児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年04月

今日4月30日は、『鞍馬天狗』シリーズなど、大衆文学の質の向上に大きな貢献をした大仏次�カ(おさらぎ じろう)が、 1973年に亡くなった日です。

1897年、横浜市に生まれた大仏次�カ(本名・野尻清彦[はるひこ])は、東京府立一中を経て、府立一高在学時代に『一高ロマンス』を刊行するなど文学に傾倒しました。東京帝国大政治科を卒業しますが、その前後に、ロマン・ロランの反戦小説を翻訳出版をするほどで、卒業後は、鎌倉高等女学校の教師を経て、外務省に勤めながら、さまざまなペンネームを使って雑誌などに小説・翻訳・翻案を発表、1923年の関東大震災を機に作家活動に入りました。

1924年、娯楽雑誌「ポケット」にデビュー作となる小説『隼の源次』を、「大仏次郎」のペンネームで発表、これが生涯のペンネームとなりました。鎌倉の教師時代に、鎌倉大仏の裏手に住んでいたことによるものでした。同誌に連載を開始した『鞍馬天狗』は、たちまち人気シリーズとなって、人気作家となりました。このシリーズは、1959年まで書き続けられましたが、いっぽうで『照る日くもる日』『赤穂浪士』『ごろつき船』という新聞小説をかきました。それぞれ江戸時代を舞台にした時代小説でありながら、独自の心理描写をとりいれ、サラリーマン層の知的欲求に応える作品群となりました。

昭和に入っても、現代小説『帰郷』『宗方姉妹』、史伝『ドレフィス事件』、記念碑的なパリ・コミューン史『パリ燃ゆ』、絶筆となった『天皇の世紀』などの他に、新作歌舞伎『若き日の信長』、『小さい隅』などの随筆から童話にいたるまで、幅広いジャンルの作品を亡くなるまで意欲的に執筆しつづけました。読者を楽しませながら、読者に迎合しない姿勢に、知識人をふくめた広範な愛読者をもち、大衆文学の質の向上に大きな貢献をしました。1964年に文化勲章を受賞、没後の1977年から生地に近い港の見える丘公園に「大仏次郎記念館」が開設され、4万冊もの蔵書や資料がおさめられています。

なお、大仏は、鎌倉をこよなく愛したことでも知られ、地元の住民とともにに古都としての景観と自然を守ろう運動を起こし、「鎌倉風致保存会」を1964年に誕生させました。この運動の精神的母体となった英国「ナショナル・トラスト」を日本へ紹介したことでも知られています。


「4月30日にあった主なできごと」

1189年 義経衣川で自害…一の谷・屋島・壇ノ浦の戦いに勝利して、平氏を滅ぼした源義経は、兄源頼朝と対立、この日奥州藤原氏当主の藤原泰衡(やすひら)の率いる500騎の兵に、衣川の館を襲われました。泰衡の父秀衡(ひでひら)は、義経をかくまうよう遺言を残していましたが、頼朝からのおどしに泰衡が屈したためで、義経はいっさい戦わず、妻子を殺害して自害しました。

1945年 ヒトラー自決…ドイツの独裁者ヒトラーは、1933年から12年間ドイツを支配しました。1939年にポーランドに侵入、ソ連に戦争をしかけたことで、第2次世界大戦を引き起こしました。当初は、連戦連勝の勢いでしたが、やがてソ連はもりかえし、1945年4月に入ると、ドイツの首都ベルリンを陥落させるところまで追いつめ、この日、前日結婚したばかりの妻エバァとともに自殺しました。1週間後の5月7日にドイツは降伏し、ヨーロッパに平和がもどりました。

「おもしろ古典落語」の116回目は、『無精床(ぶしょうどこ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

