児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年05月

「おもしろ古典落語」の119回目は、『夢屋(ゆめや)』というお笑いの一席をお楽しみください。

世の中が進むにしたがいまして、いろいろと珍しいものが出てきました。新幹線やジェット機なんて、昔の人には想像がつかないものだったにちがいありません。テレビなんていうのも、家にいたままで、世界じゅうのできごとを見ることができるのですから、考えてみれば、不思議なことですね。これからお話しますのは、「夢屋」というなんとも不思議な商売が出てきまして、どんなことでも、望み通りの夢を見せてくれるといいます。これが評判になって、大繁盛となりました。

「こんちはぁ」「はい、いらっしゃいませ」「あっしは、友だちから聞いて来たんだが、好きな夢を売ってくれるそうだな」「さようでございます。どうぞ、おあがりください」「へぇ、りっぱな部屋だね。ここで夢を売るのかい?」「いえ、ここは応接間でして、お客さまのご注文をおうかがいいたします」「でも、枕がたくさん並んでいるじゃねぇか」「これは夢の見本でして……」「夢の見本?」「枕によって、みたい夢をお選びになることができます」「ふーん、ここに役者の紋がついてるのがあるね」「へぇ、それはお芝居の夢でございます」「なるほどな。こっちにある三味線のついてる枕は」「それは転び芸者の夢でございます」「ははは、しゃれてるね、…軍配のあるのは相撲の夢か」「その通りです。で、お客さまは、どんな夢をごらんになりたいんで?」

「うーん、ちょっときまりが悪いんだが、じつは、金持ちになりてぇんだ。間違えちゃこまるよ、おれは職人だ。金がほしいなんてケチな気持はもってねぇ。ぜんたい、世の中の金持ちを見てると、自分ばっかりぜいたくをしやがって、いばりちらしてる。貪乏人のことはいっこうにかまわねぇ。それがしゃくにさわってな。だから、おれは金持ちになって、貧乏人にほどこしてやって、世間の金持ちに、金はこうやって使うもんだって教えてやりてぇと思うんだ」「けっこうでございます」「決して、欲のためじゃないんだぜ」「よくわかりました。この枕をなさいますと、金持ちになる夢が見られます」「なるほど、聖徳太子の絵がかいてあるね」「それでは、夢見料をちょうだいいたします」「夢見料? 木戸銭を先に取るのか」「へぇ、木戸銭というのはおかしゅうございますが、先にいただいておきませんと、ほかの売りものと違いまして、品ものを取りかえるわけにもまいりません。お客さんのなかには、こんなつまらない夢はいらないとおっしゃる方がございますんで、前金をちょうだいしております」

「そうか、悪い奴がいるんだな。食い逃げじゃなくて、眠り逃げか。で、いくらだ」「三円いただきます」「三円? 安くないね。ちょいと夢を見るだけで三円か」「じつは、五円なんですけど、ただ今サービス期間中で、特別に割引しております」「割引いて三円か。いまさら帰ぇるわけにはいかねぇしな。ほら、三円」「では、こちらへお入りください」「へぇーっ! こりゃまた豪勢な寝屋だね。こんなきれいな寝台で寝りゃ、夢を見る前から、金持ちになった気になるなぁ」「では、ごゆっくり、お休みください。2時間たちましたら、おむかえにまいります」と、客ひとり残して、夢屋の店員は、部屋を出ていきました。

「ちょっと、あんた、あんた、起きておくれよ」「う、うっ、なんだ」「なんでもいいから起きておくれよ、たいへんなんだよ」「どうした? 火事でもはじまったか」「なにをいってるんだい、しっかりおしよ」「おまえのほうがしっかりしろってんだ。順序よく話せ」「あのさ、いま、庭の松の根もとをね、となりの犬が掘りっ返していたんだよ。すると、ワンワンほえ出したんだ」「それがどうかしたか」「あたしがいって見ると、たいへんなんだよ」「だから、なにがたいへんなんだ?」「なんでもいいから、ちょっと来てごらんよ」「いくよ、そう引っぱるない。どうしたってんだ。……や・や・や、こりゃたいへんだ。松の木の下から金貨や銀貨がポンポン飛び出してやがる。おれがあんまり金持ちになりたがったもんだから、神さまがあわれんで、さずけてくれたんだな。こいつはありがてぇ。さぁ、くわを持ってこい」こうして夫婦ふたりで、むちゅうになって、松の木の下を掘りおこします。

