児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年12月

「おもしろ古典落語」の99回目は、『庭(にわ)かに』というお笑いの一席をお楽しみください。

世の中には、洒落(しゃれ)のわからない人っていうのがいるもので。「番頭さんや、こっちへ入っておくれ」「へーい、なにかご用で」「今朝、うちのばあさんがいうには、おまえさんは、洒落の名人なんだってな。あたしゃ、生れてこのかた洒落というものを見たことがないんだが、ぜひ見せておくれ」「あたしの洒落はお見せするものではありませんで、強いていえば、聞いていただくものでございます」「そうかい、じゃ聞きましょう。その洒落っていうのをやっておくれ。頼みますよ、はい、どうぞっ」「洒落っていうのは『どうぞ』っていわれて出来るものじゃありませんで、なにか題を出していただきます」「踏み台でも用意するのか?」「いえ、なにか品物の名前でもおっしゃってください。目にふれたもの、頭に浮かんだもの、なんでも結構です。あたしがそれを使って洒落ますので」「そうか、それじゃ、衝立(ついたて)でやってみてくれ」

「ついたて、十五んち、なんてどうでしょう」「ついたて、十五んち? そらお前、一日(ついたち)、十五んち(日)と、間違えてるんじゃないのか」「えぇ、そこが洒落でございます」「どこが洒落だい」「似ておりますから洒落でございます」「じゃ、おれとせがれは似てるから洒落か?」「どうも、あなたには困りますね」「じゃ、他の題でやってみておくれ。ほら、庭にちっちゃなカニが出てきたな。あのカニでやってみてくれ」「庭にカニですか? にわかには洒落られません」「そんなこといわずに、やっておくれ」「ですから、にわかには(庭カニは)…、洒落られません」

「やっぱりできないのか。それじゃ題を変えよう。孫が大きな鈴をけって遊んでいるな。あれでどうだ」「なるほど、鈴をけって……、すずけっては(続けっては)無理ですな」「無理を承知で頼んでるんだ」「ですから、すずけっては無理ですな……」「いいわけは結構です。店にいって仕事をしなさい」「どうも、すみませんです」

「あなた、なにを怒鳴ってるんです?」「ああ、おまえか。今、番頭を呼んで、洒落をやらせたんだ。おまえが『番頭は洒落がうまい』っていってたからな。なんだかんだいってたが、『出来ません』『無理です』って、なにが洒落名人だ」「そんなことはないでしょう。もう少し詳しく話してみてくれませんか……、なんです? 『庭にカニがでてきて、にわかに洒落られません』『孫が鈴をけって、すずけっては無理ですな』っていったんですね。上手いじゃありませんか、座布団あげたいくらい見事じゃありませんか」「そいつは気がつかなかったな」「番頭は洒落の名人なんですから、番頭がなんかいったら『うまい、うまい』ってほめてあげなさいよ。それを怒ったりして、人に笑われますよ」「じゃあ、番頭を呼んであやまろう」

「番頭さん、旦那がお呼びです」「定吉か。さっき旦那に呼ばれて、洒落をやってくれってんで3つほどやったんだが、とたんに怒りだしてえらい目にあった。もう旦那の前じゃ2度と洒落はやらないつもりだ」「へぇ、そうだったんですか。洒落(晴れ)のち雷ですね」「下手な洒落をいうんじゃないよ、旦那に知られたら、おまえも怒られるよ」

「どうも、旦那さま、先ほどは失礼をいたしました」「さっきは悪かったな、怒ったりして。洒落をやってくれたんだってな、歳のせいか、うっかり聞き逃してしまった。いま、ばあさんに小言をくらってなぁ、番頭さん、かんべんしておくれ。そこで、番頭さん改めてお願いしますよ。なにか洒落をやっておくれ」「いやーっ、あたしは、もう、こんりんざい洒落はやめましたんで……」

「やぁー、番頭さん、うまい洒落だ」


「12月20日にあった主なできごと」

1848年 ルイ・ナポレオン大統領…皇帝ナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンが、選挙に全投票の75%を得て、第2共和制大統領に就任しました。その後ルイは、大統領の権限を強化し4年後に第2帝政をはじめて、ナポレオン3世となりました。

