児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年03月

「おもしろ古典落語」の112回目は、『たらちね』というお笑いの一席をお楽しみください。

「大家さん、八五郎です。遅くなってすいません。少しかぜをひいて、仕事を休んでましたもんで。やはり、店賃の催促で?」「そうじゃない。おまえはこれまで、きちんと払ってきたんだ。少しくらい遅れても、催促なんぞしないよ。じつはな、おまえに相談があるんだ」「相談? たとえば、この長屋をあたしにくれるとか」「ばかばかしい。おまえもそろそろ、身を固めないかってことだ」「なんです、身を固めるって」「女房をもつ気はないかってことだよ」「だって大家さん、いま、一人でさえ貧乏してるんじゃありませんか。この上、かかぁなんぞ持った日にゃ、干ぼしになっちまいます」「そうじゃぁない。いいか、おまえは一人で暮してきたから、うちでおまんま食うのは面倒だってんで、ちょくちょく外で飯を食ってるな。洗濯ものなんかも、ひとに頼んでるだろ。これじゃ、ずいぶんむだな銭がかかってるわけだ」「そうですかね」

「昔からよくいうように、ひとり口は食えないが、ふたり口は食えるというだろ。飯を炊くのも、洗濯も、みんなかみさんがやってくれる。それだけでも、かみさんひとり分の食いぶちは出ようってもんだ。どうだ、もらう気はあるか?」「ないことはありませんが、あっしみたいな、なんにもねぇところに来るなんてのがありますかね」「それがあるから、世話をしようといってるんだ」「もの好きだね、どうも…。で、どんな女なんです?」「まあ、いい女だな。器量は十人並み以上、色白で小柄で…」「へぇ、女っぷりはいいんですか。で、年は?」「ばぁさんや、あの娘はいくつだったかな。えっ? 二十五になった? 聞いての通りだ」「なんかきみが悪いな。あっしんとこへこようってんじゃ、よっぽど暮らしに困ってるんだな」「そんなことはない。夏冬の道具ひとそろいくらいは持っておる」「夏冬? こないだ芳公んとこへきた嫁ね、夏冬の道具持ってきたってぇから、聞いてみたらこたつと、うちわだってぇからあきれたね」「そんなばかばかしいのじゃない、長持の二棹(さお)くらいはある」「なんか話がうますぎやしませんかね。どこかキズでもありゃしませんか?」

「ふっふっふ、痛いところをつかれたな。そりゃまぁ、ないこともない」「ほうらね、横っ腹にヒビが入って、水がもるとか」「水がめじゃあるまいし」「わかった、夜中になると、首が伸びてあんどんの油をなめるとか」「ばかなことをいいなさんな。もとは京都の名家の出で、長い間屋敷奉公していたために、言葉がていねいすぎるということなんだ」「冗談でしょ。大家さんはいつもあっしに、言葉が乱暴でいけねえって、文句をいってるじゃないですか。ていねいなら、キズっていうことはないでしょ」「そりゃそうだけどな、ただこの女は、ばかがつくくらいていねいなんだ。このあいだ、風が強い日に、表でであったらな、『今朝(こんちょう)は土風激しゅうして、小砂眼入す』といったな」「へぇー、たいしたもんですねぇ」「おまえにわかるか」「わかりませんが、そんなえれぇこというなぁ感心だ」「わからないで、感心するな。つまり、けさは、細かい砂が目に入って困ります、とあいさつしたわけだ」「なるほど」「あたしもそのときは、いってる意味がわからなかった。でもくやしいから『スタンブビョーでござる』といったんだ」「なんです、そのスタンブビョーってのは?」「ひょいと前の道具屋をみたら、タンスと屏風があったんで、これをさかさまにして、ごまかしたんだな。むこうもわからないから、変な顔してた」「へぇー、さすがは大家さんだ。ごまかすのもうめぇ」「へんなほめかたをするな。で、どうだ。もらうか? それともことわるか?」「大あり名古屋は金のシャチホコでさぁ、お願いします」

