児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年11月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 61]

むかしある山里に、深い森の中へ入って漆(うるし)を採り、それを売ることで暮しを立てている兄弟がいました。漆は、漆の木に鎌(かま)で傷をつけて、そこからしみ出る漆を木のへらなどでかきあつめて採るのです。この漆を、木でこしらえたお盆やお椀などに塗ると、とてもきれいで長持ちするため、漆はよい値段で売ることができました。でも、漆の木には限りがあります。だんだん採れなくなって、生活が苦しくなってきました。

ある日、兄はこれまで行ったことのない山奥へはいっていくと、谷川の淵へ出ました。霧のこもった淵は、滝からすこし下がったところにあって、そこだけが水が流れず、深くたまっているようでした。兄は淵のへりをひょいひょい渡っているうちに、うっかり鎌を落としてしまいました。「しまった、こいつはこまったぞ」でも、山で育ち、川で泳ぎ、身体に自信のある兄は、すぐに裸になって水に飛び込んで、鎌を探しに青々とした淵の底へもぐっていきました。

「や・や・や!…これはどうしたことだ」鎌が落ちていた底には、何かトロリとしたきみょうなものがたまっています。「もしや、漆では……」兄は、そのトロリとしたものをすくい採ると、水面に浮かび上がりました。「まちがいない、しかも、つやといい、ねばりといい、こんなできのよい漆は見たことがないぞ。そうか、このあたりは漆の木がたくさんあるな。漆の木の汁が雨で谷川に流れて、この淵にだんだんたまっていったんだ。漆はくさったりしないから、こうして残っていたにちがいない」考えているうち、うれしさがこみあげてきました。思った通り、町に持っていくと、品質のもっとも良い「上漆(じょううるし)」といわれて、たいそうなお金を手にすることができました。「わぁ、これさえあれば、わしは一生、ラクして暮らせるぞ。わっはっはっはっ…」

その日から、兄はまるで人が変わったように昼間から酒を飲み出し、ぶらぶら暮しはじめました。「おかしいな、兄さんは、いつもいっしょに漆採りをしてたのに、このごろは、わしに隠れて山へ行く。それに、近ごろは、ずいぶん漆でもうけているようだ。何かわけがあるはずだ」そう思った弟は、どこで漆をみつけたのか尋ねますが、兄は決して教えようとしません。そこで弟は、兄の後をつけることにしました。そうとは知らない兄は、いつものように淵へやってきてもぐり、両手にたっぷり漆をとって浮かんできました。岩かげからようすを見ていた弟は、「そうか、漆は、ここにあったのか。自然にたまった漆だ、誰がとろうと文句はあるまい。ようーし、兄さんがいない間に、わしもとろう」こうして、弟も淵の上漆を採るようになり、兄と同じように山に入ることを忘れて、ぶらぶら暮らすようになりました。
 
さて、弟のようすが変わったことで、淵の漆を採っていることに気づいた兄は、おもしろくありません。考えに考えたすえに兄は、大きな木彫りの竜の像を、彫り物師にこしらえてもらうことにしました。こうして完成したホンモノそっくりの竜を谷川の近くまで運ぶと、兄は淵の底に沈めました。滝の近くなので、竜の長いからだは、水の力でのたうちまわったようにみえます。おまけに目は金や銀にかがやき、今にもかみついてきそうです。

そのよく朝のこと。弟が淵に漆を採りにもぐると、兄の沈めた竜の像に驚いて、いちもくさんに逃げ出しました。これを見ていた兄は「大成功だ、これで独り占めできるぞ」と、にやりと笑いながら淵にもぐります。ところが、その木彫りの竜が、動き出して兄に襲いかかってきました。「こ、こりゃどうしたことだ。そんなばかな、気の迷いだ」竜に構わず漆をとろうとすると、ガォーッ、ガォーッと火のような舌をだして、漆をとらせません。兄は、はっとしました。でも、すぐに思い直しました。「なかなかの出来ばえだ、まるでホンモノそっくりだ」ところがその時…、大きな真っ赤な口をあけて、いきなり兄を飲み込もうとするではありませんか。木彫りの竜は、いつのまにか何倍もの大きさになって、魂が入っていたのです。「ひゃーっ!」 兄はびっくりぎょうてん、「た、助けてくれーっ」と叫び声をあげながら、命からがら逃げ出しました。

