児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年06月

「おもしろ古典落語」の123回目は、『天災(てんさい)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「ご隠居、まっぴらごめんなせぇ」「だれだ、そうぞうしい、なんだ八公か。おめってやつは、どうしてものごとに乱暴なんだ。3日もあけず、親子げんかに夫婦げんか。人の家へ入ってくるなりあぐらをかく。いいか、『親しき仲にも礼儀あり』っていうだろ。ちゃんと座りなさい」「どうぞおかまいなく」「おかまいなくっていうやつがあるか。で、いったいなんの用があってきたんだ」「へぇ、すいませんが、ちょいと、離縁状を二本書いてくんなせぇ」「ばかやろう、女房はひとりだろ、1本で足りるはずだ」「もう1本は、うちのばばぁにやるんで」「あきれた野郎だな、ばばぁってぇのは、おまえのおふくろだろう」「そんな、おふくろなんてもんじゃねぇ」「それならいったいなんだ」「死んだおやじの、たぶん、かみさんでしょ」「それを、おふくろっていうんじゃねぇか」「そうなるんですかね。でも、あんなしわくちゃばばぁなんて、みっともないから、ないしょにしておくんなせぇ」「なにがみっともねぇだ。女が年をとりゃ、みんな、ばぁさんになるもんだ。その母親に離縁状を出すなんて、バチがあたるぞ。『孝行のしたいじぶんに親はなし』っていうだろ、できるうちに親孝行しなくちゃいけねぇ」「へぇ」

「じつはな、おまえのような気の荒い人間は、心学(しんがく)というのを聞くといいと思って、このあいだ、おれの知ってる先生に、おまえのことをよくたのんでおいたから、これからいって、いろいろ教えを受けておいで」「へぇ、ありがとうございます。けれど、ありゃ、胸がやけていけません」「胸がやける? なんのことだ」「でんがくでしょ。豆腐にみそをつけて焼いたの」「田楽じゃない、心学。おまえの心をおさめる学問だ。むこうへいけば、先生がおまえによくわかるように、説き明かしてくれる」「学問ていったって、あっしは読み書きはできねぇ」「いや、ただ耳で聞くだけでりっぱな学問になるんだ」「へぇ、そいつはいいや。いったらすぐにやってくれるんでしょうか」「まぁな。おまえが、生まれ変わったような人間になったら、あたしだって世話のしがいかあるってもんだ。ここに紹介状を書いておいたから、これを持って行っていきなさい」 「どこなんです?」「長谷川町の新道で、紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)先生と聞けばすぐわかる。たばこ屋の裏だ」

八っつぁん、たばこ屋に着くと、いきなり「このへんに、べらぼうになまける、とかいうやつがいるだろ」「なまける者は、たくさんおりますが…、ひょっとして、紅羅坊名丸先生じゃありませんか?」「知ってやがるくせに、そらっとぼけやがって、この横着じじい」「なんとも乱暴な方だな。この裏を入って、つきあたった格子のはまった家ですよ」「格子の家ね。こんちはぁ、まっぴらごめんなせぇ…親方、大将…おーい、だれもいないのけぇ」「どなたか知らないが、だれもいないから、こっちへおはいり」「ごめんなせぇ」とあがった八っつぁん、紹介状をわたすと、先生はくすくす笑いながら、ひと通り読みました。

「おまえさんのことは、前からうかがっていましたが、手紙を読むと、おふくろさんと、しじゅうけんかをしてるそうだな。親は、だいじにしなくちゃいけませんよ」「そんなんじゃねぇやつを、やっておくんなさい。親孝行のことは、隠居に、一日3度くらいいわれて、もうあきあきしてますんで」「よく、けんかをするそうだが、けんかをすると、必ずおまえさんの身体に、損がいく」「冗談でしょ、損得を考えてけんかするやつはありゃしません。しゃくにさわりゃ、いますぐにでもけんかぁするんだ」「そんな大きな声出して、それじゃ、あたしとおまえさんがけんかをしてるようだ。まぁ、あたしのいうことを耳できくんじゃなく、腹でききなさい」「腹できくって、へその穴できくんですかい?」「しっかり、よく聞きなさいってことだ。『気に入らぬ風もあろうに柳かな』って、おわかりかな」「はぁ、どうも感心しました」「じゃ、おわかりだね」「いいえ、まるっきり」「柳という木は、やわらかなものだ。南風がふけば北へなびき、北風がふけば南へそよぐ。人もその通り、心をすなおにもてば、けんかもできないという理屈だな」「柳は川端にはえていて、風が吹いたって風のとおりにブラブラしてればいいけど、風が吹いてるとき、川端歩いてたら、川ん中へおっこっちゃう。人間にゃ虫のいどころの悪い時もあるんで、しゃくにさわりゃ、けんかもしまさぁ」「いや、それがいかんのだ。腹が立つとき、これをがまんするのが堪忍という。『堪忍の袋をつねに首へかけ、破れたらぬえ、破れたらぬえ』」「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」

