児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年12月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 65]

昔あるところに、貧しい百姓夫婦がありました。ふとした風邪をこじらせて夫を失くしたため、こまった身重のおかみさんは、となり村の知りあいをたよってお金を借りてきました。その帰り道、ある峠にさしかかったときには、夕暮れがせまっていました。すると、急に陣痛に見舞われ、松の根元にすわりこんで痛みをこらえていました。

そこを通りかかったひとりの侍は、しばらく介抱していましたが、おかみさんが金を持っているのがわかると、「その金をよこせ」といいました。「お許しください。これは、赤ん坊を生むための大事なお金です」「つべこべいわず早く出せ」男は、おかみさんのふところに手をいれようとします。「助けてぇ」と逃げようとしたとたん、男は刀をふりかざしておかみさんを切りつけました。おかみさんは、近くの石にすがりついてもがき苦しんでいると、急に赤ん坊が生れ、同時に息がたえてしまいました。金を奪った侍は、逃げるようにして峠を下っていきました。すると、おかみさんのしがみついていた石が、赤ん坊に代わって大声で泣き出したのです。

近くのお寺の和尚さんが、この泣き声を聞きつけてかけつけてみると、女の人が血だらけになって死んでいて、そばに、はだかの赤ん坊が転がっています。「これはどうしたことじゃ」和尚さんは、すぐに赤ん坊を抱き上げると、お寺へ連れ帰りました。それから、人に頼んでおかみさんの遺体を運んでこさせました。「かわいそうにのう、赤ん坊は、わしが育てよう。安心して成仏するのだよ」。こうして貧乏な和尚さんは、赤ん坊のために水あめを作り、それを売ったお金で乳をもらって歩いたり、大切に育てました。このあわれな出来ごとは、まもなく村じゅうに知れわたりました。ところが不思議なことに、あの石が夜になると、あわれな声を出すのです。村人たちは、「あれは『夜泣き石』だ。殺された女の魂が石にのり移ったに違いない」といって、線香や花を供えましたが、泣き声はいつまでもやみません。

あっというまに時は過ぎ、やがて赤ん坊は音八と名づけられ、13歳の少年に成長しました。ある朝のことです。「和尚さん、長い間たいへんお世話になりました。村の人たちから、『夜泣き石』のこと、私の生れた時の話を聞きました。これから毎晩、母親の哀しい声を聞くのかと思うと胸が痛みます。勝手なお願いでもうしわけございませんが、わたしは京に出て、刀鍛冶になりとうございます。どうぞ、お許し下さい」「そうか、わしはおまえを、この山寺の跡取りにしたかったが、刀鍛冶をめざすのもよかろう。人の命はみじかいものじゃ。どうせやるなら、日本一の刀鍛冶をめざせ」「ありがとうございます。和尚さんのご恩は一生忘れません」

よく朝、音八は和尚さんに送られて、都へ旅立っていきました。この時音八は、どうにかして母の敵(かたき)を討とうと心に決めていました。それから何年かのち、音八は有名な刀鍛冶のもとで、りっぱに成長していました。

ある日のこと、音八が仕事をしていると、ひとりの巡礼の男が門口に立ち、一本の刀をさしだして、買ってもらえないものか、というのです。「巡礼さん、これはたいした刀でもなく、20年も前の刃こぼれがあります」「おそれいりました。さすがは、都の刀鍛冶でいらっしゃいますね。じつは、20年もむかし、侍だったころに、ふとした心のあやまちから、ひとりの女の人を殺してしまいました。その時、手元が狂って、大石に打ちつけたときの、刃こぼれなのです。その後、その罪にさいなまれ、こうして巡礼となって諸国をめぐり歩いているところなのです」「その時、赤ん坊の声がしませんでしたか?」「えっ、なぜそのことをご存じなのですか」「その赤ん坊こそ私、あなたに殺されたのは私の母だった。母の敵、覚悟しろ!」音八は、いきなり側にあった刀に手をかけました。

