児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年07月

今日7月17日は、明智光秀の子で細川忠興に嫁ぎ、キリシタンとなったことでよく知られる細川(ほそかわ)ガラシャが、1600年に亡くなった日です。

1563年、明智光秀の3女として越前国で生まれたガラシャ(=洗礼名 本名・たま)は、1578年、15歳の時に光秀の主君である織田信長の命によって、信長の家臣細川忠興に嫁ぎました。かしこい美人として知られ、忠興とは仲のよい夫婦で、二男二女を生みました。

ところが1582年6月、光秀が織田信長を本能寺で討ち(本能寺の変)、山崎の戦いで秀吉に敗れたため、たまは謀反人の娘となりました。しかし忠興は、たまを離縁する気になれず、1584年まで丹後国(京都北部)味土野に幽閉しました。

1584年、秀吉の許しをえたことで、忠興はたまを、細川家の大坂屋敷にもどし、きびしく監視しました。容姿端麗だったばかりでなく、聡明で気丈な女性だったたまは、最大の権力者であった秀吉になんど誘われても、宴席につくことさえ拒否したと伝えられています。やがて、キリシタン大名高山右近が忠興に語るキリスト教に魅かれ、1587年に洗礼を受け、ガラシャ(ラテン語で「恩寵」の意)の洗礼名を受けてカトリック信者となりました。まもなく、秀吉がバテレン追放令を発布したことで、忠興にもそのことを告げませんでした。

それから10余年ほどのあいだガラシャは、多くの侍女や二人の娘をも信仰に導き、慈善事業にはげんだり、教理の勉強にも熱心でした。ところが、忠興は5人の側室を持つなど、ガラシャに対して辛く接するようになると、ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けると、宣教師は「キリスト教では離婚は認められない」と、思いとどまるよう説得したということです。

1600年7月、関ヶ原の戦いがはじまる直前、忠興が東軍の徳川家康方について上杉景勝討伐のため従軍すると、西軍の石田三成は、大坂の細川屋敷にいたガラシャを、大坂城に人質として取ろうとしました。それを拒絶したガラシャは、三成の兵たちが屋敷を囲むと、キリスト教徒は自害が許されていないため、家老に槍で胸を貫かせて信仰を貫き通しました。


「7月17日にあった主なできごと」

1604年 徳川家光誕生…江戸幕府第3代将軍として、参勤交代制、キリシタンの禁制、鎖国などを断行して、幕府の全国支配体制を確立した徳川家光が生れました。

1795年 円山応挙死去…江戸時代中期の絵師で、『雪松図屏風』など、写生を重視した日本画を完成した円山応挙が亡くなりました。

1868年 江戸が東京となる…明治天皇は、幕府のあった江戸を東京と改め、首都としました。これまでの首都は京都にあり、東京は京都の東にあたるため「東京」となりました。

今日7月16日は、団琢磨暗殺後に三井財閥のリーダーとなって巨大化を推進し、日本銀行総裁・大蔵大臣兼商工大臣をつとめた池田成彬(いけだ しげあき・せいひん)が、1867年に生まれた日です。

現在の山形県米沢市に米沢藩士の子として生まれた池田成彬は、1879年父とともに上京、慶応義塾別科をへて1890年、新設されたばかりの慶応大学経済学部に入学しました。入学前から英語を学んでいたことが幸いし、大学に推薦されて1890年に渡米すると、ハーバード大学に入学しました。1895年卒業後帰国、福沢諭吉の経営する時事新報に入社しましたが、月給が安いと3か月で退社して、三井銀行に入行しました。

三井財閥の実力者だった中上川(なかみがわ)彦次郎に認められ、足利支店長をふりだしに、1898年欧米に出張して銀行業務の近代化について学び、1900年には本店の営業部次長、1904年には営業部長と、とんとん拍子で栄進をはたしました。1911年には常務取締役に選任され、以後、20年以上も常務のポストについて、三井銀行の経営をとりしきりました。その間、わが国ではじめて外国為替業務を開始するなど、金融界をリードしました。

1927年~30年にかけて、世界の金融不安の時代にわが国も昭和恐慌の波に洗われ、そのあおりを受けて、三井財閥をひきいていた三井合名会社の団琢磨が暗殺されると、1932年、池田は三井合名会社の常務理事となり、三井財閥の実質的な責任者となりました。そして、三井一族の経営からの退陣、重役の定年制、株式の公開、三井物産他主要系列会社の人事刷新など、大胆な機構改革をおこなって世間の財閥への風当たりをさけるようにつとめました。1936年には、自らも70歳で退職しました。

