児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年02月

今日2月21日は、労働運動や農民運動の指導者で、「百科事典」の平凡社を創業した下中弥三郎(しもなか やさぶろう)が、1961年に亡くなった日です。

1878年、兵庫県中東部の今田村(現篠山市)に生まれた下中弥三郎は、幼いころに父を亡くしたため母の手で育てられ、小学3年のとき家業の陶器づくりの見習いとなり、12歳ころには一人前の陶工となりました。しかし、勉学心をおさえることができず、独学で小中学校の教員資格をえると、1898年神戸市の代用教員となり、やがて国語教育のエキスパートとなると1902年に上京、『児童新聞』を創刊したり、『婦女新聞』の編さんに携わるようになりました。

1911年、埼玉県師範学校教師の職をえると、仕事のかたわら『通俗菜根譚(さいこんたん)』などを著したり、1914にはポケット事典『や、此は便利だ』を成蹊社に持ちこみましたが、同社の倒産によりその紙型を譲り受け、妻の名義で「平凡社」を創設して出版、運よくベストセラーとなりました。「や、便」と略称されこの本が、新聞や雑誌にあらわれた新語や流行語などを解説した、いわゆる「日常用語事典」だったことは興味深いものがあります。しかし、下中が本格的に出版活動を開始するのは、1925年ころからでした。

その間、1919年には、日本初の教育団体「啓明会」を結成し、教育委員会制度、教員組合結成の促進などを要求した「教育改造の四綱領」を発表しました。さらに、全国労働組合総連合の提唱、農民自治会の組織化を行うなど先駆的な業績を多く残し、それらの行動の成果を『万人労働の教育』に著わして、教育は義務としてではなく、民衆のものに転換させる「学習権」を主張しました。

1923年に「平凡社」を株式会社として社長となった下中は、『尾崎行雄全集』(1926年)、『大西郷全集』(1927年)を刊行して本格的に出版に乗り出し、円本時代には『現代大衆文学全集』『世界美術全集』『社会思想全集』などを次つぎに刊行して経済的な基盤をつくり、1931~1935年には『大百科事典』を出版して、いちやく「百科事典の出版社」として著名になりました。

しかし、1930年ころから日本が中国へ侵出していくなかで、大亜細亜協会、新日本国民同盟などの創設にかかわり、1940年には大政翼賛会の発足に協力するなど、国家主義運動のリーダーとなっていきました。そのため、敗戦後には公職を追放され、1951年に追放解除とともに再び平凡社社長に復帰すると、『世界大百科事典』(1955~59年)など各種事典のほか、教育、文学、芸術、思想などの書籍を多数刊行しました。

いっぽう、下中の活動舞台は世界に広がり、世界連邦アジア会議準備委員長、1955年には世界平和アピール七人委員会を結成するなど、晩年は平和運動や世界連邦運動を推進し、83歳で亡くなるまで、ほとんど休みなく信念を貫き通しました。


「2月21日にあった主なできごと」

1911年 対米不平等条約改正…江戸幕府は1859年、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの間で通商条約を結びました。しかし、関税自主権がない上、領事裁判権を認めた不平等なもので、この改正が明治政府の課題でもありました。1894年に陸奥宗光外相がイギリスとの改正に成功していましたが、この日小村寿太郎外相はアメリカとの修正条項に調印。他国との条約も順次修正され、条約改正が達成されました。

1936年 美濃部達吉負傷…「天皇主権説」に対し、「天皇機関説」(まず国家があり、その後に天皇があり、その天皇は国家の代表として一切の権利を有する)を唱えた美濃部達吉が、天皇を絶対視する右翼の男に自宅で右足を撃たれ、重傷を負いました。

1942年 食糧管理制度…太平洋戦争がはじまり、主食が不足するようになったため、「食糧管理法」を公布しました。これにより、米・麦などを農民に供出させ、国民に配給するしくみを作りました。戦後も食糧は不足していたために、GHQはこの制度を続けるように命じ、1994年に「食糧法」が公布されるまで続きました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 73]

