児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年09月

たまには、子どもたちに身近な科学のおもしろさを、お話ししてあげましょう。「おもしろ科学質問箱 29」

晴れた日に、夜空の星をみると数かぎりないほど見えます。でも、肉眼でみえる星の数(6等星)にはかぎりがあって、世界じゅうに行ってみえる数は6千ほどで、そのうち日本からはみえない南にある星が1/4ほどあります。

いまは性能のよい望遠鏡があるので、それにカメラをつけて写真にとると、なん10億個もの星の写真がとれるそうです。そのほとんどは、恒星といって、「太陽」のように燃えている星です。

わたしたちの住んでいる「地球」は、太陽のまわりを回っている「惑星」で、太陽に近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星なので、これを「太陽系」といっています。太陽系には「月」のように地球をまわっている星もあります。このように、惑星をまわっている星を「衛星」といって、太陽系にはおよそ40あります。おそらく、夜空に光っている星のまわりにも惑星や衛星があるはずですが、そういう星は、恒星の反射をうけているだけなので、ほとんど写真にはうつりません。

太陽系がはいっているのは「銀河系」という大きな星の集まりで、太陽のような恒星が、2000億個あるといわれています。宇宙にはさらに、銀河系のようなおおきな星の集まりが、数千個もあるようです。

なお、2003年にオーストラリアのシドニーで開かれた国際天文学連合の会議で、宇宙には7×10の22乗個(7のうしろに0が22個)の星があると発表しました。こんなにあれば、わたしたちの地球のような環境にある星もまた、たくさんあることはまちがいありません。


「9月20日にあった主なできごと」

1806年 喜多川歌麿死去…江戸時代に活躍した「美人画」浮世絵師の喜多川歌麿が亡くなりました。

1943年 鈴木梅太郎死去…ビタミンB1が脚気の治療に効果があることをつきとめ、糠から「オリザニン」を取りだすことに成功し、脚気の不安から人びとを救った農芸化学者の鈴木梅太郎が亡くなりました。

1945年 墨ぬり教科書…敗戦後のこの日、文部省は新しい教科書の印刷が間に合わないため、戦時中につくられた教科書で、軍国主義的内容を削除するように通達しました。そのため先生は、生徒に削除する部分を墨でぬりつぶさせました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 100]

むかし、西国の殿さまのけらいの飛脚(ひきゃく)が、江戸にいるある殿さまへ、大切な手紙をとどけに、国を飛び出しました。船で大坂までいき、その後は、文箱というのを肩にかついで走り、東海道を東へ東へといきます。興津(おきつ)に宿をとり、朝暗いうちに宿を出て江戸をめざしました。

富士山を目の前に海岸を走り、さった峠という山の坂道を、海岸のほうからのぼろうとしていたときのことです。近くのそばの岩に、なにか動くものがありました。大きなタコが、小さな子どもにからみつき、海に引き入れようとしていたのです。子どもは泣き声をあげて、岩にしがみついていました。「こいつはまずい」飛脚は助けに走りました。

子どもと見えたのは1ぴきのサルでした。サルは飛脚の顔を見ると、顔をくしゃくしゃにして、キーキー鳴きました。飛脚は手紙の入った文箱をそばに置くと、石をひろって、タコに投げつけましたが、びくともしません。近くにあったこん棒をとってタコをたたきましたが、タコはたたかれるたびにサルをしめつけ、海の中へ引きこもうとします。しかたなく飛脚は、脇差(わきざし=みじかい刀)をぬくと、タコに切りつけました。するとタコは、もうかなわないと思ったか、サルをまいていた足をほどき、海の中に姿を消しました。 

助けられたサルは、とてもうれしそうに水ぎわから砂浜にとびのき、じっと飛脚の顔を見つめました。「よかったな、あぶなく海に引きこまれるところだったぞ」飛脚がそういって脇差をおさめると、サルはどうしたことか、置いてあった文箱を持つと、峠ののぼり口のほうへかけあがっていったのです。飛脚はおどろいて後を追いかけました。峠の道は急で、飛脚の足でも、かけあがるのには大変でした。ところが、しばらくいっても、サルの姿がみえません。手紙をなくしてしまっては、江戸へ行くことも、国へかえることもできないのです。飛脚はあたりを見まわし、あのサルが、文箱をどこかにすてていないか探しましたが、どこにも見つかりませんでした。

