児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年07月

今日7月31日は、カトリックの修道会イエズス会の創立者の一人で、初代総長となったロヨラが、1556年に亡くなった日です。

1491年、スペインの北部バスク地方のロヨラ城に、貴族の13人兄弟末っ子に生まれたイグナチオ・デ・ロヨラは、9年間の宮廷教育を受けた後、1518年にナバラのスペイン副王に仕える軍人になりました。ところが1521年、フランス軍とのパンプローナの戦いで重傷をおい、父の城で療養生活を送ることになりました。

その療養生活中、イエスの生涯の物語やアッシジのフランチェスコらの聖人伝を読むうちに深く感動、過去の罪悪的な生き方を反省し、自己犠牲的な生き方をする決意をしました。やがて健康を回復すると、1522年にベネディクト会修道院を訪れ、カタルーニャにある洞窟の中にこもって黙想の時を過ごすなどの修行を積みました。1523年にはエルサレムへ巡礼の旅にのぼりました。

さらに学問の必要を痛感したロヨラは、1528年パリ大学に入学し、一般教養と神学を学びました。パリ留学は7年にのぼり、その間におなじバスク出身で、のちにキリスト教を日本に布教するフランシスコ・ザビエルら、6人の重要な同志と知り合い、彼らを信仰生活に導きました。

ロヨラと同志たちは、そのころにさかんになっていたルターらのプロテスタント(新教徒)の運動に懸念をいだき、それに対抗するカトリック教会を革新しなくてはならないと考えるようになりました。そして1534年、ロヨラと6人の仲間たちは、パリのモンマルトルの丘に登り、神に自分たちの生涯をささげること、清貧で貞潔であること、7人はおなじグループとして活動すること、教皇の望むところならどこでもおもむくことなどを誓いあいました。これが「モンマルトルの誓い」で、イエズス会の始まりとされています。正式には、1540年に教皇パウロ3世がイエズス会を許可し、翌年ロヨラがその総長となり、亡くなるまでその職に献身しました。

イエズス会は、当時ポルトガルやスペインがアジア、アフリカ、アメリカに広げた植民地に多くの修道士を積極的に送り出し、カトリックをヨーロッパ以外に広げる大きな力になりました。

なお、ロヨラは『霊操』(修道会に伝わってきた良心の究明、黙想、観想など修業の諸要素を体系化) の著者としても有名で、死後の1622年には、カトリック教会から「聖人」の位を受けています。


「7月31日にあった主なできごと」

1875年 柳田国男誕生…『遠野物語』を著すなど日本民俗学の開拓者といわれる柳田国男が生まれました。

1905年 日露戦争終結…5月末に「日本海海戦」に勝利し、ロシアに講和を受け入れるようアメリカに仲裁を申し入れていた日本に、この日樺太を占領に成功したことでロシア軍が降伏、「日露戦争」が終結しました。

1944年 サン・テグジュペリ死去…『星の王子さま』をはじめ、『夜間飛行』『人間の土地』などを著わした作家で飛行家のサン・テグジュペリが亡くなりました。

たまには、子どもたちに身近な科学のおもしろさを、お話ししてあげましょう。「おもしろ科学質問箱 24」

ご飯や牛乳は白、トマトは赤、カレーは黄色など、食べたり飲んだりしたものはいろいろな色をしているのに、ウンチとして出てくるときは、いつも同じように茶色なのはどうしてなのでしょう。子どもたちが不思議に思うことのひとつです。

私たちが生きていけるのは、口から食べものや飲みものをとりこんでいるからです。でも、それだけでは十分ではありません。そんな飲食物を、身体が利用できるようにするのが「消化」の役割です。

消化とは、飲食物を作っている大きい分子を、身体の中にとりこめるような小さい分子に変えることで、デンプンはショ糖に、脂肪はグリセリンに、タンパク質はアミノ酸にかえる仕事です。

口から食道を通って胃に入った食べものは、胃からだされるペプシンという消化酵素を含む胃液の働きでドロドロの液体にされますが、消化の大半はここで終えます。ドロドロになった液体は、胃の下にある幽門という弁を通って、4~5mもある長い管である小腸へ移します。小腸のはじめの部分は十二指腸といわれています。小腸では、腸液や膵(すい)液、胆のうから出てくる「胆汁」などの消化液で、食べものをさらにドロドロにします。やがて小腸の壁から血液やリンパ液へ吸収されて、身体に必要なエネルギーの源になります。

