児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年12月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 64]

むかし、ある国にとても美しい王女がいました。今日は、その王女の結婚相手を選ぶ日です。王女と結婚したいと思う王さま、王子、公爵、伯爵、男爵ら貴族たちが一列に並ぶと、王女は、それぞれの人の前に案内されました。ところが、どの人にも難くせつけます。1人目はあんまり太っていたので「酒樽」と呼びました。つぎの人は背が高すぎると「ひょろひょろのっぽ」、3人目は背が低すぎて「ちびでぶ」、4人目は顔色が青いので「青びょうたんの死神」、5人目は顔が赤過ぎるので「とさかのオンドリ」、6番目は体が少し曲がっていたため「ストーブで乾かした生木」といいました。とりわけ、気だてのよさそうな王さまには、特にはしゃいでからかいました。あごがすこし曲がっていたからです。「あのお方は、つぐみのくちばしみたいなあごをしているわ」と叫んで笑ったので、その時からこの王さまは「つぐみひげ」という名前をつけられてしまいました。ところが年老いた王さまは、王女がみんなをさげすむばかりで、「ここには、私の相手になるような人は、ひとりもいないわ」といったことに腹を立てました。そして、(こんど、いちばん始めに城にやってきた乞食を、えり好みせずに王女の嫁にやる) と心にちかったのでした。

それから、2、3日したある日のことです。ひとりの旅芸人が、少しのお金を稼ごうとお城の門の前で歌いはじめました。王さまはそれを聞くと、「あの男をこちらに呼びなさい」といいました。さっそく、ボロボロの服を着た旅芸人は、王さまと王女の前で歌い、歌い終わると「どうか、お恵みを……」といいました。すると王さまは「歌がたいそう気にいった。ここにいる娘をおまえにあげることにする」「えっ、お姫さまを…でございますか?」「わたしはいやよ、こんな汚い人なんか」王女はさけびましたが、王さまの気持ちは変わりません。牧師が呼ばれ、王女は否応なしに旅芸人と結婚させられ、王さまは「もう、この男の妻となったのだから、わしの城にいることは許さない。この男といっしょに出ていくがよい」と、追い出しました。

こうして王女は、旅芸人と二人で森や町を歩きつづけるうち、美しい国につきました。森と湖にかこまれたりっぱなお城もあります。「ここは、どこの国なの?」「つぐみひげの王さまの国だ。この国のお妃になるお方は、幸せだろうな」それを聞くと、王女はそっと涙を隠すのでした。やがて旅芸人の小屋に着きました。「このみすぼらしい家はだれのものなの?」「これがおれとおまえの家だよ。ここでいっしょに暮らすのだ」「召し使いはどこにいるの?」「召し使いだと? ここではな、してもらいたいことはなんでも自分でやらなきゃならない。さぁ、すぐに火をおこして湯をわかし、おれの食べものをこしらえろ。おれはすっかり疲れた」でも王女は、生まれてこのかた家事などしたことがありません。しかたなく男は、どうにか自分で粗末な食事をこしらえ、床につきました。

翌朝早く、男は王女をベッドから追い出し、家事をやらせました。失敗の連続にあきれましたが、たくわえもなくなったため、男は王女にカゴを作れと、柳を切ってきました。王女はかごを作り始めましたが、かたい柳は王女のかぼそい手を刺してケガをさせました。「こりゃだめだ、それより糸を紡げ」と男はいいました。王女は糸を紡ぎはじめましたが、まもなく固い糸で柔らかい指を切ってしまい、血がしたたりおちました。「おまえは何の仕事にも向かないな。嫁にして損したよ。こんどはためしに、壺やせとものの商いをしよう。おまえは市場で品物を売るんだ」。(ああ、どうしよう。もしお父さまの国の人たちの誰かが市場に来て、私がそこで商売をしているのを見たら、どんなにばかにするだろう)と王女は思いましたが、そんなことは無駄なことで、飢え死にしたくなければ従うしかありませんでした。

ところが、初めて王女はうまくできました。王女が美しかったので人々は喜んで品物を買い、言い値でお金を払ってくれたからです。それどころかお金だけを渡して壺を置いていく人さえたくさんいました。こうして、もうけが続くかぎり二人はそれで暮らし、男は新しい品物をたくさん買いこみました。