むかし、「無精床」とあだ名をされた床屋がございました。ぶあいそうで、ものぐさな親方なもんで、いつも店はガラガラ。何も知らず、すいてるからと飛びこんできた不運な客がありました。「こんちは、親方、こんちは」「うるせぇな、こんちはなんて、いっぺんいゃぁわかるじゃあねぇか。なんの用だ」「すぐやってもらいてぇんだが…」「やるって、なにを?」「頭をこさえてもらいてぇ」「うちは人形作りじゃねぇ」「そうじゃねぇ、つまり、髪を結い直して、いい男にしてもらいてぇんだ」「そりゃだめだ。髪を結いなおすほうは商売だからやるけど、その顔は、どんなにこねまわしたって、よくはならねぇ」「なんだい、口が悪いな。まぁいいや、とにかく髪を結ってもらいてぇんですがね、やっていただけますか?」「おまえさん、客じゃねぇのか? 銭を払うんだろ?」「そりゃ払うよ」「だったら、よけいなことをいいなさんな。だまって入ってきて座れば、こっちは仕事にかかるってもんだ。それを、頭をこさえろの、いい男にしろのってむだ口をたたくからいけねぇんだ。むかしっから、おしゃべりにろくなもんがいねぇっていうだろ」「なんだい、まるで叱言(こごと)いわれにきたようなもんだ。すぐやってもらえますね」「見たらわかるだろ。ほかに待ってる客がいねぇんだから、いやでもおまえさんの頭にとっかかるんだ。あたしも商売だからね」

「じゃあ、さっそくやってもらうとして、まげはこのとおりに結ってもらいてぇんだ」「そりゃあ無理だ。このとおりってわけにゃあいかねぇ」「だめかい?」「結い直すからにゃ、どうしたってきれいになっちまう」「あたりめぇだよ、つまりこういう形に結ってくれっていうんだよ」「そんなことは素人がいちいち指図しなくても、こっちに任せとけばいいんだ。さぁ、始めるから、頭をこっちへよこしな…うーん、こりゃ、頭の手入れがわりぃな。こんなんじゃ、女にゃもてねぇ」「大きなお世話だ。親方、そこに沸いてるやかん、それ、ちょっくら取ってくんねぇ」「やかんが沸いてる? バカいうもんじゃねぇ。やかんが沸いたりするか。やかんの中の水が沸いてんだ。やかんが沸くわけがねぇ」「うっかり口もきけねぇな。じゃぁ、そのやかんを取ってくんねぇ」「弁当でも食うのか?」「弁当持って床屋へ来るやつがあるかい。頭をしめすんだよ」

「頭を湯でしめす? そりゃあいけねぇ。いいか、昔から『頭寒足熱』といってな、頭は冷やしとかなきゃいけねぇ。水で冷やしな」「水で?」「そうだ。おまえさんの前にあるだろ」「水が? おれの前の水っていったら、この桶の水かい?」「そうだ」「汚ねぇじゃぁねぇか」「ああ」「うけあってちゃいけねぇな、ずいぶん古そうだぜ」「うん、かなり古いな」「いつ、くんだんだい?」「別にくんだわけじゃねぇ」「くんだんじゃなけりゃあ、いったいどうしたんだい?」「屋根がもるもんだから、ひとりでに雨水がたまったんだ」「なんだよ、雨もりか。おぃおぃ、中で赤いものがチラチラしてるの、ボウフラじゃぁねぇか」「あぁ、ボウフラもだいぶふえたなぁ。こないだオタマジャクシがいたんだが、みんな脚が生えて、跳んでっちまった」「そこに寝てる小僧をたたきき起こして、水くみにやっとくれよ」「そりゃあ困る。なにしろこいつぁ、ただでさえ大っ食らいでなぁ、水くみなんて力仕事なんぞさせた日にゃぁ、どのくれぇ食うか底が知れやしねぇ。おまえさん、そんなに新しい水が欲しいかい?」「そりゃそうだ」「じゃぁ、そこんとこにある手桶を持って、この先一丁ばかりいったところにある豆腐屋の水を分けてもらいな。そこの水はいい水だから、そいつをくんで、頭をしめすといいや」「バカいうんじゃないよ。だれが頭をしめすのに、一丁も先に水くみに行くってぇんだ」

