児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年12月

「おもしろ古典落語」の100回目は、『尻餅(しりもち)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「ねぇー、おまえさん、おまえさんってば」「なんだよ」「なんだよって、もうすぐお正月がくるんだよ」「むこうが勝手にくるんだい、こっちが呼んだわけじゃねぇや」「よくもまぁ、そんな気楽なことがいってられるね。あたしが針仕事してるっていうのに、なんだと思ってるんだい。子どものものを繕うったって、みんなご近所の子どものものだよ。うちの子のものなんて、まるでありゃしない。せめてお正月には、親の気持ちとして、一枚でも買ってやりたいじゃないか。それなのに、おまえさんの働きがないから、端切れのひとつも買えやしない。おまえさん聞いてるのかい?」

「うるさいな、いいかげんにしろ」「いいかげんにしろじゃないよ……着物はまだしかたがないとしても、近所じゃ、もう餅つきがすんじまったよ。入口の徳さんとこじゃ、秋にあれだけ患っていながら、1斗の餅をついてるじゃないか」「たいしたもんだな」「感心してるばあいじゃないよ。貧乏じゃうちに負けない熊さんとこでさえ、5升の餅をついたよ」「餅ぐらい、どうでもいいだろう」「よくないよ。うちの子が帰ってきて『おっかさん、うちはいつ餅をつくんだい?』って聞かれるたびに、身を切られるようにつらくてさ……せめて、餅をつく音だけでもさせてやったらどうなの」

「じゃ、なにかい、音を出すだけでいいのか?」「そりゃ、気のもんだからさ。少しだけでも…」「よーし、それじゃ音だけさせてやらぁ」「ほんとうかい? うれしいね。で、どのくらいついてくれるの?」「そうだな、おまえがいいっていうまで、ついてやらぁ」「そんなら、お米を頼んでこようか」「ばぁか、米が買えるくれぇなら、なにも心配なんかするもんか」「だって、いま、音だけでもさせてやるっていったじゃないか」「そうよ、近所に餅をつく音をきかせてやりゃいいんだろう」「そうだけど…、どんなことするのさ」

「今夜おそく、子どもが寝たのをみはからって、おれが外へ出て『八五郎さんの家はこちらでございますか、餅つき屋でございます』って、大きな声でいうんだ。そうすれば、近所のやつらも、うちでも餅をつくなと思うだろう」「そんなことしたって、かんじんの餅つきの音がしないじゃないか」「それをさせるんだよ」「どうやって?」「おまえはうつぶせになって、寝ころべ。そうすりゃ、尻が上にくる」「うん」「その尻をおれがたたいて、餅つきの音をだすんだ」「あら、ほんとに餅をつくんじゃないのかい」「あたりめぇよ。だからいったろう、餅つきの音だけさせてやるって」「あきれたねぇ、ほんとにおまえさんって人は、ろくでもないことばかり考えるんだから…」

てなことで、夜中に餅つき屋が登場します。「へぇ、餅つき屋でございます。遅くなってもうしわけございません」「まぁまぁ、餅つき屋さん、ごくろうさま。さぁ、なかにはいって」「おい、おっかぁ、餅つき屋さんも寒いだろうから、いっぺん飲んで暖まってもらえ。それから、そこに紙に包んだもんがあるだろう、それを持ってこい」「おまえさん、紙につつんだものって?」「餅つき屋さんへの祝儀じゃねぇか」「あらっ、この辺じゃ祝儀を出す家なんて一軒もないよ、景気がいいねぇ」