こまり果てた飛脚が、ぼうぜんとすわりこんでいると、サルの鳴き声がします。声のするほうを見ると、何びきかのサルがやってきました。その中に、文箱をもったあのサルがいました。おまけになにかコモで包んだ長いものをもっています。飛脚が立ち上がって待っていると、サルは飛脚に近よってきて、文箱とコモ包みを置いていきました。飛脚は文箱を手に取ると、ほっとためいきをつきました。そして、包みをといてみると、中から白木のさやに入った刀が出てきました。

サルはそれを見ると、ペコンと頭を下げ、なかまたちと山の方へ帰っていきました。サルがどこからその刀をもってきたのかわかりませんでしたが、飛脚はぶじに江戸の殿さまのお屋敷に手紙をとどけました。

飛脚は、すぐに名高い刀鍛冶(かじ)のところへもっていって、品定めをしてもらいました。すると、その刀には、五郎正宗の銘が入っています。むかし、日本でいちばんといわれた人がこしらえた刀かもしれないと、刀鍛冶が研いでみると、少しの傷もない名刀そのものでした。国にもどった飛脚は、殿さまに刀のいきさつを話し、殿さまに献上しました。殿さまはたいそう喜び、飛脚はたくさんのほうびをもらいました。

殿さまは、サルからもらった刀だということで、「サル正宗」という名をつけて、家の宝として、いつまでもたいせつに残したということです。


「9月19日にあった主なできごと」

1870年 平民に苗字…明治政府は戸籍整理のため、これまで武士の特権とされてきた苗字の使用を、平民にも許可しました。しかし、めんどうがってなかなか苗字をつけない人が多く、5年後の1875年2月には、すべての国民が姓を名乗ることが義務づけられました。

1902年 正岡子規死去…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の正岡子規が亡くなりました。

今日9月18日は、幕末から明治初期に、さまざまな機械じかけのからくりをこしらえて人々をおどろかせた技術者・田中久重(たなか ひさしげ)が、1799年に生まれた日です。芝浦製作所(後の東芝)の創業者でもあり、「東洋のエジソン」として讃えられています。

筑後国久留米(福岡県久留米市)のべっこう細工師の長男として生まれた田中久重(幼名・儀右衛門)は、少年時代から発明の才能を発揮し、地元にある神社の祭礼では、当時流行していた糸やぜんまいじかけで動く「からくり人形」の新しいしかけを次々と考案して評判となり、地元の名産である「久留米かすり」の模様織を考案するほどでした。

1824年に諸国遍歴の旅にでかけ、長崎をへて、大坂・京都・江戸でも興行を行い、その成功により日本じゅうにその名が知られようになりました。特に有名なのが1820年代に製作した「弓射り童子」(自分で弓を取り出して弓をつがえ、2m先の的を正確にいぬく)と「文字書き人形」で、これらは、からくり人形の最高傑作といわれています。

1834年には大坂の伏見に移り、同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、1837年に「無尽灯」(空気ポンプを利用したランプ)などを考案し「からくり儀右衛門(ぎえもん)」と呼ばれて人気を博しました。その後京都へ移り、1847年に天文学を学ぶために土御門家に入門、天文学の学識も習得した久重は、嵯峨御所より最も優れた御用時計師職人に与えられる「近江大掾(だいじょう)」の称号を授かりました。「精巧堂」という店舗をかまえると、革新的和時計である須弥山儀(しゅみせんぎ)を製作し、1851年には、6面ある文字盤に、洋式時刻、和式時刻、二十四節気、七曜、月の満ち欠け、干支が全自動で動く、世界初となる「万年時計」を完成させました。

やがて、佐賀藩に招かれた久重は、1853年に日本初のアルコール燃料で、実際に動く蒸気機関車や蒸気船の模型を製造しています。

1873年に上京すると、2年後に東京・京橋に民間で初となる機械工場である田中製造所を設立、久重は1881年に82年の生涯に幕を閉じましたが、養子の田中大吉(2代目久重)が引きついで芝浦に移転、芝浦製作所となりました。これは後に東京電気と合併、現在の東芝に成長していきます。


