児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年03月

「おもしろ古典落語」の111回目は、『そこつの使者(ししゃ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

むかし、ある大名の家臣に、地武太治部右衛門(じぶたじぶえもん)という方がおりました。この人は、そそっかしいだけでなく、のんき者でした。そこが面白いというので殿さまの大のお気に入りです。

ある日、殿さまがご親類すじへ使者を出すことになり、この治部右衛門に申しつけました。治部右衛門は大張りきりで、玄関へ出ました。「ああ、こりゃ、べんとうはおらぬか?」「弁当? さっき、お食事をすませたばかりですが」「弁当ではない、馬に乗るから、べんとうを呼んでるのだ」「それは別当(べっとう・馬丁)で、あなたの前にひかえております」「そうか、馬を持て。これ別当、こんな小さな馬があるか?」「それは、犬でございます」「犬か、どうりで小さいと思った。では馬に乗るぞ。これ、別当、この馬には首がないぞ」「あべこべに乗ったのでございます。馬の首は、あなたのお尻のほうにございます」「さようか、では身どもが尻をちょっとあげるから、馬をくるりとひとまわりさせよ」「そんなことはできません」「ならば、馬の首をちょっん切って、前へ持ってまいれ」てなぐあいに、出発前から大騒ぎ。

それでも、なんとか先方に着きました。でむかえの者がひとり出てまいりまして、「はじめまして、てまえは当家の家臣、田中三太夫と申します」「てまえは、田中治部右衛門と申します」「おや、貴殿も同じ名前で?」「はっ? まちがえました。じぶた、地武太治部右衛門でござった。ははは」「……して、本日のご使者の口上(こうじょう)は?」「口上? ええーと、うむ…」「どうなされました?」「うーむ、腹を切らねばならぬことになりました」「これは、またご冗談を」「まことに面目しだいもござらぬが、使者の口上、とんと失念いたしました」

「えっ、そりゃ、一大事」 使者というのは、主人の代わりですから、これを忘れてしまっては、切腹ものです。「じつは、てまえ、恥をもうしあげまするが、生まれついてのそこつ者、ものを忘れるたびに、親が尻をつねってくれました」「お尻を?」「田中氏(うじ)、武士のなさけじゃ、せっしゃの尻をキュッとつねってくださらぬか」「尻をつねるくらいなら、たやすいご用じゃ、グーっとおつねりいたしましょう」「かたじけない。さぁっ、おつねりくだされ」「つねってるんですよ」「いっこうに通じませんな。もそっときつく願います」「それでは両手でまいりますぞ」「つねられた気すらいたしませぬ。幼少のころから、いくどとなくつねられてきたために、尻にタコができております。ご家中に、指に力のあるご仁はござらんか?」「いや、当家には剣術や柔術ならば、腕のたつものもたくさんおりますが、指というのは…さて? 家来どもにたずねてみますから、しばらくおひかえください」
 
三太夫が若侍たちにこの話をしますと、みんな腹をかかえて笑うだけで、名乗り出る者はありません。そのとき、ちょうどお屋敷に大工が入っていて、耳にしたのが、大工の留公です。そんなに固い尻なら、一つ釘抜きでひねってやろうと申し出ました。三太夫はわらにもすがる思いでやらせることにしましたが、大工を使ったとあっては当家の名にかかわります。そこで、留公を臨時の武士に仕立て、中田留太夫という名で、治部右衛門の前に連れていきました。

あいさつはていねいに、頭に「お」、しまいに「たてまつる」と付けるのだといい含められた留公、初めは「おわたくしが、おあなたさまのお尻さまをおひねりござりたてまつる」などとシャッチョコばっていましたが、治部右衛門と二人になると、「おれは侍じゃねぇ、留って大工だ。口上を思いださねぇと、切腹だっていうから、かわいそうに思ってやってきたんだ。さぁ、尻を出しな。汚ねえ尻だね。いいか、どんなことがあっても後ろを向くなよ。さもねえと張り倒すからな」えいとばかりに、釘抜きで尻をねじり上げます。「ウーン、痛たたた、思い出してござる」。これを聞いた三太夫、ふすまをサラリと開けて「して、使者の口上は?」