退職後の池田は、翌1937年に日本銀行総裁に就任、1938年には第1次近衛内閣で、大蔵大臣兼商工大臣をつとめ、1941年には天皇を補佐する枢密顧問官となりました。1945年の敗戦後、戦犯容疑を受けて自宅の大磯に引きこもり、1950年に亡くなりました。


「7月16日にあった主なできごと」

622年 回教暦元年…イスラム教の開祖 ムハンマド(マホメット) が、メッカからメディナに移って布教を開始。この年を回教暦元年としました。

733年 山上憶良死去…貧しい人たちへの気遣いや家族思いの万葉歌人・山上憶良が亡くなったといわれます。

1260年 立正安国論…僧の日蓮はこの日、鎌倉幕府の前執権北条時頼に「立正安国論」を献上し、相次ぐ地震や飢饉、疫病などの災害の原因は、阿弥陀如来だけを信じ念仏をとなえればよいという法然を激しく非難、正法である法華経を信じなければ国内に反乱がおこり外国から侵略を受けると予言しました。

1872年 アムンゼン誕生…ノルウェーの極地探検家で、1911年南極点に初めて到達したアムンゼンが生まれました。

1945年 世界初の原爆実験…アメリカのニューメキシコ州の砂漠で、原爆実験がおこなわれました。この成功により、広島に8月6日、9日に長崎へ原子爆弾が落とされました。

「おもしろ古典落語」の124回目は、『仏馬(ほとけうま)』というお笑いの一席をお楽しみください。

ある寺で、本堂を建てなおすことになり、弁長という若い坊さんと西念という小僧さんが、寄付をたのみに檀家をまわりました。お寺のためだというので、お布施はたくさん集まり、ごちそうしてもらったばかりか酒をすすめられたものですから、弁長はすっかり酔っぱらってしまいました。「しっかりしてくださいよ弁長さん、まっ赤な顔しちゃって」「どうだ、こんなに寄付を集めたんだ。この土手で、ひと休みしていこうじゃないか」「だめですよ、早く帰らないと、和尚さんにしかられます」「おまえは、まだ子どもだからわからないだろうが、こうして、酒を飲んでいい気持ちになっているときがいちばんいいんだ、これがほんとうの極楽、はっはっは、極楽ごくらくだ。…だれだ、わしの頭をたたくのは?」

よく見ると、馬が木につながれていて、弁長の坊主頭をしっぽでたたいているのでした。「なぁ、西念。この馬のように、重いものをのせて歩かされ、休んでるときでもつながれている。これが、地獄の苦しみっていうものだ。そうだ、いいことがある。その荷物をこっちに出せ。おれの荷物といっしょにして、この馬に乗せるんだ。それから西念、おまえのしめてる帯をときな」「といて、どうするんですか」「その帯で馬をつなぐから、おまえはひと足先に、この馬をひいて寺へ帰れ。わしは少し酔いをさまして、ゆっくり帰る」「でも、この馬を引いていったら、馬の持ち主は困るでしょう」「いいから、あとはわしがなんとかする。和尚がわしのことを聞いたら、弁長はあとに残って、説教をしていますっていうんだぞ」

(どれ、ここでひと眠りしていこう。だがな、この土手の下は流れだ。もし、寝ぼけて川へころがり落ちたらおぼれっちまう。そうだ、馬の手綱(たづな)が木にむすびついたままになってるから、この手綱をわしの身体にくくりつけて寝れば、川へはまる心配はない、どれひと眠りすることにしよう)

それからどのくらい時間がたったことでしょう。日が西にかたむくころ、馬の持ち主がもどってきました。手綱には、馬のかわりに坊さんが結ばれているのを見て、びっくりぎょうてん。弁長は、馬の持ち主に起こされて、しまったと思いましたが、この男の笠に次郎作と書いてあるのを見つけると、とっさにいいことを思いつきました。

「これは、次郎作さま。おもどりでございましたか」「あんりゃ、たまげたな。はじめてあった坊さんが、どうしてわしのことを知ってるだ」「知ってるどころではありません。わたしは、長いあいだ、あなたに飼ってもらっていた馬なのです」「なんだって、馬の黒が、坊さんに化けただ?」「じつは、わたしは前世で、弁長という坊主でしたが、身もちが悪かったために、おしゃかさまのばちがあたって、この世に馬になって生まれたのです。ご縁があって長らく飼ってもらいましたが、難行苦行を積んだおかげで、おしゃかさまのお怒りがとけ、きょう、もとの坊主の姿にもどりました」「はて、めずらしい話をきくもんだな。おぅ、そういえば、きょうはおらがおふくろの命日だ。これから、家へいっしょにきて、お経の一つも上げてもらいてぇもんだ」「はいわかりました、どうぞごいっしょにお連れ下さい」