すると巡礼は、がっくり膝をついてこういいました。「あなたさまに、一日も早くめぐりあって仇をうたれたいと、毎日願っていました。さあ、どうぞお打ちください。ただ、もしお許しいただけるなら、残りの33か所の札所めぐりを終えた後にしていただけませんでしょうか。お母さまの霊をなぐさめたいと存じます」「それは誠か」「嘘いつわりを申しません」「では、その日まで、おまえといっしょに、私も札所めぐりをしよう。決して逃がさぬぞ」

こうして音八は、師匠にわけを話して暇をもらい、巡礼といっしょに札所めぐりの旅に出ました。音八は、巡礼が、今日逃げるか、明日逃げるかと、ゆだんなくみはりながら歩きましたが、まったくその気配さえありません。それどころか、親が子をいつくしむような心配りです。やがて音八は、青々とした大空の素晴らしさ、夕焼けの美しさ、鐘の音の清らかさに心を洗われ、人の世のはかなさを知るうち、人を憎むことがなさけなく思うようになってきました。そんなある夜、「おろかな敵討を思いとどまれ」という和尚さんの夢を見たことで、心が決まりました。

「おじさん、札所めぐりを終えたら、親のない私のために、父親がわりになって下さい。私は、りっぱな刀鍛冶になって働きます」「なんと、もったいないこと。私を許して下さるのか?」「こうして毎日、いっしょに歩いているうち、おじさんの優しい心や人柄がよくわかりました。どうか、お父さんと呼ばせてください」。しっかり、手を握り合ったふたりの姿を、母親も空の上からしっかり見ていたのでしょう。それからまもなく『夜泣き石』は泣かなくなったということです。


「12月13日にあった主なできごと」

1797年 ハイネ誕生…『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表し「愛と革命の詩人」といわれたドイツの文学者ハイネが生まれました。

1901年 中江兆民死去…フランス革命の精神的導きをしたことで名高いルソーらに学び、自由民権思想を広めた明治期の思想家 中江兆民が亡くなりました。

1937年 南京大虐殺…同年7月、北京郊外の盧溝橋近くで日中両軍が衝突(盧溝橋事件)して全面戦争になっていましたが、日本軍は当時の中国の首都南京を占領し、軍人ばかりでなく、女性や子どもを含むたくさんの市民を殺しました。この日の犠牲者は、中国側の発表では30数万人、日本の研究でも3万人以上とされていますが、いまだに真相はわかっていません。

今日12月12日は、映画『東京物語』『彼岸花』『秋刀魚の味』などの監督として、黒沢明とともに世界から高い評価をえている小津安二郎(おづ やすじろう)が、1903年に生れ、1963年に亡くなった日です。

東京・深川にあった肥料問屋の5人兄弟の次男として生れた小津は、「子どものころは都会より田舎で育てたほうがよい」という父の方針で、1913年に父の生家の三重・松阪に移りました。旧制中学の寄宿舎に入り、この時に見たアメリカ映画「シビリゼーション」に感動し、映画監督をめざすようになります。

1923年、松竹キネマ蒲田撮影所に、撮影助手として入社した小津は、1925年に念願の監督昇進を果たすと、時代劇の『懺悔(ざんげ)の刃』(1927年公開)でデビューをはたしました。その後は現代劇に特化し、1928年には笠智衆が初めて小津作品に参加した『若人の夢』をはじめ5本、1929年には『大学は出たけれど』など当時の大学生やサラリーマンの無気力な生き方を批判的に描いた6本の作品を公開しています。同世代の俳優岡田時彦らを起用した『美人哀愁』や、カメラの茂原英雄とともに独自の映像を確立したとされる『東京の合唱』(共に1931年)などで、小市民の生活を感傷的なタッチで描いて注目されました。さらに、はじめてのトーキー映画となる『一人息子』(1936年)、『戸田家の兄妹』(1941年)や『父ありき』(1942年)など、「小津調」といわれる作品を次々に発表し、成功をおさめました。