小腸の中で栄養分を吸収されたあとの残りかすは、長さ約1mの大腸へおくられ、ここで水分が吸収され、残りかすはかたまって、おしりの穴である肛門から、ウンチとして排出されるのです。

さて、そのウンチが茶色い理由ですが、これには肝臓から出される「胆汁」と深いつながりがあります。血液が赤いのは、赤血球という赤いつぶつぶがたんさんあるためですが、赤血球には寿命があって、死んでしまった赤血球は血液とともに肝臓に運ばれ、胆汁といっしょに小腸の中にすてられます。この胆汁のビリルビンという色素の一部は「ウロビリン」となり、これが黄色をしています。食べものの残りかすの半分以上は、腸の中に住んでいた細菌とはがれおちた腸の膜で、これらと「ウロビリン」がまじって、ウンチが茶色っぽくなるというわけです。

食べものの入り口である口から、出口の肛門までおよそ9mもあります。食べものにとっては、24~72時間、長い長い「消化」の旅です。なお、あのくさいにおいは、腸の中に住んでいる細菌が食べものを分解するときのガス(イオウ化合物)が原因で、おならがくさいのもそのためです。


「7月30日にあった主なできごと」

1502年 宗祇死去…室町時代の連歌師で、和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに漂泊の人といわれる宗祇が亡くなりました。

1863年 フォード誕生…流れ作業による自動車の大量生産に成功し「世界の自動車王」といわれる実業家フォードが生まれました。

1898年 ビスマルク死去…プロイセン王の右腕として鉄血政策を推進し、1871年ドイツ統一の立役者となったビスマルクが亡くなりました。

1911年 明治天皇死去…王政復古をなしとげ、近代国家の形を整えた明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位しました。

1947年 幸田露伴死去…『五重塔』などを著し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家幸田露伴が亡くなりました。

1965年 谷崎潤一郎死去……『細雪』『春琴抄』『痴人の愛』などの小説や『源氏物語』現代語訳を著した作家の谷崎潤一郎が亡くなりました。

今日7月29日は、平清盛の長男で、清盛の後継者として期待された平重盛(たいらの しげもり)が、1179年、清盛に先だって亡くなった日です。

1138年、平氏全盛時代を築いた平清盛の長男として生まれた平重盛は、12歳で天皇を補佐する役人の蔵人(くろうど)となり、1156年に後白河天皇と崇徳上皇の戦い「保元の乱」、1159年の平氏と源氏の戦い「平治の乱」に、若き武将として父とともに戦い、いずれも勝利したことで武名を高めました。

父の立身とともに、重盛も昇進を重ね、最終的には従二位内大臣にまで出世しました。以後も、清盛を助けて平氏政権の中心的存在となりました。

『平家物語』によると、重盛は、猛々しい平清盛とは対照的に、教養を兼ね備えた武人で、心美しく、道理をわきまえた人物として描かれていますが、1170年には「殿下乗合」といわれる事件を引きおこしています。重盛の子の資盛(すけもり)が、摂政藤原基房が車で通りかかるのに、馬を降りて礼をしなかったため乱闘となったことに怒り、重盛は基房にたいし、たびかさなる報復をおこなったこと。これに清盛がなだめたという記述が、慈円の『愚管抄』にみられます。(『平家物語』では、たびかさなる報復をしたのは清盛としています)

また1177年、清盛が平氏打倒を企てた後白河法皇を幽閉しようとした「鹿ケ谷事件」では、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」と、清盛を説いて、法皇を救った『平家物語』の記述はよく知られています。

このように、政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあり、清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立にたいし、有効な対策を取ることができませんでした。さらに、長男ではあったものの、正妻である平時子の子である宗盛、知盛、重衡、徳子らとは母が異なっていたために、やがて一門の中でも孤立気味となり、病気となって内大臣をやめて出家、清盛の死の2年前に亡くなりました。


「7月29日にあった主なできごと」

1856年 シューマン死去…『謝肉祭』『子どもの情景』 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが亡くなりました。なお、有名な「トロイメライ」は、全13曲からなる『子どもの情景』の7曲目に登場する曲です。

