児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2013年02月

「おもしろ古典落語」の108回目は、『帯久(おびきゅう)』という、お笑いというより人情噺の一席をお楽しみください。

江戸時代のなかごろ、日本橋本町四丁目に和泉屋(いずみや)与兵衛という、たいへん繁盛している呉服店がありました。隣町の本町二丁目には、帯屋久七が営む通称「帯久」という呉服屋がありましたが、これが流行らないため「売れず屋」とかげ口をたたかれていました。

ある年の3月、金に困った久七が、和泉屋与兵衛に20両の借金を申しこみました。こころやさしい与兵衛は、「無利息、無証文、あるとき払いの催促なしで結構、そのかわり、あたしが借りにいくこともあるかもしれない」といいながら、快く貸しました。帯久は20日後に返しましたが、5月には30両、7月には50両、9月には70両と貸りたものの、20日後には返済しました。11月には100両借りましたが、この月には返済がなく、年末の大みそか、多忙な時に返しに来ました。ところが、与兵衛が100両を受け取ったところ、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出しがきたため、あわただしく出かけたことで不用意にも金はそのまま、帯久ひとり座敷に残されました。すると久七に悪い心が兆し、これ幸いと100両をすばやく懐に入れると部屋を出て、奉公人には笑顔であいさつして帰りました。帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、女房や奉公人に聞いても、みな「知りません」という返事。確かな証拠もないので、自分の不注意とあきらめてしまいます。

久七は、この百両を利用して新年早々景品をつけて大サービス。これが評判になって「売れず屋」の帯久が、たちまち大繁盛。いっぽう「和泉屋」は不運にとりつかれたように、3月に一人娘が急病で亡くなり、これに気病みしたおかみさんが5月にぽっくり。これに追い打ちをかけるようにその年の暮れ、神田三河町の大火事で、店は全焼したことで、与兵衛はすっかり気力を無くし、床につくようになってしまいました。

忠義な番頭の武兵衛が分家して「和泉屋」を名乗りましたが、他人の保証人となったことが災いして倒産。今はうらぶれて、裏長屋住まいの身ですが、懸命に以前の主人を介抱するうち、十年の歳月が流れました。ようやく全快した与兵衛は、もうなにも望みはないものの、貧乏暮らしのなか、長年にわたって自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいものと、帯屋に金を借りに行きます。

昔の義理を感じて、善意で報いてくれるかもしれないという期待でしたが、当の帯屋は「今、こっちは裏に普請中でね、遊んでる金はない」「10年前、帯久さんがお困りの折、あたしは金をお貸ししましたよね」「それはすぐに、返しましたよ」「確かに返していただきました。最後に百両、お貸ししました」「それも、返したでしょう」「はい、しかし、その百両が紛失しましたのが、けちのつき始めで」「じゃ、なにかい。その百両をあたしが盗んだとでも、いいなさるのか」「いえ、そんなつもりはありません。『いつか、あたしが困った折には、拝借にあがります』といった覚えがあります」「おぼえてませんな。和泉屋さん、今のあなたには、金を借りたところで、返す力はないでしょう。返ってこないのを承知で、貸す馬鹿はありませんよ」「帯久さん、それはあまりにも不人情……」「和泉屋さん、帰ってもらいましょう」と、若い者2、3人に命じて、表へほうりだしました。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうと覚悟を決めて、最後となるはずの煙草をのみました。たばこの吸殻の火玉が転がって、かんなくずの山の中に落ち、煙が出始めましたが、与兵衛には気がつきません。落ちていた縄を拾って、松の枝にかけて、首をくくろうとしたとき、「かんなっくずっから火が出てるぞ」「この野郎だっ、腹いせに火つけをして、死のうってんだ」大騒ぎしているとき、町役人が通りかかり、与兵衛を取り押さえて自身番へ連れこみました。事情を聞いた町役人は与兵衛に同情し、不問にした上、1両の金をみんなで出し合って家に返してやりました。

近所の噂から、このままだと、百両を盗んだことが暴かれるのを恐れた帯久は、先手を打って『与兵衛が火付けをしました』と、南町奉行所に訴え出ました。これにより、与兵衛は火付けの大罪でお召し捕りとなり、名奉行・大岡越前守さまのお裁きとなります。

