児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年03月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 75]

昔むかしある島に、アナンシという悪ものが住んでいました。アナンシは、いつもは人間ですが、時どきクモになったりします。このアナンシの家の近くに、「五」という名の魔女が住んでいました。「五」は自分の名前が大きらいで、もっといい名前で呼んでもらいたいのに、みんなはやはり「五」って呼ぶので、いつも腹を立てていました。

ある朝のことです。アナンシは、クモになって魔女の家のへいの穴からそっと中をのぞいてみると、魔女は大ナベいっぱいに、魔法の草をグツグツ煮ているところでした。ナベから煙が立ちはじめると、魔女はつえを振り上げ、呪文(じゅもん)をとなえます。「アーブラカタブラ ツンダララ……『五という言葉をいうやつは、その場でただちに息たえよ!』」「おう、いいことを聞いた。こいつをうまく使えば、ごちそうにありつけるぞ」アナンシは、にやりと笑いました。

あくる朝、アナンシは小川にそった道へやってきました。市場へ買物に行くものは、必ず通る道です。アナンシはサツマイモの山を五つ、道ばたにつくって、だれかが通りかかるのを待っていました。そこへ、アヒルの奥さんが通りかかりました。アナンシは、アヒルの奥さんに声をかけました。「おはよう、色白のアヒルの奥さん。ごきげんいかが?」「ありがとう、アナンシさん、おかげさまで。あなたはいかが?」「ええ、それがねぇ、アヒルの奥さん」アナンシは、悲しそうな顔をして見せました。

「ごらんの通り、サツマイモを作ったんですがね。頭が悪いものですから、いく山とれたか数えられないんですよ。すみません、ちょっと代わりに数えてみてくれませんか?」「いいですとも」アヒルの奥さんは、お尻をふりふりサツマイモの山を数えはじめました。「一、二、三、四、」アヒルの奥さんが「五」といったとたん、魔女ののろいにかかって死んでしまいました。「うっしっしっし。いただきまーす!」アナンシは、アヒルの奥さんを、頭から丸ごとペロリと食べてしまいました。

そしてまた、道ばたにすわって、だれかが通るのを待っていました。そこへウサギの奥さんが、長い耳をパタパタさせながら通りかかりました。アナンシは、ウサギの奥さんに声をかけました。「おはよう、耳のすてきなウサギの奥さん。ごきげんいかが?」「ありがとう、アナンシさん、おかげさまで。あなたはいかが?」「ええ、それがねぇ、ウサギの奥さん」アナンシは、また、悲しそうな顔をして見せました。

「ごらんの通り、サツマイモを作ったんですがね。頭が悪いものですから、いく山とれたか数えられないんですよ。すみません、ちょっと代わりに数えてみてくれませんか?」「いいですとも」ウサギの奥さんは、長い耳をしとやかにふりながらサツマイモの山を数えはじめました。「一、二、三、四、」ウサギの奥さんが「五」といったとたん、魔女ののろいにかかって死んでしまいました。「うっしっしっし。いただきまーす!」アナンシは、ウサギの奥さんを、骨ひとつ残さず食べてしまいました。

しばらくすると、こんどはハトの奥さんが、かわいいピンクの足をツンツンしながらやってきました。「おはよう、ピンクの足のかわいいハトの奥さん。ごきげんいかが?」「ありがとう、アナンシさん、おかげさまで。あなたはいかが?」「ええ、それがねぇ、ハトの奥さん」アナンシは、また、また、悲しそうな顔をして見せました。

「ごらんの通り、サツマイモを作ったんですがね。頭が悪いものですから、いく山とれたか数えられないんですよ。すみません、代わりにちょっと数えてくれませんか?」「ええ、いいですとも」ハトの奥さんは、かわいいピンクの足でサツマイモの山にとび乗りました。そして山から山へと、とび移りながら、数えはじめました。

「一、二、三、四、それから、わたしの乗っている分」それを聞いて、アナンシはくやしがりました。「ハトの奥さん、あんたの数え方はおかしいですよ」「まあ、ごめんなさい、それじゃ、もう1回数えてみるわね」ハトの奥さんは、また数えました。「一、二、三、四、それから、わたしの乗っている分」。アナンシは、歯をむき出して怒りました。「違う、ちがうよ! そんな数えかたじゃ、だめ!」「ほんとうにごめんなさい。もう一回やってみますわ」心やさしいハトの奥さんは、また数えなおしました。「一、二、三、四、それから、わたしの座っている分」