「そんならだまってその水でがまんしな」「だって、ボウフラがわいてるじゃぁねぇか」「大丈夫だよ。うちのボウフラはたちがいいから、食いついたりしねぇ」「そりゃぁ食いつきゃしねぇだろうけど、気味がわりぃよ」「その点は心配すんな。そこのひしゃくで桶のふちを二、三べん、コンコンってたたいてみな。ボウフラがすーっと沈むだろ。そのすきに上のほうの水をさっとすくうんだ」「へっ、おどろいたね。ボウフラのすきをうかがうのかい。じゃ、まぁ、やってみようか。このひしゃくでコンコン…、なるほど、すっと沈んだね、感心なもんだ」「そうだろ。そこまで仕込むにゃ、骨がおれた」「ウソつきやがれ。ありゃ、沈んでたボウフラが上がってきたぜ。もういちどたたいてみるか。コンコン…あ、下がったね、おや、また上がってきた。コンコン…、また沈んだ。へへっ、こりぁ、おもしれぇ」「おぃおぃ、ボウフラと遊んでちゃいけねぇよ。ボウフラが沈んだところで水をとすくって、そいつで頭をしめすんだ」「そうだった、頭をしめすんだった。ひしゃくでコンコン、沈んだところをすっ、あぁ、すくえた。なんだ、この水、こりゃくせぇや! うわぁ、なんかヌルヌルしてるよ。お、親方、早いとこ、やっちまってくんねぇ」

「しめしたらそこへ腰をかけるんだ……おいおい、奴(やっこ)、起きろ、仕事だ。しょうがねぇ小僧だなぁ、のべつ寝てやがる。おい、おい、この奴、寝ぼけやがって膳箱だしてやがる。飯じゃねぇ、客だ。たまにゃぁ生きものをやってみろ!」「おぃ、おぃ親方、いまなんてった? 『生きものをやってみろ』ってぇのは? 頭は親方がやってくれるんだろ?」「あぁ、あっしもやるけどね、下剃りだけは小僧にやらせてくんな。なんせ、うちへ奉公に来て3年になるんだが、まだ客の頭をあたったことがない。カミソリもってやかんの尻をガリガリやってるだけじゃ稽古にならねぇ。やっぱり本物の頭じゃなくっちゃ腕はあがらねぇんだ。そこいくと、おめぇさんの頭は、大ぶりだから、稽古には持ってこいってぇもんだ」「おかしなことをいうな、稽古頭だなんて。おぃおぃ、大丈夫かい小僧さん、おめぇ、またおっそろしく高い足駄をはいてんなぁ。これじゃなきゃ背が届かない? どうでもいいけど、転ぶんじゃないよ。なにしろ刃物を持ってるんだからな。うまくやっとくれよ、いいかい、痛くねぇようにだよ……そうだ、うん、うまい、うまいよ。こりゃぁいいや、ちっとも痛くねぇ。親方がうるさいだけあって、仕事はしっかりしてらぁ。これじゃ、やってるかやってねぇか、わかんねぇくれぇだ。なに? まだやってない? どうりで痛くねぇわけだ。じゃぁ、始める? いてぇ、いてて、痛いよ。おい、カミソリでやってんだろうな? まさか、毛抜きで引っこ抜いちゃぁいめぇな、お、おめぇ、いてっ、もうちょっと痛くねぇようにしろ!」

「このバカやろう、しっかりやらなきゃダメじゃねぇか。ぶるぶる震えやがって。いいか、客の頭だと思うから震えるんだ。いつもやってるやかんの尻だと思って、思いきってやれ!」「お、親方、どうにも痛くってやりきれねぇ、頼むから代わってくれ!」「ちぇっ、しょうがねぇなぁ、こっちへかみそりを貸してみろ、あれっ? おめぇ、こんなもんでやってたのか。こりゃぁあがっちまったカミソリじゃぁねぇか。さっきこれで足駄の歯を削ってたろ」「おぃおぃ、ひでぇことをするじゃぁねぇか。足駄の歯を削ったやつで頭をやられた日にゃぁ、たまったもんじゃぁねぇ」「お客さん、小僧のやったことだ。大人げねぇことは、いいっこなしだ。ま、気を悪くしねぇで、勘弁してやってくんねぇ。おい、奴! よく見てろ! 仕事ってぇものは気を大きく持ってやらなくっちゃぁいけねぇ。いいか、他人の頭だ。少しくれぇ切ったって痛かねぇってぇ気持ちでやれ、いいか!」「あいたたた、いてぇよ、なにもそんなにガリガリやらなくったって。もっとお手やわらかにたのむよ」