ということで、暦を見ると、あすもあさっても日がよくない。思い立ったが吉日ということで、その日の夕方、輿入れということになりました。ところが大家さんは、用事があるからといって、お嫁さんを連れてきただけですぐに帰ってしまいました。なるほど美人なので、八五郎は大喜びですが、いざ話をするとなると、ちんぷんかんぷん。名前をたずねると、「みずからの姓名は、父はもと京の産にして、姓は安藤名は慶三、あざなを五光。母は千代女と申せしが、三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴の夢を見て、はらめるがゆえに、たらちねの胎内を出でしときは鶴女と申せしが、それは幼名、成長ののち、これを改め清女と申しはべるなり」「へぇー、それ、みんなおまえさんの名前かい? 弱ったなぁ、あした、大家さんに頼んで、ぶった切ってもらおう」てなことで、その夜は、そのまま床につきました。

さて、よく朝のこと。そこは女のたしなみで、朝、亭主に寝乱れ顔をみせるようなことなく、早起きして掃除をすませて、ご飯を炊こうとしましたが、米のある場所がわかりません。夫の枕元へ両手をついて、「あーらわが君、あーらわが君……」「へい、へい、へい、えーっ、もう起きちまったんですかい…、もっと寝坊しててもかまわねぇのに…えっ、なんだって? わが君? おい、わが君ってのはおれのことかい? うわぁ、こりゃおどろいたな。なにか用ですかい?」「白米(しらげ)のありかはいずこなりや?」「あっしは、ひとり者でも、ずいぶんまめなほうで、洗濯をよくしてるから、しらみなんざいねぇんで」「人食(は)む虫にあらず、米のこと」「ああ、米かい。そこのみかん箱の中にへえってるよ」

ご飯が炊きあがり、みそ汁をこしらえようとしましたが、汁の身がありません。どうしようかと思っているところへ、ねぎをかついだ八百屋がきました。「のうのう、これこれ、門前に市をなす、しずの男(おのこ)」「へぇ、あっしですかい?」「そのほうがたずさえたる白根草(しらねぐさ)なん文なるや」「白根草? ああ、根が白いからね、1わで三十二文だよ」「召すや召さぬや、わが君にうかがう間、門前にひかえておれ」「ははぁ、芝居だねぇこりゃ、それにしてもどぶくせぇ門前だよ」「あーらわが君」「おい、また起こすのかい。朝っぱらから八百屋なんかひやかしてちゃしょうがねぇなぁ…銭かい、その火鉢の引き出しに、こまけぇ銭がへぇってるから、いいかげんに買っといてくれ。それからね、その『わが君』ってぇのやめてくんねぇな、友だちに『わが君の八』なんていうあだ名がついちまうから」

すっかり食事のしたくができますと、夫の枕元にやってきて、ぴたりと両手をついて、「日も東天に出現ましまさば、うがい手水(ちょうず)に身を清め、神前仏前へ燈灯(みあかし)を備え、ご飯を召し上がってしかるべく存じたてまつる、恐惶謹言(きょうこうきんげん)」

「おい、おどかさないでおくれよ。飯を食うのが恐惶謹言なら、酒を飲むのはよ(酔っ)てくだんのごとしか」

* 「恐惶謹言」や「因(よ)って件(くだん)の如(ごと)し」は、ともに書状の終わりにつける言葉


「3月29日にあった主なできごと」

1683年 八百屋お七の刑死…江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘お七 (八百屋お七) が、放火の罪で、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられました。

1912年 スコット死去…南極点に到達するものの、アムンゼンに先をこされたイギリスの探検家スコットが遭難死しました。

1925年 普通選挙法成立…従来までは一定の税金を納めた者しか選挙権がなかったのに対し、25歳以上の男子に選挙権を与えるという「普通選挙法案」が議会を通りました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 78]

むかし、あるところに、心のやさしいじいさまがいました。ある日、じいさまが町へ行っての帰り、子どもらが小さな犬に縄をつけてをいじめているところに出くわしました。かわいそうに思ったじいさまは、小銭をいくらか出して犬を買いとり、家に連れ帰って大切に育てました。じいさまの家には三毛猫がいましたが、すぐに2ひきは仲良しになりました。