「親方ありがとうございます。こんなにたくさんのご祝儀をいただきまして、仕事にもはげみがでます」「それじゃ、餅つきにかかってもらいましょうか」「それじゃ、おめぇ、臼(うす)をすえろ」「(小さな声で)臼ってなんだい?」「おまえの尻だよ」「尻って…、おまえさん、今夜は寒いからかんにんしておくれよ」「ばかいえ、ここまでしこんでおいて、いまさら止められるか」「ほんとっ、ろくでもないこと考えたもんだ」「では、はじめます。あっ、おかみさん、小桶に水を一ぱいいただきます」「そんなもん、どうするの」「最初に臼をしめらせるじゃないか」「お尻を出すだけでも寒いのに、水なんかつけられてたまるもんかね」「がまんしろいっ、こうしなきゃ、餅つきにならねぇ」

こうして、八五郎はいせいよく、お尻をたたきはじめました。イョッポン、ポンポン…イョッポン、ペッタン、ペッタン…。コラショ、ヨイショ…そらヨイヨイヨイ。そのうち、かみさんの尻は真っ赤になりました。「ああ、痛い、痛い…餅つき屋さん、もう少しやさしくたたいてくれませんか」「いいえ、こうしませんと、せっかくのお米にねばりがでません」「おまえさん、たたくところを替えておくれよ。同じところばかりだと痛くってしょうがないから」「だまってろ、臼が文句いうやつがあるか」「そろそろつき上がりました。じゃあ、こっちに空けますね…と、餅をかえたつもり…」「餠つき屋さん、あとどのくらいつくの?」「へぇ、あとふた臼ばかり」

「えっ、ふた臼も。おねがいだから、あとの二臼はおこわにしてちょうだい!」


「12月28日にあった主なできごと」

1180年 興福寺焼き討ち…平清盛は、5男重衡に命じ興福寺を焼き討ちしました。火は隣の東大寺にも燃え移り、大仏殿をはじめ貴重な宝物が焼失しました。同年4月、源頼政が反乱をおこした際、興福寺の僧兵が加担したことに対する報復でした。

1682年 天和(てんな)の大火…江戸で大火災がおき、3500名もの人が焼死しました。当時16歳だった八百屋の「お七」一家も焼け出されて吉祥寺に避難したとき、お七は寺の小姓と恋仲になりました。火事がおこれば、また小姓にあえるかも知れないと、寺小姓に会いたい一心であちこちに放火したことで、お七は火あぶりの刑になりました。この話はのちに、井原西鶴がとりあげ、浄瑠璃や歌舞伎の題材になって有名になったことで、この大火は「お七火事」ともよばれています。


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本年のご愛読をありがとうございました。
新年は7日からスタートする予定です。
皆さま、良いお年を !

今日12月27日は、双子の兄・白井松次郎とともに「松竹」を創業し、日本の興業界をリードした実業家の大谷竹次郎(おおたに たけじろう)が、1969年に亡くなった日です。

1877年京都の興業師の子として生れた大谷竹次郎は、幼いころから、双子の兄松次郎と芝居小屋で育つうち、母が経営をまかされていた小屋の売店を手伝うようになりました。1895年に、父が新京極「阪井座」の出資者になると、竹次郎はその代理として、18歳の若さで興行師として第一歩をふみだし、1900年には、京都歌舞伎座の座頭となりました。

1902年、兄と自分の名から1字ずつとって「松竹合名会社」を設立すると、1906年に「京都南座」の経営権を握ったのをはじめ、京都、大阪のほとんどすべての劇場をその勢力下におさめました。まもなく、東京「新富座」の買収によって東京にも進出をはたしたことで、竹次郎が関東を、松次郎が関西を受け持つようになりました。

東京の多くの劇場の経営権を握った竹次郎は、1914年「歌舞伎座」の社長に就任すると、舞台のワイド化をはかって、その近代化に成功しました。第1次世界大戦後の1920年には、娯楽の花形となりつつあった映画に進出、「松竹キネマ」を設立して、劇作家小山内薫を招いて映画俳優学校を開くなど、「松竹調」という独自の作風を確立して、松竹映画の黄金時代をきずきました。1937年に「松竹」社長に就任(松次郎は会長)し、演劇と映画という戦前の興行界をリードしました。

