児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年09月

今日9月30日は、鎌倉時代末から南北朝時代の臨済宗の禅僧で、南北朝和解のとりなしをした夢窓疎石(むそう そせき)が、1351年に亡くなった日です。

1275年、伊勢国(三重県)に生まれた夢窓は、4歳の時、母方の一族の争いで甲斐国(山梨県)に移住しました。9歳で平塩寺に入門し、空阿に師事しました。真言宗や天台宗を学び、1292年に奈良の東大寺で受戒した2年後に京都へ入りました。ところが、臨済宗建仁寺の無隠円範(えんぱん)に接したことがきっかけとなって禅宗に帰依します。その後、鎌倉へおもむき、円覚寺、建長寺、万寿寺などで禅宗を学ぶものの悟りをひらくことができず、1305年浄智寺で悟りを証明する「印可」を受けることができました。

1311年には、甲斐の龍山庵(浄居寺)をはじめたのち、美濃国に永保寺を開き、土佐国、上総国、相模国など各地の寺庵に滞在して禅の道を深めていきました。

1325年、後醍醐天皇の要請で上洛すると、南禅寺の住職をつとめましたが、翌1326年には鎌倉幕府の執権北条高時に招かれ、円覚寺に滞在して高時らの信仰を得ました。1330年には甲斐に恵林寺を開き、1333年鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて、ふたたび南禅寺の住職となり、臨川寺の開山を求められ、夢窓国師という国師号を授けられました。

しかし、建武政権から離反した足利尊氏や弟の足利直義らが北朝を擁立して京都・室町に武家政権(室町幕府)を開くと、臨川寺に移った夢窓は、足利家の帰依も受け、1339年には、西芳寺(苔寺)を禅寺として再興させたり、南北朝和解のとりなしをしました。同年に南朝の後醍醐天皇が亡くなると、元寇以降の戦没者の冥福を祈るため、諸国(66国・2島)に安国寺を建立し、利生塔を設置しました。さらに、後醍醐天皇の霊をなぐさめるため、尊氏に京都嵯峨野に天龍寺を建立させ、その開山となりました。

1334年には、『夢中問答集』を著しています。この3巻からなる著書は、足利直義らに禅の理論を80項目にわたって、わかりやすく説いたもので、いまも、禅の研究者の貴重な資料とされています。また、注目されるのは、夢窓の開いた禅寺には、禅の精神がこめられたすばらしい庭園が造られていることです。京都の西芳寺や天龍寺などは、いまだに、たくさんの観光客を集めています。

なお、夢窓に帰依した足利尊氏は、京都にある禅寺を幕府の政治、政略的に利用しようと、南禅寺(別格)、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺を五山と定めました。これは、3代将軍義満ら室町時代に「五山」の学問や文学の興隆をもたらしました。


「9月30日にあった主なできごと」

1472年 王陽明誕生…中国が明とよばれていたころ、儒教の流れをくむ「朱子学」に対し、日常生活の中での実践を通して人の生きるべき道をもとめる「陽明学」という学問の大きな流れを作った思想家の王陽明が生まれました。

1913年 ディーゼル死去…空気を強く圧縮すると高い温度になります。この原理を応用して、空気を圧縮した筒のなかに液体の燃料を噴射して自然発火させ、爆発力でピストンを動かすエンジンを発明したディーゼルが亡くなりました。

1999年 東海村で臨界事故…茨城県東海村の核燃料施設で臨界事故が発生、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名のうち、2名が死亡、1名が重症となったほか、667名の被曝者を出しました。

「おもしろ古典落語」131回目は、『鬼の面(おにのめん)』というお笑いの一席をお楽しみください。

大きな商家の河内屋に、住みこみで奉公にきているおせつは、まだ十二になったばかりの女の子。毎日、そうじやせんたく、子もりなどをして働いています。きょうも、赤ん坊を背負って、道具屋の前にやってきました。

「おじょうちゃん、いつもこの店にきて、お面を見てるけど、なんのお面をみてるんだい?」

「このお面、あたしの、おっ母さんにそっくりなの」

「ほう、このおたふくのお面にそっくりなんだね」

遠くの里から、奉公に来ていると聞いた道具屋のおやじさん、しばらく考えていましたが

「よーしきめた。これ、おじょうちゃんにあげるよ」

「えっ、ほんと?」

「あげるから持っておいき、そのかわり、大事にするんだよ」

おせつは、なんどもなんどもお礼をいって、うれしそうに店に帰りました。

それからというもの、自分の部屋の箱の中へお面をしまい、これを母親と思って「おっ母さん、おっ母さん」と、しゃべりかけ、さびしさをまぎらせていました。

そんなある夜、おせつの部屋から、人に語りかけている声が聞こえるのを不思議に思った店の若旦那、翌朝、おせつにお使いをいいつけ、その留守に部屋を調べてみると、箱の中からおたふくのお面が出てきました。若旦那は、おせつが、このお面を母親と思って話しかけていたと知ると、とっさに、いたずらを思いつきました。おたふくのお面と、こわい顔をした鬼の面を入れかえ、おせつをびっくりさせようと考えたのです。