淵に沈んだ漆は、もうその後は、だれも採ることができませんでした。


「11月8日にあった主なできごと」

1895年 エックス線発見…ドイツの物理学者レントゲンが、実験中になぞの放射線を発見し「�]線」と名づけました。�]線に感光するフィルムを使って撮影した写真(レントゲン写真)は、肺など身体の内部をうつして診察に役立たれています。

今日11月7日は、中国・清の政治家で、「日清戦争」の講和条約(下関条約)の全権大使として調印を行った李鴻章(り こうしょう)が、1901年に亡くなった日です。

1823年安徽(あんき)省の合肥に生れた李鴻章は、1847年、科挙の最終合格者である「進士」になりました。1853年に太平天国の乱(キリスト教の信仰をもとに洪秀全を天王とし、清王朝を倒して漢民族の王朝を復興させようと起こした反乱) が広まったことで郷里にもどり、団練という自衛軍を組織して太平天国軍と戦いました。

やがて、師とうやまう曽国藩のもとで軍務につき、1862年には曽国藩の推せんで江蘇地区の役人となって民間の義勇軍を率いて、上海防衛に功績をあげ、1863年から1864年にかけて蘇州や常州を奪回しました。さらに、太平天国鎮圧後におこった秘密結社「捻軍(ねんぐん)」をも鎮圧する功績を上げ、1870年には、曽国藩の後継として直隷総督、北洋大臣に就任しました。こうして以後25年にわたり、この地位を保ち、清朝の重臣筆頭として西太后の厚い信任を得ました。

その間、「洋務運動」という、清朝の支配を守るために西洋の軍事科学技術を摂取し、富国強兵をめざしました。特に李鴻章の率いる「准軍(わいぐん)」は近代武装され、清朝最強の陸軍となり、有能な人材を育てて清末の外交を独占するほどでした。

しかし1894年、李氏朝鮮に対する主権をめぐって清と日本が対立した際、李鴻章は洋務運動の成果がまだあがっていないと開戦には反対の立場を取りましたが、両国の主戦派によって「日清戦争」の火ぶたが落とされました。そして敗戦後の講和交渉で全権を任された李鴻章は1895年3月に下関で開かれた講和会議の交渉を行い、4月に日清講和条約(下関条約)の調印を行ったのでした。そしてこの敗戦によって、30年もつづいた洋務運動は挫折を余儀なくされました。

その後李鴻章は、その地位は追われましたが、政治への影響力は持ち続け、特に外交問題には大きな役割を演じ続け、1900年に起こった義和団事件の際には再び全権を任されて諸外国との交渉に当たり、1901年9月に辛丑(しんちゅう)条約を締結を最後の仕事とし、まもなく病死したのでした。


「11月7日にあった主なできごと」

1336年 室町幕府始まる…足利尊氏が政治方針を示した「建武式目」を制定し、室町幕府が成立しました。光明天皇(北朝)を立て、政権を握った尊氏は、後醍醐天皇(南朝)を吉野に追いやったため、南北朝が対立することになりました。

1867年 キュリー夫人誕生…ラジュームを発見して夫ピエールと共にノーベル物理学賞をもらい、夫の死後ラジュームの分離に成功してノーベル化学賞をえて、2度もノーベル賞を受賞した女性科学者のマリー・キュリーが生れました。

今日11月6日は、怪盗紳士「アルセーヌ・ルパン」シリーズの作者として名高いフランスの小説家ルプランが、1941年に亡くなった日です。

1864年、フランス北西部ノルマンディー地方の都市ルーアンで生まれたモーリス・ルブランは、地元の高等中学を卒業後、織機製造会社に勤めましたが、やがて作家をめざしてパリに出ました。新聞記者をしながら純文学作品を書くうち、文壇で多少の評価を得るようになりましたが、たいした収入には結びつかず、貧乏作家生活が40歳近くまで続きました。