「9月18日にあった主なできごと」

1927年 徳冨蘆花死去…長編小説『不如帰(ほととぎす)』を著し、一躍ベストセラー作家となった明治・大正期の作家で随筆家の徳冨蘆花が亡くなりました。

1931年 満州事変勃発…満州の支配をねらう日本陸軍の関東軍は、中国の奉天郊外の「柳条湖」付近で、満州鉄道の爆発事故をおこしました。これを中国のしわざとして軍事攻撃を開始し、数日のうちに満州南部を占領。しかし、中国側から依頼を受けた「国際連盟」は、中国に調査団を送って1932年3月に「満州国を認めない」決議をしたことに日本は反発、国際連盟を脱退しました。中国は同年5月に結ばれた協定により、「満州国」の植民地支配を認めました。

「おもしろ古典落語」130回目は、『動物園(どうぶつえん)』というお笑いの一席をお楽しみください。

動物園というのは、今では全国あちこちにありますが、日本ではじめにできたのが、東京・上野の動物園で、明治15年の開園だそうです。明治36年になりますと、京都・東山にもできて、動物の数や種類からいっても、これが東西の双へきということになりました。そのころ、こんな大きな動物園へ行けない人のために、動物博覧会という見世ものがはやりました。いわゆる移動動物園で、地方都市では、とても評判になっていました。

東京の下町に、失業中の留吉という男がおりまして、いよいよ金も底をつき、しかたなく以前世話になった先輩の家に相談にいきました。すると、1か月に百円かせげる仕事があるといいます。百円といえば当時の勤め人の半年分もの高収入です。

「じつはな、こんど動物博覧会の仕事を手伝うことになったんだ」
「あー、うわさに聞いてます。外国から、真っ黒なライオンがくるとかいって…」
「そう、それだ。じつはな、そこの団長ってのが、アメリカ人で、あたしの友人なんだ。このライオンのおかげで、世界じゅうの評判をとって、こんど東京にくることになった。すっかり準備もととのったんだが、困ったことがおきてしまった」
「どうかしましたか?」
「日本にくる船の中で、ポックリ死んじまったんだよ。これがいなくちゃ、人が集まりそうにない。悩みぬいて、ぬいぐるみの黒ライオンを出そうってことになった。このあいだ見せてもらったんだが、とてもよく出来ている。目玉は動くし、ボタンを押すと口を開けてウォーッとほえるしかけもある。どう見てもホンモノだ」
「へぇーっ、たいしたもんですね」

「で、そのぬいぐるみには、だれかが入らなくちゃならない。身体が大きくてのっそりして、気が長くて、どちらかといえばぼんやりしている男がいい。団長から、だれか心当たりがないかといわれて、あたしの頭にうかんだのが、失業中で、ぶらぶらしてるというおまえさんだ。明日にも、使いを出そうかと思ったが、その手間がはぶけたな。期間は1か月、毎日朝9時から夕方4時まで、食事もむこう持ち。上野動物園とはちがって、30分ばかりで休憩になるから、幕が降りたら、岩のうしろから楽屋にもどって一服していいし、暑かったらふんどし1枚でぬいぐるみに入ったらいい。これで百円だよ、どうだ、やってみる気はないか?」
「うーっ、うーっ」
「ここでライオンみたいな声をだすな。やるか、やらぬか、どうだ」
「うーっ、やります」

ライオンの歩き方の訓練をうけた留さん、家に帰っても、女房や子どもにもいえません。もっとも「こんどの動物園の、あの黒いライオンは、うちのおとっつぁんだ」なんて宣伝されたら、ぶちこわですし、お上に知れたら、手が後ろに回るかもしれません。

開場当日の朝、大きな広場へ行ってみると、
「黒いライオンなんて、ほんとうにいるのかい?」
「それがいるってんだよ、早く見たいな」
「どこにいるんだ、早くだせ」……いやはや、満員の大盛況です。