むかし、都のある町に、海産物の大問屋がありました。この店に、お梅という、山国育ちのとても働きもので気だてのよい若い娘が奉公していました。おしいことに器量のほうはよくないため、近所の若者たちから、山猿、山猿とからかわれていました。
 
ある日のことです。お梅が店先で掃除をしていますと、そこへひとりの乞食(こじき)がやってきて、「水を一ぱいもらえませんでしょうか」といいました。こころやさしいお梅は、「おやすいご用です」といって、その乞食にひしゃくに水を入れてあげて、飲ませようとしました。ところが、このようすを見ていた店のおかみさんは、「きたならしい乞食だね。とっとと失せとくれ」と、追い返してしまったのです。

それから、2、3日後の寒い朝のことです。お梅が水をくみに裏の井戸のところへくると、ボロをまとい、顔も体もきたなく汚れている男が 冷たい風から身を守るようにしゃがみこんでいました。よく見ると、このあいだの乞食です。「どうかしましたか?」とたずねると、「じつは腹がへって、ここんとこ何日も食べものにありつけないんです」といいます。お梅はすぐに「待っててください」というと、手に小さな包みを持ってもどってきました。「冷や飯だけど、腹の足しにはなるでしょう」と、男に包みを持たせました。男はびっくりしてものもいえずにいましたが、いきなり包みを開くと、あっというまに食べつくしました。お梅は、こんどは乞食を助けることができて、うれしく思ったのでした。

それから何日かたったころ、お梅は、あの男が、また井戸のそばにいるのを見つけました。「腹がすいてるの?」と聞くと、「あんたは、ほんとにいい人じゃな。だが、もうちょっと器量がよけりゃぁって、思ってないかな」それを聞いてお梅さんは、赤くなってうつむきましたが、すぐに顔をあげて、「あたしだって、もう少し器量がよかったら、きれいな着物をきてお店に出してもらえると思うもの。でも、ここで働かせてもらって、毎日飯が食えて、いろんなこと教えてもらって、ありがたいと思ってるんだ」「そりゃ、いい心がけだな」「そんなことより、おじさん、またお腹すいたら、ここにおいで」といって 店の中に入ろうとしました。

すると、男は「わしはちょっとばかり、あんたのために何かしたくなってきた。すまないが、桶に水をくんでくれないか」お梅は不思議そうに水をくむと、男はその水で顔を洗うようにいいました。顔を洗い終わると男は、腰に下げていた汚らしい手ぬぐいを差しだすと、「これで顔をお拭き」といいます。そして、これから7日間、朝晩、顔を洗うたびに、この手ぬぐいで顔を拭くようにいいました。「そうすりゃ、おまえさんにきっといいことがあるよ」というと、どこかへ行ってしまいました。

それから4、5日過ぎたころです。近所の若者たちのあいだで、「ぶきりょうな山猿娘」が、なにやら急にきれいになったといううわさが立ちはじめました。うわさを聞いた店のおかみさんが、お梅を見て、びっくりぎょうてん。「おまえ、なにかどこかで 新しいものでも使い始めたのかい?」とたずねました。お梅は、そういえばと、この間の乞食にもらった手ぬぐいの話をしました。するとおかみさんは、お梅からその手ぬぐいを取り上げると、さっさと自分のものにしてしまいました。そして、朝晩ばかりでなく、なんども顔を洗っては、あの手ぬぐいで顔を拭き続けたのです。

そのうち、「店の中に獣がいる」といううわさが立つようになりました。ときどき、台所や廊下や部屋に、獣の抜けた毛が落ちているのです。おまけに、おかみさんが見当たりません。そこで店の主人と番頭たちが 抜けた毛の跡をたどったところ、なんと、おかみさんの部屋へ続いています。主人たちはそっと、ふすまを開けて中を見たとたん、腰を抜かしてしまいました。部屋の中に、大きなキツネがおかみさんの着物を着て、汚い手ぬぐいで、いっしょうけんめい顔を拭いていたのです。