下調べの結果、帯久の業悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた越前守は、お白州で、「その方、大みそかで間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで、来春にでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れて、10年経ってしまったのではないか」「あたしは返したものを、また懐へ入れるようなことはいたしません」「さようか。いたしかたあるまい。右手の中指と人さし指を出せ」。越前守は、2本の指を細い紙でぐるぐる巻きつけ、糊で貼り、判を押して封印しました。「これは、なんでございます?」「忘れたことを思い出すまじないじゃ。封印を切った折は、そのほう打ち首といたす。家へ帰って思い出せ」

帯久は家に帰ったものの、紙が破れれば首が飛ぶというので、指が使えません。毎日おむすびばかり。風呂に入ってもぬらすと破けますから、右手を高く上げたまま、寝る時も、ふとんから手を出したままです。3日もすると音を上げて出頭し、まだ返していないと白状しました。

ふたたび、白州に両人が呼び出されました。「久七、よう思い出した。ならば、百両は与兵衛へ返済いたすのじゃな」「はい、百両はこれにございます」「うん、これは元金。利息はいかがいたした?」「あの折、たしか『無利息』でいいと」「あの折は、そういったかもしれぬ。しかし、その後、与兵衛は焼け出され、寝たきり同然の病人となってしまったのじゃ。利息をつけてやらねばと思わぬか?」「わかりました。利息は払います」「では、いかほどじゃ」「年六分、6両をお支払いいたします」「あいわかった、10年で60両だな。その代わり、即金でなくともよいぞ」「分割でよろしゅうございますか?」「では、年に1両ということで」「年に1両ずつ、60年かけて払うか。かまわん、さよういたせ」

火付けの与兵衛には火あぶりの刑の判決でしたが、ただし60両の残金を全て受け取ってから執行とのお裁き。驚いた帯久がそれなら、すぐにでも60両出すといいましたが、越前にどなりつけられて、しぶしぶ納得したのでした。「与兵衛、その方何歳になる?」「六十でございます」「還暦か…本卦帰り(本家帰り)じゃのう」

「今は分家の居候でございます」


「2月28日にあった主なできごと」

1533年 モンテーニュ誕生…名著『随想録』の著者として、今も高く評価されているフランスの思想家モンテーニュが生まれました。

1546年 ルター死去…免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたドイツの宗教家ルターが亡くなりました。

1591年 千利休死去…織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成し、茶道を 「わび」 「さび」 の芸術として高めた千利休が、秀吉の怒りにふれて切腹させられました。

1638年 天草四郎死去…島原・天草地方のキリシタンの農民たちは、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年天草四郎を大将に一揆を起こしました(島原の乱)。島原の原城に籠城して3か月余り抵抗しましたが、幕府の総攻撃を受けて、四郎をはじめ37000人が死亡しました。

1811年 佐久間象山誕生…幕末の志士として有名な吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟らを指導した開国論者の佐久間象山が生まれました。

1972年 「浅間山荘」強行突入…連合赤軍のメンバーが19日に軽井沢にある「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもっていましたが、この日機動隊が強行突入、激しい銃撃戦の末に人質を解放して犯人5名を逮捕、隊員2名が殉職しました。突入の様子はテレビで生中継され、視聴率は総世帯の9割近くにも達し、今なおこの記録は破られていません。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 74]

むかし、ギリシャのテーベという国に、ライオスという王さまがいました。ある日王さまは、アポロンの神さまのお告げを受けました。それは、「こんど生れる王子に殺されるだろう」というものでした。驚いたライオス王は、生れたばかりのわが子を、一人の羊飼いに渡し、殺してくるように命じました。羊飼いは王子を抱いて城をでましたが、腕に抱かれた赤ん坊を見ると、かわいそうで、とても殺す気にはなりません。そこで山奥に入り、木の枝につるして城にもどり、命令通り、殺してきたと王さまに告げました。

王子は運よく、通りかかった人に救われました。やがて、子どものいなかったコリントス王の手にわたり、オイディプス王子として大事に育てられました。王子は、自分が捨て子だということは知らず、りっぱな若者に成長します。でも、コリントス王の実子ではないといううわさに悩み、アポロンの神さまのお告げを聞こうと、旅に出ました。