ところが、店が忙しくなってしまい、いたずらしたことをすっかり忘れてしまいました。そうとは知らないおせつは、箱の中を見てびっくりぎょうてん。おたふくのお面が、こわい顔をした鬼の面に変っていたからです。

「たいへんだ、里のおっ母さんに、なにかあったんだ」

鬼の面を手にとると、実家の里まで半日もかかる道を、歩いていくことにしました。

帰るとちゅうのこと。暗くなりはじめた草原のむこうから、なにか、とてもいいにおいがしてきます。おなかがペコペコになっていたおせつは、なにか食べものにありつけるかもしれないと、においのする草原をかきわけていくと、顔にススキが当たって痛くてたまりません。そこで、持っていた鬼のお面を顔につけて進んでいくと、なん人かの男たちが、たき火をしながら、お堂の中でばくちをしているところでした。ガサガサ音をたてながらやってくる音に、見張りをしていた男がなんだろうと身構えると、たき火に浮かび上がってきた鬼の顔です。

「出た、みんな逃げろ」とどなったものですから、みんなは警察の手入れと勘違いして、いちもくさんに逃げてしまいました。風呂敷包みが落ちていましたが、おせつは気がせいているので、おにぎりをひとつだけもらって、わが家へ急ぎました。

「おせつじゃないか、どうしてこんな夜遅くに」父親の利平はびっくりしました。

おせつは鬼の面を見せながらわけを話し、母親に異変のないことを知ってほっと胸をなでおろしました。ところが、店のだれにも知らせずにもどったと聞いた利平は、すぐに河内屋につれもどそうと、おせつを大八車にのせ、急いで家を出ました。もどる途中、お堂の一件をおせつから聞いた父親は、真っ暗闇の中に、残されたままの風呂敷包みをひろうと、大八車にのせて河内屋へいそぎました。

さて、河内屋の方では、真夜中になってもお店の者が総出で、おせつの行方をさがしているところでした。そこへ、父親の大八車にのせられたおせつが、無事にもどって来たので、ようやく一安心です。しかし、騒動の原因が若旦那のいたずらとわかり、若旦那は、主人から大目玉をくらいました。

「ところで、その近江屋さんの印がある風呂敷包みはなんだい? もしかして…」 おせつから、いきさつを聞いた主人は、最近ぬすまれたと聞いていた近江屋へ、若旦那に風呂敷包みをとどけさせました。

「まちがいありませんでした。盗まれたものがそっくりあったそうです」

「おお、そりゃよかった」

「明日にでも、警察に届け出るそうです。ばくち打ちのしわざだとしたら、名乗りでることはないと思われるので、おせつと、利平さんには、来春にでもお礼をさしあげたいとおっしゃってました」

「よかったな、おせつ。利平さんもお疲れでしょうから、こちらでお泊りください」

「ありがとうございます」…と、おせつが鬼の面に目をやると、鬼が笑っています。

「あっ、旦那さま、さっきまでこわい顔をしていた鬼の面が、笑っております」

「そりゃそうだろう、来年の話をしたからな」


「9月27日にあった主なできごと」

1825年 蒸気機関車初の開業…イギリスの発明家スチーブンソンが蒸気機関車を実用化してから11年後、ストックトン~ダーリントン間19kmを走る世界初の鉄道が開通しました。蒸気機関車はその後数十年で世界中に広まり、産業革命に大きな貢献をしました。

1917年 ドガ死去…「舞台の踊り子」(エトワール)などたくさんの踊り子の絵を描いた画家ドガが亡くなりました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 100]

むかし、子どものいない夫婦がありました。あるとき、おかみさんが近くの川で魚をとっていると、網に小さな金色のカメがかかりました。心やさしいおかみさんは、カメを逃がしてやり、別のところで魚をとっていると、また、おなじカメがかかりました。また逃がしてやろうとすると、そのカメが「おねがいですから、ぼくを飼ってくれませんか」といいます。カメが口を聞いたのでビックリしましたが、「いいわ、家には子どもがいないから、おまえを飼ってあげましょう」と、家に連れ帰りました。

だんなもよろこんで、ふたりは金色のカメを、自分たちの子どものようにかわいがりました。そのうち、このカメがいろいろなことを予言する能力があることがわかりました。そんなある日、「お父さん、お母さん、近いうちに大洪水がおこって、このあたりは水びたしになります。いかだと食べものを用意してください」といいます。