キツネ顔になったおかみさんが、たいそう悔やんでいることを聞いたお梅は、おかみさんの涙を、あの汚い手ぬぐいでぬぐってやりました。すると不思議ふしぎ、たちまち元の顔にもどり、夫妻を大喜びさせました。美しくなったお梅は、大店夫妻の養女に迎えられて、働き者のお婿さんをもらって店をきりもりし、都いちばんのお店に繁盛させました。


「2月20日にあった主なできごと」

1607年 歌舞伎踊り…出雲の阿国が江戸で歌舞伎踊りを披露、諸大名や庶民から大喝采をあびました。

1886年 石川啄木誕生…たくさんの短歌や詩、評論を残し、「永遠の青年詩人」といわれる石川啄木が生れました。

1928年 初の普通選挙…それまでの選挙権は、国税を3円以上おさめる成人男性に限定されていましたが、大正デモクラシーの勃興や護憲運動によって、納税額による制限選挙は撤廃され、25歳以上の成年男性による普通選挙が実現しました。

今日2月19日は、「明治憲法」の起草に参画し、明治・大正・昭和初期の官僚政治家として活躍した伊東巳代治(いとう みよじ)が、1934年に亡くなった日です。

1857年、肥前国(長崎県)町役人の子として生れた伊東巳代治は、幼いころから英語を学び、1873年に兵庫県の通訳官になりました。

1876年、伊藤博文に認められ、明治政府の工部省(産業の近代化と発展をはかるための役所)の役人になると、1882年に伊藤のヨーロッパ憲法調査に同行しました。帰国後は伊藤の秘書官として、井上毅・金子堅太郎とともに「大日本帝国憲法」(明治憲法)の起草に参画しました。

1885年に第1次伊藤内閣の際は総理大臣秘書官、1892年に第2次伊藤内閣の内閣書記官長となって議会工作に腕をふるい、特に自由党との関係を親密にしました。1898年の第3次伊藤内閣では、農商務大臣等の要職を務め、政党工作に力をふるうものの、板垣退助の入閣をめぐり、伊藤と自由党との板ばさみとなって辞任しました。

いっぽう1891年~1904年には、経営が傾いた東京日日新聞(現・毎日新聞)を買収し、在官のまま13年間社長となって、日清戦争から日露戦争にいたるまで、政府に有利となる論陣を張りました。1899年には、枢密顧問官となって天皇の諮問機関である「枢密院」で大きな影響力を持ちつようになり、1900年、伊藤の立憲政友会結成に際し、その準備過程には参加しながらも入党せず、しだいに伊藤と距離をおくようになりました。

それ以降の伊東は、およそ30年以上も政党外部に身を置きながら、ときおり政界の表面に登場し、「憲法の番人」を自任して官僚勢力のためにさまざまな画策を講じ、枢密院の重鎮として、昭和初期まで政界に影響力を保ちました。1927年、枢密院で台湾銀行救済緊急勅令案を否決させて第1次若槻礼次郎内閣を総辞職に追いこんだり、1930年のロンドン海軍軍縮条約締結時には浜口雄幸内閣を苦しめたのは、その一例です。


「2月19日にあった主なできごと」

1185年 屋島の戦い…源義経ひきいる源氏軍は、平氏のたてこもる屋島(現・高松市)が、干潮時には騎馬でわたれることを知ってわずかな兵で強襲を決意。この日、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけて一気に攻めこむと、平氏軍はろうばいして海上へ逃げ出しました。こうして、平氏は瀬戸内海の制圧権を失い、一ノ谷、壇ノ浦の戦いを経て、源平合戦の大勢が決しました。

1473年 コペルニクス誕生…宇宙が太陽を中心として回転しているという「地動説」を唱えた天文学者コペルニクスが生まれました。

1837年 大塩平八郎の乱…大坂(現大阪)で大坂町奉行所の元与力の大塩平八郎とその門人は、「幕府の役人の悪政や富商の莫大なもうけを攻撃する」と檄文をまき、多数の富商に火をつけ、大坂の2割を消失させました。乱そのものは小規模でしたが、江戸幕府の弱体ぶりを示した大事件でした。