この動物博覧会はサーカスと同じ興行方式で、まもなく、タキシード姿の外人があらわれ、片言の日本語でしゃべりはじめました。

「親愛なる日本のみなさま、ごきげんよう。このたび、わたしたちは、たくさんの動物たちといっしょに、ご当地にやってまいりました。そのたくさんいる動物の中でも、もっともめずらしいのが、百獣の王といわれるライオンであります。ライオンといっても、どこにもここにもいるというライオンとちがいまして、全身が真っ黒、ブラック・ライオンです。さぁ、世にも珍しい真っ黒いライオン、さぁ、どうぞ……」

口上とともに、ラッパが鳴ると、ブカブカドンドンの楽隊の演奏とともに幕が上がります。ぬいぐるみの中の留さん、次第に興奮してきて、「こいつはいい商売だ、生涯ライオンで暮らそうか」などと、勝手なことを思いながら、大熱演。

やがて、また外人の弁士が現れまして、
「いかがでしたか、みなさん、ごらんいただけましたでしょうか、黒ライオンのすばらしさを……。さぁて、これからご覧に入れますのは、東洋の猛獣の王・虎(とら)=タイガーでございます。虎というのは、ふつうは黒と黄のブチですね。ところが、ここにおります虎は、珍しい白と赤のブチでございます。白と赤は、ニッポンの日の丸の旗とおなじ。ホワイト・アンド・レッド・タイガーです。こんな虎は、世界じゅうさがしてもめったにいません。それがここにいるのです」
口上が終わると、虎が「うぉー、うぉー」と、ものすごいうなり声。ライオンの前にいる見物人は、いっせいに虎のほうになだれうちます。

「えー、みなさん、ライオンと虎、もし戦ったとしたら、どちらが強いと思いますか。今日は開園記念の特別サービスの余興といたしまして、ライオンと虎のあいだの柵(さく)をとりはずします。さぁ、どうなることか、わたし知らない、あなたがた知らない」


柵がとりはずされ、驚いたのは留ライオンです。
「うわーっ、どうも話がうますぎると思った。こんなことで、虎に食い殺されたんじゃ、百円ばかりじゃとてもわりがあわない、ああこれがこの世の見納めか。『なむあみだぶつ・南無阿弥陀仏』」と唱えると、ノッシノッシと歩いてきた虎が、耳へ口をよせて……、

「心配するな。おれも百円でやとわれた」


「9月17日にあった主なできごと」

1867年 正岡子規誕生…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の正岡子規が生まれました。

1894年 黄海の海戦…日清戦争で、日本連合艦隊と清国の北洋艦隊とが鴨緑江沖の黄海で激突、清国海軍は大損害を受けて制海権を失いました。日本海軍が初めて経験する近代的装甲艦を実戦に投入した本格的な海戦として知られています。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 99]

むかし、ローマ法皇の命令で、えらい司教がいろいろな国の修道院を視察にまわっていました。あるいなかの修道院に、司教がもうすぐ到着するという知らせがとどくと、年老いた院長は、顔色を変えました。この司教は大変な賢者である上に議論にすぐれ、しかも手まねで議論するといううわさでした。その手まねにうまく対応できない修道院は、日ごろの精進が疑われるといわれていたからです。

「神父のみなさん、どうじゃろう。どなたでもよろしいので、司教さまの問答のお相手を引き受けてくれる人は、名乗り出てくれませんかな。最近わしは、年のせいで動作がのろくなってしまったので、とても自信がありませんのでな」と、集まった神父たちにたずねました。ところが、どの神父たちも、ゆずりあっているばかりで、相手をつとめようという人があらわれません。でも、院長も神父たちも、問答をのがれる知恵もうかばず、頭をかかえるばかりでした。

この修道院には、下働きをしながら神父をめざしているひとりの若者がいました。無教養ですが、ほがらかで、人がらがよいため、院長にかわいがられていました。若者は、おどおどしている神父たちの顔色を見て、院長にたずねました。「おそれながら、おたずねしますが、なにかこまったことでもあるんですか。わたしは、神父さまたちが頭をたれて、うかない顔つきしてるのを、はじめて見ました」「えらい司教さまと、手まね問答の相手をつとめる者がいないので、こまっておるのじゃよ」「手まねで話しゃいいんですね。おもしろそうだなぁ。その役目、わたしにやらせてくれませんか?」院長も、神父たちも、これには大喜びです。
 
