、少女時代から露伴にしこまれた料理・掃除・洗濯から障子貼りなど生活技術を実践して、露伴の文筆活動をささえ、戦時中は一家の生活物資の確保のために働きました。

文が世に知られるようになったのは、1947年に露伴が亡くなり、雑誌社の求めに応じて『雑記』を書いてからでした。「ちいさい時には、連続講演をやってくれた。私と弟が晩酌の膳の両側にすわって聞く。仕方話であるから、お箸は荒木又衛門の刀になり、孫悟空の如意棒になり、お椀の蓋は常盤御前の雪の笠になり鉢かつぎの鉢になる。子どもたちは眠いはずがない。それからそれからといってねだる。遂に寝る時間が来て、『それから谷におっこった』となっておしまい。あとはまた明晩である。……」

そこには、露伴のあの字数の多い漢字の行列する文章とまったくちがう文豪の素顔があり、はつらつとした知性があり、ユーモアがあり、歯切れのよいテンポのあるエッセイは大評判となりました。そのため、『終焉』『葬送の記-臨終の父露伴-』を書かざるをえなくなり、さらに、露伴の思い出などを中心にした『父』『こんなこと』、幼少時の思い出を書いた『みそっかす』などを次々に著し、随筆家として認められるようになりました。これらの回想文は、同時期に整理・刊行された書簡などの資料とともに露伴の伝記研究に大いに役立っています。

ところが、文の著書の多くが露伴にかかわるものが大半だったため、口の悪い者が「思い出屋」などといったことを耳にしてから、生来の勝気が頭をもたげ、1951年に断筆宣言をしました。そして、柳橋の芸者置屋に住み込みで働き、そのときの経験をもとにして書いた小説『流れる』を1955年1月から雑誌『新潮』に連載を開始しました。回を重ねるごとに評判となり、12月に完結すると、翌2月に単行本となったばかりか、11月には成瀬巳喜男監督により映画化されてヒット。日本芸術院賞と新潮社文学賞も受賞しました。同時期に発表した『黒い裾』も読売文学賞を受賞して作家としての地位も確立しました。1960年には、19歳のときに亡くした弟を客観的にみつめた長編小説『おとうと』を発表、これを原作とした市川崑監督・水木洋子脚本による映画も評判となり、キネマ旬報同年ベストワンとなっています。

『台所のおと』『きもの』などすぐれた随筆も多く、晩年には1944年に落雷で焼失した奈良の法輪寺三重塔の再建のために、10年以上も尽力しました。この仕事ぶりは、没後に、娘の青木玉が文の未刊行作品を編さんした中の『木』『崩れ』に記されています。


「10月31日の行事」

ハロウィン…カトリックの諸聖人の祝日である「万聖節」の前夜祭で、古くはケルト人の行っていた収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされています。ハロウィンをアメリカに伝えたのは、1840年代のアイルランド移民でした。名物のおばけちょうちんは、カブで作っていましたが、アメリカには大きなカブがなかったためにカボチャを使うようになったようです。おばけちょうちんを持ち、魔女や妖精、お化けなどに仮装した子どもたちが、近くの家を1軒ずつ訪ねては Trick or treat. (お菓子をくれないといたずらをするよ)と大声をたてます。子どもたちがきた家では、用意しておいたお菓子をわたして、仮装をほめてあげるという楽しいお祭りです。最近は、日本でもよく目にするようになりました。


「10月31日にあった主なできごと」

1517年 95か条の論題…ドイツの神学者ルターは、ローマ教会の免罪符の発行などを批判する「95か条の論題」を、ビッテンベルク城教会の扉にはりだしました。これがきっかけとなって、キリスト教の「宗教改革」がはじまりました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 103]

昔あるところに、下(しも)の七兵衛と上(かみ)の七兵衛という二人の七兵衛がありました。とても仲良しで、村にいてもたいした仕事はないので、出かせぎに行こうと、そろって遠い町へ出かけました。それから3年がたち、下の七兵衛はよく働いて金をためたのにひきかえ、上の七兵衛は、遊んでばかりいてならず者の仲間に入って悪事をはたらいていました。

「どうだ、そろそろいっしょに故郷(くに)へ帰らないか」と下の七兵衛が上の七兵衛にいいましたが、上の七兵衛は、着るものも金もなく、帰りたくても帰れないありさまでした。「おまえを一人置いとくわけにはいかないな」と、下の七兵衛は上の七兵衛のために、着物を買ってやり、旅費も出してやりました。こうして連れだって帰ってきて、生まれた村が見える峠にきたときです。上の七兵衛の心に、むらむらとよこしまな考えがめばえてきて、下の七兵衛を後ろから、ばっさり斬って殺してしまいました。おまけに、持っていた荷物からお金から全部自分のものにして、そしらぬ顔で村にもどりました。下の七兵衛のお母さんには、「いっしょに帰ろうといったけど、悪い仲間にはいってしまった。もう村にはもどらないといっていた」と、うそをつきました。