「こりゃどうでぇ、掘れば掘るほど金貨や銀貨、古金がいくらでも出てくるぜ。はやく入れものを持ってきな。ごみ箱でも、手おけでも、バケツでもなんでもかまわねぇ。なんでもつめるそばから家ん中にかつぎこんでくれ。……おいおい、まだ入れ物がたりねぇよ。台所の米びつでもいいよ。なに? 米びつ使っちゃ米いれるのにこまる? いいやな、米びつなんか金せぇありゃいくらでも買えるじゃないか。ああ、身体がヘトヘトになっちまった。このくらいにして、あとは、土をかぶせといて、またいるようになったら、掘り出すことにしよう。なにしろこう金が入っちゃ、こんなこきたねぇ家にも住んでいられねぇな。あしたにも、豪邸を買ってどっかへ引越そう。着るものもなんだ、デパートへ行って、すっかり買い占めてこよう。それから、毎日うめえもん食って、芝居だの寄席を遊んで歩こう。伊勢参宮から京大阪を見物するのもいいな……」

「ごめんください、ごめんください」「おい、なんだか、表で声がするぜ。出てみろ、おい、ひょこひょこ出るな。おまえは、もう金持ちの奥さんだ。ぐっと、貫禄をつけて出なくちゃいけないよ」「ちょっとあんた、いま孤児院の人が、寄付をいただきたいってきてるんだよ。どうする?」「なに、もう、うわさわ聞きつけて、やってきやがったか。寄付だと? 金なんてのは、いくらあっても足りるってもんじゃねぇ。そんなことに出す金はありませんって、追い返してこい」

「こめんください、もしもし、ごめんください」「あっ、またきやがったな。よし、こんどはおれが出る」「おう、なんか用か?」「いやぁ、私でごございます。まだ、お目ざめになりませんか? 夢屋の店員でございます」「なに、夢屋? あっ、あ、そうか。夢か。金持ちの夢を見にきてたんだっけ」「いかがでした? よろしいところをごらんになられましたか」「よろしいところ? あっ、しまった」「どうかなされましたか?」

「夢なら、少しは、寄付しておきゃぁよかった」


「5月31日にあった主なできごと」

1596年 デカルト誕生…西洋の近代思想のもとを築き、「コギト・エルゴ・スム」(われ思う、ゆえにわれあり)という独自の哲学で「哲学の父」とよばれたデカルトが生れました。

1809年 ハイドン死去…ソナタ形式の確立者として、モーツァルトやベートーベンに大きな影響力を与え、104もの交響曲を作ったことで知られる古典派初期の作曲家ハイドンが亡くなりました。

1902年 ボーア戦争終了…オランダ人の子孫ボーア人が植民地としていたダイヤモンドや金の豊富な南アフリカをめぐり、10数年も小競り合いをつづけてきたイギリスは、この地を奪い取ることに成功。8年後の1910年「南アフリカ連邦」を成立させました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 86]

むかし、ある村の貧しい夫婦に、男の赤ちゃんが生まれました。頭に「幸せなぼうし」といわれる膜をつけていたので、占い師は「16歳になったら、王さまの娘を妻にするだろう」と予言しました。このことを耳にした悪い心の王さまは、おもしろくありません。変装して男の子の家をたずねてこういいました。「おまえさんたち、この子を私にあずけなさい。王さまになってもはずかしくないように育ててあげよう」。はじめ両親は断りましたが、たくさんのお金をくれるというので、「幸運な子どもなのだから、そのほうが万事うまくいくにちがいない」と、子どもを渡しました。