1904年、友人の編集者に大衆小説の執筆を依頼されたことから転機が訪れました。通俗作家への転向に気が進まないながらもルブランは、当時の市議会議員アルセーヌ・ロバンの名をもじって、「泥棒紳士」アルセーヌ・ルパンを創り出しました。これが1905年に発表された短編『アルセーヌ・ルパンの逮捕』で、盗賊でありながら冒険家で探偵でもある魅力的な作品で、ルパンはたちまち人気者になりました。

出版社の要請で続編を書くことになったルブランは、『アルセーヌ・ルパンの冒険』にはじまり、殺人現場に残されていた事件をあつかった1910年の『813』、政界をふるえあがらせる疑獄事件をえがいた1912年の『水晶の栓』などの作品によって、世界的なベストセラー作家となりました。結果的に、その後のルブランの作家人生は、ルパンシリーズへ注ぎこむことになり、20巻もの長編作品となって、コナン・ドイルの『シャーロックホームズ』シリーズがイギリスを代表する探偵小説のように、フランス人の民衆の心をつかんでフランスを代表する探偵小説シリーズとなったのでした。

「国民的英雄・ルパン」の創造によってレジオンドヌール勲章を授与されたルブランは、亡くなる数週間前に、「ルパンが私のまわりに出没していろいろ邪魔をする」という内容の被害届を警察署に出したことで、警察官が24時間体制で警備したと伝えられています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、ルパンシリーズの『奇巌城』(菊池寛訳)などを読むことができます。


「11月6日にあった主なできごと」

1494年 スレイマン誕生…オスマン帝国第10代スルタンとして13回にもおよぶ遠征の末、地中海の制海権をにぎって「世界の帝王」と呼ばれたスレイマンが生まれました。

1945年 財閥解体…太平洋戦争敗戦後に日本を占領し、間接統治を行なっていたGHQ(連合国軍司令本部)は、三井、三菱、住友、安田など15財閥83社の解体を指令しました。これらの財閥が、日本経済をささえ戦争をすすめる原動力になっていたと判断したためです。しかし、財閥は解体されたものの財閥の流れをくむ企業の大半は、大規模な企業グループを形成していきました。

1956年 スエズ戦争停戦…スエズ運河の国有化宣言をしたエジプトに対し、イギリスとフランスが反対を決議。さらにエジプトと対立関係にあったイスラエル軍がエジプトに侵入したのをキッカケに、英仏軍も武力攻撃を開始してスエズ戦争(第2次中東戦争・スエズ動乱)が始まりました。エジプトの抵抗、アラブ諸国のエジプト支持、国際連合の批判などにより、この日英仏は軍隊を引き上げることに同意しました。

今日11月5日は、新劇運動をリードする劇団「芸術座」を結成するなど、評論家・劇作家として活躍した島村抱月(しまむら ほうげつ)が、1918年に亡くなった日です。

1871年、島根県(現・浜田市)に鉱石の精製業を営む家の長男に生れた島村抱月(本名・佐々山滝太郎)でしたが、子どものころに父の事業が失敗、小学校は首席で卒業したものの上級学校に行けませんでした。それを惜しんだ松江地検の島村検事が養子とした上に資金援助をしてくれたことで、上京して東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学、坪内逍遥らに学びました。卒業後は、坪内のもとで「早稲田文学」の編集にたずさわり、多くの評論を書きました。1898年には読売新聞社会部主任をへて、母校文学部の講師となっています。

1902年から3年間、母校の海外留学生としてイギリスとドイツに留学し、心理学、美学、演劇を学んで帰国すると、文学部教授として美学や文芸史を教えながら「早稲田文学」の編集をおこない、自然主義文学の近代化をおし進めました。1906年には坪内とともに文芸協会を設立し、1909年には講義録や論文を集大成した評論集『近代文芸之研究』を出版するいっぽう、新劇運動にも参加して、ヨーロッパの近代劇をとりいれることにつとめました。