その旅の途中のことです。馬車に乗った王子が、とある狭い道にやってくると、むこうからひとりの老人と従者の乗った馬車がやってきました。どちらかが、引き返して道をゆずらなくては通れません。するとむこうの従者が、王子にもどるようにいうのです。王子が拒否すると、いきなり従者は、王子の馬に斬りつけました。怒った王子は、老人と従者を殺してしまいました。この老人こそ、ライオス王でした。神のお告げが的中したばかりか、アポロンの神に「おまえは、実の母と結婚することになるだろう」と告げられたのです。

そのころ、テーベの国の人々は、恐ろしい怪物に悩まされていました。それはスピンクス(スフィンクス)といって、人間の顔をしているのに、ライオンのような身体をした怪物です。それが、道端に座りこんでいて、通りかかる人になぞをかけ、とけなければ殺して食べてしまうのです。毎日、たくさんの人がなぞを解けずに、殺されました。

この話を聞いたオイディプス王子は、スピンクスを退治しようとやってきました。スピンクスはさっそく、「朝は四本足で、昼は二本足、夜に三本足で歩くのはなんだ?」となぞをかけました。「それが、おまえのなぞか? 人間じゃないか」「どうして人間なのだ」「人間は赤ん坊のときは両手両足を使って四本足で歩くが、すこし大きくなると二本足で歩く。歳をとれば、杖をついて歩くから三本足だろう。もっと、むずかしいなぞを出せ」そういわれたスピンクスは、谷に身を投げて死んでしまいました。

王を失ったテーベの人びとは、スピンクスのなぞを解き、これを退治した者を、王の妃イオカステの夫としてテーベの国王にするというお触れを出していました。そこで、オイディプスは約束どおり王位について、イオカステを妻としました。こうして、アポロンの神の予言は、すべてその通りになったのでした。

オイディプス王とお妃のあいだには、二男二女が生れましたが、おそろしい飢きんや、はやり病がおこって、たくさんの人が死にました。 この原因はなにかを、アポロンの神にたずねると「国内にいるライオス殺しの犯人を突き止め、これを追放せよ。もしくは殺して罰せよ」というものでした。

オイディプス王は、熱心に探索をはじめたところ、やがて、まさに自分自身が、その恐ろしくも忌まわしいけがれの元であることがわかりました。 真相を知った妃のイオカステは、それを恥じて自殺しました。オイディプス王は、激しい心の苦しみの果てに、みずから両目をつぶして放浪の旅に出たあげく、みじめな一生を終えたのでした。


「2月27日にあった主なできごと」

1876年 江華条約の締結…鎖国をつづける朝鮮に国交を求めていた明治政府は、前年に日本の軍艦が朝鮮の江華島付近で砲撃を受けたのに対し、猛反撃を加えました(江華島事件)。この日更なる圧力をかけて江華条約を締結させ、念願の朝鮮開国を実現させました。この条約は釜山・江華港を貿易港として開港、朝鮮海航行の自由、江華島事件の謝罪など、日本優位の不平等条約で、日本の朝鮮侵略の第1歩となりました。

1933年 ドイツ国会議事堂炎上…この日の夜突然、首都ベルリンの国会議事堂が燃え上がり、ヒトラー はこれを共産党員のしわざだとして、共産党員をすべて逮捕し、間近にせまった選挙に出られなくさせました。このため、ナチス党は選挙を有利に進め、独裁の足がかりとしました。

1936年 パブロフ死去…消化腺と条件反射の研究で、ノーベル賞を受賞したロシアの科学者パブロフが亡くなりました。

今日2月26日は、兄の足利尊氏のおこした室町幕府創生期には政務の実権を握ったものの、やがて兄と対立して敗れた足利直義(あしかが ただよし)が、1306年に生れ、1352年に亡くなった日です。

足利尊氏と同母の弟として生れた足利直義は、1333年、後醍醐天皇が幽閉先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、尊氏とともにこれに味方し、六波羅探題(京都にあった鎌倉幕府出先機関)攻めに参加して滅ぼし、いっぽう新田義貞は鎌倉を攻めて鎌倉幕府は滅亡しました。

後醍醐天皇による「建武の新政」では、直義は左馬頭(さまのかみ)相模守という重職に任ぜられ、鎌倉にくだって関東を治めました。1335年に北条高時の遺児である北条時行が反乱をおこすと、苦戦を強いられ、幽閉されていた護良親王を混乱の中で殺害しました。その後天皇に無断で応援にかけつけた尊氏と合流することで、なんとか反乱軍から鎌倉を奪還しました。建武政権は、尊氏追討令を出し、新田義貞を大将とする追討軍が派遣されると、箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破って、新田軍を追って京都へ進撃しました。