でも、そんな上の七兵衛の性根は変わるものでなく、盗んだお金は、まもなく使ってしまって、またあの峠を越えなくてはならなくなりました。下の七兵衛を殺したその場所にさしかかった時のこと。「こら、七兵衛、七兵衛、ちょいと待て」と呼ぶ声がします。ふりかえってみましたが、だれもいません。空耳かと思ったところが、また「七兵衛、七兵衛、ちょいと待て」 と、声が追いかけてきます。それが下の七兵衛の声なのでびっくりしていると、草の中で七兵衛のガイコツがケタケタ歯を鳴らしながら、いいました。「久しぶりじゃねぇか、おれを忘れたか。ここでおめえに切り殺されて、骨身をけずって働いてためた金も荷物も、すっかり盗られた下の七兵衛のなれのはてよ」上の七兵衛は、びっくりして逃げようとしましたが、ガイコツは起き上がって、上の七兵衛の着物のすそをつかんで離しません。

「おまえは、これからどこへ行くつもりだ」「もう、金もなくなったんで、どこかへ働きに出るとこだ。じゃまはせんでくれ」「そうか、相もかわらずこまった男だなぁ。どうだ、おれを連れて銭もうけをしないか」「なにをするんだ」「おれが踊(おど)るから、おまえは踊りにあわせて唄をうたうんだ。そうすりゃ、もとでいらずの金もうけができる」「そりゃ、おもしろそうだな」話がまとまって、七兵衛は、ガイコツを連れて町や村を回り歩きました。「めずらしいガイコツおどりだよ」とふれまわり、七兵衛が唄いだすと、ガイコツがカラカラカラとおどりだすものですから、どこへいっても大入り満員の大盛況。金はたまるし、たいへんな評判をとりました。とうとうこれが、殿さまの耳にも入って、お城でガイコツおどりを見せることになりました。

大きなお庭に呼ばれ、おもむろに七兵衛が唄をうたいだしました。ところがガイコツは、立ち上がろうとしません。「さあ、おどれ、おどるんだ」といっても、ガイコツは動かず、青くなった七兵衛は、次々に唄を変えても、びくともしません。七兵衛がおこって、ムチで打つと、ガイコツはガラガラと立ち上がって、殿さまの前に進み出て、口を開きました。

「殿さま、わたしがおどりをおどらない理由(わけ)を申し上げます。この男は、わたしと二人で旅働きに出た帰り、故郷がすぐそこに見えるという峠で、わたしを殺し、金をみんな盗んだ悪人です。これまで、ガイコツおどりをおどってきたのも、殿さまにお目にかかりたいばかりに、わたしがたくらんだことなのです」「世にもふしぎな訴えごとであるな。ここにいる男をしばりあげよ」

こうして、七兵衛はとらえられ、ガイコツのいった通り全部白状したために、七兵衛はとうとうはりつけにされたのでした。


「10月30日にあった主なできごと」

1850年 高野長英死去…『夢物語』を著して江戸幕府批判の罪で捕らえられるものの脱獄、自ら顔を焼き人相を変えて逃亡していた蘭学者高野長英が、幕府の役人に見つかって自殺をはかりました。

1890年 教育勅語発布…この日「教育に関する勅語」(教育勅語)が発布され、翌日全国の学校へ配布。以来、1945年の敗戦まで55年もの間、皇室中心の国家的教育が進められました。

1938年 火星人来襲パニック…アメリカのラジオドラマで、オーソン・ウェルズ主演『宇宙戦争』(原作H・Gウェルズ)を放送、演出として「火星人がニュージャージー州に侵入」の臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いした人々が大パニックをおこして町から逃げ出す人、発狂する人まで現れました。

今日10月29日は、『浜辺の歌』『かなりや』『赤い鳥小鳥』など、今も歌いつがれる数々の名曲をこしらえた作曲家の成田為三(なりた ためぞう)が、1945年に亡くなった日です。

1893年、現・北秋田市の役場職員の子として生まれた成田為三は、1909年に秋田県師範に入学、同校を卒業後に1年間小学校教師をしてから上京、1914年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)師範科に入学、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に教えを受け、2年在学中に林古渓の作詞に曲をつけた『浜辺の歌』[♪ あした浜辺を さまよえば/むかしのことぞ 忍ばるる/風の音よ 雲のさまよ/よする波も 貝の色も] を完成させました。