そんなある日、じいさまが焚きもの小屋をこわしていると、かわいらしい白蛇がちょろちょろ出てきました。じいさまが手の上に飯粒などのせてなめさせているうち、これもまたなついてきました。じいさまもこの蛇がかわいくなって、人に見つからないように手箱の中に入れておくと、いつのまにか手箱いっぱいに大きくなりました。たんすの中に入れておくと、こんどはたんすいっぱいに大きくなりました。

ある日じいさまは「蛇どの、蛇どの、おまえさんも一人歩きができるほど大きくなった。もう鳶(とび)や鷹にさらわれることもあるまい。どこへでも好きなとこへ行って、一本立ちしておくれ」と、人間に話すようにいい聞かせると、庭先の方へにょろにょろおりて行きました。

さて、どこへ行くのかと後をつけてみると、庭の松の根元の穴へするするとはいっていきます。穴をのぞいて見ると、中に光るものがあります。それを手にとって見ると、世にも珍しい「こけら玉」という宝物でした。じいさまは「はてさて、これは蛇どのの贈りものにちがいない」と押しいただいて持ち帰り、たんすの奥にしまっておきました。あくる日、たんすをあけてみると、なんと、こけら玉から黄金の粒が一つ出ていました。それからというものは、まいにち、黄金がひと粒あって、そのうちじいさまは、たいそうな金持ちになりました。そこで、その黄金をもとでに呉服屋をはじめたところ、これがどんどん繁盛していきました。

ある時、上方のものだという若者がやってきて、ぜひ番頭につかってくれと頼みました。店も手不足だったので、じいさまは、この若者を番頭に雇うことにしました。ところが、この番頭はぬけめのない男で、じいさまのお気に入りとなって店をきりまわすようになり、あるとき、じいさまからたんすのカギを預かったとき、こけら玉を盗み出すと、どこかへ消え失せてしまったのです。それからのじいさまは日に日に貧乏になり、とうとう元の貧乏じじいになってしまいました。

そんなある日、じいさまは、猫と犬をなでながらいいました。「長いあいだ、この家のために働いてくれたが、わしの油断から、おまえたちに食べさせるものもないような貧乏ったれになり下がってしまった。この家を出ていって、どこかで暮らしをたてておくれ」猫も犬もよく聞きわけて、しおしおと家を出ていきました。

猫も犬は、これもみんなあの上方から来た番頭のせいだと、番頭の足跡をかぎながらどこまでも行くと、上方の町に出て、やがて番頭の店にたどりつきました。なかなか繁盛しています。なんとか家の中に入ろうと、猫は台所へ入って、魚をくわえて逃げるまねをし、犬は猫を追いかけるふりをして魚をとりもどしました。この手柄で、犬はこの店の番犬に飼われ、猫もまた店のねずみをとるということで、いっしょに飼われることになりました。

そのうち、猫はねずみを1ぴき捕まえると「仲間を集めて、奥の小だんすの中にあるこけら玉を持ってこい。そしたら、お前たち一族の命を助けてやる」といいましたから、ねずみたちは小だんすをガリガリッとかじって中のうろこ玉を猫に届けました。まもなく、この店を抜け出した猫と犬は、じいさまの家をめざして行くうちに、大きな川へ出ました。すると、犬は「おれの背中に乗れ」と猫を背負い、猫はこけら玉をくわえて川を渡りました。向こう岸に着いたところ、一ぴきのきつねが出てきて「おいおい、あんたたちの持っている丸いものはなんだい? まりなら、まり投げして遊ばないか」と誘いをかけました。そこで三びきは、こけらら玉を投げ合って遊んでいるうち、きつねが受けそこね、大事な玉を川の中に落としてしまいました。

さぁ、こまりました。あわてて川の中をさがしましたが、玉は見つかりません。しかたなく猫と犬は、しょぼしょぼ、野を越え谷を渡って帰りかけました。すると、ある町に来かかると一軒の魚屋があります。店先に、たったいま捕まったばかりとみえる大きな魚がはねていました。「この魚でも、じいさまのおみやげにしてあげようよ」と、猫と犬はその魚をさらって逃げだし、じいさまの家にたどりつきました。