1853年 北里柴三郎誕生…ドイツのコッホに学び、ジフテリアや破傷風の血清療法の完成やペスト菌の発見など、日本細菌学の開拓者北里柴三郎が生まれました。

今日12月19日は、『国会議事堂の火災』『吹雪-港の沖合の蒸気船エアリエル号』など、イギリスを代表する国民的画家のターナーが、1851年に亡くなった日です。

1775年、ロンドンの理髪師の子として生まれたジョセフ・マロード・ターナーは、幼いころから母親が精神の異常をきたしたため、学校教育はほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしました。1789年、ロイヤル・アカデミー(王立美術院)付属の美術学校に入学し、水彩で名所などを忠実に描く技術をみがきました。当時この分野は需要が高く、きわだって有能だったターナーに注文が殺到するようになり、まもなく水彩画家として一本立ちしました。20歳の頃からは油絵も描きはじめ、スコットランドやイングランドを旅行して、気にいった景色を精密なスケッチにおさめました。1799年には24歳の若さでロイヤル・アカデミー準会員となり、1802年には正会員となるという異例の出世をしています。

初期のターナー作品は、『トラファルガーの海戦「ビクトリー号」』『もやの中の日の出』など、自然を、流動し変化するものとしてとらえ、大気、光、雲を劇的に表現するのが特色でした。転機となったのは1819年のイタリア旅行で、イタリアの明るい陽光と色彩に魅せられ、特にベネチアをこよなく愛し、その後も何度も訪れ、油彩画の大作以外に、たくさんのスケッチを残しています。そして、『国会議事堂の火災』(1835年頃)『戦艦テメレール号』など、大気と光の効果を追求することに主眼がおかれるようになりました。

やがて、晩年になるほど鮮やかな色彩が渦巻くような、こん沌としたものが多くなり、1842年に制作された『吹雪-港の沖合の蒸気船エアリエル号』では、船はぼんやりとした塊に過ぎず、猛威をふるう嵐のすさまじさを描きだしています。この作品は、「印象派」を30年も先取りした先駆的な作品でしたが、発表当時は評論家たちに「石鹸の泡」と酷評されました。その斬新な試みを高く評価したのは、新進の評論家ジョン・ラスキンだけでした。なお、ターナーはこの作品を制作するために、水夫にたのんでマストにしばりつけてもらい、4時間も嵐を観察したというエピソードが残されています。

「偉大な画家」として、セント・ポール大聖堂に埋葬されたターナーは、2万枚ものスケッチをはじめ主要作品をすべて国家に遺贈したため、その作品の多くはロンドンのナショナルギャラリーやテート・ギャラリーで見ることができます。

なお、ターナーのたくさんの作品他は、「オンライン画像検索」でも、その片鱗を見ることができます。


「12月19日にあった主なできごと」

1614年 大坂冬の陣の和約…徳川家康は豊臣氏を滅ぼそうと20万もの大兵で大坂城を取り囲みましたが、短期間で滅ぼすことはできないと和平を持ちかけて受け入れられました。その後、外堀ばかりか内堀までうずめて本丸だけにし、半年後の「大坂夏の陣」で滅ぼします。

1751年 大岡忠相死去…「大岡政談」の越前守として有名な大岡忠相が亡くなりました。ただし、名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談や演劇、落語などで広く知られるようになりました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 66]

昔、ある村の小高い丘に、1軒の白い家がポツンと建っていました。その家には、たったひとり老人が住んでいて、村でおきた出来事をなんでも知っているので、村の人々のあいだでは「魔法使い」とささやかれていました。

その村に、エミリーという女の子が母親とくらしていました。母親は夫が亡くなったために、昼間は畑仕事に出て、エミリーを育てていました。仕事はつらく、母親はいつも疲れはてていました。でも、エミリーは母親に水くみなどのお手伝いをたのまれても、はいと返事をするだけで、あまりやろうとはしないので、母親は口やかましく小言をいうのでした。

ある寒い冬のことです。母親は、エミリーに暖かそうな赤い手袋を買ってきて、こういいました。「とても高い手袋なんだからね、大事にするんだよ。なくしたら、もう二度と買ってあげないからね」でも、エミリーはうれしくてたまりません。そこで、しもやけにふくらんだ手に赤い手袋をはめると、あちこちの友だちのところに見せびらかせにいって、自慢をしました。ところがどうしたことでしょう。みんなに見せたあと、手袋をはめようとすると、手袋の片方がないのです。エミリーは、夢中になって、なくした手袋を探しまわりました。けれど、だれも手袋のことを知りません。「手袋がなくちゃ、家に帰れないわ」。あんまり、いっしょうけんめい手袋を探しているエミリーを見て、ある家のおばさんが、あの丘の白い家の老人に聞いてみたら、といわれました。