「わかった、わかった。もうちょっとの辛抱だ。おい、奴、おめぇどこ見てるんだ。しっかり、こっちを見てろ。こうやってかみそりを寝かして、こう、すーっと。おめぇ、いったいどこ見てるんだ。なにっ? おもてに角兵衛獅子が来た? なにが来たっていいじゃぁねぇか。こっちを見ろ、こっちを。おれの手元だよ、手元。まだ表ぇ見てやがる。そっちじゃぁねぇ」「いてててて、ああ、痛てぇじゃないか。もう止めだ、止めたよ。親方、小僧に叱言をいいながら、なんでおれの頭を殴るんだ。ひでぇじゃぁねぇか」「いゃぁ、すまねぇ、どうも、あのやろう、いくらいっても表ばかり見てやがるもんでね、張り倒してやろうと思ったんだが、手が届かねぇんで、つい、近間で間にあわしちまった」「じょうだんいうなよ、まにあわせでぶん殴られてたまるか。おぃおぃ、あれ? 血だ、親方、血が流れてきたぜ!」「おめぇ、頭ぁ切ったな、どれどれ、血が流れてる? おお、やった、やっちまった」「やったじゃねぇや。情けねぇことになっちまった、医者呼んでくれぇ~」

「なぁに、安心しな。縫うほどのこたぁねぇ」


「4月26日にあった主なできごと」

BC479年 孔子死去…古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱えたくさんの弟子を育てた孔子が、亡くなったとされる日です。孔子の教えは、弟子たちの手で『論語』としてまとめられ、孔子を始祖とする思想・信仰の体系は「儒教」と呼ばれ、江戸時代には、もっとも大切な学問とされていました。

1863年 牧野富太郎誕生…明治・大正・昭和の3代にわたり、植物採集や植物分類などの研究に打ちこみ、民間の大植物学者となった牧野富太郎が生れました。

1986年 チェルノブイリ原発事故…ソ連(現・ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で、後に決められた国際原子力評価尺度において最悪のレベル7に分類された爆発事故がおこり、世界を震撼させました。ソ連政府は2日後にようやく事故を発表、のちに事故は運転員の規則違反と操作ミスが主な原因で、原子炉の設計にもミスがあったともいわれています。

今日4月25日は、わが国を代表する出版社のひとつとされる岩波書店を創業した岩波茂雄(いわなみ しげお)が、1946年に亡くなった日です。

1881年、長野県諏訪の農家に生まれた岩波茂雄は、15歳のときに父が亡くなったことで母の農業を手伝いながら地元の中学に通いました。1899年に上京すると、1901年に第一高等学校に入学しました。しかし、友人だった藤村操が自殺したことで、哲学書をたずさえて山籠りをし、死と正面から向き合いました。母の説得で40日後に下山しましたが、落第し、除名中退処分となってしまいました。その後、再起して1905年東京帝国大学哲学科選科に入学し、内村鑑三の影響を受けました。

卒業後、神田高等女学校(現・神田女学園)の教師となるものの自信を失って退職、1913年神田保町に古本店「岩波書店」を開業しました。当時古本の値段は店主と客とのかけひきで決まるのが一般的でしたが、岩波は正札定価販売の厳正取引と、良書のみを扱うという信念が好事家の信頼をえて発展しました。翌1914年、夏目漱石と知りあったのがきっかけとなって『こゝろ』を刊行すると、本格的に出版業に転じ、西田幾太郎、阿部次郎ら第一高等学校時代の友人たちが中心となった「哲学叢書」や「音楽叢書」などの叢書シリーズを発刊。1916年に漱石が亡くなると、安倍能成らの助力をえて翌年「漱石全集」を刊行開始して、成功をおさめました。おりからの大正デモクラシー思潮のなかで、知識人の関心に応じる書籍を次つぎに刊行したばかりでなく、内容・造本・校正などの厳密な本づくりが高く評価されるようになりました。