「屋敷を出るおり、聞かずにまいった」


「3月22日にあった主なできごと」

1832年 ゲーテ死去…「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いたゲーテが亡くなりました。

1925年 ラジオ放送…NHK東京放送局が、ラジオの仮放送を開始しました。NHKは、日本の放送のはじまりを記念して、1943年から「放送記念日」としています。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 77]

昔、あるところに働きもので気立てのよい娘がありました。ところが、この娘の苦の種は大きな屁(へ・おなら) が出ることでした。これでは嫁のもらい手がないと、母親は嘆いていましたが、縁があって話がまとまり、嫁入りすることになりました。

なにしろ働き者で、気立てのやさしい嫁さまですから、「よい嫁ごをもらった」と息子もおっかあも大喜びでした。ところが、嫁さまはだんだん元気がなくなってきました。心配したおっかさんは、嫁さまにたずねてみました。「おまえさん、このごろ顔色が悪くなって、どこか具合がわるいのじゃないかい?」すると、嫁さまは、うつむいてもじもじしていましたが、とうとう涙をこぼし、嫁入りしてからずっと、屁をがまんしていたことを話しました。

「なんだ、そんなことか。屁なんかだれでもするよ。遠慮なくするがいい」「でも、おらの屁は特別大きいんで」「かまわねぇ、早くしたらいい」 「ありがとうございます、おっかさま。どうぞ、柱にしっかりつかまっていてください。それでは、ちょっくらごめんして」

嫁さまは、庭へ出て裾をまくると、これまでたまっていた分を、いっぺんにぶっぱなしました。ぶぉ~っ、ぶぶぶっぶっ!!! 大砲のような音がして、嵐のような風が吹き起こり、柱につかまっいたおっかさんは、家の外へ吹き飛ばされ、向かいの大根畑まで飛んで行ってしまいました。

そこへ帰ってきた息子は、おっかさんの話を聞き、「そんな嫁ごは、家においとくわけにはいかねぇ。さっさと出てってもらおう」 おっかさんは、けんめいにとりなしましたが、息子はどうしてもいうことをききません。こうして嫁さまは、息子に連れられて、実家へ帰されることになりました。

さて、その途中。二人はとある川の渡し場まできました。船頭たちは帆かけ船に米俵をたくさん積みこんで船出をするところでした。ところが、風がやんでしまったために、船頭たちがどんなにがんばって船をこいでも、ビクともしません。これを見た嫁さまは、「おらなら、屁ひとつで動かしてみせるよ、あっはっは」と笑いました。馬鹿にされたと思った船頭の頭は、「よぉーし、それならやってみろ。もし、船を動かせたら、ここに積み残した米俵を持っていけ」「ほんとか? それじゃいくぞーっ」嫁さまは、ちょっと後ろを向いたかと思うと、とびきりでっかいのを、ぶぉお~~ん。船は帆にいっぱいの屁の大風を受けて走り出しました。「よかったぁ、これで、家へのおみやげができた。あんた、この米俵を、しょってきてください」
 
二人がとぼとぼ歩いてくると、大きな梨の木が立っているところに出ました。その下で、子どもたちが木をゆすったり、棒をふりまわしたり、何とかしてとろうとしますが、うまくいきません。これを見た嫁さまは、「おらなら、らくらく取れるけどな」とつぶやくと、子どもたちは「取って、取っておくれ!」と騒ぎたてます。嫁さまはしかたなく「それじゃぁみんな、ずっと遠くへ行って、そこらにある木に抱きついていな」といいきかせると、ぶぉお~~ん。 たちまち、よく熟れておいしそうな梨が、どんどん落ちて、地面がみえなくなるほどでした。

ちょうどそこへ、馬に乗った殿さまの一行がとおりかかりました。のどがかわいて水がほしいと思っていた時でしたから「これはうまそうじゃ」と、殿さまが馬から飛びおりると、家来たちもまけずに飛びおりました。殿さまも、家来たちも、子どもたちも、もちろん息子も嫁さまも、みんなおいしい梨にかぶりつきました。「ふぅっ、こんなうまい梨ははじめて食うたぞ」殿さまはこういうと、ごほうびに、手いっぱいの小判を嫁さまにくれました。