小津が特に真価を発揮するのは、太平洋戦争後のことで、笠智衆と原節子のコンビによる『晩春』(1949年)『麦秋』(1951年)『東京物語』(1953年)は、野田高悟との共同脚本で、家族生活をテーマに日常生活をさりげなく描きながら、深く人生を考えさせる一連の作品でした。とくに『東京物語』は、東京に暮らす子どもたちの家を久しぶりに訪ねた老夫婦(笠智衆・東山千栄子)を、長男も長女も毎日の仕事に忙しくて両親をかまえないのに、戦死した次男の妻(原節子)が、わざわざ仕事を休んで2人を東京名所の観光に連れて行くというストーリーは、家族のきずな・老いと死・人間の一生とは何かを冷徹な視線で描いた作品として大きな反響をよびました。

また、小津初のカラー作品となった『彼岸花』(1958年)や『秋日和』(1960年)は、初老の紳士である佐分利信、中村伸郎、北竜二演じる「おじさん三人組」が、当時の人気女優山本富士子、有馬稲子、久我美子をめぐるナンセンス喜劇ともいえる味わいを創り上げて評判となりました。遺作となった『秋刀魚の味』(1962年)は、婚期を迎えた娘(岩下志麻)と暮らす妻に先立たれた初老サラリーマン(笠智衆)の姿を喜劇的に描いて好評でしたが、その翌年、還暦の誕生日に死去してしまいました。

なお小津は、死後になって同世代の欧米の映画監督ゴダール、ジョン・フォード、ジャン・ルノアールらが高く評価したことで、いちやく日本を代表する映画監督として世界的に有名になりました。小津映像の特徴の一つである低い位置(ロー・ポジション)から取られた映像が、日本家屋での座り芝居を見せることに好都合で、見るものに心地よい安定感を与えることになったことも評価されています。


「12月12日にあった主なできごと」

1834年 福沢諭吉誕生…慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される福沢諭吉が生れました。

1862年 英国公使館を焼き討ち…1858年の「日米修好条約」に反対する長州藩士 高杉晋作らは、幕府を窮地に立たせようと江戸・品川に建設中のイギリス公使館を焼き討ちにしました。

今日12月11日は、フランスのロマン派音楽の代表的作曲家ベルリオーズが、1803年に生れた日です。

パリの南約250kmにあるラ・コート・サンタンドレに開業医の子として生まれたエクトール・ベルリオーズは、学校へ通わずに、18歳まで父からラテン語、文学、歴史、地理、数学などを学びました。14、5歳のころフルートやギターを習う程度で特別な音楽教育を受けることなく、独学で『和声論』を学び、作曲や編曲に挑み、室内楽曲、歌曲を作曲するようになりました。

1821年に大学入学資格試験に合格し、家業を継ぐためにパリ医科大学に入学しました。しかし、解剖学を学ぶうちに気がひけてしまい、次第に医学から音楽へ興味が移ってオペラ座に通うようになりました。それから1年後、1822年に医学の道を捨て、音楽をめざすようになって1823年にパリ音楽院に入学します。父からの送金を断たれたベルリオーズの貧乏ぐらしのはじまりとともに、異色のシンフォニーといわれる『幻想交響曲』が生まれるきっかけとなりました。

1827年、イギリスからやってきたシェイクスピア劇団の公演『ハムレット』を観たベルリオーズは、オフェリア役の女優スミスソンに一目惚れして連日通いつめ、大胆にも結婚しようと決意します。名もない貧乏作曲家が大スターに相手にされるはずもなく、何度も情熱的な手紙を書いても、楽屋通いしても、狂おしい青年を受け付けません。ベルリオーズは、拒絶されればされるほど胸の炎は燃え、気も狂わんばかりの情熱を『幻想交響曲』の作品づくりにぶつけたのでした。