夫婦は、金色のカメのいう通り、いかだを作り、食べものを用意しておきました。まもなく大雨がふりはじめ、一週間もすると、川の水があふれだし、野も畑も水につかっていきました。そしてついに、高台にある家も水びたしになって、人間も動物たちも水に流されてきました。でも、夫婦のいかだだけは、大きな木にくくりつけられていたので、無事でした。「そこへ、1ぴきのトラが流されてきました。どうしようかとカメにたずねると、「トラさんならいいでしょう」というので、トラをいかだにあげてやりました。こんどは、大きなヘビが流されてきます。ヘビもおなじように、いかだにのせてあげました。

こんどは人間が流されてきて、「助けてください」といいます。カメは、「人間なら、助けないわけにはいきませんね。でも、もうそろそろ、水がひきますよ」。カメのいった通り、すぐに水はひき、みんなはもとの地上に帰っていきました。トラもヘビも人間も、夫婦とカメに感謝し、頭をさげながら、別れていきました。

それから、数か月後のことです。この国の王女がとなりの国から帰るとちゅう、森の中で一夜をすごしました。そのとき、1ぴきのトラがしのびよって、王女の宝石箱を盗みだしました。それを夫婦のところへ持っていき、このあいだのお礼だというしぐさをして、おいていきました。夫婦は喜んでこれをもらい、部屋に飾っておきました。いっぽうお城では、家来たちが盗まれた王女の宝石箱を探しまわっていましたが、どんなにさがしても見つかりません。しかたなく、「宝石箱を探し出した者には、ほうびをとらせる」とい立て札をたてました。

そんなある日、洪水のときに助けられた男が、夫婦の家にやってきて、宝石箱に気がつきました。そのまま、王さまに知らせたため、夫婦は捕まって、牢屋へ入れられてしまいました。これを知ったあのときのヘビは、お城に忍びこんで、眠っている王女のまぶたに毒の針をさし、眼をみえなくさせてしまいました。王女の眼は、どんな名医でもなおすことができません。しかたなしに王さまは、「王女の眼をなおした者には、国の半分をつかわす」というおふれを出しました。王さまは、予言者から「国じゅうのだれかが治せる」といわれていたからです。ところが、国じゅうの者たちが、われもわれもとやってきましたが、だれひとりなおすことができません。

あとは、牢屋の中の夫婦だけとなりました。王さまはふたりを呼び出しました。前の日の晩、ヘビは牢屋に忍びこんで、薬の小びんを渡していました。夫婦がこの薬を王女の眼にさしたとたん、もと通りのよくみえる眼になりました。王さまは大喜びで夫婦を許したばかりか、約束通り、夫婦に国の半分をあげたのでした。


「9月26日にあった主なできごと」

1904年 小泉八雲死去…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が亡くなりました。

1943年 木村栄死去…日本の天文観察技術の高さを世界に知らせた天文学者の木村栄が亡くなりました。

今日9月25日は、明治期に「東の渋沢・西の五代」といわれ、関西商業界を代表する活躍をした実業家の五代友厚(ごだい ともあつ)が、1885年に亡くなった日です。

1836年、薩摩藩士の儒学者の次男として、鹿児島城下に生まれた五代友厚は、1842年に児童院の学塾に入りました。1850年に父が藩主の島津斉彬から、世界地図の模写を命じられ、父は友厚にこの仕事を手伝わせたことで、世界の広さと、小国でありながらイギリスの支配領域の広さに驚嘆しました。1854年に薩摩藩の役人になると、それ以後、長崎にできた海軍伝習所で、オランダ士官から、航海、砲術、測量などを学び、上海をおとずれて藩の蒸気船の買い入れに成功して、その船長となりました。

1865年、藩の命をうけて、留学生14名を連れて、イギリスをはじめヨーロッパ各国を歴訪。日本の遅れを痛感して帰国すると、1866年長崎に日本初となる近代ドッグの建設に着手し、長崎製鉄所を設立しました。

明治新政府成立後は、参与兼外国事務局判事となって諸外国との交渉にあたり、やがて大阪府判事となりました。そして伊藤博文とともに、大阪、神戸の豪商たちを説得して、開港したばかりの大阪に銀行や商社をこしらえて、貿易の主導権を外国商人に奪われないようにこころをくばり、初代大阪税関長に就任しました

1869年には役人をやめ、民間人として実業界へ入り、国益に貢献する決意を固めました。金銀分析所や大阪活版所を設立、活版所では日本初の英和辞書を印刷しています。いっぽう、明治政府の指導者と接することも忘れず、とくに内務卿大久保利通との関係はふかく、1871年造幣局(現・大阪造幣局)の設立は、五代の提案でした。1873年には、全国の鉱山開発を管理する「弘成館」を設立して、日本の鉱山王といわれました。また、半田銀山(福島県)の経営をはじめたり、藍の製造工場、堂島米商会所を設立するなど、つぎつぎに新事業にのりだしました。