「これこれ、お寺のお経とまちがえてはいかん。もっとわかりやすい話をしよう。たとえば、おまえさんがおもてを歩いているとする。どこかの店の小僧さんが道に水をまいて、その水がおまえさんの着物にかかったら、おまえさんはどうなさる」「けんかをします」「ちっちゃな小僧がしたことだ、けんかをするわけにはいくまい」「小僧とはできねぇが、小僧をその店に引っぱってって、なんだっててめぇんとこじゃこんな小僧を飼ってるやがるんだって、どなりこみます」「飼っとくてぇやつがあるか。それじゃぁ、風の吹く日に、せまい横町にはいったとする。ところが風のために、屋根から瓦が落ちてきて、おまえさんの頭に当たったとしたらどうだ、痛いだろう」「そりゃ、痛いでしょうね」「その瓦とけんかができるかな」「その瓦を持って、その家へねじこむ。てめぇんとこは、職人の手間代をおしむもんだから、ちっとばかり風が吹いても、瓦が落っこちるんだって、どなりこむね」

「それじゃ、人も家もいない、大きな原っぱをおまえさんが歩いているとしよう。いままで、雲ひとつない天気だったのが、突然のにわか雨、傘もないから、ぐっしょりぬれてしまう。さぁ、その時だ、だれを相手にけんかをなさる?」「へぇ、もうようがす。しょうがねぇ、相手がいなくちゃ、あきらめます」「どうあきらめる?」「人がふらしたわけじゃなく、天からふってきた雨だと思ってあきらめます」「それ、その理屈です。すべてのものごと、相手を人だと思わず、天だと思ってあきらめるんだ。天の災いと書いて天災という。なにごとも天災だとあきらめれば、腹を立てようと思っても腹が立つまい」

わかったのかわからないのか、ともかく八っつぁん、すっかり心服して、なるほどお天道さまがすると思えば腹も立たない、天災だ天災だと、すっかり人間が丸くなって家に帰ります。なにやら隣の熊さんの家でいい争っているので、どうしたのかと聞くと、まだ離縁の話がきまってないのか、前のかみさんがきて、かみさんの知らぬ間に女を連れこんだともめているといいます。ここぞと、心学の先生気どりで、熊さんの家に入った八っつぁん、「まあ落ち着け。ぶっちゃあいけねぇ。奈良の堪忍、駿河の堪忍」「なんだよ」「気に入らぬ風もあろうに蛙かな。ずた袋よ。破れたらぬうだろう」「だからなんでぇ」「原ん中で夕立にあって、びっしょり濡れたらどうする? 天災だろう」

「なぁに、先のかかぁだから。先妻だ」


「6月28日にあった主なできごと」

1491年 ヘンリー八世誕生…首長令を発布して「イングランド国教会」を始め、ローマ法王から独立して自ら首長となったヘンリー8世が生まれました。

1712年 ルソー誕生…フランス革命の理論的指導者といわれる思想家ルソーが生まれました。

1840年 アヘン戦争…当時イギリスは、中国(清)との貿易赤字を解消しようと、ケシから取れる麻薬アヘンをインドで栽培させ、大量に中国へ密輸しました。清がこれを本格的に取り締まりはじめたため、イギリスは清に戦争をしかけて、「アヘン戦争」が始まりました。

1914年 サラエボ事件…1908年からオーストリアに併合されていたボスニアの首都サラエボで、オーストリア皇太子夫妻が過激派に暗殺される事件がおこり、第一次世界大戦の引き金となりました。

1919年 ベルサイユ講和条約…第一次世界大戦の終結としてが結ばれた「ベルサイユ講和条約」でしたが、敗戦国ドイツに対しあまりに厳しい条件を課したことがナチスを台頭させ、第二次世界大戦の遠因となりました。

1951年 林芙美子死去…『放浪記』など、名もなく・貧しく・たくましく生きる庶民の暮らしを、みずからの体験をもとに描いた作品で名高い女流作家 林芙美子が亡くなりました。

今日6月27日は、江戸時代中期の尊皇思想家としてぼう大な日記を残し、吉田松陰ら幕末の志士たちに多くの影響を与えた高山彦九郎(たかやま ひこくろう)が、1793年に亡くなった日です。