とくに、1927年に創刊した「岩波文庫」は、ドイツのレクラム文庫にならって、良書を安価で提供したことから、多くの読者を獲得し、のちの「岩波新書」「岩波全書」にも受け継がれて、高い水準の教養文化を国民に普及させました。月刊雑誌にも進出し、『思想』(1921年)『科学』(1931年)『文化』(1934年)などでも時代をリードしましたが、日中戦争について批判的な立場から活動を展開したことで、しだいに軍部ににらまれるようになりました。1940年には、津田左右吉の著作『古事記及日本書紀の研究』他4点が発禁処分となった事件がおき、発行者として、著者とともに出版法違反で起訴されてしまいました。

1945年3月には貴族院多額納税者議員に任命されましたが、敗戦後の9月に脳出血で倒れ、翌年には雑誌『世界』を創刊、出版人として初となる文化勲章も受けましたが、この日、64年の生涯を閉じました。「岩波書店」は没後に児童出版も開始し、良心的な総合出版社として、数多くのロングセラーを生み出しています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、岩波茂雄の「岩波文庫論」ほかを読むことができます。


「4月25日にあった主なできごと」

1599年 クロンウェル誕生…イギリス清教徒革命で、議会を率いて王党派を破り、国王を処刑して独裁政治を行ったクロンウェルが生れました。

1840年 チャイコフスキー誕生…『白鳥の湖』『くるみわり人形』などのバレー組曲をはじめ、交響曲『悲愴』など数々の名曲を残したチャイコフスキーが生れました。

1868年 近藤勇死去…江戸幕末期に「新選組の局長」として幕府側に立って活躍した近藤勇が亡くなりました。

1953年 DNAの構造…イギリスの科学誌『ネイチャー』に、英米の科学者二人がDNA(デオキシリボ核酸)が、生物の細胞にめずらしい構造をもっていることを発表しました。この発見により、生物学は大きく発展、最近では犯罪捜査の犯人割り出しや、親子など血縁の鑑定などに、DNA鑑定が威力を発揮しています。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 82]

むかし、越後(今の新潟県)の農家に、太郎と次郎という名の二人の男の子がありました。

兄の太郎は、幼いときから乱暴な上になまけ者でしたが、大きくなっても悪い性質が直りません。そのため父親に勘当(かんどう=親子の縁を切る)されると、ひょいとどこかへいなくなってしまいました。そのうち、父親は病気で亡くなり、弟の次郎は母に孝行な働きものでしたが、不作つづきで家の暮らしがたちゆかなくなってしまいました。しかたなく、すこしばかりの田んぼを売り、母を親類にあずけて、働きに出ることになりました。

江戸に出た17歳の次郎は、ある医者の家に奉公してせっせと働き、一文もむだづかいをしなかったので、10年後には15両もの大金をためることができました。「ご主人さま、お願いがございます。母がじょうぶなうちに、このお金を持ってふるさとへ帰り、なくした田んぼを買いもどして、家を持ちたいのです」「それは良い心がけじゃ」と、主人も感心して、旅に使うこづかいやみやげものを持たせてくれました。

江戸を出た次郎は、毎日てくてく歩き、暗くなると宿屋に泊りながら、越後をめざしました。ところが、ある人里離れた山道を急いでいると、いきなり山賊たちに襲われ、お金も着物もなにもかも奪われて、まるはだかにされてしまいました。せっかく10年もかけて働いたお金を、いっしゅんのうちに取られてしまう不幸をなげきましたが、これではふるさとへ帰ることも、江戸へもどることもできません。そこで、ひげだらけの山賊の親分に、手下にでも家来にでもしてくれないかと頼みました。すると、親分もきのどくに思ったのか、今うばいとった着物や品物を縄でしばり、次郎にかつがせ、じゅばんだけをかえして、山賊たちの隠れ家へ連れて行きました。