そんなある日のことです。とつぜん、酔っぱらって馬に乗った軽騎兵が、並べた壺の間に乗り入れたため、壺はみんな粉々になって壊れてしまったのです。王女は泣きだしました。「ああ、どうなるのかしら? あの人は何ていうだろう?」家へ走り帰り、男にこの不運なできごとを話しました。「泣くのはやめろ。お前が普通の仕事ができないのはよくわかった。そこでおれは、王さまの宮殿へ行って、台所の女中の仕事はないかとたずねてみたんだ。そしたら、おまえをやとってくれる約束をしてくれた。おまえは、ただで食べさせてもらえることになったんだ」 こうして、王女は台所の女中になり、料理人の手伝いというつらくて汚い仕事をすることになりました。両方のポケットに小さな壺を入れ、残りものをそれに入れて家へ持ち帰り、これを食べて二人は暮らすようになったのです。

たまたま、王さまの長男である王子の結婚式が行われることになりました。王女は、広間の入口に立って見物しようと思いました。いよいよ灯りがともされ、ひときわりっぱな男性が入ってきました。そこらじゅうがきらびやかに輝くと、王女は、悲しい心で自分の運命を考えました。こんないやしい身分になり、ひどく貧しくなったのも、もとはといえば、自分が高慢でわがままだったことを呪ったのです。おいしいごちそうが持ち込まれ、その匂いが王女のところにもとどき、召し使いたちはときどき、ごちそうのかけらを王女のほうに投げてくれました。王女はそれを壺に入れ、家へ持ち帰ろうとしました。

そのとき、突然王子が入ってきました。ビロードと絹の服を着て首に金のくさりをかけていました。王子は、美しい女が戸口のそばに立っているのを見ると、手をつかみ、踊ろうとしました。しかし、王女は驚いてことわりました。というのは、その王子が以前、自分に求婚してきた「つぐみひげの王さま」だとわかったからです。しかし、さからってもだめでした。王子は王女を広間へ引っぱっていきました。するとポケットにぶら下げていたヒモが切れて、壺が落ち、スープが流れ出して、食べもののかけらがあたり一面に飛び散りました。みんなはこれをみると、どっと笑い声が起こりました。王女ははずかしくて、穴があった入りたいほどでした。女は戸口から飛び出して逃げようとしましたが、階段でひとりの男に追いつかれ、連れもどされました。その男をみると、やはり「つぐみひげの王さま」でした。

「こわがらなくていいよ。私は、あのひどいあばら家でいっしょに暮らしている男と同じ人間なんだ。おまえのために、変装していたのだよ。おまえの壺の間に馬を乗り入れて、こなごなにした軽騎兵も私だよ。それもこれも、おまえの高慢ちきな心を謙虚にさせ、私をあざ笑ったわがままな根性を罰するためだったんだ」といいました。

すると王女は激しく泣いて、「私はまちがっていました。あなたの妻になる資格などありません」というと、つぐみひげの王さまは、「安心しておくれ、悪い日々は過ぎたよ。さあ、私たちの結婚式を祝おう」といいました。それから侍女たちがやってきて、王女にきらびやかな服を着せました。王女の父親の王さまや家来たちもきていて、つぐみひげの王さまとの結婚を祝福したのでした。

あなたも、その場にいられたらいいなって、思いませんか。


「12月6日にあった主なできごと」

1700年 徳川光圀死去…徳川家康の孫で、「水戸黄門」の名でしたしまれた第2代水戸藩主の徳川光圀が亡くなりました。

1839年 水野忠邦の老中就任…浜松藩主だった水野忠邦が老中筆頭となりました。11代将軍家斉が亡くなると、忠邦は幕政改革「天保の改革」を行ないました。側近たちを退け、商業を独占する「株仲間」の解散、ぜいたくの禁止など、あまりに厳しい改革に民心は離れ、成功とはほど遠いものに終わりました。

今日12月5日は、会津藩第9代藩主で、京都守護職として幕末の激動の6年間を京都の守護にあたるものの、王政復古後の「戊辰戦争」に敗れた松平容保(まつだいら かたもり)が、1893年に亡くなった日です。

1836年、美濃国高須藩主の6男として江戸藩邸に生まれた容保は、1846年に叔父の会津藩8代藩主の養子となり、1852年に23万石の家督を継ぎました。ペリーが再度来航した年のことで、容保は開国やむなしときっぱり明言するほど、傑物としての評価が高まっていきました。1860年、大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の後に幕府に招かれた容保は、攘夷にはやる水戸藩と幕府を和解させることにつとめるうち、幕政に参加するようになりました。

1862年9月、越前藩主松平春嶽らの強い勧めで、京都守護職に就任した容保は、会津藩兵を率いて上洛しました。当時の京都は、尊王攘夷をとなえる志士たちが潜入し、公家たちをあおりながら天誅(てんちゅう)をくりかえすなど、無警察に近い状態でした。容保は、孝明天皇に謁見して朝廷との交渉を行ういっぽう、浪士の行動部隊「新撰組」や「京都見廻り隊」を組織して配下に使い、上洛した14代将軍徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたりました。