1747年、上野国新田郡(にったごおり・いまの群馬県太田市)郷士の子として生まれた高山彦九郎(本名・正之)は、13歳の時に南北朝時代の歴史書『太平記』を読んで、後醍醐天皇のたてた建武新政府の忠臣の行動に感銘しました。さらに、自分の先祖が、忠臣のひとりである新田義貞に仕えていたことを知りました。これがきっかけとなって、勤皇(天皇にまごころをつくす)の志を立てたといわれています。

18歳の時に、置手紙を残して家を出ると、京都に出て漢学を学びました。その後は、生涯にわたって旅ですごし、勤皇論を説きました。訪問していないところは、蝦夷地(北海道)と四国だけといってよいほどで、京都・江戸・郷里を拠点に、全国各地を遊歴しています。ぼう大な日記を残しており、その土地の地誌や伝聞、自然災害、うちこわしなどの社会状況、前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山ら文化人ばかりでなく、剣術家・神官・商人・農民などさまざまな階層の人々との交流が記録されています。

京では岩倉具選ら公卿のあいだを出入りしたため、老中の松平定信ら幕府に警戒され、行動を監視されるようになりました。1791年には九州各地を旅した後、薩摩藩を頼ろうとしましたが退けられ、家族にも圧迫がくわえられこともあり、久留米の友人宅で自殺、46年の生涯を閉じてしまいました。

彦九郎の行動には、京都の三条大橋にぬかずいて自分の名を大声で叫びながら皇居を拝したり、足利尊氏の墓をむち打ちするなど奇行も多く、林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」といわれています。

死後、各地で彦九郎を敬慕する尊王の人々の動きが現われ、彦九郎の尊王思想の先駆的な行動と実践は、その日記を通して吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・中岡慎太郎・西郷隆盛ら幕末の志士たちに強い影響を与えました。また、二宮尊徳や楠木正成らと並んで戦前の小学校教科書で取り上げられましたが、現在では、一部の高校教科書に取り上げられる程度で、多くの人から忘れられた存在になっています。

彦九郎の人物評価は、時代によって著しく変わりましたが、生誕地の太田市では、その人物像を再評価する機運が高まり、1996年に太田市の施設として高山彦九郎記念館が開館しています。


「6月27日にあった主なできごと」

1809年 上田秋成死去…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる『雨月物語』 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が亡くなりました。

1850年 小泉八雲誕生…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が生まれました。

1880年 ヘレンケラー誕生…生後19か月で目・耳・口の機能を失いながらも、著述家、社会福祉事業家として活躍したアメリカのヘレンケラーが生まれました。

今日6月26日は、明治時代に文部卿として「学制」を制定するなど、明治政府の主要ポストを歴任した大木喬任(おおき たかとう)が、1899年に亡くなった日です。明治維新のころ大木は、大隈重信、副島種臣、江藤新平とともに「佐賀の四傑」といわれていました。

1832年、佐賀藩士の長男として生まれ大木喬任は、青少年期に藩校の弘道館で儒学を学び、とくに史学に興味をいだきました。読書家で、和漢古今の書からたくさんの知識を得ていたために、「弘道館の知恵者」といわれるほどでした。1853年のペリー来航に刺激され、大隈、副島、江藤らと尊攘思想を養っていきましたが、藩論を尊皇攘夷へと導くことにはいたりませんでした。

1868年に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士や参与(新政府の官職名)をつとめ、外国事務局の判事や京都府判事となりました。そして、東京に首都を移すことを江藤とともに主張し、東京府知事をつとめました。その後1871年に民部卿から文部卿になり、1872年に新しい教育制度である「学制」を制定しました。この制度は、フランスにならって全国を8大学区に分け、1大学区に32中学区、1中学区に210小学校に分けたのを基幹として、全体を文部省が統括するという、日本で初めての近代的学校制度でした。この学制のもとに、1872~73年以降、小学校が続々と作られることになりました。

1873年に司法卿となった大木は、司法制度を整え、1876年に不平士族たちがおこした「秋月の乱」(福岡)「神風連の乱」(熊本)「萩の乱」(山口)がおこると、現地におもむき、処刑判決の任務を遂行するなどの事後処理に当りました。

以後、元老院議長、天皇の相談にあずかる最高官の「枢密顧問官」、山県有朋内閣の司法大臣、松方正義内閣の文部大臣となるなど、明治政府の主要ポストをつとめあげました。

佐賀の四傑たちは、維新当初こそ開明的官僚として活躍しましたが、江藤と副島は征韓論にやぶれ、大隈が「明治14年の政変」で政府を追放されたのに対し、大木だけは20数年間も高級官僚の地位を確保したのは、他の3人より常識、学識にすぐれていたこと、慎重にことを運ぶ性格と、あまり自己主張しない「もうろう色」の政治家だったからといわれています。