1972年 あさま山荘事件… 連合赤軍のメンバー5人が、この日河合楽器の保養寮「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に10日間にわたって立てこもりました。

今日2月18日は、公卿出身の急進派として明治維新の実現につくし、明治政府の最高首脳の一人となった三条実美(さんじょう さねとみ)が、1891年に亡くなった日です。

1834年、三条実万(さねつむ)の4男として京都に生れた実美は、大老井伊直弼による「安政の大獄」で処分された父の遺志をついで、尊皇攘夷運動を主張する、急進派公卿の中心となっていきました。1862年、姉小路公知(きんとも)とともに江戸へおもむき、14代将軍徳川家茂へ攘夷の決行を促す孝明天皇の命を伝え、この年国事御用掛となりました。長州藩と密接な関係を持ち、翌年には、天皇の大和行幸を企画するなど、朝廷を攘夷論の方向へリードしました。

ところが1863年、公武合体派の公家や薩摩・会津藩らが連動したクーデター「八月十八日の政変」により朝廷を追われ、「七卿落ち」のひとりとして長州藩にかくまわれ、1864年の第一次長州征伐では、福岡藩へ預けられ、太宰府へと移されて、3年間の幽閉生活を送ることになります。しかしこの間に、薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の高杉晋作、坂本龍馬らとも時勢を語り合いました。

1867年12月の王政復古で表舞台に復帰した実美は、明治新政府の議定、右大臣といった最高位の官職を務め、1871年には太政大臣となり1885年に太政官制が廃止されて内閣制度が発足したことで、明治天皇を支える内大臣に転じました。温厚な性格だったため、あまり実権をふるえませんでしたが、政府内の対立を調停する役割をはたしたことは、評価されています。1873年の征韓論をめぐる政府内での対立では、西郷らの征韓派と、同じ公卿出身の岩倉具視や、大久保利通らの征韓反対派の板ばさみとなって、悩み苦しみ、病に倒れるほどでした。

1889年、黒田清隆内閣は、条約改正交渉が暗しょうに乗り上げたことで、外務大臣大隈重信が、国家主義者に爆弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生しました。黒田内閣は、1週間後の10月25日、全閣僚の辞表を提出しましたが、明治天皇は、黒田清隆の辞表だけを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに、内大臣の実美に内閣総理大臣を兼任させて、内閣を存続させました。のちにこの一時期は、「三条暫定内閣」と呼ばれています。


「2月18日にあった主なできごと」

1207年 法然と親鸞流刑に…『南無阿弥陀仏』と念仏をとなえれば、来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然と弟子の親鸞は、旧来の仏教宗派に念仏の中止を訴えられ、法然は土佐に、親鸞は越後に流されました。

1546年 ルター死去…ドイツの宗教家で、免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたルターが亡くなりました。

1564年 ミケランジェロ死去…レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロと並び、ルネッサンスの3大巨匠といわれる彫刻家・画家・建築家・詩人として活躍したミケランジェロが亡くなりました。

1930年 冥王星の発見…アメリカの天文学者トンボーは、存在が予測されていた冥王星を発見し、太陽系の一番外側を回る9番目の惑星とされました。しかし、2006年に国際天文学界は、惑星ではない「準惑星」に分類しました。

「おもしろ古典落語」の106回目は、『鶴(つる)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「こんちは、ご隠居さん」「ああ、八つぁんかい。おあがり」「おや? 床の間の掛けものが、変わりましたね」「ああ、これね。谷文晁(たにぶんちょう)という人の描いた鶴だ」「文鳥が鶴をかいたんですかい?」「妙なことをいいなさんな。谷文晁といって、円山応挙、狩野探幽とともに江戸時代の三大家といわれた人だ」「鶴ってぇのは、どうしてこんなに首がながいんでしょうかね」「八っぁんは、本居宣長(もとおりのりなが)っていう人を知ってるかね」「会えば、わかるかもしれません」「こいつは、おそれいったな。遠い昔の国学者だ。この人の書いた本に載ってるのだが、昔は、鶴といわずに『首長鳥』といったそうだ」「首長鳥? それがどうして鶴になったんです?」