王さまは子どもを箱に入れ、馬を走らせ、深い川まで運んで川にほうりこみました。「これで、わしの娘にふつりあいな結婚の心配をせずにすむわい」。ところが、その箱は沈まず、王さまの都の近くまでただよっていくと、水車にひっかかりました。運よく水車番がそこにていて、箱に気づいて引っぱりあげました。大きな宝物かと思いましたが、開けてみると、中には元気な赤んぼうが、にこにこ笑っています。そこで水車番は、子どもをほしがっていた粉屋夫婦に持っていくと夫婦は大喜び、「神さまがこの子を授けてくださった」といって、赤ちゃんをとてもたいせつに育てました。

それから、あっというまに16年がすぎました。ある日、すばらしい若者がいるといううわさを聞いた王さまが粉屋のところへやってきて、「あの若者は、おまえたちの子か」とたずねました。「はい。16年前、流れてきた箱に入っていたので、それ以来、息子として育ててきました」と粉屋は答えました。 それで王さまは、その若者は自分が川にすてた子だとわかり、「わしの妃への手紙を書くから、この若者にとどけてもらえないだろうか」と、金貨を二枚渡しながらいいました。粉屋はすぐに若者に準備をさせました。それから王さまはお妃に手紙を書きましたが、そこには「この若者はわが家のわざわいとなる、わしが帰るまでに殺して埋めてしまえ」と書いてありました。

若者はこの手紙を持って出発しましたが、道に迷い、暗くなって大きな森に来ました。まっ暗闇の中に小さな明かりが見えたので、小屋の中に入ると、老婆がたった一人で暖炉のそばに座っていました。若者を見ると、「かわいそううな子だよ。おまえは泥棒の隠れ家に来てるんだよ、帰ってきたら泥棒たちはおまえを殺してしまうかもしれない」と老婆はいいました。「こわくなんかないよ。だけど、とても疲れているから、これ以上どこにもいけない」と、若者は床の上に寝そべって眠ってしまいました。

その後まもなく、4人兄弟の泥棒たちが帰ってくると、「そこで眠っているのは誰だ?」「ああ、道に迷ったむじゃきな若者だよ。かわいそうだから入れてやったのさ。お妃に手紙を持っていかなくちゃいけないとかいっていた」と老婆は答えました。泥棒たちはあの手紙を見つけると、さすがにかわいそうに思ったのか、上の兄が「この若者は、わしの眼鏡にかなったもの。すぐに姫と結婚させよ」と、手紙を書き変えたのです。それから、翌日まで静かに眠らせておき、若者が目覚めると、正しい道を教えてあげました。

お妃が手紙を受け取って読むと、すてきな知らせに大喜びしました。姫は若者を見ると、ひと目で恋に落ちてしまったのです。書かれた通りにしてやり、壮大な結婚式の前祝いが行われました。ところが、そこへ王さまが帰ってきましたから、さぁ大変。でも、すぐに悪い考えを思いつきました。「姫と結婚する前に、おまえは地獄へ行って、鬼の頭から金色の毛を3本ぬいてこなくてはいけない」といいました。すると若者は、「金の髪の毛をとってきます。私は鬼など恐れません」と答えると、姫に別れを告げて、旅に出発しました。

道を行くと大きな町に着きました。門番が「おまえは、どんなことを知っているか」とたずねると、若者は「何でも知ってるよ」と答えました。「それじゃ、市場の泉が昔はワインを出したのに、乾いて、今は水すら出さないのはどうしてか教えてくれ」といいます。「教えてやろう。ただ帰りまで待ってくれ」と若者は答え、さらに進んで別の町に着くと、そこでも門番が「どんなことを知っているか」とたずねました。若者は「何でも知ってるよ」と答えると「じゃあ、町のりんごの木が昔は金のりんごを実らせたのに、今は葉っぱもださないのはどうしてか教えてくれ」といいました。「教えてやろう。ただ帰りまで待ってくれ」と若者は答えました。

