児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年07月

たまには、子どもたちに身近な科学のおもしろさを、お話ししてあげましょう。「おもしろ科学質問箱 21」

わたしたちが生きていくのに、なくてはならないのが空気です。でも、空気は見ることも、味わうことも、においをかぐこともできません。風は空気の流れですから、風がふいているときは、感じることができます。空気はちゃんとした物質なので、温度により、固体・液体・気体になります。地表で、水が氷点下で固体(氷)、0度~100度で液体、100度以上で気体(水蒸気)になるように、空気は、マイナス219度以下で固体、マイナス219~190度で液体、マイナス190度以上で気体になるそうです。私たちが吸っている空気は気体のため、形や大きさがありません。

空気は、よく調べるといくつかの気体がまじってできています。窒素(ちっそ)が78%、酸素(さんそ)が21%で、99%がこの2つでできていて、この割合はいつでも同じです。残りの1%に、二酸化炭素(炭酸ガス)と水蒸気、希少ガスといわれるヘリウム、アルゴン、ネオン、クリプトンなどのガスがふくまれています。

地球のまわりには、つつみこむように空気が取りまいていて、「大気」とよばれています。大気は地球の表面からなん10kmまで広がっていて、飛行機に乗ったり、高い山に登ったりすると大気は少なくなり、5500mで地表の半分、2万mで1/20、100kmでほぼゼロになります。ですから、広い宇宙は、空気がまったくないと思ってまちがいありません。大気があると太陽の光を反射して、青空になったり、くもったりいろいろと変化しますが、宇宙はいつもまっ暗なままです。

大気が地球から離れて飛んでいかないのは、地球に引力があるためで、空気は物質ですから重さがあります。地面のあたりでは、空気の重さは1cm四方あたり、およそ1gあります。だから、人の手のひらには、およそ50kg、おとな一人分の重さをささえていることになります。でも、ちっとも重く感じないのは、下からも同じ力でおしあげてくれて、つりあっているためです。


「7月9日にあった主なできごと」

1854年 日章旗を船印に決定…徳川幕府は、「日の丸」を日本船の印と決定しました。やがてこれが慣習化されるようになり、正式に国旗となったのは1999年「国旗国歌法」の公布以降です。

1922年 森鷗外死去…『舞姫』『山椒太夫』『高瀬舟』など明治・大正期に活躍した文学者 森鷗外が亡くなりました。

今日7月8日は、自由民主党の代表格として権勢を誇った政治家の河野一郎(こうの いちろう)が、1965年に亡くなった日です。

1898年、神奈川県豊川村(現・小田原市)の豪農の子に生まれた河野一郎は、小田原中学を経て、1923年早稲田大学政治学科を卒業し、朝日新聞社に入社しました。記者時代に政治家と接触したことがきっかけとなって、1923年に政友会から衆議院選挙に立候補して当選、1942年の翼賛選挙では非推薦で当選しています。

太平洋戦争後、1945年11月に旧政友会の勢力を集め、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党すると、初代幹事長をつとめました。鳩山内閣の結成に奔走するものの、1946年5月、鳩山に公職追放令が下ったため、吉田茂が後継総裁として組閣に取りかかりました。しかし吉田が、旧政党人を軍部に迎合したとみなしたため、二人は犬猿の仲となり、6月には河野も公職追放され、日魯漁業の社長に就きました。

1951年に追放解除となって、三木武吉とともに自由党に復帰した河野は、反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走します。しかし1952年の解散総選挙前に、吉田が鳩山派に打撃を与えようと石橋湛山と河野を党から除名、12月に三木の努力が実って除名取り消されました。1953年3月に河野は、鳩山、三木ら21名と自由党から分党、内閣不信任案に賛成投票し、吉田内閣のバカヤロー解散・総選挙へとつながるきっかけを作りました。そして、河野は三木ら8名とともに日本自由党を結成して、自由党反主流派や改進党と連携しながら、ついに3派を合同させ日本民主党を結成、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒しました。

1954年、第1次鳩山内閣の農林大臣に就任すると、第2次、第3次鳩山内閣でも農林大臣に留任しました。1956年には、日ソ国交回復につとめ、フルシチョフと渡り合って日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共にその調印にこぎつけました。