こうして次郎は、山賊たちの仕事の手伝いを2、3日しましたが、どうしても気が進みません。そこで「どうもこの商売は、私に不向きです。もういちど、江戸にもどって、働きたいと思います。着物はじゅばん1枚あればかまいませんが、旅の途中で犬にでもかまれないように、あの脇差しだけは返してくれませんでしょうか」「そうだろうな。おまえにはこの仕事は無理だ。どこへでも行くがいい。だがな、奪いとったものを返すなんてのは、山賊のおきてにないことだ。刀なら、ここにたくさんある。1本あげるから、どれでも好きなものを取って行け」と、次郎の前に、縄でくくった刀のたばを放り出しました。それではと、護身用に赤くさびた刀をもらうと、江戸の医者の家にもどりました。わけを話すと、もう一度奉公してよいことになりました。

この主人は、刀剣が好きで、刀の目ききをするのを楽しみにするような人でした。次郎が山賊からもらってきた刀にも興味をもち、「これは、値打ちのある脇差しのようだ」といいます。医者がこの刀を、専門家に見てもらうと、昔の名高い刀鍛冶の名作ということがわかり、30両で買ってくれる人が現れました。こうして、次郎は、もう一度、母の待つ故郷に向かって出発しました。その途中、山賊にであったあの山道はさけて通ろうと思いました。でも、よく考えたすえに、同じ道を通ることにしました。おまけに、あの山賊の隠れ家に立ち寄ったのです。

「親分、覚えてくださると思いますが、わたしはこの前お世話になった旅の者です。親分にいただいた脇差しが、江戸で30両で売れました。わたしがとられた金は15両でしたから、これをみんなもらっては、義理が立ちません。半分だけ返しにきました」これを聞くと、親分はじめ山賊どもは驚いて、しばらく顔を見合わせていました。こんなバカ正直な人間に出あったのは、はじめてだったからです。「おまえは、越後の人間だといっていたが、越後のどこの村だ」次郎が、村の名や親の名まで詳しく話すと、親分は大きなため息をつきました。

「どうも、この前きたときから、そうではないかと思っていたが、おれは、十何年か前に、親に勘当させられたおまえの兄だ。おまえは小さかったからおれの顔を覚えちゃいまいが、おれのほうは、もしやと思っていた。おまえの正直な心に比べ、おれはこんな悪党になってしまった。でもな、おれは人殺しだけはしなかったが、そのほかの悪いことはなんでもやってきた。それが、わざわざ15両を山賊に返しに来たおまえのバカ正直のおかげで、おれは、生まれてはじめて、自分のやってきたことがいやになった」こういうと、親分は、ひげ面をくしゃくしゃにして、大つぶの涙をポロポロこぼしました。そして、これまで奪った宝物を全部手下たちに分け与え、弟といっしょに、ふるさとへ出発したのでした。

兄弟は、母を引き取り田畑も買いもどして、親子三人なかよく暮らすことになりました。太郎は、自分は勘当された身だからと、次郎に家を継ぐようにいいましたが、次郎は承知しません。兄弟で譲りあっているうち、ある日太郎は、なにを思ったのか、村の坊さんに頼んで髪を切ってもらい、丸坊主になると、村から出て行ってしまいました。これも、次郎へ義理をはたすためだったのでしょうか。どこへいってしまったかは、だれにもわかりませんでした。


「4月24日にあった主なできごと」

1951年 桜木町事故…京浜東北線の電車が、桜木町駅到着寸前に切れた架線にふれて1・2両目が炎上、木製屋根と旧式の3段開き窓のため乗客は逃げ切れず、死者106名、重傷者92名を出す大事故となりました。この事故から、電車の鋼鉄化が急速に促進されました。

1955年 アジア・アフリカ会議…インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心となって、インドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ会議」が開催され、この日反植民地主義・民族主義・平和共存など世界平和と協力の推進に関する宣言・平和十原則を採択、アメリカ(西側諸国)、ソビエト(東側諸国)のどちらの陣営にも属さない、いわゆる第三世界の存在を確立しました。

