児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年05月

今日5月10日は、横山大観や菱田春草らとともに明治から昭和初期に活躍した日本画の大家・下村観山(しもむら かんざん)が、1930年に亡くなった日です。

1873年、紀州徳川家おかかえの能楽師の家系の子として和歌山市に生まれた下村観山(本名・晴三郎)は、1881年に一家とともに東京へ移住しました。幼いときから絵の好きだった観山は、はじめ藤島常興に狩野派の手ほどきを受けた後、狩野芳崖に学びました。芳崖は、近代日本画の父といわれるほど激しい気概の持ち主で、観山は芳崖から精神と技術両面に厳しく育てられました。

芳崖亡き後は、芳崖の親友だった橋本雅邦に師事したことで、1889年に東京美術学校(現・東京芸大)に第1期生として入学したときは、すでに他の画学生よりも、ぬきんでた技術を身につけていました。そのため同校を卒業後は、母校の助教授になるほどでした。

しかし、校長だった岡倉天心が同校をやめると、教授だった橋本雅邦らとともに行動をともにし、天心や雅邦が中心となって1898年に「日本美術院」を創設すると、これに参加し、横山大観、菱田春草らと、同展の中心画家として活躍しました。大和絵研究に基づいた『修羅道絵巻』や、いわゆる朦朧(もうろう)調といわれる『大原の露』など、近代日本画の方向を暗示する作品を次々に発表して注目されました。1903年には、ふたたび東京美術学校の教授となり、文部省留学生としてヨーロッパへ渡りました。

主としてロンドンで、写実画の色彩や人物の表情の研究を深めた観山は、1905年に帰国すると、1907年には第1回文展(文部省美術展)の審査員に選ばれ、自ら代表作のひとつとなる『木の間の秋』を出品して高い評価をえました。しかし観山は、あくまで政府主催の文展よりも、民間の「日本美術院」とともに自由でありたいという考えを生涯つらぬき、狩野派をはじめ、大和絵、仏画などの古典を深く研究したばかりでなく、洋画の表現を取り入れる柔軟性も持ち合わせていました。

代表作は、上記作品以外に、『弱法師(よろぼうし)』『春雨』『白狐(びゃっこ)』などがあります。晩年は、紀州徳川家のおかかえ能楽師の家系にそだったことからか、能の幽玄の世界の表現をめざしたことでも知られています。

なお、下村観山の作品他は、「オンライン画像検索」で観ることができます。


「5月10日にあった主なできごと」

1863年 下関事件…長州藩は下関海峡を通るアメリカ商船を攻撃しました。これが下関事件です。孝明天皇の命により14代将軍徳川家茂が5月10日を攘夷期限と奏上したことに呼応したもので、他に実行する藩がありませんでした。長州藩はフランス艦、オランダ艦にも発砲、6月1日には米・仏艦が報復攻撃に来航するなど、長州藩は苦境に立つことになりました。

1871年 円誕生…近代日本貨幣法として「新貨条例」が制定され、「円」が誕生しました。円の100分の1を「銭」、現在はほとんど使われませんが、銭の100分の1を「厘(りん)」とすることも決められました。

今日5月9日は、田山花袋、島村抱月らとともに自然主義文学者として活躍した岩野泡鳴(いわの ほうめい)が、 1920年に亡くなった日です。

兵庫県淡路島の洲本市に生まれた岩野泡鳴(本名・美衛[よしえ])は、14歳のときキリスト教の洗礼を受け、宗教家を志して明治学院大学、仙台神学校に学ぶも中退、専修学校(のちの専修大学)で法律学と経済学を修めて、1891年に卒業しました。

卒業後はしだいに文学に魅かれ、中学教師をしながら国木田独歩らのはじめた雑誌「文壇」に新体詩を発表し、まもなく最初の詩集『露じも』を自費出版しました。やがて小説に転じると、1909年に著した『耽溺(たんでき)』が認められて、自然主義作家としての地位を固めました。

私生活面では、樺太(サハリン)でカニの缶詰業を企てるも失敗、しかしそんな体験を「泡鳴五部作」といわれる『放浪』『断橋』『発展』『毒薬を飲む女』『憑(つ)き物』を9年間にわたって描いて好評をえるなど、活動的な人物でした。「小説は、作中に作者が主人公となって活躍するものでなくてはならない(一元描写)」と主張し、田山花袋の「平面描写」論と対立したり、「神秘的半獣主義」を提唱して、霊肉一致、刹那主義を唱えて欲望のおもむくままに女性と関係するといった生活ぶりも話題となりました。