「そのことが、本に書いてある。ある日、白髪の老人が、浜辺に立って沖を見ていた。すると、一羽のオスの首長鳥が、ツーッと飛んできて浜辺の松の枝にひょいと止まった。そのあとから、メスの首長鳥がルーッと飛んで、同じ松にひょいと止まった。それから、その鳥はツールー、鶴、とよばれるようになったとな」「なるほど、そいつはおもしろいな。あたしもやってみます」「よしたほうがいいよ。いくら宣長の本にあるったって、あまりにばかばかしい。ばかばかしすぎて、かえって忘れられなくなったくらいなんだから」

「辰兄ぃ、いる?」「ああ、八か。どうかしたか」「鶴って鳥を知ってるだろ」「知ってるよ、子どもだって知ってらぁ」「ところが、昔は鶴とはいわなかった」「へぇ、そうかい。じゃ、なんてったんだ」「首長鳥っていわれてましてね」「ああ、そうかい」「どうして首長鳥は、鶴になったのでしょう?」「どうでもいいよ」「いいよってことはないでしょ、わざわざ来たんだから」「じゃ、どういうわけなんだ」「そうこなくちゃね。昔、百八っつの老人がいた」「そんな年寄りがいたのか?」「いたんだ。女房にも、子にも孫にも先立たれて、寂しさのあまり、浜辺へやってきた」「身投げでもしようってのか」「そうじゃない、沖を見てた。するてーと、沖のほうから、オスの首長鳥が、飛んできた」「どうして、オスとわかった?」「あいさつしたんだ、オッスって」「ばかばかしい」「そのオスの首長鳥が、スーッとやってくると、浜辺の松の枝にひょいと止まった」「うん」「すると、今度は、メスの首長鳥が、スーッと飛んできて、同じ松の枝にひょいと止まった。それから、スースー? あれれ……」「ツルにならねぇじゃねぇか」「(ベソをかきながら)どうしたんでしょう。また来ます」

あんまりあわてたせいで、話の内容を忘れて失敗した八つぁんは、また隠居のところにもどって、もう一度由来を教えてもらいます。「しっかり覚えるんだよ。昔、白髪の老人が浜辺に立って、沖を見ていた」「あれっ、白髪ですか。あっしは、百八っつ、除夜の鐘って覚えちゃった」「変な覚え方をしたな。…一羽のオスの首長鳥が、ツーッと飛んできて浜辺の松の枝にひょいと止まった」「ああ、そうだ、ツーッだよ。あたしはスーッとやったもんで、わかんなくなっちまったんだ。ありがとうございました」

「辰兄ぃ!」「なんだ、また来たのか」「どうして、首長鳥がツルになったかというとね」「また始まったな」「ある日、白髪の老人が、浜辺に立って沖を見ていた。すると、一羽のオスの首長鳥が、ツーッと飛んできて浜辺の松の枝に、ルーと止まった」「なるほど、さっきとは、ちょっと違うな」「そのあと、メスが……ウ・ウ・ウッ」「うなってねぇで、どうした?」

「だまって、飛んで来た!」


「2月15日にあった主なできごと」

1564年 ガリレオ誕生…イタリアの物理学者・天文学者で、振子の等時性や落下の法則などを発見するなど、近代科学の父といわれるガリレオが生まれました。

1618年 河村瑞賢誕生…江戸の大火事の際、木曾の材木を買い占めて巨富を得、事業家として成功した河村瑞賢が生まれたといわれる日です。瑞賢は、東回り航路や西回り航路を整え、流通経済を発展させたことなどで知られています。

1877年 西南戦争はじまる…西郷隆盛は、私塾の生徒や明治新政府への不満をいだく士族ら1万数千人を率いて鹿児島を出発、熊本城を包囲しました。この乱は、「西南戦争」または「西南の役」などとよばれるわが国最後の内乱でした。戦争は9月24日まで続き、城山に籠城していた西郷らの切腹で終わりました。

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