こうして1830年に名作『幻想交響曲』を完成させ、年末に初演されて大成功をおさめました。この曲は、「交響曲」という名がついていますが、心理的な標題音楽で「一芸術家の生涯のエピソード」という副題とともに、次のような説明がついています。──感受性の強い若い芸術家が失恋し、絶望して服毒自殺をはかる。しかしアヘンの量が足りなかったために死に至らず、深いこん睡のなかで一連の夢を見る。その夢の中で官能と感情と幻想はすべて音楽的な想像や思考となり、特に愛する女性の影像はひとつのメロディとなって、さまざまな場面に登場する」としています。

この『幻想交響曲』は、ベルリオーズを貧困のどん底から救い出してくれました。当時一級のバイオリニストだったパガニーニは、「ベルニオーズこそ、ベートーベンの最大の後継者」と絶賛し、2万フランという大金をベルリオーズに贈ったのです。それから3年後、歳をとり、借金に追われ、名声も薄れたスミスソンがベルリオーズのもとに飛び込んできて結婚しましたが、まもなくスミスソンに幻滅の悲哀を感じ、離婚してしまいました。

その後ベルリオーズは、音楽におけるロマン主義の指導者として活躍し、器楽によってドラマを書いたといわれています。序曲『ローマの謝肉祭』『レクイエム』劇的交響曲『ロミオとジュリエット』などの作曲以外に、『近代の楽器法と管弦楽法』『回想録』を著わして、1869年に亡くなりました。


「12月11日にあった主なできごと」

1223年 運慶死去…国宝となっている東大寺南大門の「仁王像」などの仏像彫刻を残した、鎌倉時代初期に活躍した仏師・運慶が亡くなりました。
 
1485年 山城国一揆…日本最大の内乱といわれる応仁の乱(1467-77)の主な原因は、8代将軍足利義政に仕える守護大名畠山持国の実子義就(よしなり)と、養子政長の家督争いでした。この争いが、乱後も続いたため、この日住民たちは大規模な一揆をおこし、平等院に集合して、8年もの間、山城国の政治を自治的に運営しました。
 
1834年 岩崎弥太郎誕生…三井財閥と並ぶ財閥「三菱財閥」の基礎をつくった実業家 岩崎弥太郎が生まれました。
 
1843年 コッホ誕生…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが生まれました。
 
1950年 長岡半太郎死去…原子核の存在を予見したり、磁気にひずみあることの研究など地球物理学、数理物理学の発展に貢献した物理学者 長岡半太郎が亡くなりました。

今日12月10日は、『朝霧富士』『舞妓』『十和田湖』などの連作で知られる洋画家の林武(はやし たけし)が、1896年に生れた日です。

国語学者の5男として東京・牛込に生まれた林武(本名・武臣[たけおみ]) は、幼いころから貧しく、兄たちと牛乳配達や新聞配達として働いたり、ペンキ塗りや歯科助手などいろいろな仕事にたずさわりながら生計を立て、画家をめざすようになりました。1920年に日本美術学校に入学し、デッサンなどを学ぶものの、翌年には中退してしまいました。しかし、この年の第8回二科展に『婦人像』が初入選し、樗牛賞を受賞しました。1922年には結婚した妻をモデルに『本を持てる婦人像』を制作、「二科賞」を受けて評判となりました。

1923年の関東大震災で被災し、神戸に移住しましたが暮らしは相変わらず苦しく、林の作品を妻が売り歩くという状態がつづきました。1930年には二科会を脱退して「独立美術協会」を創立し、以後は同会を主要な発表の場にしました。そのころ、ベルナールの『回想のセザンヌ』を読んで感銘した林は、1934年の春から1年間ヨーロッパに渡り、パリ、ベルギー、オランダ、スペインなどを訪れ、帰国後の1936年第6回独立美術協会展に、滞欧作品『コワヒューズ』『立てる婦人』など15点を発表しました。マチスやドランらのフォービズムの影響を受け、形を単純化し太い線で力強く立体的に描いた作品は、やがて林オリジナルといえる作品となっていきます。