さらに、学位論文を出し、通りもしないうちに「僕はもうじき博士になる」とふれまわったものの論文は不合格。芥川龍之介は、そんな性格の泡鳴を「愛すべき楽天主義者」と評したと伝えられています。自身の生活体験をあからさまに記した泡鳴の小説手法は、のちに「私小説」の基になりました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、岩野泡鳴の代表作など5編を読むことができます。


「5月9日にあった主なできごと」

1903年 ゴーガン死去…ゴッホやセザンヌと並び、後期印象派の代表的な画家として評価の高いフランスの画家ゴーガンが亡くなりました。

1994年 南アに初黒人大統領…アパルトヘイト(人種隔離)政策が長くすすめられてきた南アフリカ共和国に、国民全体が参加した選挙で、人種差別とたたかってきた黒人解放運動の闘士マンデラが大統領に選出されました。

今日5月8日は、清代の初め、明を復興させようと抵抗運動を続け、台湾に渡って鄭氏政権の祖となった鄭成功(てい せいこう=チェン・チェンコン)が、1662年に亡くなった日です。

1624年、長崎の平戸に父鄭芝龍(てい しりゅう)と日本人母の間に生まれた鄭成功(幼名・福松)は、1630年に父の招きで、父の故郷である福建に渡りました。父の一族はアモイなどの島を根拠に密貿易を行って築き上げた巨大な財力と海軍力もっていて、民に帰属して、官権をうしろだてに海上権を掌握していました。15歳のとき成功は、南京で当代の学者銭謙益に師事しました。

1644年、李自成が北京を陥落させて明を滅ぼすと、1646年に成功は、民王朝を再興させようとする唐王に召し出され、信頼されて、民の皇帝の姓である「朱」の名を賜りました。しかし成功は、それではあまりにおそれ多いと、朱姓を使うことをせず「鄭成功」を名乗りました。それ以後人々は「国姓を賜った御大」という意味の「国姓爺(こくせんや)」と呼ばれるようになりました。民の隆武帝の軍勢は北伐を敢行しましたが失敗に終わり、隆武帝は殺され、父もまた、抵抗運動を見限って清王朝に降伏しました。

いっぽう成功は、アモイを根拠にしながら鄭一族を掌握して清と戦い、中国沿岸や琉球(沖縄)、東南アジアの国々と貿易しながら抵抗運動を続けました。1658年には、17万5千の北伐軍をおこし、南京攻略を決定しました。しかし、その途中に暴風雨にあい、300隻の内100隻が沈没したことが致命的となって、南京で大敗をきっしてしまいました。

成功は、勢力を立て直すために台湾へ向かい、1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し、ここを根拠に清朝を倒そうとしましたが、翌年39歳で死去してしまいました。その抵抗運動は息子に引き継がれましたが、その子(成功の孫)の代に清朝に吸収されました。しかし鄭成功は、台湾では、台湾の基礎を築いた国民的英雄とされ、台湾人に流れる不屈精神の支柱・象徴とされています。

なお、近松門左衛門の代表作である浄瑠璃『国姓爺合戦』は、日本式のよろいを身にまとった鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮した鄭成功の英雄ぶりをモデルにしたもので、歌舞伎でも上演され、いまも人気を維持し続けています。


「5月8日にあった主なできごと」

1615年 大坂夏の陣…豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼を産み、秀吉亡きあと秀頼の後見人として豊臣家一族を盛りたてた淀君が、家康のはかりごとに屈し、「大坂夏の陣」に敗れて秀頼とともに自害したことで、豊臣家はほろびました。

1794年 ラボアジェ死去…従来の化学理論を次々と正し、実験で証明し「近代化学の父」と称されたフランスの科学者ラボアジェが、ある時期に徴税請負人をしていたことがわかり、ギロチンで処刑されました。

1859年 デュナン誕生…負傷兵を敵味方を問わずに助ける「国際赤十字」のしくみをこしらえたスイスの社会事業家デュナンが生れました。この誕生日を記念して、5月8日は「世界赤十字デー」として、1948年から国際的な記念日となっています。