アナンシは、顔を真っ赤にして怒りだし、思わず叫びました。「何てバカなハトだ! いいか、こうやって数えるんだ。一、二、三、四、」そして「五」といったとたん……、アナンシはバッタリ倒れて、死んでしまいました。


「3月7日にあった主なできごと」

BC322年  アリストテレス死去…古代ギリシアの哲学者・学者・教育者・著述家として、さまざまな学問を集大成したアリストテレスが亡くなりました。

1608年 中江藤樹誕生…人を愛し敬う心を大切にし、母に孝養をつくして 「近江聖人」 とその徳望が慕われた江戸時代の儒学者 中江藤樹が生まれました。

1778年 ハワイ島の発見…イギリスの探検家クックがハワイ島を発見しました。翌年に上陸すると、原住民たちは神の化身として厚くもてなしたといわれています。なおハワイは、王国、共和国を経て、1898年にアメリカに合併されています。

今日3月6日は、小説『野火』『武蔵野夫人』『花影』、伝記『中原中也』などを著し、フランス文学の翻訳家としても活躍した大岡昇平(おおおか しょうへい)が、1909年に生まれた日です。

東京牛込に生まれた大岡昇平は、幼いころから文学に関心をもち、10歳のころには「赤い鳥」に童謡を投稿して入選するほどでした。成城高校時代に小林秀雄と知り合い、小林からフランス語の個人教授を受けるうち、小林の紹介で中原中也や河上徹太郎らと交友しました。京都帝国大学仏文科卒業後は、会社員生活をしながら、「文学界」などの雑誌に評論を書くうち、スタンダール研究家として著名になりました。

1944年、応召を受けて出征したところ、1945年1月に米軍の捕虜となってレイテ島の病院に収容されました。1948年、このときの体験を記録した短編小説『俘虜(ふりょ)記』により横光利一賞を受賞し、作家としての活動を開始すると、禁欲的な恋愛小説『武蔵野夫人』(1950年)、戦場で結核に罹ったために本隊から追放された兵士の生きざまをえがいた『野火』(1952年)、銀座で働くホステスの悲哀をえがいて現代文学屈指の作品とされる『花影』(1961年)など、傑作を次々に発表し、戦後文学の代表作家の一人となりました。大岡の戦争体験は、その後も『ミンドロ島ふたたび』(1970年)、大作『レイテ戦記』(1971年)を生み出しています。

いっぽう評論家としても優れ、青年期に強い影響を受けた中原中也の伝記『朝の歌』『在りし日の歌』(のちに伝記『中原中也』として中也に関する文を1冊にまとめられる)や『富永太郎の手紙』、『常識的文学論』『文学における虚と実』『小説家夏目漱石』は高く評価されています。また、「ケンカ大岡」と呼ばれたほどの論争家で、1988年に亡くなるまで、その言動が物議を醸すことが少なくありませんでした。

おお、スタンダール『恋愛論』など、フランス文学の翻訳家・研究者としても多くの業績を残しています。


「3月6日にあった主なできごと」

1297年 永仁の徳政令…鎌倉幕府は、生活に苦しむ御家人を救うために、借金を帳消しにする「永仁の徳政令」を発布しました。そのため、武士に金を貸さなくなったため、御家人の暮しはさらに悪化、幕府の衰退につながりました。

1475年 ミケランジェロ誕生…レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロと並び、ルネッサンスの3大巨匠のひとりといわれる彫刻家・画家・建築家・詩人として活躍したミケランジェロが生れました。

1948年 菊池寛死去…『屋上の狂人』『父帰る』『恩讐の彼方に』などを著した小説家・劇作家で、文藝春秋社をおこし、芥川賞・直木賞を創設した菊池寛が亡くなりました。

今日3月5日は、生物学者として性教育の啓発と産児制限を提唱し、政治家として治安維持法改悪反対を訴えた山本宣治(やまもと せんじ)が、1929年に暗殺された日です。

1889年、京都新京極の商家の1人息子として生まれた山本宣治(「山宣」の愛称で親しまれた) は、病弱だったために神戸第1中学を中退し、両親が建ててくれた宇治の別荘(のちに料亭)で花づくりをしながらすごしました。1906年、園芸家を志して大隈重信邸へ住み込み、1907年からカナダのバンクーバーへ5年間、皿洗いや鮭捕漁夫などの仕事をしながら、園芸の勉強をしました。この間に、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』や、ダーウィンの『種の起源』などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深め、労働者としてのたくましさと科学的なものの見方を身につけました。