これを見た息子は、嫁さまを里に帰すのがおしくなりました。「屁がこんなに人の役にたつとは知らなかった。おらが悪かった。こんなすごい嫁ごは、やっぱり家にいてもらおう」 といって、家に連れて帰りました。

それからは、家の奥まったところに「屁屋」というものをこしらえて、嫁さんが屁をしたくなると、そこでやらせることにしたそうです。それが「部屋」というものの始まりだそうですが…、ほんとうですかねぇ。


「3月21日にあった主なできごと」

835年 空海死去…平安時代初期の僧で、真言宗を開き、「弘法大師」の名でしたしまれている空海が亡くなりました。

1685年 バッハ誕生…宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めたバッハが生まれたました。

1972年 高松塚古墳の極彩色壁画…奈良県明日香村にある高松塚古墳石室で、千数百年前の彩色壁画が発見されました。鮮やかに描かれ白虎や青竜、女子群像など4面は、国宝に指定されています。

今日3月19日は、明治末から昭和前期にかけて、日本の洋画界の指導的役割を果たしてきた藤島武二(ふじしま たけじ)が、1943年に亡くなった日です。

1867年、薩摩藩(鹿児島)藩士の子として生まれた藤島武二は、幼少のころから絵に興味を持ち、小学時代には北斎漫画をまねて描いたり、祖父の長崎みやげに買ってきた油絵を日本画の顔料で模写したと伝えられています。鹿児島中学時代には、地元の画家について学ぶうち、画家をめざして17歳で上京しました。

最初のうちは四条派の画家や川端玉章に日本画を学び、玉堂の号で日本美術協会展に入賞するなど、日本画でも才能を発揮しました。しかし、1890年23歳ころから洋画をこころざすようになり、同郷の曽山幸彦に師事し、1892年までにイタリアやフランスで学んできた松岡寿や山本芳翠らの指導をうけ、明治美術会の会員になりました。

1891年の明治美術会第3回展に出品した油絵の処女作『無惨』が優秀賞を獲得すると、翌第4回展に発表した大作『桜狩』(関東大震災で焼失)は、森鴎外らに絶賛されて藤島の名を決定づけました。1896年、1歳年上の黒田清輝に推せんされて新設されたばかりの東京美術学校(現・東京芸大)洋画科助教授になると、以後亡くなるまでの50年近くにわたり、同校で後進の指導にあたっています。

Fujishima_-Black_Fan.jpg

1897年、黒田清輝が中心となって創立した洋画団体「白馬会」に出品した『天平の面影』『蝶』をはじめ、『チョチョラ』(1908-9)、『黒扇』(1908-9・下の絵)など、藤島前期の代表作、話題作を次々に描いていきました。当時の芸術風潮にあったロマン主義的作風の強いもので、これらは弟子の青木繁らに大きな影響を与えています。

1905年38歳のとき、文部省からヨーロッパへ5年間の留学を命じられて、フランス、イタリアで学んで帰国後、東京美術学校の教授に就任しました。この留学後から、風景画としての才能を発揮したばかりでなく、イタリア・ルネサンス絵画の影響を受け、これまでの装飾的なものからより重厚な作品を描くようになりました。

1911年の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍し、晩年は宮内庁からの依頼による昭和天皇即位を祝う油彩画制作や風景画の連作に挑み、1937年には岡田三郎助、横山大観、竹内栖鳳とともに第1回文化勲章受章者の一人となりました。

なお、藤島のたくさんの作品他は、オンライン「画像検索」で見ることができます。


「3月19日にあった主なできごと」

1813年 リビングストン誕生…文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家のリビングストンが生まれました。

1982年 フォークランド紛争…アルゼンチン軍が、イギリスと領有権を争うフォークランド諸島のジョージア島に上陸。果敢な航空攻撃でイギリス海軍艦に大きな損害を与えましたが、イギリス軍の逆上陸を阻止できず、約3か月後に降伏しました。