1890年 ゴッホ死去…明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家ゴッホが亡くなりました。

今日7月26日は、室町時代中期の武将で、越前国を統一した朝倉孝景(あさくら たかかげ)が、1481年に亡くなった日です。

1428年、越前国(福井県北部)の守護・斯波氏に仕えていた豪族のひとつ朝倉一族に生まれた朝倉孝景(敏景ともいう)は、父が早く亡くなったため、祖父教景の補佐を受けて育ちました。1458年に、斯波氏の相続争いがおこると、孝景は守護代官の甲斐常治と結んで勢力を伸ばし、甲斐常治が亡くなったことで、孝景の影響力をさらに強めていきました。

1467年、8代将軍足利義政の継嗣争いなどさまざまな要因によって発生した10年にわたる内乱「応仁の乱」がはじまると、はじめは山名持豊(宗全)らの西軍にくみして活躍していましたが、東軍の細川勝元から越前の守護職を与えるという約束をとりつけて寝がえると、やがて連勝を重ねて、1471年に斯波氏にかわって越前守護に任じられました。

足羽(あすわ)川上流にある一乗谷に城を築いた孝景は、ここを本拠地として軍事力を強化、ほぼ越前国全域を支配下におさめ、北陸地方の有力な戦国大名となりました。晩年には、領国支配のための「朝倉孝景(敏景)条々」という17か条からなる家法を制定し、国中の土豪や地侍たちが館などを作ることを禁じ、一乗谷に移住することなどを定めたことはよく知られています。

なお、現在この一乗谷一帯は、当時のりっぱな館や家臣の屋敷、寺院・神社などが発掘され、国の特別史跡に指定されています。この地は三方が山に囲まれ、南北に細長い地形で、天然の要害であることがわかります。


「7月26日にあった主なできごと」

1881年 小山内薫誕生…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が生まれました。

1945年 ポツダム宣言の発表…アメリカ、イギリス、ソ連(現ロシア)3国首脳の名で、日本に無条件降伏をせまる「ポツダム宣言」を発表しましたが、日本はこれを無視しました。しかし、8月に入って広島と長崎に原爆を投下され、日本と不可侵条約を結んでいたソ連の参戦などの情勢の変化により、8月14日の御前会議で受諾を決めて終戦をむかえました。発表から受諾までの20日間で、およそ38万人もの人が亡くなったといわれています。

1956年 スエズ運河国有化宣言…地中海と紅海を結ぶ国際的な水路でエジプトにあるスエズ運河は、開通した1869年から100年近くものあいだ、通行料はフランスやイギリスが株を占める万国スエズ運河会社に入り、エジプトには何の利益も受けられませんでした。エジプトのナセル大統領はこの日、スエズ運河国有化を世界に宣言しました。これを不服としたフランスやイギリスは、国際連合に解決を求めましたが、その解決を待たずに両国は、10月にイスラエルと連合してエジプトに戦争をしかけました(スエズ動乱・中東動乱)。これに対して世界中から非難がまきおこり、連合軍は11月に撤退。翌年4月にエジプト国有になって、スエズ運河は再開されました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 93]

むかし、乱暴な王さまが、国をおさめていたことがありました。この王さまは、すばらしいものをたくさん持っていましたが、なかでも、ひとつの湯飲み茶わんをなによりもたいせつにして、宮殿の金でできた台の上に飾っていました。この茶わんには、とても小さな模様が描いてあって、それがキラキラ輝くのを見ると、心が安らぐのでした。大むかし、この地方でいちばん優れていた陶工がこしらえた茶わんでしたが、その陶工は、自分の秘術をだれにも伝えずに亡くなったため、それ以後はだれにも作ることができない宝物でした。

ところがある日、王さまが戦いに勝って帰国した時のことです。家来のひとりが、凱旋(がいせん)の角笛を高らかに吹きならしたため、金の台がぐらっとゆれ、あの茶わんが転がり落ちて、こなごなに割れてしまいました。王さまは、すぐに国じゅうの有名な陶工たちを集めると、こわれた茶わんを見せて、「これを元通りにつなぎ合わせよ。ただし、つなぎ目がわからないようにしなくてはならない。もし、つなぎ目がわかったら、おまえたちの命はないものと思え」といいわたしました。