今日5月7日は、日本社会党を結成、第2代委員長、初代「統一社会党」委員長をつとめた政治家の鈴木茂三郎(すずき もさぶろう)が、1970年に亡くなった日です。

1893年に愛知県蒲郡に生まれた鈴木茂三郎は、新聞や牛乳配達など苦学しながら中・高等教育を修め、旧制海城中学を経て、1915年に早稲田大学政治経済科を卒業しました。卒業後は、「報知新聞」や「東京日日新聞」の記者となり、主として経済部に所属しながら、経済ジャーナリストとして知られるようになりました。

1918年に特派員としてシベリアへわたったとき、「ロシア革命」に対する干渉戦争ともいうべき軍部のシベリア出兵を目にしたことで、生涯戦争反対をうったえつづける素地ができあがりました。1920年から2年間の渡米、その後、何度か特派員としてソ連の社会主義をまのあたりにしたことで、しだいに社会主義思想に傾倒するようになります。そして、1927年に山川均らとともに雑誌『労農』を発刊、東京日日新聞を退社して、社会主義運動に専念するようになりました。

1928年7月、無産大衆党が結成されると書記長に就任し、以後、東京無産党、社会大衆党など合法的な労働者・農民の政党をつくり、役員をつとめました。しかし、社会大衆党が軍部との関係を深め、国家社会主義的な路線をとるようになると、鈴木はあくまでも戦争とファシズムに対する反対を貫いたことで、1937年の人民戦線事件に連座して検挙され、1945年8月15日の敗戦まで、政治的活動を禁止されてしまいました。

敗戦直後に「日本社会党」の結成に加わり、1946年の総選挙で衆議院議員に初当選すると、党内の左派を指導し、1949年に書記長、1951年には第2代目の委員長となりました。就任したときの党大会で、再軍備の動きに反対し、「青年よ、再び銃をとってはならない。婦人よ、再び夫を戦場におくってはならない」という名演説をしました。この演説は大きな反響を引き起こし、以後、日本の平和運動のスローガンのひとつとなっています。

1951年のサンフランシスコ講和条約の批准をめぐって、日本社会党が左・右に分裂すると、鈴木は「左派社会党」の委員長となり、分裂時、衆議院に16議席しかなかった左派社会党を、1955年総選挙では89議席に躍進させました。1955年に社会党が統一されると、ふたたび委員長に選ばれました。しかし、1958年の総選挙での伸び悩み、翌年の参議院選挙での敗北により、党内の左右両派の対立が再び高まりました。1960年には西尾末広らが脱党して、民主社会党(のちの民社党)を結成したことでその責任をとり、浅沼稲次郎に委員長の座をゆずりました。

その後の鈴木は、社会主義理論委員長となり、「日本社会主義の道」の作成にあたるなど、社会党の左傾化を推し進め、1967年に政界を引退しました。


「5月7日にあった主なできごと」

1730年 本居宣長誕生…35年かけて完成させた『古事記伝』など数多くの古代日本を探る研究書を著した、江戸時代中期の国学者・本居宣長が生れました。

1824年 第九の初演…ベートーベンの交響曲第九番(合唱付)が、この日オーストリアのウィーンで初めて演奏されました。約80人のオーケストラと100人の合唱によるもので、すでに耳がきこえなくなっていた54歳のベートーベン自身も指揮台にたって、各楽章のテンポを指示しました。熱狂した観客はアンコールをくりかえし、3度目のアンコールを警官に止められたという逸話が残っています。この曲は日本でも「第九」として親しまれ、第4楽章は「歓喜(よろこび)の歌」という名で知られています。

1840年 チャイコフスキー誕生…バレー組曲『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『眠りの森の美女』、交響曲『悲愴』、弦楽四重奏曲『アンダンテカンタービレ』などを作曲したロシアの作曲家チャイコフスキーが生まれました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 83]

むかしある国で、いのししが畑を荒らし、家ちくを殺し、きばで人のからだをひき裂くので、みんなとても困りました。そこで王さまは、この苦しみから国を救ってくれるものには、たくさんのほうびをあげる、と約束しました。でもこのいのししは 大きくて強いので、いのししが住んでいる森に近づく勇気のあるものはありません。そこで王さまは、いのししをつかまえるか、殺すかしたものには、王さまの一人娘を妻にやると、おふれを出しました。