今日3月18日は、ロシア国民学派五人組のひとりで、交響組曲『シェエラザード』『スペイン奇想曲』など、管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残したロシアの作曲家リムスキー・コルサコフが、1844年に生まれた日です。

ロシア北西部ノブゴロドに、軍人貴族の家庭に生まれたリムスキー・コルサコフは、幼少のころから楽才を示しましたが、12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学しました。卒業後に海軍士官となって、艦隊による海外遠征を体験しました。1861年17歳のとき、国民学派のリーダー格のバラキレフと出あい、航海演習のない時に作曲の指導を受け、後の「五人組」となるキュイ、ボロディン、ムソルグスキーとも交友するようになりました。

1871年に、ペテルブルク音楽院の要請を受けて作曲と管弦楽法の教授となり、2年後に軍を退き、教鞭をとりながら海軍軍楽隊の指揮をつとめるなど、ロシア音楽のアカデニズムの確立に貢献しました。

代表作のひとつ『シェエラザード』は、1888年44歳のときに完成しました。青年期に十数年間わたって遠洋航海したことで、『船乗りシンドバッドの冒険』に興味を感じたことがこの作品の背景にあったのでしょう。この冒険話は、『アラビアンナイト』(千一夜物語)にある話のひとつです。よく知られているように『アラビアンナイト』は、シャリアールという残酷な王様が、結婚した夜に王様に興味深い話ができない花嫁を次々に殺してしまうことからはじまります。そして、聡明な美女シェエラードがシャリアールの妻となりますが、毎夜彼女は王様におもしろい話を聞かせることで殺されるのをのがれ、それを千一夜も続けたことで、王の残酷な心をとかしてしまうという物語です。

リムスキー・コルサコフは、一連のシンドバッドの冒険話のうち、4つの物語をとりあげ、4楽章の組曲をこしらえました。第1楽章「海とシンドバッドの船」、第2楽章「カレンダー王子の船」、第3楽章「若い王子と王女」、第4楽章「バクダットの祭り。海。難破。終曲」となっていて、各楽章のはじめに「慈悲深い王さま、それでは昨晩のお話の続きをお話します」と独奏バイオリンが奏で、締めくくりも「夜があけましたので、お話はまた」と奏でますが、その美しいメロディや、全体に流れる官能的な雰囲気は、多くの人を魅了してきました。この作品の前年に発表された『スペイン奇想曲』も、エキゾチックあふれる名曲として定評があります。

『ブスコフの娘』『雪娘』などのオペラ、交響曲、室内楽、歌曲ほか、幅広い分野でも優れた作品を遺したほか、5人組の先輩であるボロディンの『イーグル公』や、ムソルグスキーの『ホバンシチナ』など、独自の管弦楽法による補修により、いっそう磨きがかけられました。また、1908年に亡くなるまで、ストラビンスキー、グラズノフ、プロコフィエフら、たくさんの弟子を育てたことでも、大きな役割をはたしました。


「3月18日にあった主なできごと」

724年 柿本人麻呂死去…飛鳥時代の歌人で、山部赤人らとともに歌聖と称えられている柿本人麻呂は生没年不詳ですが、亡くなったとされる日のひとつです。

1871年 パリ・コミューン…普仏戦争の敗戦後のこの日、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されました。正式成立は3月29日で、5月28日に政府軍の反撃にあってわずか72日間でつぶれてしまいましたが、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。

「おもしろ古典落語」の110回目は、『しめこみ』というお笑いの一席をお楽しみください。

「しめこみ」といっても、お相撲さんの「まわし」のことではありません。ちょっとまぬけな「空き巣ねらい」の泥棒の話です。「こんにちは、お留守ですか? えー、表があけっぱなしになって、ぶっそうですよ。ごめんください。あっ、火がおこって、お湯がチンチンわいてる。遠くへいったんじゃないよ、仕事をするなら今のうちだ」泥棒は、たんすの引き出しから風呂敷を出すと、中のものをそこへ包んでしょいだそうとすると、表で足音が近づいてきました。こいつはいけないと、裏に逃げようとしましたが、裏は行きどまり。しかたがないので、あわてて台所の羽目板をはずして、縁の下に隠れました。