「6月26日にあった主なできごと」

1833年 木戸孝允誕生…大久保利通、西郷隆盛と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人木戸孝允が生れました。

1945年 国際連合憲章の調印…4月25日からドイツや日本に宣戦していた連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開き、この日国際連合憲章が採択されました。国際連合の発足は、同年10月24日で、最初の加盟国は51か国。主な活動目的は国際平和の維持、経済や社会などに関する国際協力の実現です。日本が国際連合に加盟したのは1956年12月、80番目の加盟国でした。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 90]

あるところに、えものをとるのがへたなオオカミがいました。ある夜、オオカミはすばらしい朝ごはんにありついた夢を見ました。眼をさますと、きょうはきっとすばらしい日になるにちがいないと、村のほうへえものさがしにでかけました。すると、2ひきの子ヤギをつれた母ヤギに出会いました。「お母さんや、もう逃げられないから、覚悟をきめなさい。さぁ、ごちそうになるよ」「ちょっと待ってください。死ぬ前に、お祈りだけさせてくれませんか」「よかろう。だがな、お祈りが終わったら、すぐに食べちゃうからな」

ヤギの親子は、道ばたに立っていた十字架像のところへいくと、せいいっぱい悲しそうな声を出して、メーメー泣きました。山のふもとにいたヒツジ飼いがその声を聞きつけました。たいへんなことが起こったのにちがいないと、すぐに犬を放しました。強そうな犬がやってきたのを見ると、オオカミは、ほうほうのていで逃げていきました。こうして、ヤギの親子は助かりました。

すき腹をかかえたオオカミは、「ああ、あんなおいしそうなごちそうを逃がすなんて、おれはなんてバカなんだ」と、ひとりごとをいいながら歩いてくると、1羽のオンドリにであいました。「オンドリくんよ、おまえをごちそうになるぜ。おれは腹ペコなんだ」「いいですよ。でも、さいごに、もう一度鳴くことをお許しください」「だめだ、そんなことをゆるせば、おまえは逃げるにきまってる」「そんなら、わたしが鳴くあいだ、わたしのシッポをくわえていてください」「そんなら、ゆるしてやろう」

オンドリはすぐに鳴きはじめました。そのうち、オンドリのしっぽの羽の1枚が、オオカミのノドをくすぐりました。オオカミが思わずハックション。そのひょうしに、えものを放しました。するとこの瞬間、オンドリはさっと、木の上に飛び上がると、うれしそうに、コケコッコーと鳴きました。

オオカミがしょんぼり歩いてくると、太ったガチョウに会いました。「ガチョウくん、おまえをごちそうになるから、覚悟をしたまえ」「いいですよ、どうぞ食べてください。でもね、わたしはしばらく身体を洗ってませんから、そこの池で洗わせてください。それから食べたほうが、ずっとおいしいですよ」「だーめ、そんなことすりゃ、おまえは逃げるに決まってる」「それじゃ、わたしが身体を洗ってるあいだ、あなたはわたしのシッポをおさえていたらどうです?」たしかに、ガチョウの身体は汚れています。そこでオオカミは、ガチョウのシッポをしっかり口にくわえました。ガチョウは、しばらく羽をバタバタさせ、口ばしで、水を身体にかけていました。そのうち、急に深みにもぐりだしました。オオカミはびっくりして、思わず、シッポを放してしまいました。

オオカミはすっかりしょげて、ボンヤリ歩いてくると、牧場に出ました。ウマの母子が草を食べています。「お母さんや、おれは朝から、なーんにも食べてないんだ。覚悟しなさい」「あーら、わたしたちを食べたりすれば、あなたは重いバツを受けますよ。わたしたちを食べてはいけないと書いたものを、ちゃーんと持ってるんですからね」「そんなことに、ごまかされるか」「ウソだと思うなら、自分でたしかめてごらんなさい。ひづめの下にありますから」といって、母ウマは、右足を高くあげました。オオカミが身体をかがめて、ひづめの下をのぞきこんだとき、顔に激しい痛みを感じて、めまいをおこしてしまいました。オオカミが、われにかえったときには、ウマの母子は、はるか遠くへいっていました。