ところが、翌1336年に陸奥国から上洛した北畠顕家や楠木正成、新田義貞らとの京都市街戦に敗れて、九州へ敗走しました。数か月で勢力を整えた尊氏軍は、直義をいっぽうの大将として京をめざし、「湊川の戦い」(現神戸市)で新田・楠木軍を破って再び入京すると、尊氏は光明天皇を擁立し、建武式目を制定して室町幕府を成立させました。

1338年、尊氏は征夷大将軍として軍事を、直義は政務担当として、二頭政治を行い「両御所」といわれました。しかし、しだいに直義の権力が増大すると、1348年ころから尊氏の家来の高師直(こうのもろなお)と対立するようになり、幕府は直義派と反直義派に割れ、後醍醐天皇が打ちたてた南朝も混乱に乗じて勢力を強めるようになりました。1349年、師直は直義を襲撃すると、直義が出家して政務から退くことを条件に和睦しました。

翌1350年、尊氏が中国地方へ遠征した留守に乗じて、京都を脱出した直義は、師直を討伐しようと対立関係にある南朝と通じたことで、北朝は直義追討令を出しました。南朝の力を得た直義は、尊氏勢を圧倒して高一族を滅ぼし、尊氏と和解しました。しかし、二人の和平は半年とつづかず、南朝から直義追討令が出ると、直義は京都を脱して北陸、信濃を経て、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を集めました。ところが、駿河国、相模国などの戦いで尊氏に打ち破られ、延福寺に幽閉された直義は、1352年に急死しました。尊氏に毒殺されたともいわれています。


「2月26日にあった主なできごと」

1609年 琉球征伐…薩摩藩の藩主島津家久は、この日大軍を率いて琉球王国に攻め入り、4月までに征伐しました。当時琉球王国は、中国や東南アジアと日本を結ぶ中継貿易で栄えていましたが、これを薩摩藩が独占することになりました。

1802年 ユゴー誕生…フランス文学史上屈指の名作といわれる『レ・ミゼラブル』を著わした作家のユゴーが生まれました。

1815年 ナポレオンがエルバ島脱出…ヨーロッパ同盟軍に破れ、エルバ島に流されていたナポレオンは、この日の夜7隻の船に大砲を積みこんで島を脱出、皇帝に返り咲きました。しかし「100日天下」に終わり、セントヘレナ島に幽閉され、その地で亡くなりました。

1936年 2・26事件勃発…陸軍の青年将校ら1400人が首相官邸などを襲撃する事件が起きました。

今日2月25日は、400年ほど前ドイツとフランス間で戦われた三十年戦争期の「神聖ローマ帝国」(ドイツ)皇帝軍総司令官として活躍したワレンシュタインが、1634年に暗殺された日です。

1583年、ボヘミア(チェコ西部)ドイツ系プロテスタントの小貴族の家に生まれたアレブレヒト・ワレンシュタインは、カトリックに改宗してイタリアのパドバ大学に遊学後、オーストリアのハプスブルク家の傭兵として仕えました。

1618年にボヘミアのプロテスタントが反乱をおこすと、ワレンシュタインは神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に味方して、1620年に反乱軍を鎮圧しました。これは、ドイツの人口が3分の1に減ったといわれる「三十年戦争」(1618-48年)のはじまりで、主としてフランスのブルボン家と、神聖ローマ皇帝・オーストリアのハプスブルク家の対立と、カトリックとプロテスタントの対立が複雑にからみあって長期化した凄惨な戦争でした。

ワレンシュタインは皇帝の許しをえて、プロテスタントの領土を没収したり売買することで、ボヘミアでも有数の大貴族にのし上がりました。1620年から1623年にかけては、軍資金不足の皇帝に資金融資や私兵を提供したことで、北ボヘミアに広大な領土を獲得すると、フェルディナント2世側近の娘と結婚して宮廷にも足がかりを築きました。

1625年、皇帝軍総司令官に任命されたワレンシュタインは、自分の資金を使って集めた3万の兵を率いて北ドイツへ出兵、プロテスタントを擁護するためにドイツに侵入してきたデンマーク王クリスチャン4世軍と戦い、「デッサウの戦い」他で撃破、この功績によりさらに領土を広げました。1628年にワレンシュタインは、ドイツへ再上陸してきたクリスチャン4世を「ボルガストの戦い」で破り、翌1629年のリューベックの和約で、デンマークをドイツから締め出すことに成功しました。これにより、表だって反抗するプロテスタントがなくなり、フェルディナント2世とワレンシュタインの権力は絶頂期に達しました。