1917年に同校を卒業してからは、佐賀師範学校の教諭に赴任しましたが、作曲活動を続けたいと東京・赤坂小学校の教諭となりました。そのころ『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流することで、「童謡運動」に参加するようになりました。これは、文部省唱歌にあきたらない鈴木や北原白秋らの詩人、草川信・弘田竜太郎らの作曲家が、ほんとうに子どもたちに親しまれる歌をこしらえたいとした運動です。

1918年に『赤い鳥』に掲載された白秋の詩に、翌年成田が曲をつけた『かなりや』[♪ 唄を忘れたかなりやは 後の山に棄てましょか いえいえ それはなりませぬ/唄を忘れたかなりやは 背戸の小やぶに埋めましょか いえいえ それもなりませぬ/唄を忘れたかなりやは 柳の鞭でぶちましょか いえいえ それはかわいそう] を発表、『赤い鳥』に初めて掲載された楽譜で、大評判となりました。

さらに成田は、同誌の作曲担当となって『赤い鳥小鳥』『りすりす小りす』などをこしらえています。1922年にドイツに留学し、ドイツ作曲界の元老といわれるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学んで1926年に帰国。身につけた対位法の技術をもとにした理論書を著したり、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し、輪唱曲集なども発行しました。川村女学院(現・川村学園)や東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の講師をしたり、1942年には国立(くにたち)音楽学校の教授となっています。

ところが、1944年の空襲で自宅が失われ、作曲したたくさんの管弦楽曲やピアノ曲、音楽理論に長けた本格的な作曲家のすべての歌を焼き尽くしてしまいました。実家で1年の疎開生活を送った後、1945年10月に再び上京しましたが、脳溢血にたおれ、53年の生涯を閉じてしまいました。愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに300曲以上が確認され、日本音楽界に果たした役割の大きさが再認識されつつあるようです。

なお1989年、NHKをはじめ14の文化団体が組織して実行委員会を作り、明治・大正・昭和に生まれた歌で、親から子に、そして子から孫へ残したい心の歌「日本のうた・ふるさとのうた100曲」を選定しようと、同年3月1日から5月31日までの3か月間に、はがきによる全国一斉募集をしました。その総数は65万7千余通、総曲数は5142曲に達しましたが、この中に成田の『浜辺の歌』と『かなりや』の2曲が入り、とくに『浜辺の歌』はベストテンに入っています。


「10月29日にあった主なできごと」

1815年 井伊直弼誕生…開国論を唱え「安政の大獄」を引き起こして尊攘派を弾圧、1860年「桜田門外の変」で水戸浪士らに殺害された江戸時代末期に大老となった井伊直弼が生まれました。

1922年 トルコ共和国宣言…オスマン帝国を倒したトルコは、この日共和国の成立を宣言。初代大統領にムスターファ・ケマルを選びました。アタチュルク(トルコの父)として、現在に至るまで、トルコ国民に深い敬愛を受けつづけています。

1929年 悲劇の火曜日…1920年代、永遠に続くと思われていたアメリカの繁栄に大ブレーキがかかりました。5日前(暗黒の木曜日)に1日1300万株が売られて株が大暴落したため、ニューヨークの取引の中心であるウォール街は、不安にかられた投機家でごったがえし、大損して自殺する人まであらわれました。さらにこの日1630万株も売られ、ウォール街最悪の日となって、午後には株式取引所の大扉を閉じました。株価はその後も売られ続け、世界中をまきこむ大恐慌となっていきました。

1945年 宝くじ発売…政府はこの日、戦後復興の資金集めのために、第1回宝くじの販売を開始しました。1枚10円、1等賞が10万円で副賞に木綿の布が2反、はずれ券4枚でたばこ10本がもらえました。評判が良かったために、翌年には1等賞金が100万円となりました。戦後数年間の宝くじには、敗戦後の物資不足を反映して、革靴、地下足袋、人口甘味料のズルチンといった景品がつき、1948年1等の副賞には木造住宅がつきました。

今日10月28日は、『何処へ』『入江のほとり』『今年の春』などの小説や戯曲、『文壇人物評論』などの評論を著すなど、50年以上にもわたって独自の文芸活動を行った、正宗白鳥(まさむね はくちょう)が、1962年に亡くなった日です。