それからまた進んでいくと、広い川に着きました。渡し守は「どんなことを知っているか」とたずねると、若者は「何でも知ってる」と答え、「じゃあ、おれがどうしていつも行ったり来たり、船をこいでいなくてはいけないのか教えてくれ」といいました。「教えてやろう。ただ帰りまで待ってくれ」と若者は答え、 川を渡ると、地獄の入口に着きました。そこは黒くて中はすすけていました。鬼は留守でしたが、鬼のおばあさんが「何の用だい?」とたずねると、「鬼の頭から金の髪の毛を3本とりたいんだ。さもないと、妻になるはずの女性と結婚できないんだ」と若者は答えました。「金髪3本? そりゃいやがると思うよ。もう残り少ないからね。鬼が帰ってきておまえを見つけると、ただじゃおかないよ。でもなんとか助けてあげたいものだ。そうだ。おまえを小さくしてあげるから、私の服の折り目に入ってなさい」といいました。「わかりました。そのほかに知りたいことが3つあるんです。市場の泉が昔はワインを出したのに、乾いて、今は水すら出さないのはどうしてか、りんごの木が昔は金のりんごを実らせたのに、今は葉っぱもださないのはどうしてか、渡し守はどうしていつも行ったり来たりこいでいなくてはいけないのか」「そりゃあむずかしい質問だね。だけど、静かにして、私が3本の髪の毛を引きぬくとき、鬼がいうことをよく聞くんだよ」とおばあさんは答えました。

夜になると鬼が帰ってきて、「人間の肉の匂いがするぞ」といいながらあっちこっちをさがしましたが、何もみつかりません。おばあさんは孫を叱り、「なにをいってるんだい。いるわけないだろ。さぁ、すわってごはんをお食べ」とおばあさんはいいました。鬼は食事が終わると、つかれて頭をおばあさんの膝にのせ、少しシラミをとってくれるよういいました。それからまもなくいびきをかき、ぐっすり眠りこみました。するとおばあさんは、1本の金の髪の毛をつかんで抜き、自分のそばにおきました。「わあ、何をやってるんだ」と鬼は叫びました。「悪い夢をみてたんだよ」とおばあさんがいうと、「じゃあ。どんな夢だ」と鬼がききました。「市場の泉が昔はワインを出したのに、乾いて、今は水すら出さないという夢をみたのさ。何が原因なのかね」「あ、はは、泉の石の下にヒキガエルがいるのさ、その蛙を殺せばまたワインがでてくるのさ」

おばあさんはまたシラミ取りをして、鬼が窓がゆれるほどいびきをかいたので、2本目の髪の毛をひきぬきました。「何をやってる」と、鬼はおこりました。「悪く取らないでおくれ。夢の中でやったのだから」とおばあさんはいい、「ある王国でりんごの木が昔は金のりんごを実らせたのに、今は葉っぱさえもださないという夢を見たんだよ。どうしてかね」とおばあさんがきくと「あ、はっは、ネズミが根をかじっているからさ。それを殺せばまた金のりんごを実らせるだろうよ。だけど、ばあさんの夢はもうたくさんだよ。また眠っているのをじゃましたら、なぐるからな」と鬼は答えました。

おばあさんはやさしく話しかけ、もう一度シラミ取りをしたので、鬼はとうとう眠っていびきをかきました。それで3本目の金髪をつかんで引き抜きました。鬼はとび上がってうなり声をあげ、おばあさんを殴ろうとしました。「悪い夢はしかたがないじゃないか」「じゃあ、どんな夢だよ」と鬼は興味をもっていいました。「渡し守が一方からもう一方へいつも漕いでいるのに、どうして解放されることはないのかぐちをいってる夢さ」「まぬけだな。だれか来て渡りたがったら、渡し守はさおをそいつの手に渡しさえすればいいのにな」おばあさんは3本の金髪を抜いてしまい、3つの質問に答が出たので、鬼をほうっておき、鬼は朝まで眠りました。
 
鬼がまたでかけてしまうと、おばあさんは服の折り目から若者を取り出して、大きくしてくれました。「さあ、3本の金髪をあげるよ。鬼が3つの質問に答えたのを聞いていたね。おまえは望みのものをもう手に入れたんだ、お帰り」若者は助けてくれた礼をいい、万事とてもうまく運んだことに満足して、地獄を去りました。