しかし、免奪税などの税制度を勝手にこしらえて占領地から取り立てたり略奪行為などを、ブランデンブルク選帝侯ら旧来の帝国諸侯から、フェルディナント2世へ直訴が繰り返され、ボヘミアの小貴族に過ぎないワレンシュタインが、一気に皇帝軍総司令官に成り上がったことも反感を買いはじめていました。

1629年フェルディナント2世は、プロテスタントの勢力削減や諸侯の軍事力を制限して、ハプスブルク家の絶対君主制確立を企て「復旧令」を発布しました。ところが、プロテスタント・カトリック双方から反対の声が上がり、ブランデンブルク選帝侯ら選帝侯たちは「復旧令」の撤回と「ワレンシュタインの罷免」を要求、フェルディナント2世は窮地に立たされました。

そして1630年、ワレンシュタインはフェルディナント2世に総司令官を罷免されてしまいました。同年、スウェーデン王グスタフ・アドルフがプロテスタント諸侯とフランスの支援を受けて北ドイツに上陸、後任の司令官が苦戦を強いられたことで、1632年にワレンシュタインは、再び起用され、輝かしい成果をあげました。しかし、かつてのように自らきたえあげた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、独自に講和を結ぼうとしたことで反逆の疑いをかけられ、ワレンシュタインをねたんだ皇帝軍の将校に暗殺されてしまったのでした。

なお、ドイツの作家シラーは、代表作となる戯曲『ワレンシュタイン』を著わしました。ワレンシュタインが皇帝への反逆を決め、暗殺されるまでの三日間を通して、英雄の野心と没落を描いた歴史劇の傑作とされています。


「2月25日にあった主なできごと」

903年 菅原道真死去…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者 菅原道真が亡くなりました。

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の藤原道長は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

1841年 ルノアール誕生…フランスの印象派の画家で、風景画や花などの静物画から人物画まで、世界中でもっとも人気の高い画家の一人ルノアールが生まれました。

1953年 斉藤茂吉死去…写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった斎藤茂吉が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の107回目は、『初音(はつね)の鼓(つづみ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

骨董好きな殿さまのところへ、出入りの道具屋があやしげな鼓を売りこみにきました。家老の三太夫が応対します。「道具屋の金兵衛か」「どうもご無沙汰いたしまして」「あー、おまえはご無沙汰したほうがいい」「はぁっ?」「いつもわけのわからないものばっかり売りつけおって、困ったもんだ」「なにか、変なのがありましたか?」「あったなんてもんじゃない。加藤清正の使った弁当箱、吉良上野介の隠れていた炭俵とか、ろくなものがない。小野小町のおまるというのもあったが、あれもおまえか」「へェ、さようでございます」「さようでございますではないぞ。このあいだも、なんか桐の小箱があるんで『これは何でございますか』と殿にお聞きしたら、『ノミの金玉の八つ裂きが入ってる』っていわれるが、なにも見えないではないか」「へぇ、手前にも見えません」「おまえに見えないものを売るやつがあるか。何かもっと変わった、ちゃんとそれらしい物を持ってこい。きょうは、何を持ってきた」

「へえ、鼓でございます」「鼓? ほぉ、何の」「初音の鼓でございます」「それは珍しい。源義経が静御前に賜ったという、あの、由緒ある…」「ええ、それでございます」「本物か」「いえ、偽物でございます」「にせもの?」「本物があるわけがございません。正真正銘の偽物です」「その偽物の鼓を、おまえ、いくらで殿に買い上げてもらうつもりだ」「百両」「百両? おまえ気でも違ったんじゃないか」「えへへ、ですからね、初音の鼓なんでございますから、百両で買っていただくと、あたしが助かるんで」「おまえが助かっても、うちの殿が困るではないか、折り紙でもあるのか?」「折り紙はございませんが、初音の鼓の証拠には、ポンとたたいたときに、そばにいるものに狐が乗り移りまして、思わずこれがコンと鳴きます」「ほぉ、鳴くのか?」「鳴きません。ですから、殿が本当かといって、ポンと打つと、あなたが、コンと鳴くんで」「やだよ、そんなことするのは」「やってもらわないと困るんですよ」「おまえが困ったって、わしはいやだよ。そんなバカバカしいことができるか。帰りな」「ただでは頼みませんよ。ポンと打ってコンと鳴いてくだされば一両、ひと鳴き一両さしあげます」「するとなにか? 殿がポンと打って、わしがコンと鳴くと一両?」「はい」「殿がポンポンポンと三っつ打てば」「あなたがコンコンコンと三っつ鳴くと、三両です」「殿がポンポンポンポン、スポポンポンと七つ打つと……」「あなたが、コンコンコンコン、スココンコンと七つ鳴いて七両です」「まぁ、取り計らってやろう」「……ひとつよろしくお願いいたします」