林の絵画が広く認められるようになったのは、戦後50歳を越えてからといってよいでしょう。1949年「梳(くしけず)る女」が毎日美術賞を受賞すると、絵具を盛り上げて原色を多用するようになり、好悪がはっきりとわかれてはいたものの、絢爛豪華な作風は多くのファンを取りこみ、いちやく時代の寵児となりました。1950年代から60年代にかけて起こった「投機的絵画ブーム」にも乗って、一時期は号あたり20万円という高値で取引されるようにもなりました。とくに晩年に多く描いた薔薇や富士山の絵画は、今だに市場では人気が高いものがあります。1952~63年には東京芸術大学美術学部教授をつとめ、1967年には文化勲章を受章、1975年79歳で亡くなりました。

なお、林武の数々の作品や関わりのある画像は、「オンライン画像検索」で見ることができます。


「12月10日にあった主なできごと」

1896年 ノーベル死去…ダイナマイトを発明したスウェーデンの化学技術者ノーベルが亡くなりました。「人間のためになると思って苦労して発明したものが、人々を不幸にしている」── そう気づいたノーベルは、死ぬ前に遺言を書きました。「財産をスウェーデン科学学士院に寄付するので、そのお金の利子を人類の平和と進歩のためにつくした人に賞として贈ってほしい」。こうしてノーベルの死後5年目の1901年から、遺志にしたがって「ノーベル賞」を贈ることがはじまり、命日であるこの日が授賞式となりました。なお、今年は、iPS細胞を作製し再生医療実現に道を開いた山中伸弥が、ノーベル賞(医学生理学賞)を受賞、日本の受賞者は19名となりました。

「おもしろ古典落語」の97回目は、『うどん屋(や)』というお笑いの一席をお楽しみください。

ある寒い夜、屋台の鍋焼きうどん屋が「なーべやーき、うどぉん」と流していると、酔っぱらいが「チリツン、チリツンツン ♪牡丹は持たねど越後の獅子は……」「もしもし、そんなとこにつかまって、ゆすらないでください」「いいじゃねぇか。おれはどうも、この越後獅子っていうのは、長唄の中でも…まことにいいもんだな」「さようでございますね、にぎやかで…」「なんだい、にぎやかてぇのは縁日じゃねぇや、だんだん文句をたたんでって、こん小松のこかげで、松の葉のようにこん細やかに……と。どういうわけなんだ、こん細やかにってぇのは?」「よくわかりませんが」「よくわからねぇったって、てめぇも言葉のようすじゃ江戸っ子だろ?」「さようでございます」「どういうわけで、こん小松のこかげで、松の葉のようにこん細やかにっていうんだ」「ですから、わかりません」「わからねぇったって気にいらねぇな、こん小松のこかげで……って、ひとつやってくれ」「そんなこと、できません」

「うん、そうだ、おめぇ、仕立屋の太兵衛ってのを知ってるか?」「いえ、存じません」「知らねぇこたぁねぇだろう。つきあいのいい人だぜ、あの人は。職人に似合わず字(て)をよくかいて、付き合いがよくってな、かみさんは愛嬌者で、娘がひとりいる。今年十八で、みい坊っていい女だぜ。今夜婿を取ったんだ。これが、親父よりも腕がよくって、男っぷりもいいし、似合いの夫婦だ、めでたいじゃねえか」「おめでとうございます」