また会津藩は、幕府の主張する公武合体派の一員として、薩摩藩と結んで反幕派の尊王攘夷と敵対しました。1863年、尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件「八月十八日の政変」では、長州藩の勢力を排除したことで、孝明天皇からその働きを称賛されたことは、容保の誇りでした。しかし、1866年末の天皇の死去により、後ろ盾を失った容保は、志士たちのうらみを一身に受けることになってしまいます。そして1867年、坂本龍馬らの仲立ちで薩摩と長州が手を結び、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅すると、京都守護職も廃止されてしまいました。

「鳥羽・伏見の戦」に敗れた慶喜が、新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内でも同じような対立が起こりました。賊の汚名を着せられた容保は、会津へ帰国し家督を養子に譲り謹慎し、籠城しました。しかし、あまりにも倒幕派を弾圧してきたために、新政府軍の包囲は厳しく、家中の主戦論者をおさえることができず、抗戦することになってしまいました。この「会津戦争」で、16~17歳の若者で編成されて自刃した「白虎隊の悲劇」は有名です。彼らは前線で必死に戦うものの、落ちのびた飯盛山で戦闘の様子をながめていると、なんと市中が火の海になっています。まだ鶴ヶ城は焼けてはいなかったものの、落城したと勘違いし、もはやこれまでとお互いを刺しあったのでした。

降伏後の容保は、鳥取藩などに預けられ孤独な余生を送りましたが、59歳で亡くなるまで「戊辰戦争」のことを語ることは、いっさいなかったということです。


「12月5日にあった主なできごと」

1791年 モーツァルト死去…ハイドンやベートーべンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家モーツァルトが亡くなりました。

1901年 ディズニー誕生…「ミッキー・マウス」を生みだし、いまや世界的なウォルト・ディズニー・カンパニーを創業したディズニーが生まれました。

1904年 日本軍が旅順203高地占領…日露戦争で日本軍は、ロシア軍の要塞があった旅順の203高地を3度目の総攻撃で占領に成功、戦局はいっきに日本軍が有利なものになりました。

今日12月4日は、大正・昭和期に活躍した日本史学者の津田左右吉(つだ そうきち)が、1961年に亡くなった日です。

1873年、岐阜県美濃加茂市に生れた津田左右吉は、1891年に東京専門学校(のちの早稲田大)を卒業後、中学教師をつとめるかたわら、東洋史学者白鳥庫吉(しらとり くらきち)の指導を受け、満州(中国東北部)や朝鮮の歴史や地理の研究をし、1901年には『新撰東洋史』を刊行しました。

1908年、満州鉄道(満鉄)東京支社の地理歴史調査室研究員になって研究生活に入った津田は、1913年『神代史の新しい研究』、1917年『文学に現われたる我が国民思想の研究』を刊行。1918年には母校の講師に就任して東洋史、東洋哲学を教えました。1919年には『古事記及び日本書紀の新研究』 を発表すると、1920年には早稲田大学教授となり、1924年には『神代史の研究』を発表しました。

これらの著書を通して、『古事記』や『日本書紀』を、自由な立場で科学的に研究、分析して大胆な批判を加えました。特に注目されるのは、日本の神話が、天皇による支配を正当化するために創られたこと、初代の神武天皇から14代の仲哀天皇までの天皇は実在しないことを明らかにしました。

しかし1939年、ファッシズムの台頭により「天皇の政治を批判し、天皇家を侮辱したことは不敬罪にあたる」とされ、政府は1940年2月に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発売禁止の処分にしたばかりか、津田は大学教授を辞職させられ、出版元岩波書店社長の岩波茂雄とともに出版法違反で起訴されてしまいました(津田左右吉事件)。だだし、刊行から年月が経ていたため、時効により実刑はまぬがれました。

敗戦後の津田は、熱狂的に学界に迎えられ、神話(皇国史観)を否定する「津田史観」は歴史学の主流となり、敗戦による価値観の転換を体現する歴史学者の代表とされるようになりました。戦後の共産主義の流行には批判的で、1946年に雑誌『世界』に論文「建国の事情と万世一系の思想」を発表し、「天皇制は時勢に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」と天皇制維持を論じました。天皇制廃止論者たちからは「津田は戦前の思想から変節した」と批判されましたが、「天皇制を立憲君主制に発展させるべき」との考え方は戦前から一貫したもので、戦後になって変化したわけではないと語っています。

なお、津田の研究は、日本思想史、中国思想史、日本以外に中国の古典の文献的批判などの領域においても多くの論文を著わし、独創的な業績を残しています。1949年には、長年にわたる歴史研究が評価され文化勲章を受章しました。