渡し守のところにくると、渡し守は約束の答を待っていました。「次にだれかが川を渡してもらうためにきたら、さおをその人の手に渡せばいいんだ」と。実らない木が立っている町に着くと、門番に「木の根をかじっているネズミを殺せば、再び金のりんごが実るよ」とつたえると門番は感謝し、お礼に金を積んだ2頭のロバをくれました。、泉が渇く町の門番には、「ヒキガエルが泉の中の石の下にいるんだ。それを探して殺せば、泉はまたたくさんワインをわかすだろう」とつたえると、門番は感謝し、やはりお礼に金を積んだ2頭のロバをくれました。

とうとう若者は、再び王女と会い、王女は、どんなに首尾よくやれたか聞いて心からうれしく思いました。王様には、求められた3本の金髪を持っていきました。金を積んだ4頭のロバを見るととても満足し、「すべての条件を満たしたからには、娘を妻としなさい。しかし、むこ殿よ、教えてくれ。あの金はどこからもって来たのだ」とたずねました。「船をこいでもらい川を渡り、向こう側に着くと、浜辺には砂の代わりに金があったのです」と若者が答えると王様は、「わしもとれるかな?」と、熱心に聞きます。「好きなだけとれます。川に渡し守がいますから、川を渡らせてもらってください。そうすれば向こう岸で袋につめられます」と答えると、よくばりな王様は大急ぎで出発しました。川に来ると、渡し守を手まねきして、向こう岸に渡すようにいいました。ところが、岸につくと渡し守は、王様の手にさおを渡し、岸にとびおりると、どこかへ行ってしまいました。

このときから、王さまは渡し守となり、今もギッチラギッチラこいでいるんだって。


「5月30日にあった主なできごと」

1265年 ダンテ誕生…イタリアの都市国家フィレンツェに生まれた詩人で、彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』や詩集『新生』などを著し、ルネサンスの先駆者といわれるダンテが生まれました。

1431年 ジャンヌダルク死去…「百年戦争」 でイギリス軍からフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクが 「魔女」 の汚名をきせられ、処刑されました。

今日5月29日は、『原爆の子』『裸の島』『一枚のハガキ』など、社会性あふれる話題作を数多く制作した映画監督・脚本家の新藤兼人(しんどう かねと)が、2012年に100歳で亡くなった日です。

1912年、今の広島市佐伯区の豪農の子に生まれた新藤兼人でしたが、父が借金の連帯保証人になったことで破産し、14歳の頃に一家は離散してしまいました。1933年、尾道の兄の家に世話になっていた時に見た映画に感激し、映画の世界で生きる決意をしました。翌1934年、京都の新興キネマに入り、仲間からは酷評されながらも暇をみつけてはシナリオを書き続け、落合吉人が監督に昇進すると脚本部に推薦され、『南進女性』で脚本家デビューをはたしました。

その後、興亜映画に入り、1944年に興亜映画が松竹に吸収されて脚本部へ移籍した直後に召集され、二等兵として呉海兵団に入団しました。年下の上等兵の若者に、木の棒で気が遠くなる程たたかれ、こき使われました。召集を受けた仲間100人がクジびきで次々に出撃し、終戦をむかえたときに生き残ったのはわずか6人だったという戦争体験が、新藤の映画制作の原点となりました。

敗戦後、松竹大船撮影所に復帰すると、『待ちぼうけの女』『女性の勝利』などのシナリオを手がけて評判になり、1947年に、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表すると大ヒットしてキネマ旬報ベストテン1位を獲得、シナリオライターとしての地位を固めました。さらに『わが生涯のかゞやける日』や、木下恵介と組んだ『お嬢さん乾杯!』など、ヒットを連発させました。