エミリーは老人の家のドアをたたきました。「おじいさん、あたしの赤い手袋はどこにあるのかしら」「おまえの手袋なら、ほら、 わしがここに持っているよ。もし、おまえが手袋をどこでみつけたか、だれにもしゃべらないと約束したら、この手袋を返してあげてもいい。だがね、もしもだれかに話したら、時計が夜中の12時を打ったら、わしはおまえをベッドからつまえるからね。いいね?」約束をしたエミリーは、飛ぶように家に帰りました。

エミリーが家にもどると、母親はエミリーが手袋を片方なくしたことを知っていました。「何でなくしたの! あら? どこで見つけたんだい?」 老人との約束を思い出して、エミリーは何もいいませんでした。ところが、あまり強くつめよる母親に負けてしまい、老人と約束したこと、だれかに話をすればさらわれてしまうことも、みんな話してしまいました。……そして母親は、ドアというドア、窓という窓にきっちりと鍵をかけて、だれも入ってこれないように、しっかり戸締まりをしました。

でも、ベッドの中に入ったエミリーは恐くて寝れません。老人との約束を守らなかったことを後悔していました。午後10時。エミリーは心配でしくしく泣きだしてしまいました。午後11時、エミリーは大声で泣きだしました。そして12時が近づくと……、

ささやく声が聞こえてきたのです……「エミリー、ほぅら、1段のぼったぞ」「エミリー、ほぅら、2段目だ」「エミリー、ほぅら、3段目だ」……「エミリー、いよいよ11段だ」「エミリー、とうとう12段のぼったぞ」「エミリー、いまわしはおまえの部屋の前だ」

「エミリー、わしはおまえをつかまえた!」

エミリーのベッドは、[からっぽ] でした……。


「12月18日にあった主なできごと」

1779年 平賀源内死去…江戸中期の蘭学者、博物学者で、エレキテルの製作や燃えない布の発明、小説や戯作家としても活躍した平賀源内が亡くなりました。

1891年 足尾鉱毒告発…田中正造はこの日の議会で、足尾鉱山の選鉱カスによる鉱毒、山林の乱伐、煙害や排水により、渡良瀬川の洪水と結びついて、沿岸一体の農地を荒廃させた「足尾鉱毒問題」をとりあげて、事態の重大性を訴え、銅山の即時営業停止と農民の救済を政府にせまりました。

1914年 東京駅開業…新橋─横浜間にわが国はじめての鉄道が敷かれて以来、東京では新橋が始発駅でしたが、この日東京駅の開場式が行なわれ、東海道本線と電車駅の始発駅は、東京駅となりました。

1956年 国際連合に加盟…国際連合の総会が開かれ、満場一致で日本の国連加盟を承認し、80番目の加盟国になりました。1933年に国際連盟を脱退してから23年目にして、ようやく国際社会に復帰しました。

今日12月17日は、農業に従事しながら、河童や天狗など架空の動物を好んで描いた日本画家・小川芋銭(おがわ うせん)が、1934年に亡くなった日です。

1868年、常陸国(茨城県)牛久藩の江戸藩邸に生れた小川芋銭(本名・茂吉)は、廃藩置県により、実家は牛久村(現・牛久市)の農家となりました。1880年ころに上京した芋銭は、丁稚奉公をしながら洋画塾に学び、やがて日本画や東洋画を独習しました。

1991年、政治家の尾崎行雄の推せんで「朝野新聞」に入社すると、第1回帝国議会のスケッチや漫画を連載して人気をえました。1893年以後は、牛久沼のほとりに移り住んで、農業に従事しながら「茨城日報」「いばらき」などの地元新聞に田園風刺漫画を掲載するようになります。1903年ころには幸徳秋水と知り合って「平民新聞」に風刺漫画を掲載したり、俳句誌「ホトトギス」の表紙画や漫画やさし絵をたくさん執筆するうち、「風刺漫画家」としてその名が知られるようになりました。1908年には、初の画集『草汁漫画』を刊行しています。

やがて農民生活を主体とした水墨画や淡水画など、本格的な日本画をめざようになり、1915年に川端龍子や平福百穂らと「珊瑚会」を結成しました。そのころから牛久沼をめぐる河童や天狗などの精霊たちを、幻想的に描いた作品を多く描くようになり、新しい画境を拓いたことが横山大観に認められ、1917年には日本美術院(院展)同人に推せんされました。