その後、建設相、経済企画長官などをつとめましたが、1964年の東京オリンピック担当の国務相として大成功させたことはよく知られています。実行力のある政治家として、国民的な人気をえた河野でしたが、あまりにも個性的で、大胆な行動力が災いしたために、敵も多く、総裁、首相の座にはつけず、東京オリンピックの翌年に急死してしまいました。いちどは、総理の座についた河野の力量がみたかったという人も多くいます。

なお、参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長・自由民主党総裁・新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員の河野太郎は孫にあたります。


「7月8日にあった主なできごと」

1621年 ラ・フォンテーヌ誕生…人間を動物におきかえた教訓話(寓話)で名高いフランスの文学者・詩人のラ・フォンテーヌが生まれました。

1979年 朝永振一郎死去…量子力学の研究の中から「超多時間理論」をまとめ、それを発展させた「くりこみ理論」を発明した功績によって、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎が亡くなりました。

1994年 金日成死去…朝鮮半島の抗日運動家・革命家として活動、1948年9月にソ連の支援をえて「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)を建国、同国を朝鮮労働党独裁によって支配し続けた金日成が亡くなりました。

今日7月1日は、「大津事件」で政府の圧力にもめげず、司法権の独立を守り抜いた司法官として知られる児島惟謙(こじま いけん)が、 1908年に亡くなった日です。

1837年に伊予国(現、愛媛県)宇和島藩士の子として生れた惟謙は、生後まもなく母の離婚により、数年間里子に出されたり、造酒屋で奉公したりと、不幸な幼年時代を送りました。そのため姓も金子、緒方、児島と変わっています。しかし、文武の稽古にはげみ、1864年には剣道修行のために、松山、今治、高知へおもむき、翌年には長崎に出て、坂本龍馬らと親交を結びました。1867年に脱藩して京都に潜伏し、勤王倒幕の運動に加わりました。

明治維新後に仕官すると、北陸道御用掛となって、新潟、秋田、盛岡、仙台などにわたったのち、1870年司法省に入って裁判官の道を歩みます。1875年五等判事として福島上等裁判所裁判官時代に、農民たちが税金の納め過ぎを告発した「ワッパ(弁当箱)騒動」を担当、農民に有利な判決をくだして注目されるようになりました。1876年名古屋裁判所長、1881年長崎控訴裁判所長、1883年に大阪控訴裁判所長となって、数々の名判決をくだしました。

1891年大審院長(いまの最高裁判所長に相当)に就任すると、まもなく、児島の名を決定づける「大津事件」が発生しました。この事件は、来日中のロシア皇太子(のちのニコライ2世)がわが国を巡遊中、滋賀県大津市で警護に当たっていた巡査津田三蔵が、皇太子の頭部を切りつけ、負傷を負わせたものでした。総理大臣松方正義ら政府首脳は、大逆罪を適用し、死刑を主張しました。児島は、審理を担当する裁判長以下判事7名を一人ひとりを説得し、普通の殺人未遂罪を適用、無期徒刑の宣告をくだしました。そのため、政府の圧力から司法権の独立を守ったものと高く評価され、「護法の神様」とまでいわれました。当時の欧米列強からも、日本の近代化の進展ぶりを示すものという評価を受けました。しかし、児島が司法権の外部からの独立を守ったものの、裁判長以下判事たちの説得にあたったことは、裁判官の判断の独立をみずから侵害したことになります。児島は、その道義的責任から、翌年に大審院長を辞任、その後は貴族院議員となりました。

1898年には愛媛県から衆議院議員に立候補し当選すると、再選もふくめ、1902年まで議会で活躍し、関西法律学校(現・関西大学)の創立に力を貸すなど、教育事業の援助にもつとめています。


「7月1日にあった主なできごと」

770年 阿倍仲麻呂死去…奈良時代に遣唐留学生として中国(唐)にわたり、唐朝の高官に登るも日本への帰国が果たせなかった歌人・阿倍仲麻呂が唐で亡くなったといわれています。

1787年 寛政の改革…江戸幕府の老中松平定信は、8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」にならい、この日から「寛政の改革」を行い、武芸や学問の奨励、緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化をめざしました。一連の改革は、田沼意次が推進した商業重視政策を否定したものでした。

1997年 香港返還…アヘン戦争を終結させるため、清とイギリス間で結ばれた南京条約(1842年)により、イギリスに割譲された香港でしたが、イギリスから中国へ返還され、特別行政区となりました。


* 明日より5日間、古都・金沢を訪問するため、次回のブログは、8日からとなります。

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