ところが、1949年の『森の石松』の興行的失敗などで松竹首脳らと対立すると、1950年、松竹を退社して独立プロダクションの先がけとなる「近代映画協会」を吉村公太郎、殿山泰司らと設立しました。自らの苦労時代の記録ともいえる『愛妻物語』のシナリオを読んだ大映の大スターだった乙羽信子が、どうしても妻の役をやりたいと願い出て同作品に主演、この『愛妻物語』(1951年)で、念願の監督デビューを果たすと、翌1952年、『原爆の子』を発表して社会派として注目されました。この作品は、広島で被爆した子どもたちの作文をもとに、その家族がたどる悲惨な生活を描いたもので、チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞などたくさんの賞を受賞しました。

1961年には、瀬戸内海の小島にすむ家族の生活を、セリフぬきで表現した映画詩ともいえる『裸の島』をを発表すると、モスクワ国際映画祭でグランプリをとり、新藤は世界の映画作家として認められるにいたりました。この『裸の島』は、出演者やスタッフがロケ地で合宿体制を組み、意見交換をしながら制作するもので、その後の邦画界における独立プロダクションの映画制作に、大きな影響を与えました。そのほか、放射能汚染を題材とした『第五福竜丸』、連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』、老いをテーマとした『午後の遺言状』など、人間の苦悩や社会とのあつれきを粘り強くえがいた作品を多く発表しました。

1978年、独立プロ時代から苦楽をともにしてきた乙羽信子と結婚、1995年の『午後の遺言状』が乙羽との遺作となりましたが、1999年にはこの作品を舞台化して、舞台演出も手がけました。

最後の作品となったのは、2011年公開された『一枚のハガキ』で、応召した100人のうち6人が生き残ったという原体験を、ひょうひょうとしたタッチで描いた作品で、孫の押す車いすに乗りながら、テキバキと指示する姿は、とても98歳のものではなかったといわれています。この新藤映画の集大成ともいえる作品も、キネマ旬報1位となる高評価をえてヒットさせました。2012年6月、日本政府は新藤が数々の作品を世に送り出した功績を讃え、多年にわたる映画界への貢献を評価して叙勲する閣議決定を行っています。


「5月29日にあった主なできごと」

1917年 ケネディ誕生…わずか43歳で第35代アメリカ大統領となり、対ソ連に対し平和共存を訴え、こころざし半ばで暗殺されたケネディが生まれました。

1942年 与謝野晶子死去…明治から昭和にかけて歌人・詩人・作家・思想家として活躍した与謝野晶子が亡くなりました。

1953年 エベレスト初登頂…イギリス登山隊のヒラリーとシェルパのノルゲイが、世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)の初登頂に成功しました。

今日5月28日は、『風立ちぬ』『菜穂子』など詩情あふれる小説や『大和路・信濃路』に代表される名随筆を残した堀辰雄(ほり たつお)が、1953年に亡くなった日です。

1904年、東京麹町に生まれた堀辰雄は、旧制第一高校時代から文学活動をはじめ、芥川龍之介と知り合って教えを受けました。東京帝国大学国文科に入学してからは、詩や小説を同人誌に発表するようになり、1926年に中野重治らと同人誌『驢馬(ろば)』を創刊して、フランス現代文学の翻訳を発表しています。師とあおいだ芥川龍之介に関する卒論を書いて大学を卒業すると、本格的に作家活動を開始するものの、芥川が1927年に自殺したために大きなショックを受けました。

1930年、短編小説集『不器用な天使』、自身の周辺を書いた『聖家族』を発表して文壇デビューをはたすと、高校時代に発病した肺結核に苦しみながらも、フランス文学の影響を受けて「母と娘」「愛と死」をテーマにした『美しい村』『物語の女』 など、知的な抒情あふれる作品を次々と発表しました。とくに、死を越えた愛を描いた『風立ちぬ』(1936-8)、芥川の死や自らの恋愛体験を素材にした『菜穂子』(1941) は大きな評判となり、作家的な地位を確かなものにしました。

また、折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受け、王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』や『曠野(あらの)』などの古典文学作品、『大和路・信濃路』など随筆の秀作も多く残しています。