さて、この国に二人の貧しい兄弟が住んでいました。名のりでて、この冒険を引き受けようと考えました。兄はずるがしこいよこしまな心からやろうとしましたが、弟の方は、純すいで素直な心からやろうとしました。

王さまは兄弟にこういいました。「注意深くいのししを見つけ出すようにしなくてはいけない。それぞれ、反対側から森に入っていきなさい」そこで、兄は西の方から、弟は東の方から入っていくことにしました。弟がしばらくいくと、黒い槍をもった小人が歩みより、「おまえは、心が素直そうだからこの槍をあげよう。これを持っていれば、安心していのししに向かっていける。決してケガをすることはないからね」弟は小人にお礼をいうと、槍を肩にかついで、こわがらずにずんずん進んでいきました。しばらくすると、自分のほうにむかってまっしぐらにつき進んでくるいのししをみつけました。弟はもらった槍をいのししに突きつけていると、相手はそのままがむしゃらにつっこんできて、槍にぐさりと突きささり、心臓を真二つにされていました。弟は、いのししをを肩にかついで、王さまのところへ持っていこうと考えました。

森の反対側に出ると、入口のところに一軒の家があって、大ぜいの人が踊ったり酒を飲んだりして、どんちゃん騒ぎをやっていました。兄がそこへ入っていったとき、いのししが逃げ出すことはあるまいと、まずは一ぱい飲んでしっかり元気をつけるつもりでした。ところが、いのししをかついだ弟が森から出て来るのを見ると、ずるがしこいよこしまな心がむくむくおこり、落ち着いていられなくなって、弟にいいました。「おい、入ってゆっくり休んで、酒でも飲んで元気をつけるといい」

弟は、兄に悪だくみがあろうとは夢にも思わず、親切な小人が槍をくれたこと、その槍でいのししをしとめたことを話してきかせました。兄は弟を夕方まで引きとめ、いっしょに家に帰ろうとしました。ところが、真っ暗闇のなか、小川にかかっている橋のところにくると、兄は弟を先に渡らせて、川の真ん中へさしかかったとき、後ろからなぐりつけたので、弟は川に落ちて死んしまいました。兄は弟を橋の下に埋めると、いのししを奪って王さまのところへ持っていき、自分がしとめたと、うそをつきました。

王女を嫁にした兄は、「弟はいのししに、身体を引き裂かれたのでしょう」というので、だれもがそう思いました。でも、神さまの前にはなにごとも、いつまでも隠しておくことはできません。なん年か後のことです。一人の羊飼(ひつじかい)が、羊の群れをおってあの橋を渡りました。ふと下を見ると、砂の中にまっ白い小さな骨が見えました。これは、角笛のいい吹き口になると思った羊飼いは、骨を拾い、それをけずって自分の角笛の吹き口をこしらえました。さっそく吹いてみると、その小骨が、ひとりでに歌をうたいだしたのです。

羊飼さん、あなたはわたしの骨を吹きなさる
兄はわたしを殺し 橋の下にうめました
王女を嫁にもらおうと いのしし横どり手にいれて 

「ひとりでに歌うなんて、ふしぎな角笛だ。こりゃ、王さまにおとどけしなくちゃ」羊飼がそれを持って王さまのところへいくと、角笛はあの歌をうたい出しました。王さまは、その歌の意味がよくわかったので、橋の下の地面をほり返させると、弟の骨がそっくり出てきました。悪い兄は、自分のしたことを、もうごまかすことができません。そのため、袋の中に入れられ、生きたまま水に沈められてしまいました。それにひきかえ、弟の骨は、教会へ運ばれ、りっぱなお墓に葬られました。


「5月2日にあった主なできごと」

756年 聖武天皇死去…仏教を深く信仰し、全国に国分寺を建て、奈良の大仏を造った聖武天皇が亡くなりました。

1519年 レオナルド・ダ・ビンチ死去…『モナリザ』『最後の晩餐』など絵画の名作を描いたイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ビンチが亡くなりました。

1948年 サマー・タイムの実施…欧米の政策を採り入れて、時計を1時間早めるサマー・タイムが実施されました。しかし、日本の生活習慣に合わなかったため、4年後に廃止されました。最近になって、エネルギーの節約と時間の有効活用のために、導入すべきだという声もきかれるようになっています。

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