オンライン図書館「青空文庫」では、「建国の事情と万世一系の思想」など、9編の論文を読むことができます。


「12月4日にあった主なできごと」

1027年 藤原道長死去…平安時代中期の貴族で、天皇にかわって摂政や関白が政治をおこなう「摂関政治」を独占。藤原氏の全盛期を生きた藤原道長が亡くなりました。

1722年 小石川養生所設立…江戸幕府は、貧しい病人のための無料の医療施設として、現在も文京区にある小石川植物園内に小石川養生所を設立しました。第8代将軍徳川吉宗と江戸町奉行の大岡忠相が主導した「享保の改革」における下層民対策のひとつで、町医者の小川笙船が、将軍への訴えを目的に設置された「目安箱」に投書したのがきっかけでした。幕末まで140年あまりも、江戸の貧民救済施設として機能したといわれます。この診療所の様子は、山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』や、この原作をもとに黒沢明が映画化した『赤ひげ』でも知られています。

1890年 血清療法…ドイツの細菌学者コッホのもとへ留学していた北里柴三郎は、破傷風とジフテリアの免疫血清療法を発見したことを発表しました。

今日12月3日は、「女子英学塾」(現・津田塾大学)を設立するなど、生涯にわたり女子教育にたずさわった津田梅子(つだ うめこ)が、1864年に生れた日です。

西洋農学者で元幕臣津田仙の子として、江戸牛込に生まれた梅子は、西洋野菜の栽培などを手がける父の影響を受けながら育ちました。父は1871年、まだ満6歳だった梅子を、開拓使次官だった黒田清隆が企画した開拓使女子留学生に応募させました。そして同年11月、梅子は5人の女子留学生のうちの最年少として、伊藤博文ら岩倉具視を団長とする欧米視察団に随行し、アメリカに渡りました。

首都ワシントン郊外にある日本弁務官書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻に預けられた梅子は、初等・中等教育を受け、英文学のほか、ラテン語、フランス語などの語学、自然科学や心理学などを学び、1882年11月に日本へ帰国しました。このときは、日本語をすっかり忘れ、通訳が必要なほどになってしまったということです。

伊藤博文と再会した梅子は、伊藤への英語指導や通訳のため伊藤家に滞在、1885年に伊藤の推せんにより、「華族女学校」(現・学習院大学)の英語教師となりました。1888年には、訪日した留学時代の友人アリス・ベーコンに勧められて米国留学を決意し、1889年にふたたび渡米、ブリンマー・カレッジで生物学を、オズウィーゴ師範学校で教授法を学んで、1892年に帰国しました。

教育こそ天職であると考えるようになった梅子は、「華族女学校」に教授となって復帰すると、1894年には明治女学院でも講師を務め、1898年には「女子高等師範学校」(現・お茶ノ水女子大)教授を兼任しました。やがて、1899年に高等女学校令、私立学校令が公布されて女子教育への機運が高まると、1900年、すべての職を辞して、「女子英学塾」を開校して、塾長になりました。

この塾は、日本で初めての女子専門教育機関で、英語教育を通じて女性の視野を広め、有能な英語教育者を養成することを目的としました。わずか10名の生徒からスタートした少数精鋭の厳しい授業は、予習をしっかり準備しないと、授業に出られないほどでした。こうして、進歩的でレベルの高い授業は評判となりましたが、資金援助は極めて小規模にとどめられ、梅子や友人のベーコンらは無報酬で奉仕しても、設立当初の経営にはつらいものがあったようです。

1903年、専門学校令が公布されて塾の基盤は整いましたが、創業期の苦労の連続に健康を損なって1919年に塾長を辞任。長期の闘病後の1929年、たくさんの人材を育て、独身を貫いた64年の生涯を閉じました。女子英学塾は1931年に「津田英語塾」となり、「津田塾大学」として正式に開校したのは、敗戦後の1948年のことでした。


「12月3日にあった主なできごと」

1552年 ザビエル死去…1549年に、初めて日本へキリスト教を伝えたカトリックの宣教師ザビエルが亡くなりました。

1872年 太陽暦の実施…この日旧暦(陰暦)から新暦(太陽暦)に変わり、旧暦明治5年12月3日が、新暦明治6年1月1日となりました。日本では、7紀末以来1200年以上も陰暦が使われてきましたが、幕末から欧米諸国との交渉が始まると、太陽暦と1か月前後の差が不便になり、国際的に広く使われているグレゴリオ暦の採用が急がれていました。

1894年 スティーブンソン死去…冒険小説『宝島』によって名をなし『ジキル博士とハイド氏』『誘惑されて』など独自の文学を開いたイギリスの作家スチーブンソンが亡くなりました。

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