1911年に帰国すると、同志社予科、第三高等学校を経て、東京帝国大学理学部に入学して「動物学」を学び、1920年には京都帝国大学大学院へ進学して「動物学」の研究を深めると、同志社予科、やがて京都帝国大学の講師となって、人生のための科学「人生生物学」を講義しました。当時の日本では、貧しい労働者たちの家庭には子どもの数が多く、子どもたちを十分に養えない状態にありました。そこで山宣は、性教育の啓発と性科学の普及運動に関わり、産児制限運動 (山宣の言葉では「産児調節運動」)を主唱していきました。1922年アメリカの産児調節運動家サンガー女史の訪日の際には、通訳を務めています。

こうした活動のなかで、左翼系の社会運動との関わりを強め、1924年には、京都労働学校長となって労働者教育にたずさわり、『産児調節評論』(のち『性と社会』に改題)を著わし、1927年には日本共産党系の労働農民党(労農党)の京都府連合会委員長となりました。

1928年の第1回普通選挙に労農党から立候補して当選しました。ところが、田中義一内閣は、全国千数百人もの労働農民党員を捕え、党の解散を命じたばかりでなく、共産主義者は死刑・無期刑にするという治安維持法の改正をくわだてました。1929年3月5日、帝国議会で治安維持法改悪反対を訴える予定でしたが、与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決されてしまいました。さらにその日の夜、旅館を訪れた右翼のテロリストに刺殺されてしまいました。議会で訴える予定原稿には「実に今や階級的立場を守るものはただ一人、山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから……」とありました。

なお、山宣の生涯を描いた映画に『武器なき斗い』(山本薩夫監督)があります。西口克己の評伝『山宣』を映画化したもので、1960年に公開されました。


「3月5日にあった主なできごと」

1932年 団琢磨死去…三井・三池炭鉱を経営し、三井財閥の総帥となって、大正・昭和初期の日本実業界のトップに立った団琢磨が、暗殺されました。

1953年 スターリン死去…ソ連の独裁者、共産党指導者、首相、大元帥となったスターリンが亡くなりました。

今日3月4日は、原子物理学理論をわかりやすく解説した啓蒙書を多く著わしたことで知られる、ロシア生まれのアメリカの理論物理学者のガモフが、1904年に生まれた日です。

帝政ロシア時代に黒海北西部の都市オデッサに生まれたジョージ・ガモフは、1928年にレニングラード大学を卒業後、イギリスのケンブリッジ大学へ移籍し、ラザフォードについて原子物理学を研究しました。1933年にアメリカに移住し、翌年ジョージ・ワシントン大学教授に就任後、コロラド大学教授となりました。

原子の中心にあって、陽子と中性子からなる原子核の「アルファ崩壊」(ある原子がα線を出しながら、別の原子になる過程)を、初めて量子力学(分子・原子・原子核・素粒子などを扱う理論体系)を応用して説明したり、星の内部で核反応が進むことで、しだいに明るく高温になるという恒星の進化説(ビッグバン宇宙論)を発表しました。1950年代には、生化学分野の研究を推進し、酵素の生成に拡散が大きな役割を果たすこと。そして、生物のDNAの4種類の塩基からなる3文字符号が、遺伝情報の基礎であることを最初に提唱しています。これらの考えは、のちに、基本的には正しいことが証明されています。

また、ガモフが高く評価されているのは、難解な原子物理学をやさしく解説した書物をたくさん書いたことです。特に『不思議の国のトムキンス』は、銀行のしがない事務員である主人公のトムキンスが、現代物理学の諸問題について連続した公開講演会を開くという新聞記事を読んで、退屈しのぎにそれを聞きに行くという設定で、相対性理論の話を聞いているうちに寝込んでしまい、夢の中で、非日常的な物理の世界を解き明かすという楽しい本です。さらに続編として、『太陽の誕生と死』『地球の伝記』『原子の国のトムキンス』『生命の国のトムキンス』『宇宙の創造』などを著わしたことで、1956年にユネスコから、カリンガ賞を贈られました。

その後も、1968年に急死するまでコロラド大学で教鞭をとりながら、著作を続けました。


「3月4日にあった主なできごと」

1053年 平等院鳳凰堂…藤原頼通は、父の藤原道長からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」とし、極楽浄土といわれる鳳凰堂(阿弥陀堂)を完成させました。