太平洋戦争後は、松竹会長として活躍するいっぽう、欧米を中心に歌舞伎海外公演にも力を入れ、世界に「カブキブーム」を引き起こしたことで、1955年に、歌舞伎の伝承発展への貢献を認められ、文化勲章を受章しています。

大谷の成功は、独占した劇場と俳優を休みなく回転させ、ぜいたくな顔ぶれと、道具にも金を惜しまず、月ごとの興業、襲名や追善に名をかりながら豪華さを打ち出したことです。そして、魅力ある舞台にするために、すぐれた作家や演出家、人気俳優にはたくさんの収入を得られるようにし、これまで芝居に縁のなかった女性観客層を発掘したことは、高く評価されています。


「12月27日にあった主なできごと」

1571年 ケプラー誕生…惑星の軌道と運動に関する「ケプラーの法則」を発見したケプラーが生まれました。

1780年 頼山陽誕生…源平時代から徳川にいたる武家700年の歴史を綴った 「日本外史」 を著した学者・歴史家で、詩人・書家としても活躍した頼山陽が生まれました。

1822年 パスツール誕生…フランスの細菌学者・化学者で、狂犬病ワクチンを初めて人体に接種したことなどの業績により「近代細菌学の開祖」といわれるパスツールが生まれました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 67]

昔、ある山里の村に貧しい若夫婦と、おばあさんの3人が住んでいました。ある年のおおみそかに、おばあさんは若いお嫁さんに「明日から、新しい年になる。これからは、あんたが囲炉裏(いろり)の火を絶やさないように、気をつけておくれ。もしその火が消えれば、あんたはこの家にいられなくなるからね」と、いいました。そのころは、家の囲炉裏の火を絶やさないようにするのは、その家の主婦の大切な仕事のひとつで、おばあさんはその仕事をお嫁さんにゆずろうとしたのでした。

お嫁さんはその夜、囲炉裏の火が消えてしまわないかと心配で寝つかれません。それで夜中に布団をぬけ出して、囲炉裏の灰をかきわけてみると、なんと火が消えているではありませんか。こまったお嫁さんは、どこか近所で火種(ひだね)をもらおうと外に出てみましたが、どこも寝静まっています。お嫁さんは、とても寒い夜でしたが、むちゅうで真っ暗闇の道を歩き出していました。

しばらく歩いていくと、遠くのほうで、チロチロ赤く光るものがあります。勇んで走っていくと、誰かがたき火をしているのがみえました。近づいてみると、鬼のお面をつけた数人の男たちが、大きなたき火のまわりで踊っているのです。お嫁さんは恐ろしくて足がすくみそうでしたが、思い切って、声をかけました。「すみませんが、火種を分けていただけないでしょうか」 男たちが、いっせいにお嫁さんを見ました。炎にてらされて、いっそう怖そうみえます。

「火種をきらしてしまったら、家を追い出されてしまうのです。どうか、お願いします」 男たちは、なにやら話し合っていましたが、その中の頭らしい人がいいました。「火種はわけてやろう。そのかわり、一つ聞いてもらいたいことがある。実は仲間の一人が亡くなったので、その死体を3日間だけ預かって貰いたいのだ」 お嫁さんは、火種がもらえるならと、気味の悪い死体を預かることにしました。こもにくるまった死体をせおって家に帰ったものの、死体を隠すような場所はありません。しかたなく、土間にある焚きもの置き場のワラの中に死体を隠したのでした。そして、もらった火種を囲炉裏に移すと、ほっと胸をなでおろして布団の中に入りました。

さて、年が明けた翌朝のこと。3人は新年のあいさつをすませ、雑煮を食べて皆で正月を祝いました。でもお嫁さんは、土間にあるワラの中の死体が気になって、雑煮ものどを通りません。ちらり、ちらりと見るものですから、旦那に、不審に思われてしまいました。「どうも、あそこになにかあるようだな?」 旦那は立ちあがって、ワラの山をのぞいたのです。お嫁さんは思わず目を伏せてしまいました。「こりゃぁ、なんだ?」 「すいません、それは私が昨夜……」 とわけを話そうと旦那の方を見てびっくりぎょうてん。旦那が抱えていたのは、子どもの背丈ほどもある大きな金塊でした。