1879年、現在の岡山県備前市の大地主の家に生まれた正宗白鳥(本名・忠夫)は、幼いころから病弱だったため、死に対する恐怖心が強く、13歳のころにたまたま知ったキリスト教に救いを求め、岡山市のミッションスクールに入ったり、内村鑑三の書を熟読したりしました。1896年東京専門学校(今の早稲田大学)に入学すると、在学中にキリスト教の洗礼を受け、その後5年間、熱心な教会員となっています。いっぽう、島村抱月の指導を受けながら、「読売新聞」文学欄の合評会に参加したり、歌舞伎に熱中しました。

1901年に史学科、英語科に在籍後文学科を卒業すると、早大出版部を経て、1903年から読売新聞社の記者となり、文芸・美術・演劇などを担当してその評論に健筆をふるいました。そのかたわら、1904年には処女作品となる短編小説集『寂寞』を発表して文壇デビューをはたすと、1907年に『塵埃(じんあい)』、翌年日露戦争後の青年像を描いた『何処へ』『玉突屋』『五月幟』を次々と発表すると、島崎藤村、田山花袋、岩野泡鳴らと並んで、自然主義文学の代表作家といわれるようになりました。

7年間勤務した読売新聞を退社し、本格的に作家活動に入った白鳥は、「人間はいつ死ぬかも知れないあわれな存在」という死の想念と、「いったい人間とはなにか」を根底とする考え方をもとに、その後日本文壇にはきわめてまれな、50年以上もの長期間にわたり作家、評論活動を行いました。1935年には、外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村、徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。1943年11月から1947年2月まで会長をつとめ、1950年には文化勲章を受賞しています。

青年期に傾倒したキリスト教が、ときには殉教も強いることもある烈しい宗教であることを知って棄教したと公言しましたが、晩年にはふたたび強く傾き、死の床で「アーメン」と唱えたと伝えられています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、白鳥の作品6編を読むことができます。


「10月28日にあった主なできごと」

1583年 大坂城完成…豊臣秀吉が「大坂(大阪)城」を築きました。1598年の秀吉死後は、遺児・豊臣秀頼が城に留まりましたが、1615年の大坂夏の陣で落城、豊臣氏は滅亡しました。

1749年 ゲーテ誕生…『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた文豪ゲーテが生れました。

1953年 民放テレビ開始…日本初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始しました。当時は受像機の台数が少なく、人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には、街頭テレビに観衆が殺到し、黒山のような人だかりになりました。

「おもしろ古典落語」133回目は、『三人絵師(さんにんえし)』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸っ子の仲良し三人組が、お江戸日本橋をふりだしに、小田原、浜松、岡崎、名古屋、桑名、大津…と、東海道五十三次を順にのぼって、京都の宿屋に泊まりました。

「ああ、よく寝たな。おや、あいつら二人は、どこへいっちまったのかな。たしか夕べは、この宿について、3人でいっぱいやって、ドンチャカ大騒ぎして、ゴロッと寝て、おれはそのまま眠っちゃったんだった。あいつらは、夜どっかへでかけたのかな。それとも、朝起きぬけに、そこらを見物にいったのかな。どっちにしても、おれを起こしゃいいじゃないか。おや、今鳴った鐘は、九つ(正午)だ。もう昼か…、それにしてもよく寝たな」

江戸っ子のひとりが、大あくびをしていますと、となりの座敷では、京都の人と、大坂の人がおしゃべりをしています。

「さ、もう昼やな。昼めしも食べたし、そろそろ仕事はじめまひょか」
「そやな、どうしても、この絵、今日じゅうに仕上げんといかんよってな」
「ほんまや、夕べかくつもりやったが、となりの江戸のヘゲタレもんが、うるそうてうるそうて」
「ほんまやなぁ、あんなうるさい男たち、よう知らんわ。酒は飲む、歌はうたう、酔っちゃ騒ぐ、寝たと思うたら寝言、歯ぎしり、えらいこっちゃ…」
「さ、絵かく前に、茶でも入れまひょか。宇治のええ茶がありますさかいに」
「そりゃ、よろしいなぁ…、こんな茶の味、江戸のヘゲタレどもは、よう飲んだことおまへんやろ」