オオカミが、(おれは、なんてあきれたやつなんだ。馬のひづめの下をのぞくなんて、けとばされるにきまってるだろう)と、悲しそうに歩いてくると、こんどは年老いた雄ヒツジにであいました。「おい、じいさんヒツジよ、おれは腹ペコで死にそうなんだ。おまえを丸ごといただくよ」「いいですとも。あたしは、この世になんの未練もありません。いっそ、わたしのほうから、あなたのノドの中に飛びこんでいってあげましょう」「そいつはありがたい。ぜひ、そうたのむよ」「ではその湖を背にして、口をうんと大きく開けて、立っていてください」

オオカミは、いわれた通り、口を思いきり大きく開けて待っていました。すると、老ヒツジは、小高い丘の上から、ありったけの力をふりしぼって、オオカミのノドをめがけて突進してきました。オオカミはその勢いに負けて、ギャーッと悲鳴をあげながら、湖の中にボッチャーン。アップアップしながら、ようやく岸にたどりついたときには、老ヒツジの姿は、どこにもありませんでした。

「あーあ、なんておれは、大バカものなんだろう。あんな夢なんか見なけりゃよかったんだ。バツとして、だれか、オレのシッポを切り落としてくれないかな。この教訓を身にしみて忘れないためになぁ」と、オオカミが大きな木のによりかかりながら、ひとりごとをいいました。すると、木の裏側にいた木こりがこれを聞いて、「ほほう、オオカミくん、おれがおまえの願いをかなえてやろう」と、オノを力いっぱいふりおろしました。オオカミのしっぽは、プッツンと切れ、その痛さにピョンピョン跳びはねながら、いちもくさんに逃げていきました。


「6月25日にあった主なできごと」

845年 菅原道真誕生…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された「学問の神」として信仰されるようになった菅原道真が生まれました。

1734年 上田秋成誕生…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる『雨月物語』 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が生まれました。

1956年 宮城道雄死去…琴を主楽器とする日本特有の楽曲「箏曲(そうきょく)」の作曲者、演奏家として世界に名を知られた宮城道雄が亡くなりました。

今日6月24日は、池坊花道の家元として安土桃山時代に活躍した華道家・池坊専好(いけのぼう せんこう)初代が、1621年に亡くなった日です。

池坊というのは、いけばなの一流派で、もともと京都・頂法寺の中にある寺院のひとつの僧坊で、本堂が六角形をしているため、六角堂ともよばれています。その住職は代々「専」の字が使われ、専好を名乗る住職はこれまで、池坊家31世の初代・32世の2代目・33世の3代目の3名をかぞえ、それぞれが花道宗匠として活躍しました。

1536年ころに生まれた初代池坊専好が、歴史資料にあらわれるのは1561年のころで、宮中で「立花」(生け花)を立て、みずから花師と称して、おおらかで華麗な表現をみせたと記されています。やがて、書道(入木道)の理論を参考に新しい立花技法論『専好華伝書』を著し、七つ道具の役技をあみだすなど、従来の立花に画期的な変化をもたらしました。1599年に京都の大雲院で催された百瓶(ひゃくべい)華会は、門人100人とともに100個の銅瓶に花をいけるという壮大なもので、絶賛されたと伝えられています。

2代目池坊専好は、先師初代の花道を受け継ぎ、江戸時代前期に活躍、池坊立花を盤石なものにしました。理論より実作に優れ、立花の大成者・名人といわれ、宮中における立花会の判者にもなり、法橋(法眼に次ぐ僧位)に叙せられています。作品200点余の立花図が京都曼殊院などに残されています。

3代目池坊専好は、2代に続き、江戸時代元禄期に活躍しました。「会席法度乃書」をさだめて池坊一門の結束をはかり、『生花の書』を著して町人層の関心をひきつけ、伝統をまもりながら、家元制度を設けるなど、新しい時代への対応につとめました。

以来、たくさんの花道宗匠の努力が実って、1949年から毎年全国池坊全国展を開催し、1952年には池坊短期大学を開設するなど、門流の近代化に取り組んでいます。なお、現在の宗匠池坊専永は45世で、次期池坊家元に決まった池坊由紀は、池坊専好4代目になる予定です。


「6月24日にあった主なできごと」

672年 壬申の乱…古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」が始まりました。大海人皇子(のちの天武天皇)と大友皇子の争いで、およそ1か月続きました。

1611年 加藤清正死去…豊臣秀吉の家臣として仕え、秀吉没後は徳川家康の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって熊本藩主となった加藤清正が亡くなりました。1562年に誕生した日でもあります。

1788年 田沼意次死去…江戸時代の中ごろ、足軽の子に生まれながら、側用人から老中までのぼりつめ、1767年から1786年まで 「田沼時代」 とよばれるほど権勢をふるった田沼意次が亡くなりました。

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