1878年には、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の初代会頭に就任、関西商業界を代表する存在となっていきます。さらに、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪青銅会社(住友金属工業)を創設させたり、共同運輸、神戸桟橋(川崎汽船K-LINE)を設立させて、大阪湾の近代化につとめました。

しかし1881年、五代の設立した関西貿易社が、北海道開拓使の官有物を安い価格で払い下げたとして、悪名高い「開拓使官有物払下げ事件」として、自由民権派勢力を中心に激しい非難をあびてしまいました。そのため、この払下げは中止となり、政府は国会開設の詔勅(天皇による文書)を出して、人心を沈めたことはよく知られています。

その後も五代は、関西商業界に重きをなし、大阪商船(現・商船三井)や大阪堺鉄道(南海鉄道)を設立するなど活躍をつづけましたが、病に倒れ、49年の生涯を惜しまれながら閉じました。「天下の財は、私有すべきにあらず」の信念で、負債だけが残っていたということです。


「9月25日にあった主なできごと」

1829年 シーボルト国外追放…1年ほど前に、幕府禁制品とされていた日本地図などを国外に持ち出そうとしたこと(シーボルト事件)で、捕えられていたシーボルトが、国外追放・再渡航禁止処分となりました。

1936年 魯迅死去…20世紀初頭の旧中国のありかた・みにくさを鋭く批判した『狂人日記』『阿Q正伝』を著した魯迅が亡くなりました。

今日9月24日は、宇宙線、人工放射能、核分裂などの研究や、放射線量を測定するときに欠かせないガイガー=ミュラー計数管を発明したドイツの実験物理学者ガイガーが、1945年に亡くなった日です。

1882年、ドイツ西部のノイシュタットに、インドの大学につとめる学者の子として生まれたハンス・ガイガーは、ミュンヘン大学をへて、1902年からエアランゲン大学で物理学と数学を学び、1906年に放電研究で博士号を得ました。

1907年からイギリスに渡り、マンチェスター大学で「原子物理学の父」といわれるラザフォードのもとで働き、1909年に原子核の発見につながるガイガー・マースデンの実験を行い、原子の構造を明らかにしました。アルファ粒子の散乱現象のほか、一連の実験は、のちにラザフォードが原子模型を提唱するときの大きな力になりました。1911年には、アルファ線の飛程(運動エネルギーを失うまでの直線距離)と半減期との関係を示したガイガー・ヌッタルの法則を提唱しています。

1912年ドイツにもどったガイガーは、ベルリンの理工学研究所・放射能実験所のリーダーとなり、まもなく、放射線の検出や計測にかかせない測定器の研究にとりかかりました。第1次世界大戦が本格化してきたため、砲兵隊の軍務についていましたが、大戦後はふたたび研究室へもどり、測定器の改良に取り組みます。

1925年キール大学の教授となり、1928年ついに、ミュラーとの協同による「ガイガー=ミュラー計数管」を発表して、最終的な放射線量測定器の完成にこぎつけました。この計数管は、放射線の粒子が管の中に入ると瞬間的に電流が流れて測定するもので、その後の放射線研究に欠かせないものとなりました。

その後ガイガーは、1929年にチュービンゲン大学へ移り、1936年にロッテンブルク工業大学で物理学を教えましたが、第2次世界大戦中は病気のため、ほとんど研究ができず、連合国軍がドイツに入ってきたときは家も財産も失ってしまい、翌年、ポツダムで62年の生涯を閉じました。


「9月24日にあった主なできごと」

1744年 石田梅岩死去…正直、倹約、堪忍という徳目をわかりやすく示し、町人の道を教える「心学」をはじめて説いた江戸時代中期の学者 石田梅岩が亡くなりました。

1877年 西郷隆盛自刃…木戸孝允と大久保利通とともに倒幕・維新に尽力し「維新の三傑」の一人とうたわれた西郷隆盛は、士族(もと武士)たちの不満を解消させるために征韓論を主張しましたが、木戸、大久保らに反対されたため、明治政府の要職をすてて郷里鹿児島へかえりました。私塾を開いているうち、やがて下級士族たちにかつがれて8か月にわたる「西南戦争」をおこしました。西郷軍は政府軍と奮闘しましたが、最新式武装をした政府軍の力に及ばす、最期をさとった西郷は、たてこもった城山で、腹心に介錯を頼み自刃しました。

1965年 みどりの窓口開設…国鉄(いまのJR)は、コンピューターを使った指定券発売の窓口「みどりの窓口」を全国152の主要駅と日本交通公社の83営業所に設置しました。これにより、長い時間待たされたり、ダブルブッキングがほとんど解消されました。

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