弁長は男の家へとやって来て、経文を唱えました。そしてそのお礼にと、食事が用意されます。次郎作が一人で酒を呑みだすと、弁長も酒が呑みたくなり、おしゃかさまがきょうだけは酒を許すとおっしゃったと、酒を呑み、ベロベロに酔っ払ってしまいました。ふと目をさますと、もう夜が明けていて、あいさつもすっぽかして、寺に帰りました。和尚にあの馬はどうしたのかとたずねられ、重い荷物を背負って歩くのはたいへんだろうと、もらってきたというと、この寺でかうことはできないので、市で売ってくるようにいわれました。弁長が市で馬を売って寺へ帰ると、いきちがいに、あの次郎作が、かわりの馬を買おうと市へやって来ました。すると、きのうまで飼っていた黒がそこに売りに出されています。

「はてな、おかしなこともあるものだ、おらの馬の黒にそっくりだ。こりゃ、黒にちげえねえ、左の耳に白い差し毛がある。これがたしかなしょうこだ、黒だ、弁長さんだ、オイ弁長さん、せっかく人間になったのに、酒飲んだりしやがったから、またおしゃかさまのばちにあてられて、馬になったな。なんとまぁ、弁長さん、なさけねぇすがたになんなすったのう」と、馬の耳へ口をよせて大きな声を出すと、馬はどう思ったか、首をひょいと横へふりました。

「はははは、だめだよ。いくらとぼけても、左の耳の白い差し毛でわかるんだ」


「7月12日にあった主なできごと」

1192年 鎌倉幕府始まる…源平の戦いで平氏に勝利した源頼朝は、征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きました。鎌倉幕府は、武士によるはじめての政権で、1333年に執権の北条氏が新田義貞らに滅ぼされるまでおよそ150年間続きました。

1614年 角倉了以死去…豊臣秀吉、徳川家康の朱印状による安南(ベトナム)貿易で巨万の富を得、富士川、高瀬川などの河川開発を行なった角倉了以が亡くなりました。

1925年 ラジオ放送開始…東京放送局(のちのNHK)が、ラジオの本放送を開始しました。

1966年 鈴木大拙死去…禅の悟りについてなどを英語で著し、日本の禅文化を海外に広めた仏教学者の鈴木大拙が亡くなりました。

今日7月11日は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室で、頼朝亡きあとは幕府の実権をにぎった北条政子(ほうじょう まさこ)が、1225年に亡くなった日です。

1157年、伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれた政子は、1177年の平治の乱で敗れ、蛭が小島(現・韮山町)に流されていた源頼朝の監視役だった時政の目を盗み、頼朝と恋仲になりました。頼朝と政子の関係を知った時政は、平氏一門に気兼ねして結婚に反対するものの、政子は頼朝とともに、伊豆山神社に逃げこんでかくまわれました。やがて、時政はふたりの結婚を認め、政子は、頼家、実朝ら2男2女を生み、北条氏一族は、頼朝の重要な後援者となります。

1180年、頼朝は、以仁王の平家追討の令旨(りょうじ)を受けて挙兵するものの、石橋山の戦いで惨敗し、安房国(千葉)に逃れました。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送りました。勢力を回復した頼朝は、鎌倉を本拠におき、1184年に弟の源義経らに、京都の治安をないがしろにする源義仲を討たせ、平氏一族を一の谷(神戸)、壇ノ浦(下関)に破って、平氏を滅ぼしました。そして、1192年に征夷大将軍となって鎌倉幕府の初代将軍となり、政子は御台所と呼ばれるようになりました。

1199年に頼朝が亡くなると、政子は出家したために尼御台(あまみだい)とされ、頼家を2代将軍としました。しかし、政治の実権は政子がにぎり、将軍の権限をおさえるために、父時政や大江広元ら重臣(宿老)たちの合議制をしき、1203年には頼家の病気を理由に2男の実朝を3代将軍とし、時政が執権(将軍の補佐役)となりました。

1205年政子は、時政の後妻が陰謀を企てたことに時政も同調したことで、時政を隠退させ、弟の北条義時とともに幕政を主導しました。1219年、実朝が頼家の子公暁(くぎょう)に暗殺されると、わずか2歳の九条頼経を4代将軍として迎え入れ、義時を執権にしました。

1221年、後鳥羽上皇が、義時追討の院宣(いんぜん)を発して「承久(じょうきゅう)の乱」が起こりました。政子は、動揺する御家人たちを鎌倉に集め、幕府はじまって以来の難局であること、頼朝以来の御恩の意義を説いて挙兵の決意をうながしました。こうして乱は、京都に進軍した幕府軍の圧勝に終わり、その男まさりの活躍ぶりから、「尼将軍」とよばれました。