陶工たちはびっくりしました。こなごなになっているかけらをつなぎあわせ、元通りにするなんて、とうていできそうにありません。でも、恐ろしい王さまのいいつけです。みんなは、すごすご宮殿をあとにして、茶わんのかけらを前にしながら、なにかいい方法がないかをみんなで考えました。「そうだ、ウスマンじいさんに聞いてこよう。あのじいさんは百年も生きているばかりか、いまもすばらしい水がめをつくっているというではないか」と、ひとりがいうと、ほかの人も賛成したために、みんなで田舎にすんでいるじいさんをたずねました。

「だめだね、こりゃ。つなぎようがない」「じいさん、なんとかわしらの命を助けてくれないかな」じいさんは、目をつむり、長い間考えていましたが、やがて口を開きました。「よしよし、わざわざやってきたおまえたちを見殺しにはできない。王さまのところへ行って、1年間の猶予をもらってきなさい。その間になんとかしよう」といいました。

それからじいさんは、仕事場に閉じこもって、いちども姿を見せません。そして、1年が過ぎていきました。陶工たちは、わずかの望みをいだいていましたが、そのころはもうあきらめ、みんな死刑の用意のできた広場に引き出されていました。まわりを囲んでいる人々から、泣き声が聞こえます。ついに、死刑を告げる太鼓が打ち鳴らされました。

すると、その時です。すっかりやせほそったウスマンじいさんが、ロバに乗ってやってきました。うしろには、孫のジャフールが包みを持って、ついてきます。じいさんは、陶工たちの前にやってくると、ジャフールに包みをあけさせました。なんと、キラキラ光る、すばらしい茶わんが現れたではありませんか。「すごい、奇跡だ」みんな、いっせいに驚きの声をあげました。王さまは、茶わんを手に取り、よくよくながめまわしました。でも、つなぎ目はもちろん、ひびひとつ見当たらないので、満足げにうなづきました。

陶工たちのひとりは、さっそく大きな木の鉢をもつと、集まっている人たちのあいだを歩きました。男たちは金貨を投げ入れ、女たちは、耳輪や腕輪、首飾りなどを入れました。鉢はみるみる山もりになると、陶工はその鉢をじいさんの前にさしだして、「じいさん、みんなの感謝の気持ちです。受け取ってください」すると、じいさんは「気持はうれしいが、礼などいらんよ。わしは力の限りをつくしたのだから、それで満足。その結果、こうして宝の茶わんを後世に残すことができたし、おまえさんたちの命を助けることができたのだから」というと、さっさと帰ってしまいました。

じいさんの評判は、たちまち国じゅうに広まり、たくさんの陶工たちが、じいさんの秘術を教わりにやってきました。「秘術などというものはない。おまえさんたちと同じように、泥をねり、砂をまぜ、水を入れ、形をこしらえて焼き、さますだけだ」というばかりでした。でも、陶工たちは、じいさんが、自分の秘術を人に教えたくないために、そういっているのだと思っていました。

孫のジャハールは、幼いころからじいさんのそばについて、焼きものの修行をしてきました。でも、陶工と同じように考えていました。ある日「おじいさん、ぼくの一生のお願いです。ぼくにだけは、おじいさんの秘術を教えてくれないでしょうか」と、たずねました。ところがじいさんは、じっと腕組みしてるばかりで、なにもいいません。それどころか、仕事場にこもったまま出てきません。やがて、できあがったばかりの水がめを、市場へ売りにでかけました。

その留守のときです。ジャハールの妹が、兄をじいさんの仕事場へつれていきました。「あたし、ごはんをもっていったときに、見ちゃったんだけど、この包みになにが入ってると思う?」ジャハールが包みを開けると、思わずあっと、叫びました。そこにあったのは、王さまの宝の茶わんのかけらだったのです。ジャハールは、孫にさえ、新しい茶わんを作ったことを秘密にしていたのを知り、涙を流して仕事場を出たのでした。
 

「7月25日にあった主なできごと」

1801年 伊能忠敬死去…江戸時代後期の測量家で、日本全土の実測地図「大日本沿海輿地全図」を中心となって完成させた伊能忠敬が亡くなりました。

1894年 日清戦争始まる…日本軍は朝鮮の豊島(ほうとう)沖で中国の清艦隊を攻撃し、日清戦争がはじまりました。朝鮮を属国とする清と、朝鮮を清から奪おうとする日本との対立が原因でした。

1978年 古賀政男死去…『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家古賀政男が亡くなりました。

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