芋銭は生涯、牛久沼の田園風景を愛し、素朴で詩情あふれる作品を残したことで美術界に特異な光をはなつ日本画家として著名ですが、画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるものだそうです。特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られ、晩年には『河童百図』を著わしています。

芋銭はまた、絵筆をとるかたわら「牛里」の号で俳人としても活動していて、野口雨情は当初、俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ、びっくりしたというエピソードが残されています。

なお、芋銭のたくさんの作品他は、オンライン「芋銭画像探索」で見ることができます。


「12月17日にあった主なできごと」

1772年 ベートーベン誕生…『交響曲第5番』(運命)『交響曲第9番』(合唱)などの交響曲、『月光』『悲愴』などのピアノ曲のほか、管弦楽曲、歌劇、声楽曲など各方面にわたる作品を遺した、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人であるドイツの作曲家ベートーベンが生まれました。

1903年 世界初飛行…アメリカのライト兄弟は、動力をつけた飛行機で、人類ではじめて空を飛びました。

1945年 女性に参政権…衆議院議員の選挙法改正案が公布され、女性が参政権を獲得しました。翌年4月10日に行なわれた総選挙では、82名の女性立候補者のうち39名が当選をはたしました。

「おもしろ古典落語」の98回目は、『穴(あな)どろ』というお笑いの一席をお楽しみください。

「おい、いま帰った」「いままでどこをほっつき歩いてたんだよ、お金はできたのかい?」「あいにくだ」「そんなことだろうと思ったよ。お金の算段もできないくせに、また飲んだとみえて、赤い顔をしてよく帰れたもんだ。で、お店(たな)へは行ったのかい」「うん、行ったらな、番頭さんが『この前用立てたのもそれっきりになってるのに、どの面さげてそんなこといってきた』っていうから、ふだんの面してまいりましたっていったら、おれの面をつくづく見て感心してた」「ばかだね、あきれかえったんだよ。いいかげんにおしよ、年末(くれ)も近いってのにどうするのさ、たった3両じゃないか」「たったもすわったも、できねぇことにはしょうがねぇ」「だらしがないね、3両ばかりのお金ができないようなら、豆腐の角に頭をぶっつけて死んでおしまい」「なにをぬかしやがる。てめぇは豆腐の角に頭をぶっつけて死ねるか?」「おまえのようないくじのない人間は、そんな死にようをするんだよ。グズグズいってないで、どこへでも行ってでも、3両をこしらえておいで」

おかみさんに叱られて、根はいい人間ですから、また2、3軒まわって頼んでみましたがことわられ、他にどこかで借りるあてはないかと思案しながら歩いているうち、日もとっぷり暮れてきました。吾妻橋をわたって花川戸の河岸のとてもさびしいところに、りっぱ黒塀をめぐらした商家がありました。その木戸が開くようなので、物かげで、そうーっとようすを見ていますと、店の若い衆が二人で出かけるようです。

(なんだ、主人に内緒で遊びにでかける気だな、遊ぶ金があったら、3両ばかりおれに貸してくれりゃいいが、見ず知らずのおれにゃ、貸してはくれめぇな。おや、今出てった木戸のしまりがしてねぇようだな) ちょっと、手で押すと、ギーッと戸が開きました。中へそっと入ってみるとそう広い庭ではありません。雨戸の端のほうが少し開いているのは、いま若い衆が出てきたところのようです。こっそり上がって廊下づたいにやってまいりまして、居間らしい座敷の襖をあけますと、なにかおめでたいことでもあったのか、食べ物や徳利が、お膳の上に置いてあります。この男、腹がへってる上に酒好きですから、徳利を見るとたまりません。徳利をふってみると、まだたっぷり残っているのが4、5本もあります。これはありがたいとばかりに、そばにあった湯呑みについで飲み、すっかりいい気持になりました。するとそこへ、赤ちゃんがチョロチョロ入ってきました。

「あら、坊っちゃんですか。お可愛いことで、おじちゃんはね、いま入った泥棒ですよ。わかりますか? わかりますまいな……へへへ、うまうまですか、あげましょう、あげましょう。ほら、あーんとお口を開いて、おとと、お刺身ですよ、おいしい? よかったね。あんよはできますか、あはは、あんよはおじょうず、ころぶはおへた……」と、子どもの手をとると、自分は後ずさりしながらいっしょに歩きはじめました。ところが、ここの座敷の外が板の間になっていて、そこに穴倉が切ってありました。間のわるい時はしかたがないもんで、その穴倉のふたが少しずれていて開いたからたまりません。ばったり尻もちをついたとおもうと、そんなに深くはありませんが、中にどーんと「わぁー、こりゃ驚いた。なんだい、ここは湯屋か? 水がたまって冷たいなこりゃ…、おーい、番頭さん、もっと熱くしておくれ」このとき、子どもを探しながら、この家のご主人が、奥の座敷からでてきました。