「おい、てめぇたち」
「なんや、あんたは?」
「江戸のヘゲタレで悪かったな」
「あれっ、聞こえてしもたか」
「聞きたくなくたって、聞こえらぁ。おお、その宇治の茶ってぇのをいっぱいもらおうか。眠けざましにちょうどいいや。……あー、うめぇ、おかわりをくれ」
「らんぼうなお人やな」
「江戸っ子ってのはな、みんなトントントンと、いせいがいいんだ。てめぇらみてぇに、モタモタしてるのは大きれぇだ。おれの前で、『ヘゲタレ』だのともう一度ぬかしてみろ、首っ玉引っこぬいてやる」
「おお、こわ…」
「やい、そこのアゴ坊主」
「まるでけんかやな。アゴ坊主ってだれや?」
「おめぇだ、おまえの面(つら)ぁ、ずいぶんと長ぇや。アゴが突出して、坊主頭だから、アゴ坊主ってつけてやったんだ、ありがたく思え」
「ありがたいこと、あるもんか」
「てめぇの商売はなんだ」
「わいは画工や」
「なに、がっこう?」
「学校やあらへん、画工、絵師や」
「ああ、絵かきか。そっちの黒っ子、てめぇはなんだ」
「なんや、黒っ子てのは」
「色が真っ黒で、よくみねぇと、顔の裏表がわからねぇ、だから黒っ子じゃねぇか。おまえの商売は、なんだ」
「わても絵師や。あんた、ひとりでポンポンいいなさるが、あんたの商売は、いったいなんぞやね?」
「おれか、おれも、その絵師よ」
「えっ? あんたも絵師かいな。絵師って顔やおまへんな」

「三人絵師が出あったのも、なにかの縁だ。あったしるしに、どうでぇ、絵のかきっこをしようじゃないか。まず、おれが一両を出す。アゴ坊主も、黒っこも一両ずつ出すんだ」
「すしでもとるのかい?」
「そんなことするか。あわせて三両、ここにおく。みんなで絵を1枚ずつかくんだ。いちばんうめえ者がこの三両をいただくのよ」
「そりゃ、おもしろそうだ」
「おもしろいだろ。さぁ、まずはアゴ坊主からかいてみな」
「あんたが、はじめにかいたらどうや」
「おれが、いちばんうめぇにきまってるから、いちばんあとでいい」
「ほんまかいな?」
「ほんとうだ。おれは、日本一の絵師だからな」
「信じられへん」
「ぐずぐずいわずに、早くかけ!」

こうしてアゴ坊主は、さらさらと、木こりがノコギリを持って木を切っている絵をかきました。
「やいアゴ坊主、てめえはとても絵師じゃあメシがくえねえから、商売がえをしろ」
「どこが悪い」
「この木こりのノコギリは、木の半分ほど入ってるな。だったら、なぜオガクズがねぇんだ。オガクズがとび散ってなきゃおかしいだろ」
「ああ、そうや、そのとおりやな」
「だからこの絵はなっとらんというんだ、アゴ坊主、三両はあきらめろ。こんどは黒っ子だ。そっちも、なにかかけ」

「もうかいたよ」
「じゃ、見せてみな。ふーん、母親がわが子に、まんま食べさせてるとこだな。こいつもまずいな」
「いったいどこがどう悪い」
「悪いとこだらけだ。いちばん悪いのはここんとこだ。この母親は、きちんとまげをゆって、着物を着て、ちゃんとすわって、はしにめしをはさんで、子どもに食わせてるな。おまえは、わが子にまんまを食べさせてるとこを見たことあるか。おっ母さんも大きな口をアーンと開いてやってこそ、子どもも安心して食べられるんだ。それなのに、母親が気取って口を結んでいるてのは、どういうわけだ」
「ああ、そうやなぁ」
「おめぇも気のどくだが、三両はあきらめろ。こいつはおれのもんだ」
「そりゃ、だめや。あんたもなんぞかいて、あたしたちが、なぁるほどこれではむりもないと思って、はじめてあんたのもんや」

「よーし、それじゃ、紙を出せ。ついでにすずりを貸せ。おめぇたちは、紙のすみっこをおさえてろ」
というや、もったいぶった顔で、刷毛(はけ)にたっぷり墨を含ませます。紙一面を黒くぬりりつぶし、
「さあどうだ」
「さっぱりわからん。これ、なんの絵やね?」

「この絵がわからんのか? まっ暗やみから、黒い牛を引きずり出したとこだ」


「10月25日にあった主なできごと」

1637年 島原の乱…島原・天草地方のキリシタンの農民たち37000人が、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年の天草四郎を大将に一揆を起こしました。3か月余り島原の原城に籠城して抵抗しました。

1825年 ヨハンシュトラウス誕生…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家ヨハンシュトラウス(2世)が生まれました。

1838年 ビゼー誕生…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家ビゼーが生まれました。

1881年 ピカソ誕生…画家であり、彫刻家であり、また歴史家、詩人、学者でもあった情熱的芸術家ピカソが生まれました。

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