「ああ、ありがとうよ…おれは、若けぇ時分から太兵衛とは大の仲よしで、向こうがいうにゃ『親類は少ないし、兄弟同様にしている間柄だから、どうか来てくれ』っていうんで、祝いに呼ばれると娘がでてきて、おれを上座に座らせて、おれの前に手ぇついて、いやにあらたまった調子で『おじさん、このたびは…』って切りだしやがったんだ。おどろいたねぇ、『このたびは…』なんて、よっぽど学問がなくちゃいえねぇぞ。おらぁな、みい坊がまだよちよち歩きの頃から知ってるんだ。よくおんぶしてやったもんだ。その時分にゃ、ションベンもらしちゃ、ピイピイ泣いてばかりいやがったんだが、立派な花嫁衣装を着ちゃってよ、おれの前へぴたっと両手をついて、『おじさん、このたびは、いろいろご心配いただきまして、まことにありがとうございました』ってんだぞ。おらぁ、もう、うれしくって、うれしくって、泣けてきちまってよ。涙でみい坊の顔が見えなくなっちまって、ああいうのをうれし泣きっていうんだぜ、そうだろう? はっはっは、うどん屋、めでてぇな」

「えへへへ、たいへんにおめでとうございます」「たいへんに、たぁどういうことだ。口先だけで、いやに大げさじゃねぇか。ばかにしてるな」「ばかになぞしてません、じゃ、おめでとうございます」「じゃ、ってこたぁねぇだろ。そういう不実なやつはきれぇだよ。なんでぇ、火に勢いがねぇな、もっと炭をついだらどうなんでぇ。ところで、おめえ、仕立屋の太兵衛ってのを知ってるか?」「へっへっへ」「あれっ、知ってんのかよ」「娘がひとりいて、今晩婿をとりました」「あれっ、おめぇあいつの近所だな」「『さてこのたびは…』っていいました」「あれっ、聞いてやがったな、この野郎。うん、おそれいった、隅におけねぇ、こんちくしょう…、水を一ぱいくれ。この水、いくらだ」「水のお代はいただきません。そろそろ、うどんをめしあがっていただきたいんで……」「ああ、そうか。ただか?」「もちろん、お代をいただきます」「それじゃいらねぇや、おれはうどんは嫌ぇだからな。あばよっ」

「なんだい、えれぇやつにつかまっちまったな。こんなに火をおこしちまって、あんなのにあっちゃ、夜商人はたまらねぇや、悪い晩だね、早く帰っちゃおう。この細い路地をぬけていくか。なーべやーき、うどぉん!」「うどん屋さん。あのね、子どもが寝かかってるの、静かにしてちょうだい」「へぇ…、ばかにしてやがるな。子どもが寝たか、起きたか、そんなこたぁわかるもんかい。かかぁがいう通り休んじまぁよかったな。路地だからいけねぇんだ、大通りへ出よう。なーべやーき、うどぉん!」

「(細い声で)うどんやさん、うどんやさん」「おや、あそこの大店(おおだな)で呼んでるぞ。ははぁ、奥に内緒で、うどんの一杯も食べて寝ようってんだな。あれだけの店じゃ奉公人は10人はいるね。ありがてぇな、だから商売はなまけちゃいけねぇ」「うどん屋さん、ここですよ」「(小声にしなくちゃいけねぇぞ) おいくつで」「熱いのをひとつ」「(この人が試しに食べて、うまかったら代わりばんこに食べに来るにちがいない) へぇ…お待ちどうさま」「早かったね。いただくよ…、うん、とってもおいしい。はい、ごちそうさま。ひとつで気の毒だったね」「どういたしまして」「おいくら? あっそう、ここに置きますよ」「ありがとうございました」「(しわがれ声で)うどん屋さん」「へぇ」

「おまえさんも、かぜをひいたのかい?」


「12月7日にあった主なできごと」

1827年 西郷隆盛誕生…大久保利通、木戸孝允と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人西郷隆盛が生まれました。

1867年 日本初の紡績工場…薩摩藩は、イギリスのプラット社から3600錘もの紡績機械を購入し、技師をつきそわせてこの日その荷が長崎に到着。それからまもなく、薩摩藩は、家内工業的な機織にかわる近代的な「鹿児島紡績工場」を操業させました。
 
1878年  与謝野晶子誕生…『みだれ髪』など明治から昭和にかけて活躍した歌人であり、詩人・作家・思想家としても大きな足跡を残した与謝野晶子が生まれました。

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