いっぽう、戦時下の不安な時代に、時流に迎合しない堀の作風や人柄を慕って、立原道造、中村真一郎、福永武彦らが集まり、多くの詩人、作家が育ったこともよく知られています。しかし、戦争末期からは肺結核の症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできず、現在「記念館」となっている信濃追分の自宅で闘病生活を送り、同じ肺結核に苦しむ多恵夫人にみとられながら亡くなりました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、堀辰雄の代表作をはじめ、120数点を読むことができます。


「5月28日にあった主なできごと」

1634年 出島の建設開始…キリスト教の信者が増えることを恐れた江戸幕府は、ポルトガル人をまとめて住まわせるために、長崎港の一部を埋めたてた出島の建設を開始、2年後に完成させました。1639年にポルトガル人の来航を禁止してから無人になりましたが、1641年幕府はオランダ商館を平戸から出島に移転させ、オランダ人だけがこの島に住むことが許されました。鎖国中は、オランダ船が入港できた出島がヨーロッパとの唯一の窓口となりました。

1871年 パリ・コミューン崩壊…普仏戦争の敗戦後、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されましたが、この日政府軍の反撃にあい、わずか72日間でつぶれてしまいました。しかし、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。

今日5月27日は、宗教画におおくの傑作を残したフランスの孤高の画家ルオーが、1871年に生まれた日です。

1871年、パリ・コミューン(革命的な自治政府)の騒動のさなか、指物師(さしものし=箱や机などを作る職人)の子としてパリに生まれたジョルジュ・ルオーは、14歳の時、ステンドグラス職人に弟子入りし、修行しながら工芸美術学校の夜間部に通ってデッサンの勉強をしました。

1890年、画家を志したルオーは、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学すると、マチスとともに象徴派の巨匠ギュスターブ・モローの指導を受けました。モローは、自分の作風を押しつけることなく、全く資質の異なる2人の能力をじょうずに引き出しました。ルオーは、終生にわたって師モローを敬愛し、1898年に亡くなると、その作品を集めたモロー美術館の初代館長となって、住み込みで働きました。しかし、給料が安いために、生活は苦しく、支配階級のいやらしさや人間のみにくさに良心をさいなまれたと記しています。

1903年、モローは自己の進むべき道を見出し、マチスらとともにサロン・ドートンヌの創立に参加すると、アカディズムへ反逆する画家たちともに、本格的な活動を開始しました。独特の黒く骨太の輪郭線ときらびやかな色彩があらわれはじめ、キリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、貧しく弱い立場にいる人々を愛情をこめて描きました。

1913年からは、画商ボラールと専属契約を結び、ボラールのすすめで版画の連作を開始し、『ミゼレーレ』『悪の華』『流星のサーカス』などにより、20世紀のもっとも傑出した版画作家ともいわれています。やがてルオーの絵には、宗教的色彩を帯びた作品が多くなり、以前の人生の苦しみや悲しみに絶望する表現から、神のいつくしみや救いの世界へテーマが移っていき、連作『受難』や、『聖顔』『老いた王』『ベロニカ』などの傑作を生み出していきました。

しかし、ボラールとの契約は、ルオーにとって不幸なことでもありました。ボラールは、ルオーの作品をすべて自分の倉庫にしまいこんだために、ルオーは、展覧会にも出品できず、一般の人たちに忘れられた存在になってしまいました。ルオーが大家として認められ出したのは、1930年前後からで、1937年にパリで開かれたアンデパンダン巨匠展に出品された42点のルオーの作品は、圧倒的な人気を博したといわれています。

ルオーは第2次大戦後も制作を続け、1945年にはフランス東部にあるアッシー教会のためにステンドグラスを制作しました。1958年、パリで86年の生涯を終えたときは、国葬でおくられました。

なお、オンライン画像検索では、ルオーのたくさんの作品他を見ることができます。


「5月27日にあった主なできごと」

743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇 は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。

1564年 カルバン死去…ルターと並び評されるキリスト教宗教改革・新教(プロテスタント)の指導者カルバンが亡くなりました。

1910年 コッホ死去…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが亡くなりました。

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