よく朝早く、司教が修道院に到着し、院長はじめ、神父たちは列を作ってお迎えしました。下働きの若者も、神父の服を着せてもらって、列のいちばんうしろにひかえていました。司教は、にこりともせず、口もひらかず、ただあいさつのしるしに、軽くうなずくだけでした。やがて、おそろしい食事の時間がやってきました。というのも、この司教は、食事の時間に討論をはじめるのが好きだったからです。食前のお祈りがすむと、司教は立ちあがって、指を1本さし出しました。いよいよ、問答のはじまりです。

若者は、司教の前にすすみでると、指を2本さし出しました。つぎに司教は、指を3本さしだします。これに対して若者は、げんこつをさしだして、これに答えました。院長も神父たちも、かたずをのみながら、ふたりのやりとりを見ています。つぎに司教は、テーブルの上からリンゴをつかむと、ゆっくり若者に投げるかっこうをしました。若者もテーブルからパンをとりあげると、頭の上にさしだしました。

すると司教は、満足げなようすでにっこりうなずくと、席につきました。これを見て、院長も神父たちも、意味がわかりませんでしたが、司教が笑顔をみせたので、一同ほっと胸をなでおろしたのでした。司教は、上きげんで、院長や神父たちと言葉をかわしながら、おいしい食事をこころゆくまで楽しみました。

つぎの日の朝早く、司教は修道院をたちましたが、帰りぎわに院長にいいました。「あなたはしあわせなお方だ」「それは、どうしてです?」「すえたのもしい若い神父がおられる。わたしの出した問題に、みごとに答えられた。神につかえるまことの資格をもったお方だ」「さようですか、まことにおはずかしながら、あの問答は、わたしにはさっぱりわかりませんでした」「では、説き明かそう。わたしが指1本だして『神はただおひとり』といったところ、あの神父は『いかにも神から命をいただいていますが、救いは神の子です』と、指を2本だされた。そこでわしは指を3本だして『父なる神と神の子に、精霊を加え、三位(さんみ)であろう』というと、『まことにさよう、三位一体である』と、こぶしをにぎられた。そこでわたしは、リンゴをとって、『われわれの祖先アダムが、神のいいつけにそむいて禁断の実を食べたから、人類に死がもたらされた』といったら、あの神父は『アダムの罪はみとめるが、ご聖体をいただくことによって、人間の罪はまぬがれる』と、ご聖体にかわるパンをささげられた。まったくあざやか、おそれいった。院長、あの若い神父をたいせつにしてあげてください」

司教が帰ったあと、院長は庭のそうじをしている若者をみつけ「おかげで、おまえに救われたよ。ありがとう」「院長さま、お礼にはおよびませんよ。むずかしくもなんともありませんでした。学問のある司教さまだって、わたしたちと、おんなじ気持ちをもってるってことがわかりました。司教さまは『わしのいうことがわからなけりゃ、尻の穴に1本つっこんでくしざしにするぞ』といわれたんで、『あなたが1本なら、わたしは2本ぶっとおしてやる』と2本指を出しました。すると司教さまも、負けずぎらいだとみえて、3本さすっていうから、それじゃわたしは、このげんこつくらいの穴をあけてやるっていったんです。そしたら司教さんは、リンゴをもって『なまいきなやつめ、おまえのようなやつには、リンゴを投げつけるぞ』っていうんで、それじゃしかたがないから、パンで防ぎますってやっただけです」……だって。


「9月13日にあった主なできごと」

1592年 モンテーニュ死去…世界的な名著 「随想録」の著者として、400年以上たった今も高く評価されているフランスの思想家モンテーニュが亡くなりました。

1733年 杉田玄白誕生…ドイツ人の学者の書いた人体解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』という医学書を、苦労の末に『解体新書』に著した杉田玄白が生まれました。

1975年 棟方志功死去…仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家の棟方志功が亡くなりました。

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