「おや、おまえたち、どこへ行ってた。よく昔のこと忘れないで、こんな大きな魚まで買ってきてくれたなぁ」と涙を流して喜びました。さっそく魚に包丁を入れると、どうもひとところだけ切れないところがあります。おかしいと包丁をねかせて身をそいでみると、腹の中からこけら玉がぽろり。「ありゃあ、なんたる手柄じゃ」じいさまが喜べば、猫も犬も大喜び。こけら玉のおかげで、じいさま一家は呉服屋をやっていたときよりも、もっと栄えましたとさ。


「3月28日にあった主なできごと」

1868年 ゴーリキー…「どん底」 「母」 などの作品を通し、貧しい人々の生活の中にある不安や、社会や政治の不正をあばくなど 「社会主義リアリズム」 という新しい道を切り開いたロシアの作家ゴーリキーが生まれました。

1876年 廃刀令…軍人・警察官・大礼服着用者以外、刀を身につけることを禁止する「廃刀令」が公布されました。これを特権としていた士族の不満が高まる原因となりました。

1930年 内村鑑三死去…足尾鉱毒事件を非難したり日露戦争に反対するなど、キリスト教精神に基づき正義と平和のために生きた思想家 内村鑑三が亡くなりました。

1979年 スリーマイル島原発事故…アメリカ東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で、重大な原子力事故が発生しました。国際原子力事象評価尺度 (INES) ではレベル5となっています。

今日3月27日は、明治時代の海軍軍人で、日露戦争の際、果敢な戦いと部下を思うあまりに戦死したことで「軍神」と神格化された広瀬武夫(ひろせ たけお)が、1904年に亡くなった日です。

1868年、豊後国竹田(現・大分県竹田市)に旧藩士の子として生まれた広瀬武夫は、幼いころに母親が亡くなったため祖母に育てられました。西南戦争の際、竹田の自宅が焼失したため一家で飛騨高山へ転居しました。1885年に海軍兵学校入校し、卒業後は軍艦「比叡」に乗船しました。やがて測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事しました。

1894年の日清戦争には海軍軍人として従軍し、翌年大尉に昇進。1897年にはロシアへの留学を命じられ、ロシアの社交界に接触して貴族社会と交わるようになりました。その後武官としてロシアに駐在し、1900年には少佐に昇進。その間、イギリス、ドイツ、フランスを視察して1902年に帰国しました。

広瀬が有名になるのは、1904年に始まった日露戦争においてでした。同年2月8日、日本海軍は旅順湾外にあったロシア艦隊に夜襲をかけたことで、戦争の火ぶたが落とされると、この攻撃に対し、ロシア艦隊は、機雷を敷設して旅順港にこもりました。日本海軍は、狭い水路に船を沈めて、艦隊を湾内に閉じ込める作戦(閉塞作戦)に打って出ましたが、ロシア軍の砲撃にさらされて失敗してしまいました。

第2回目の閉塞作戦が、福井丸を指揮した広瀬少佐でした。しかし、ロシア艦隊の猛火をあびながら湾内に進入するものの、魚雷の直撃を受けて自爆、沈没してしまいました。自爆後に乗員を点呼したところ、上等兵の杉野孫七がいないことに気づいた広瀬は、杉野を助けるため一人沈んでいく福井丸に戻り、船内を3度も捜索したものの姿は見つからず、やむなく救命ボートに乗り移ろうとした直後、ロシア軍の集中砲火の直撃を受けて戦死してしまいました。(死去後すぐに中佐に昇進)

5日後に、遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるのを発見され、ロシア軍によって手厚く埋葬されました。こうした死にかたは、軍人の鑑とされ、のちに「軍神」といいはやされました。1935年には、出身地の大分県竹田に広瀬を祀る広瀬神社が建てられています。また、下の文部省唱歌『広瀬中佐』(大和田建樹作詞・納所弁太郎作曲)は、長い間親しまれました。