1224年、義時が亡くなり、その長子で、幕府を盤石のものとさせた泰時が3代目の執権となると、その翌年、政子は波乱にとんだその生涯を閉じたのでした。


「7月11日にあった主なできごと」

1156年 保元の乱…後白河天皇方の平清盛、源義朝らが、崇徳上皇方の平忠正、源為義らのこもる白河御所へ未明に夜討ちをかけて打ち破りました。その結果、上皇は隠岐に流され、為義らは処刑されました。これにより、武士が政治に進出することが決定的となります。

1864年 佐久間象山死去…幕末の志士として有名な吉田松陰、幕臣の勝海舟らを指導した開国論者の佐久間象山が、攘夷派の武士たちに襲われて亡くなりました。

1893年 真珠の養殖成功…御木本幸吉は、この日アコヤガイを使った貝の中に真珠ができているのを発見、約10年を費やして、真円真珠の養殖に成功しました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 91]

むかし、あるところに、とても金持ちの男がいました。ある日、この男があるカフェで、友だちとコーヒーを飲みながら、世間ばなしをしていました。「きのう、わしは泥(どろ)ぼうに入られてな、しこたま持っていかれたんだ」「そうか、おれも、このあいだやられたよ」ともうひとりの友だちがいいました。それを聞いた金持ち男は、「君たちは、どうして、そんなに盗まれてばかりいるんだい。おれは、何ひとつ盗まれたことなんかない。君たちんのとこじゃ、泥ぼうさんどうぞお持ちくださいみたいに、物を散らかしてあるんじゃないのか。おれん家(ち)からは、何かを盗みだすなんて、だれにもできないね」と、笑いながら自慢しました。

ところが、彼らのそばに泥ぼう名人がすわっていました。名人は、こっそり、金持ち男のキセルを盗みだすと、すぐに男の家へ行きました。「ご主人の使いでまいりました。市場で、脂(あぶら)とハチミツを買いたいから、銅の器をふたつもらってきてくれということです」。奥さんは、ご主人のキセルを見るとすぐに信用して、大きな壺をふたつ渡しました。

名人は、すぐに市場へいき、ひとつの壺に脂を、もうひとつにハチミツを入れて、奥さんへ届けました。それからしばらくして、もう一度ドアをたたくと、「また、ご主人のいいつけでまいりましたが、すぐに金貨を千枚渡すようにといいつかりました。金の細工師のところで、贈物を買うのだそうです」奥さんは、その言葉を信じて、金貨を千枚入れた財布をわたしました。泥ぼう名人は、それを受け取ると、どこかへ姿を消しました。

金持ち男は、まだカフェにいましたが、キセルを探してもどこにも見つかりません。しかたなく、家に帰り、奥さんにたずねました。「おれのキセルはいったいどうしたんだろう」「なにをおっしゃるんです。使いの男に、証拠として持たせたんじゃないですか」と、奥さんは、笑いながらいいました。「おれは、使いなんかだしてないぞ。で、その男はどこへ行った」「あんなこといって! 壺をふたつよこせというから、出してやったら、ここにある脂とハチミツを買ってもどってきましたよ。すると、しばらくして、金貨を千枚渡せというんで、出してやったじゃありませんか」

「そいつは、泥ぼうだ!」と、ご主人は叫ぶと、泥ぼうをさがそうと、家を飛びだしました。するとまもなく、変そうした泥ぼう名人が、奥さんに大声で呼びかけました。「奥さん早く、ご主人の金の刀をよこしてください。泥ぼうをとっつかまえたんで、首を切り落としてやるんですって」奥さんは、大喜びで、夫の金の刀を、窓から出して渡しました。泥ぼう名人は、こんどこそ、価値の高い宝ものをもったまま、町の外へ逃げました。

夕方になって、へとへとになった金持ち男が、腹をすかせて家にもどると、「あなた、泥ぼうをつかまえられてよかったですね。それで、お金はとりもどせたの?」「泥ぼうなんか、つかまえられやせん。だれがそんなこといった?」「だって、あなたは、人をよこして、金の刀を出してくれっていったじゃないの」ご主人は、怒り狂いましたが、もう、どうしようもありませんでした。

その後、金持ち男が、泥ぼうに何かをとられたか知りませんが、泥ぼうに盗まれた人のことを、ばかにしなくなったことだけはたしかです。


「7月10日にあった主なできごと」

1509年 カルバン誕生…フランスの宗教改革者のカルバンが生れました。「カルバン派」は、オランダ、イギリス、フランスなど産業の盛んな地域に広まりました。

1821年 大日本沿海輿地全図…伊能忠敬が中心となって制作した日本全土の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が完成し、江戸幕府に献上されました。

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