「殿、道具屋の金兵衛が見えておりますが」「ほー、さようか。苦しゅうない。これへ参れ。また何か変わったものを持参いたしたか?」「えー、初音の鼓を持って参りました」てなわけで、話を聞いた殿さまが鼓を手にとって「ポン」とたたくと、側で三太夫が「コン」。「これこれ、そちはただ今、コンと申したが、いかがいたした」「はあ? 前後忘却、一向にわきまえません」「ポンポン」「コンコン」「また鳴いたぞ」「前後忘却、一向に」「ポンポンポン」「コンコンコン」……「コンコンコンコン」「これ、鼓はとうにやめておる」「はずみがついたようで、ゼーゼーゼー…いささか疲れました(一言、殿に耳打ちします)」「あい、わかった。それでは、次の間で休息せよ」ということになりました。

「ははっ、お疲れさまでございます」「お疲れさまではないぞ、おまえ、驚いたよ、えっ? あー続けてくるとは思わないからなぁ。ポンポンポンポン、コンコンコンコン鳴いてる内に喘息がおきてな。なんとか鳴かなきゃいかんと思うから汗はかくし、息が詰まるしどうなるかと思った。いくつ鳴いたかわからんぞ」「へ、ちゃんとこちらはわかっておりますから、大丈夫でございます。……お殿さまがお呼びだそうですから、ちょいと行ってまいります」

「これへ参れ。たいそう気に入った。この鼓は、かたわらにおる者に狐が乗り移ってコンと鳴くのだな?」「はっ、さようでございます」「ん、しからばそのほう、鼓をたたいてみよ」「いやーっ、手前はとんと鼓をたしなみませんで」「いやいや、謙そんするには及ばん。鼓を打ってみよ」「それではたたいてみます。ポン」「コン」「殿、いかがいたしました?」「いや、わきまえぬ」「ポンポンポン」「コンコンコン」「殿、わたしがポンポンポンと三つ打ちますと、コンコンコンとお鳴きあそばしました」「いや、前後忘却である」「ポンポンポンポン、スポポンポン」「コンコンコンコン、スココンコン」「スッポンスッポン、スッポンポン」「コンコンコンコン、スッコンコン」「恐れ入りましてござりまする」「んーん、名器であるな。まさしく初音の鼓に相違ない。ん、して、百両であったな、とらせるぞ」「ありがたき幸せにございます……えっ、殿様、これはあの、一両でございますな」「ん、さようだ」「あのー、初音の鼓は百両にござりまするが……」  

「あー、それでよいのだ。余の鳴いたのと三太夫が鳴いたのが差っ引いてある」


「2月22日にあった主なできごと」

622年 聖徳太子死去…推古天皇(叔母)の摂政として、「17条の憲法」「冠位十二階」の制定など、内外の政治を立派に整えた飛鳥時代の政治家 聖徳太子が亡くなりました。

1732年 ワシントン誕生…イギリスからの独立戦争で総司令官として活躍し、アメリカ合衆国初代大統領となったワシントンが生まれました。

1848年 フランス2月革命…フランスの首都パリで、選挙改革を求める集会が禁止されたことに抗議した労働者や学生がデモ行進やストライキを行ったことで、国王が退位して、第2共和制がスタートしました。革命はヨーロッパ各地に伝わり、ナポレオンの失脚後の「ウィーン体制」(1789年のフランス革命以前の状態を復活させる) の崩壊につながりました。

1989年 吉野ヶ里遺跡…佐賀県にある「吉野ヶ里」の発掘調査の結果が発表され、国内最大規模の弥生時代の環濠(かんごう)集落と大々的に報道されました。

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