1. 轟く砲音(つつおと)飛来る弾丸、荒波洗う デッキの上に、
  闇を貫く中佐の叫び 「杉野はいずこ 杉野は居ずや」

2. 船内くまなく 尋ぬる三度  呼べど答えず さがせど見えず、
  船は次第に 波間に沈み、敵弾いよいよ あたりに繁し

3. 今はとボートに移れる中佐、飛来る弾丸に 忽ち失せて、
  旅順港外 恨みぞ深き、軍神広瀬と その名残れど

この歌は、私の小学生時代にも「手遊び歌」や「手まり歌」として女性たちに親しまれていたことを、今もはっきり記憶しています。

なお、ロシア駐在中の広瀬は、ロシア海軍省機雷敷設の専門家アナトリー・コワリスキー大佐と知り合い、その娘・アリアズナと交際したことが知られています。司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』にも、広瀬武夫は準主役的に描かれ、二人の交際は、作品にロマンチックな色彩を与えています。武夫の戦死を聞いた彼女は、長い間喪に服したといわれています。


「3月27日にあった主なできごと」

1689年 芭蕉「おくの細道」へ出発… 松尾芭蕉 は弟子の河井曽良(そら)を伴ない、この日江戸・深川の庵を出て「おくの細道」の旅に出発しました。東北・北陸をめぐ旅の日数はおよそ150日間、『奥の細道』は、わが国紀行文学の代表的存在です。

1845年 レントゲン誕生…ドイツの物理学者で陰極線の研究中、物質を通りぬける放射線エックス線を発見したレントゲンが生まれました。

1933年 「国際連盟」脱退…国際連盟は2月24日の総会で、日本軍による満州建国を否認しました。日本はこの日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立し、戦争への道を歩みはじめました。

今日3月26日は、初代韓国統監を務めていた伊藤博文を暗殺した朝鮮の安重根(あんじゅうこん=アン・ジュングン)が、1910年に死刑になった日です。安は、当時の朝鮮を統治していた日本側からはテロリスト、支配されていた朝鮮(とくに韓国)側からは義士としてたたえられています。

1879年、黄海道の道都である海州の進歩的旧家の長男に生まれた安重根は、名士だった父を慕って学者や政治家が来訪する環境のなかでのびのびと育ち、やがて祖国の悲運を憂う青年に成長していきました。1905年に第2次日韓条約が結ばれ、朝鮮の国権が失われ日本の植民地化が決定すると、故郷を出て、上海など中国各地を視察しながら同志を求めました。

1907年に、韓国皇帝が日本の圧力で退位させられ、さらに軍隊が解散させられると、その動きに反対して日本と闘うために、江原道で義勇軍を組織しました。しかし戦いに敗れ、安は追われてカトリック教会にかくまわれ洗礼を受けてキリスト教に改宗、ロシアのウラジオストックに脱出しました。抗日闘争活動に身を投じながら12人の同志の獲得に成功した安は、300名の独立軍「大韓義軍」を結成、1909年6月、朝鮮半島北東部の国境地帯に進出して、日本軍兵営を襲撃しました。しかし、数十倍もの日本軍の反撃に敗れ、少数の同志とともに、ロシアに逃れ、再起の機会をうかがっていました。やがて、初代韓国統監として朝鮮を植民地化する中心にいた伊藤博文が、中国の東北地方を訪れるという情報を耳にした安は、同志3名とともに伊藤の暗殺を決意しました。

そして同年10月26日、伊藤博文が満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相と会談するためハルビン駅に着いた午前9時すぎ、群衆を装って近づいた安の放った銃弾6発のうち3発が命中、伊藤はおよそ30分後に死亡しました。安と同志3名はその場で逮捕され、日本の司法当局に引き渡されました。日本は、4人の身柄を旅順の監獄に入れ、裁判により安を死刑、他の3名には懲役刑をいいわたしました。

なお、太平洋戦争後に日本から解放された大韓民国政府は、安重根に建国功労勲章を追贈して、その栄誉をたたえています。


「3月26日にあった主なできごと」

1205年 新古今和歌集完成…後鳥羽上皇の命によって編まれた和歌集『新古今和歌集』がまとめられました。

1648年 柳生宗矩死去…江戸時代初期の武将で、将軍家のご流儀としての「柳生新陰流」をきわめた柳生宗矩(むねのり)が亡くなりました。

1827年 ベートーベン死去…『交響曲第5番』(運命)『交響曲第9番』(合唱)などの交響曲、『月光』『悲愴』などのピアノ曲のほか、管弦楽曲、歌劇、声楽曲など各方面にわたるかずかずの作品を残し、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされるドイツの作曲家ベートーベンが亡くなりました。