「なにか、わけがあるようだね。話してごらん」と、おばあさんにいわれて、お嫁さんは真夜中に火種を絶やしたこと、たき火をしていた鬼の面の男たちのこと、死体をその男たちから預かったことまで正直に話しました。それを聞いたおばあさんは、にっこり笑って「その方たちは、鬼のお面をかむって年越しの宴をしていた『七福神』だったのじゃよ。そこへあんたがいったので、福をさずけてくれたにちがいない」

それからというもの、一家は見違えるほど豊かになりました。


「12月26日にあった主なできごと」

1542年 徳川家康誕生…応仁の乱以降100年以上も続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を、さらに磐石なものとする江戸幕府を開いた徳川家康が生まれました。

1758年 松平定信誕生…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」を行った松平定信が生まれました。

1888年 菊池寛誕生…『屋上の狂人』『父帰る』『恩讐の彼方に』などを著した作家で、文芸春秋社を創業し、芥川賞・直木賞をを創設した菊池寛が誕生しました。

1890年 シュリーマン死去…ホメロスが紀元前800年ころに書いたといわれる 「イリアス」 「オデュッセイア」 に出てくる伝説の都市トロヤが、実在することを発掘によって証明したドイツの考古学者で実業家のシュリーマンが亡くなりました。

今日12月25日は、戦前は経済学者、植民政策学者として「戦争反対」をうったえ、戦後は東大総長を6年間つとめた矢内原忠雄(やないはら ただお)が、1961年に亡くなった日です。

1893年、愛媛県今治市に医者の子として生まれた矢内原忠雄は、教育熱心な父の影響で、神戸のいとこの家から旧制神戸中学を卒業。上京して旧制第一高校に在学中、無教会派のクリスチャン内村鑑三に入門すると、キリスト教への信仰を生涯つらぬきました。東京帝国大政治学科に入学後は、吉野作造の民本主義や、人道主義的な立場から植民政策学を講じていた新渡戸稲造の影響を受け、独自の思想を深めていきました。

1917年に東大卒業後、住友総本店に入社し、別子銅山に配属されましたが、1920年、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部の助教授となりました。イギリス・ドイツ、フランス、アメリカへの留学を経て1923年に教授に就任、植民政策を講ずることになると、台湾などの実情を調査するうち、いかに民衆がみじめな生活をしているかを実証的に分析し、その改善をもとめました。そんな矢内原の姿勢は、「満州事変」以後急速に軍国主義的な風潮が強まる中で、体制との緊張関係を深めていくこととなります。

1937年、盧溝橋事件の直後、『中央公論』誌に「国家の理想」と題する評論を寄せて日中戦争の開始を批判した内容や、今日では常識化した民主主義の理念が先取りして述べられている講演内容が、軍部や学内の御用学者に反発をまねき、教授辞任を余儀なくされました(矢内原事件)。辞職後は伝道のための雑誌を発行し、自宅に土曜学校を開いてキリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けたのでした。

敗戦後の1945年11月、東大に復帰した矢内原は、経済学部長、教養学部長を歴任後、1951年に東京大学総長に選出されました。1957年まで2期6年務めるなかで、学問と大学の自由のために積極的に行動するいっぽう、学生のストライキに対しては厳しい姿勢を示し、ストライキを計画指揮した学生は原則として退学処分とする「矢内原三原則」を打ち出しました。この原則は東大紛争で廃止されるまで、学生と大学当局の間でしばしば対立の原因となったことはよく知られています。