今日4月23日は、気品ある独自の「美人画」を描き、女性として初めて文化勲章を受賞した日本画家の上村松園(うえむら しょうえん)が、1875年に生まれた日です。

京都下京区四条通りにある茶舗「ちきり屋」の次女として生まれ育った上村松園(本名・津禰[つね])は、生まれる2か月前に父がなくなったため、母は茶舗を営みながら、女手ひとつで姉妹を育てました。津禰は、5歳のころから絵草紙をみたり、店の帳場の机に座りこんで絵ばかり描いているほどで、明治時代に女性が画家をめざすことなど考えられなかった時代でしたが、母は親類の反対を押し切って、1887年12歳のとき、京都府画学校(現・京都市立芸大)に入学させました。のちに松園は、著書『青眉抄』(1943年刊)に「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」とつづっています。

画学校で鈴木松年に師事すると、学校が終ってからも松年の塾で指導を受け、松年が画学校をしりぞくと、松園も画学校をやめて松年塾に正式入門しました。そんな努力が実って、1890年の第3回内国勧業博覧会に松園(松年の「松」の1字をもらう)の号で出品した『四季美人図』が、一等賞を受賞すると、来日中の英国ビクトリア女王3男のアーサー王子が購入して話題になりました。

1893年6年間学んだ松年塾を離れ、他流を習得しようと幸野楳嶺に師事しました。わずか2年で楳嶺は亡くなりましたが、松年と楳嶺の良いところを取り入れた「松園流」ともいえる独自の画風をあみだしつつありました。1859年に竹内栖鳳に師事すると、栖鳳の「1日1枚は写生の筆を採れ」という指導に従って一心不乱に画風を学び、花鳥風月・絵巻物・屏風・能面・風俗まで、よいと思ったものを写し取った数十冊もの「縮図帳」を残しています。これは、松園が命の次に大切というほど、勉強のすさまじさを物語っています。

1900年、日本絵画協会と日本美術院との連合共進会に、松園は『花ざかり』を出品すると、当時の日本画壇を代表する下村観山、菱田春草、横山大観に次ぐ3席に入賞して出世作となり、松園の名を不動のものとしました。このころから、松園芸術の完成期に入り、1907年からはじまった文部省展覧会(文展)には、第1回『長夜』、2回『月影』、4回『上苑賞秋』が、それぞれ3位となって、官展の主要作家として活躍するようになりました。

大正期に入っても、その技はさらに磨きがかけられ、『舞支度』『花がたみ』などの傑作を生み出したほか、唯一の艶麗な異色作といわれる『焔(ほのお)』を描いています。1934年に心の支えとなっていた母が亡くなると、最高傑作といわれる『序の舞』や『草紙洗小町』『雪月花』などの代表作をつぎつぎに発表しました。いっぽう母を追慕した『夕暮』『晩秋』他、格調高い作品を生み出し、母を失ってからの数年は、千年の歴史ある京の伝統文化に育まれた、本格的美人画を完成させた絶頂期でもありました。

敗戦後の1947年には、女性として初めての文化勲章を受賞し、1949年に亡くなりました。長男の上村松篁、松篁の子の上村淳之もまた著名な日本画家です。なお、『序の舞』ほか松園の主要作品は、「オンライン・上村松園作品ギャラリー」で見ることができます。


「4月23日にあった主なできごと」

1616年 シェークスピア死去…『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『べニスの商人』などイギリスのエリザベス朝演劇を代表する劇作家シェークスピアが亡くなりました。

1863年 寺田屋騒動…薩摩藩主の父で事実上の指導者島津久光の公武合体論に不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七ら6名は伏見の船宿寺田屋に集まり、幕府の要人の襲撃を謀議中、久光の命を受けた藩士らに殺されました。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策を実現させるために江戸へ向かいました。

1949年  1ドル360円…GHQはこの日、日本円とアメリカドルの交換レートを1ドル360円と定めました。このレートは1971年まで22年間にわたって維持されました。ちなみに、明治初期の1ドルは1円と定められていました。

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