今日3月25日は、『海の幸』や『わだつみのいろこの宮』など、近代日本美術史上の傑作といわれる作品を生み出しながら、放浪の末に若くして病死した洋画家の青木繁(あおき しげる)が、1911年に亡くなった日です。

1882年福岡県久留米市に、旧有馬藩士の長男として生まれた青木繁は、高等小学校のときから絵を描くことに興味をおぼえ、級友だった坂本繁二郎(終生の親友でライバル)ととともに、近くに住む画家の手ほどきを受けました。坂本とは久留米中学時代も競い合いましたが、父親らが画家を志す繁を理解しないため、1899年満16歳の時に学業を放棄して、島崎藤村の『若菜集』を1冊たずさえて単身上京、画塾・不同舎に入って主宰者の小山正太郎に師事しました。中学時代から、文学、詩、短歌や俳句、哲学などに親しんできた青木にとって、中央の空気をふれることで当時のロマン的な文芸界の潮流をみずみずしい感覚で吸収していきました。

1900年、東京美術学校(のちの東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝や藤島武二の指導を受け、特に黒田から印象派風の自然描写を身につけ、やがて神秘的な独自の情感をこめた柔らかさを開拓していきました。『古事記』や『日本書紀』、古代インドの伝説などを題材に、自在に描いた一連の作品は、1903年秋の第8回白馬会に出品されると、この作品群は「第1回白馬賞」を受賞しました。師の黒田でさえその新傾向に感嘆し、魔術師的才能は、詩人の蒲原有明をとりこにしました。

そして、1904年に代表作『海の幸』(下の絵)が、秋の白馬会に出品されると、話題を独占しました。同年の7月半ばから9月はじめまで、青木は坂本繁二郎や恋人福田たねら4人で房総半島の先端にある布良(めら)海岸の漁村に滞在しました。太平洋の荒波にめげず、たくましく生きる漁民の生き方に心ひかれ、坂本や恋人(中央右・正面を見る美女)もモデルに描きました。このころが、青木にとって、もっとも充実した時期でもありました。

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『海の幸』は、画壇や評論家たちの絶賛にささえられて、青木の評価をはなばなしいものにしましたが、それは絵の上だけのもので、画学生としての生活のたしにはなりませんでした。一部に青木の才能をそねむ者もあらわれ、強烈な個性で放つ言動で、敵対者をよぶようになってきました。その後の父の事業の失敗、家族との不和、たねの妊娠と出産など、次々に生活を圧迫するできごとがおとずれました。そんな中でも、1907年、久しぶりの野心的『わだつみのいろこの宮』を完成させ、勧業博覧会に出品しました。この力作は、今では『海の幸』とともに、国の重要文化財に指定されていますが、当時の博覧会美術部の評価は低く、苦心にもかかわらず一銭の金にもならず、この作品に賭けてきた青木の精神的な大打撃となってしまいました。

さらに、父の死と多額の負債による家族の離散、たねと子との別れ、放浪のすえの肺結核の悪化が追い打ちをかけ、短い生涯を終えてしまいました。

なお、青木の作品他は、「オンライン画像検索」で見ることが出来ます。


「3月25日にあった主なできごと」

1499年 蓮如死去…親鸞が開いた浄土真宗の教えを、わかりやすい言葉で民衆の心をとらえ、真宗を再興させて「中興の祖」といわれる蓮如が、亡くなりました。

1872年 樋口一葉誕生…「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」などの名作を残し、わずか24歳で亡くなった作家 樋口一葉が生まれました。

1878年 初の電灯…この日中央電信局が開設され、その祝賀会でわが国初の電灯としてアーク灯が15分ほど灯りました。ただし、一般の人が電灯を見たのは4年半後に銀座通りにアーク灯がついてからでした。一般家庭で電灯がつくようになったのは1887年11月のことです。

1957年 EECの結成…EEC(ヨーロッパ経済共同体)は、この日、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク6か国の代表がローマに集まって、結成のための「ローマ条約」を結びました。1958年1月からEECは正式発足しましたが、その経済面での発展はめざましいもので、ヨーロッパ経済の中心となるばかりでなく、EC(ヨーロッパ共同体)、さらにEU(ヨーロッパ連合)となっていきました。

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