キリスト教の信念にもとづき、教育を通してわが国の民主化と平和につくそうと戦いつづけた68年の生涯でした。


「12月25日にあった主なできごと」

800年 カール大帝即位…カール大帝 (シャルルマーニュ)は、この日聖ピエトロ寺院で、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。大帝は、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成、フランク王国は最盛期を迎えました。

1642年 ニュートン誕生…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが生まれました。

1897年 赤痢菌の発見…細菌学者志賀潔は、この日赤痢菌の病原菌を発見したことを「細菌学雑誌」に日本語で発表しました。しかし、当時の学会はこれを承認しなかったため、翌年要約論文をドイツ語で発表、この論文で世界的に認められることになりました。

1926年 大正天皇崩御…1921年には当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任していましたが、この日大正天皇が亡くなり、裕仁親王が天皇の位を受けついで「昭和」となりました。

1928年 小山内薫死去…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が亡くなりました。

1977年 チャップリン死去…イギリスに生まれ、アメリカで映画俳優・監督・脚本家・プロデューサーとして活躍したチャップリンが亡くなりました。

今日12月21日は、室町3代将軍足利義満に協力して南北朝合一に尽力するなど、守護大名として活躍した大内義弘(おおうち よしひろ)が、1399年に亡くなった日です。

1356年、周防・長門国(ともに現・山口県)の守護だった父弘世の子として生れた大内義弘は、1371年に4000人の兵を率いて、九州探題を務めていた今川貞世に協力して九州を平定しました。この功績により豊前国(福岡東部・大分北部)の守護となり、1380年に父が亡くなると石見国(島根県)も兼任し、4国の守護大名となりました。

室町幕府は、斯波・畠山・細川・一色・山名氏ら有力守護大名の寄合所帯で、将軍の権力は弱いものでした。そのため、3代将軍足利義満は、権力の強化をめざして花の御所を造営したり、直轄軍の奉公衆を増強しました。さらに有力守護大名の弱体化をはかるために、1379年には細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川氏を失脚させ、1391年には「明徳の乱」をおこして、11国の守護を兼ねた大勢力の山名氏を分裂させることに成功し、わずか3国としました。こうした一連の義満の権力強化策に義弘は協力し、1392年には南朝との仲介を行って南北朝合一にも尽力しました。その功績によって、和泉国(大阪府)と紀伊国(和歌山県)の守護職も与えられ、あわせて6つの国の守護大名となったのです。

義弘は、対明貿易や朝鮮との交易にも積極的に取り組み、当時大陸沿岸を荒らしまわっていた「倭寇」を取り締まるために派遣軍を送ったり、高麗政府に兵器を送るなど協力につとめています。義弘は、あくまで足利将軍家への忠節を誓い、1395年に義満が出家した際にもそれに従って出家、入道となるほどでした。

ところが義満は、義弘の勢力拡大を警戒するようになり、二人の間に対立が生れるようになりました。1397年、義満は北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めましたが、義弘だけは「武士は弓矢をもって奉公するもの」と武人としての信念を貫いてこれに従いませんでした。義満は、1399年には上洛命令を出すなどの挑発を行い、これを義弘が拒否したことが二人の対立を決定的なものにしました。追い込まれた義弘は、東国を治める長官(鎌倉公方)の足利満兼とはかって挙兵(応永の乱)をしましたが、堺の城で敗れ、気骨ある生涯を閉じました。

こうして、大内氏の失脚により、室町幕府は安定期をむかえることになりました。


「12月21日にあった主なできごと」

1339年 南北朝時代はじまる…後醍醐天皇が吉野に移り「南朝」を開いたため、室町幕府を開いていた足利尊氏は新しい天皇を立てて「北朝」として、朝廷の分裂時代がはじまりました。南北朝時代は、室町幕府3代将軍足利義満が1392年、北朝に統一するまで続きます。

1909年 松本清張誕生…『点と線』『ゼロの焦点』など、「社会派推理小説」と呼ばれる傑作を次々にヒットさせた松本清張が生まれました。

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