亭主が帰ってきました。「なんだい、日の暮れに家を開けっぱなしにしやがって。おおかたそこらでおしゃべりでもしてんだろう。それにしてもずいぶんとちらかってやがる。暗いから明りでもつけてみよう。おやっ、ここに大きな風呂敷包みがあるぞ。どっかから預かったのかな。それにしても、この風呂敷には見覚えがあるな。中を調べてみるか。おぅ、こりゃおれの着物と羽織だ。こっちは、かかぁの晴着じゃねぇか。そうか、たんすのものを、すっかりくるみやがったな。すると、火事でもあったのかな、こいつをつつんで逃げようとしたら、うまい具合に火が消えた…? いやぁ、火事なら、近所じゅうがバタバタしてるはずだな。とすると、かかぁのやつ、男でもできて……、そういやぁ、このあいだ松公がおかしなこといってやがったな。『おい、気をつけなよ。おたげぇ、出商売で家にいねぇんだから…』って、別段気にも留めなかったが、それとなく教えてくれたんだな。そうか、男とこの包みを持ってずらかるところだったんだ、うーん、ちくしょうめ」

「あー、いいお湯だった……あら、お帰んなさい。早かったねぇ、お前さんも今のうちにお湯へいってきたらどぉ? 男湯はすいてたわよ。どうしたの? そんな、怖い顔してさ。ああ、あたしの帰りが遅いんで、怒ってんだね。女のお湯というのは、男とちがって長いんだよ。お湯やでお向かいのおかみさんといっしょになってね。背中を流してくれたから、あたしもお返しに背中を流してあげたのよ。そうしたら、お湯をくんでくれてね、あたしもくんであげたの。こんどは髪を洗うっていうでしょ…」「そんなこと聞いてるんじゃねぇ。これを見ろやいっ!」「あーら、大きな風呂敷包みだねぇ、火事でもあったのかい、それとも、どっかの預かりものかい?」「ごまかすな、こんちくしょう。聞きたいのはこっちのほうだ。やい、てめぇは、こんなものこしらえて、どこへ逃げようと思ったんだ」「えーっ、なんであたしが逃げなくちゃいけないんだい。ははぁ、わかった、逃げようと思ったのは、おまえさんだろ」「なにいってるか、この大荷物をおれのせいにするのか」「だって、あたしは知らないよ」「知らねぇことはねぇ」「しらねぇことはねぇったって、知らないんだよ」「このおたふく野郎、まだシラを切るのか」

「おたふくだって? いったわねぇ。ふん、おまえさん、あたしといっしょになったときのこと忘れたのかい?」「なんだ?」「あたしは、伊勢屋にいたんだよ」「ああ、たしかにおまえは伊勢屋の飯炊きをしてた」「はばかりさま! おっかさんにいわれて花嫁修業をしていたのでお給金は貰ってないんだよ。伊勢屋さんはしっかりしたお店だし、あそこなら、ごはんの炊きかたからもお裁縫も、行儀作法をおぼえるのにいちばんだ。それに、出入りの人も多いから、ひょっとすると、いいおむこさんの口もみつかるかもしれないって。なのにあんたは、台所で私の袖を引いたんじゃないか。『あの二人はおかしいといわれるから、本当にいっしょになってしまおう』っていったのはあんただよ。あのとき、うちのおとっつぁんと、おっかさんの前で『いっしょになったら、あっしがなんでもやります。朝だって早く起きてご飯を炊きます。洗濯もやります。こんなやさしい女はありません。もう、生きた弁天様です』といったじゃないか。それをおたふくだなんて」「やかましいわい、こんちくしょう」「あっ、ぶったわね」「あぁ、ぶったとも」「くやしいーっ、いくらでもぶちやがれ!」