1697年 賀茂真淵誕生…江戸時代の中ごろに活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が生まれました。

1788年 寛政の改革…江戸幕府11代将軍家斉は、白河藩主として評判の高かった松平定信を老中首座・将軍補佐とし、定信は「寛政の改革」を実施して幕政の改革をはじめました。8代将軍吉宗の「享保の改革」をめざしたものでしたが、あまりに堅苦しいものだったため、成功にはいたりませんでした。「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と田沼意次時代を懐かしむ狂歌に詠まれるほどでした。

1878年 有島武郎誕生…絵のぐをぬすんだ生徒と、その生徒をやさしくいましめる先生との心のふれあいをえがいた児童文学『一房の葡萄』や『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『或る女』など社会性の高い作品を数多く残した白樺派の作家 有島武郎が生まれました。

今日3月1日は、『修禅寺物語』『番町皿屋敷』など新歌舞伎の戯曲や、わが国初となる捕り物小説『半七捕物帳』を著わした作家の岡本綺堂(おかもと きどう)が、1939年に亡くなった日です。

1872年、元徳川幕府の御家人の子として東京高輪に生まれた岡本綺堂(本名・敬二)は、父から漢詩を、叔父から英語を学びました。東京府立一中在学中に劇作家を志すと、卒業した翌1890年、東京日日新聞社に入り、劇評や小説などを紙上に掲載しました。その後、中央新聞社、絵入日報社など、1913年までの24年間、さまざまな新聞社を転々としながら、社会部の責任者や劇評を担当しました。

その間、狂綺堂の名で、1891年に東京日日新聞に小説『高松城』を、1896年には処女戯曲『紫宸殿』を発表。1908年、川上音二郎のために書き下ろした『維新前後』は大ヒットして、主役を演じた市川左団次(2代目)と提携するきっかけとなり、左団次一座のために書いた『修禅寺物語』(1911年) の成功によって、新歌舞伎を代表する劇作家となりました。作家活動に専念した1913年以降は、『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』など、次々に新歌舞伎のための脚本を著わし、多大な人気を博すようになりました。67年の生涯に196編もの戯曲を残し、質量ともに、河竹黙阿弥以後の第一人者と高く評価されています。

その他、1916年には国民新聞、時事新報の2紙に新聞小説を同時に連載、同年に英国コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズを原著で読んだ影響を受け、『半七捕物帳』の執筆を開始し、目明しを主人公に、江戸情緒あふれる描写で長く人気を得ました。シリーズは69編にものぼり、のちに映画やテレビドラマ化されています。怪奇ものでは、『世界怪談名作集』『支那怪奇小説集』などの編訳も著わしています。また、幼少期からの歌舞伎鑑賞を記した『ランプの下にて』は明治期歌舞伎の貴重な資料とされています。

1918年に欧米を訪問、1923年の関東大震災で自宅や蔵書を失う不幸もありましたが、年とともに枯れた味わいのある独自の作風は「綺堂物」と呼ばれ、1930年には後進を育てるために月刊誌『舞台』を発刊、監修を務めました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、綺堂の代表作237編を読むことができます。


「3月1日にあった主なできごと」

1810年 ショパン誕生…ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開き「ピアノの詩人」といわれる作曲家ショパンが生まれました。

1871年 郵便制度開始…これまでの飛脚制度にかわって、前島密を中心に欧米の制度にならった郵便制度をとりいれ、日本に郵便制度をスタートさせました。

1892年 芥川龍之介誕生…『蜘蛛の糸』『杜子春』などの童話や、『地獄変』『河童』『奉教人の死』など百数十編もの名作をのこした作家 芥川龍之介が生まれました。

1919年 3.1独立運動…1910年に日本の統治下となった朝鮮で独立運動がおきました。韓国ではこの日を「三一節」という記念日にしています。

1954年 第5福竜丸被爆…南太平洋にあるビキニ環礁で行なわれたアメリカ水爆実験で、危険水域外で漁をしていたにもかかわらず、日本のマグロ漁船第5福竜丸の乗組員23人全員が放射能を浴びる「ビキニ事件」がおきました。9月には無線長の久保山愛吉さんが亡くなったことで、原水爆禁止運動が高まりました。第5福竜丸の船体は、東京・江東区にある「夢の島公園」に展示公開されています。

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