「どこへ行ったのかな、坊やがいませんよ……、おや、こんなところにいた。なに? おじちゃんがどうしたって? おじちゃんてだれだい」「おーい、冷たくってしょうがねぇ、だれかきてくれーっ」「おやっ、だれか穴倉へ落ちたやつがいる。穴倉にいるのは、だれだ。金か?」「なんだと、おらぁ金なんかじゃねぇぞ、べらぼうめ」「それじゃ、だれだ? 酔っぱらっていばってやがるのは」「だれだもくそもあるもんか、おらぁ、今夜へぇった泥棒だ」「なに? 泥棒だと? たいへんだ、泥棒が穴倉へ落ちた!」とわめいたので、家じゅうがひっくりかえるような騒ぎになりました。

そのうち、気のきいた者が、鳶頭(とびがしら)のところへかけつけますと、あいにく頭が留守で、代わりにやってきたのが、彫り物だらけの威勢のいい男です。「あっしは力が5人力ありまして、すもうなんぞとったって負けたことがございません。泥棒なんぞ、つかまえて、ひねりつぶしてごらんにいれます。どこにおります? その泥棒ってぇのは」「穴倉ん中に落っこってるんだ」「穴倉? こりゃ、困ったな。穴倉へ下りるってのは危ないな。だんな、出直してまいります」「おまえさん、たいそう強いことをいったんだから、どうかつかまえておくれよ」「そうでござんすか。やい、やい、泥棒! あがってこい」「なにいってやがる。おれがいつ、てめぇんとこのものを盗んだ! ふざけるない。どんな強い奴だか知らねぇが、おりてきてみやがれ、こっちはやけくそだ、向こうずねだろうと、土手っ腹だと食らいついてやるからな」「こりゃ、旦那、危のうございます」「おまえさんは5人力あるんじゃないか。なにも泥棒に縄をひっつかまえて、突き出すっていうわけじゃない。ただ、穴倉から引きあげてくれりゃいい。どうだい、1両あげるから、なんとかしておくれ」「へぇへぇ…、やい、やい、上がってこい。上がってこなけりゃ、おれが下りてって、てめぇの頭をふんずけてやるからな」「おりてきてみろ、てめぇの股ぐらに食いついてやる」「こりゃ、困りましたな。酔ってるから、しまつにおえねぇ」「それじゃ、2両あげるから、なんとか引っぱりあげておくれ」「いえいえ、金なんぞどうでもようがすがね…、つまらねぇこといわねぇで、さっさとあがれ」「なにをぬかすか、おりてきてみろ、てめぇの足と足を持って、ぴりっとひっ裂いてやるぞ」「いやな奴だな…、旦那、どうもいけません。、用事を思い出したんで、ちょっと家に行ってきますから」「困るな、どうも。じゃ、おまえさんに3両あげよう、3両だ」

すると、穴の中から「なに? 3両? 3両なら、おれのほうからあがっていく」


「12月14日にあった主なできごと」

1702年 赤穂浪士の討ち入り…赤穂藩(兵庫県)の藩主だった浅野長矩(ながのり)が、江戸城の松の廊下で、吉良義央(よしなか)に侮辱を受けたために斬りかかった前年3月の事件で、浅野は切腹、藩はとりつぶしになったのに対し、吉良には何のとがめもありませんでした。この日の深夜、浅野の元家臣だった大石良雄ら赤穂浪士46名は、吉良邸に討ち入り、主君のあだを討ちました。浪士たちは翌年2月切腹を命じられましたが、人びとは浪士たちの行動に拍手かっさいし、『忠臣蔵』として今も芝居やドラマになって、語り継がれています。

1799年 ワシントン死去…イギリスからの独立戦争で総司令官として活躍し、アメリカ合衆国初代大統領となったワシントンが亡くなりました。

2003年 フセイン大統領の身柄確保…アメリカ軍は、イラク戦争で民家に隠れていたイラクの元大統領サダム・フセインの身柄を確保しました。裁判の結果死刑が確定し、3年後の12月30日に亡くなりました。

↑このページのトップヘ