夫婦げんかも、このくらいになってくるとすさまじいもので、亭主は沸騰しているやかんを、おかみさんにぶっつけます。おかみさんは、さっと体をかわす。やかんは台所の羽目板の上まで飛んでひっくりかえりました。煮えたぎったお湯が、縁の下の泥棒に、もろにかかってきました。驚いた泥棒は、飛び出してきて二人の仲裁をはじめます。

「あぶない、おかみさん、お逃げなさい。親方も、まぁまぁ……」「ややや、なんだ、あんまり見かけねぇ面だな、だれだ?」「えっへっへ、いえね、別に名乗るもんじゃありませんが、いま、前を通りますと、おふたりで喧嘩の真っ最中、思わず飛びこんできたようなわけで」「そうですかい、止め役はありがたいが、どうか手を引いておくんなさい。今夜という今夜は、勘弁できねぇんで」「親方、お腹立ちでしょうが、まぁ、あたしにおまかせください」「おまかせくださいって、このけんかの起こりを知ってんのか?」「へぇ、へぇ、そりゃわかってます。その風呂敷包みでしょ。その包みをだれがこさえたかわかれば、よろしいんでござんしょ」「うん、まぁ、そういうわけだ」

「では、お話をいたします。あれをこしらえたのは、親方でもなく、おかみさんでもありません」「二人が作らなくてどうしてできる?」「それは、つまりですね、お二人とも留守の時に、ぬーっと入ってきた男がいると思ってください。たんすの引き出しをあれこれ開けて、大きな包みをこしらえて、さて逃げようと思ったところへ、親方が帰っていらした。しかたがないから、その男は逃げるに逃げられず、縁の下に隠れていたら喧嘩がはじまった」「なるほど」「あげくのはてに、親方がやかんを放り投げました。それが台所へころがってきて、煮えたお湯があげ板の間からポタポタポタポタ、いゃぁ、熱いのなんの、とても我慢ができませんから、その男ぁ飛び出してきて、まぁまぁと、仲裁にはいったというようなわけで…」「その男ってぇのが、つまりおまえさんかい?」「ごめいとう!」「じゃぁ、おまえさんは泥棒だね」「早い話がそうです」

「それ見ろ、不用心にするから、どろ…泥棒さんが入るんだ。もし、この泥棒さんが出てきてくれなければ、おれたち夫婦別れしたかもしれねぇ」「泥棒さま、ほんとうによく出てきてくれました。ありがとうございます」「どういたしまして。まぁ、喧嘩も無事におさまって、ようございました。縁の下でうかがっていましたが、お宅さまは、喧嘩をするようなご夫婦じゃございません。仲が良すぎるくらいです。お二人のなれそめを聞いていましたが、おかみさんは、ほんとうに弁天様のようなお方ですね」「おい、よせやい」「これをご縁にちょくちょくと」「冗談じゃねぇ」

でも、まぁよかった、無事におさまったというので、のんきな人もあるもんで、「泥棒さん、今夜は忙しいのかい」「はぁ? いえ、なにもありません」「それでは一献差し上げよう」ということで、亭主が用意した酒肴で二人は酔いつぶれてしまいました。目を覚ました亭主が「泥棒さんはよく寝ているね。不用心にしていると泥棒が入るといけないから、心張り棒をしっかりかけておきな」「はい」

「ちょっと待て、泥棒は家ん中だ。外から心張り棒をかけておけ」


「3月15日にあった主なできごと」

BC44年 シーザー死去…古代ローマの政治家で終身執政官となるも、「ブルータス、お前もか!」という有名なセリフを残し、シーザー(カエサル)が暗殺されました。

1928年 3.15事件…日本共産党は、第1次世界大戦後に秘かに党を結成して、労働者の政治運動をさかんに行なっていました。そして、1928年2月の第1回普通選挙で、共産党を含む無産政党から8名の当選者を出しました。これに脅威を感じた田中義一内閣は、共産党を含む左翼団体の関係者千数百名を捕らえ、治安維持法違反の罪で処罰しました。これが「3.15事件」で、これ以降共産党や労農党は結社を禁止されました。この時逮捕された徳田球一や志賀義雄らは、1945年10月にGHQの指令で釈放されるまで18年間、獄中につながれたままでした。

↑このページのトップヘ