ところが1913年、女優の松井須磨子との恋愛が問題視された抱月は、母校や恩師の坪内と決別し、松井とともに劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成しました。まもなく、抱月が翻訳したイプセンの『人形の家』を全国巡業するようになり、1914年にはトルストイの小説を基に抱月が脚色した『復活』が評判になり、通算で444回も公演を重ねるほどでした。とくに劇『復活』の中で松井が歌う「カチューシャの唄」<♪ カチューシャ 可愛や 別れのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを ララかけましょか> は大ヒットとなり、歌詞の「カチューシャ 可愛や 別れのつらさ」は爆発的な流行語となりました。

翌1915年にはツルゲーネフの『その前夜』を、1917年にはトルストイの『生ける屍(いかばね)』を上演。これらも劇中歌の『ゴンドラの唄』<♪ いのちみじかし 恋せよおとめ あかきくちびる あせぬまに 熱き血潮の 冷えぬまに あすの月日の ないものを>『さすらいの唄』<行こか 戻ろか オーロラの下を ロシアは北国 はてしらず> をヒットさせました。こうして新劇の大衆化に大きく貢献した抱月でしたが、スペイン風邪にかかって急逝してしまいました。松井は抱月の死後も芸術座の公演を続けましたが、抱月の死の2か月後、後を追うように自殺したため、座も解散を余儀なくさせられました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、島村抱月翻訳による「人形の家」とその解説などを読むことができます。


「11月5日にあった主なできごと」

1688年 名誉革命起こる…国王ジェームズ2世に反発したイギリス議会はクーデターを起こし、次の国王としてウイリアム3世(オランダ総督オレンジ公)とメアリー2世夫妻を招き、夫妻は軍隊を率いてイギリスへ上陸しました。ジェームズ2世はフランスに亡命し、流血のないまま新王が即位したため、「名誉革命」といわれています。

1922年 ツタンカーメン王墓発見…イギリスの考古学者カーターが、古代エジプト18王朝(BC1340年頃)18歳で亡くなったツタンカーメン王の墓を発見しました。3000年以上の歴史を経てもほとんど盗掘を受けておらず、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめ、副葬品の数々をほぼ完全な形で出土しました。そのほとんどは「カイロ博物館」に展示されています。

「おもしろ古典落語」の92回目は、『水屋(みずや)の富(とみ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸時代には、本所、深川といった土地の低いところでは、井戸を掘っても塩気があったりして、飲み水には適していません。そこで、多摩川上流の水を船でくみ込んで運び、河岸についた水をかついで、長屋のおかみさんに売りにいく水屋という商売がありました。でも、この商売は、身体のつらいわりにはあまりもうかりません。ある若い水屋が腕組みしながら、ひとりでぼやいています。「わしも、かれこれ十年あまりも水屋をやってきたなぁ。少し楽になったら、かみさんをもらって…と思っても、いまだに楽になれない。このまま年をとったらどうしよう。ああ、金がほしいなぁ…、富くじで買ってみるか」

そのころ、ほうぼうに富くじがありまして、「江戸の三富」といわれたのが湯島の天神、谷中の感応寺、目黒の不動、大きい富はここに集まっていました。『突き日には 湯島湧くほど 人が出る』と川柳にありますように、当日は黒山の人だかりです。どう運が向いたものか、この水屋に千両富が当たってしまいました。「うわーッ、あ、あ、あたっちゃった」興奮して引き換え所に行くと、2か月待てば千両まとめてもらえるが、今すぐだと2割差し引かれて800両だといいます。水屋はすぐにほしいからと、持ち帰ることにしました。入るだけ腹巻に入れ、両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで足首を結んで袋にしにて小判を入れます。そいつを肩から首に巻いて背負うと、よたよたしながらわが家へ帰ってまいりました。

「あーありがてぇ、これだけありゃ、もう水屋なんてやめてもいい。しかし、すぐにやめるわけにはいかねぇな。だれかかわりをみつけてからでないと、長屋のおかみさんたちがこまってしまう。かといって、小判を背負っちゃ、水なんぞくめねぇし、井戸をのぞいたとたんに落っこちたら、もう二度と浮かんでこねぇしな。そうだ、この小判をどっかに隠しとけばいいんだ、隠しといて、知らん顔で商売に出りゃ、だれも気がつかねぇ……。待てよ、ひょっとすると、おれが富に当たったってことを、だれかが知っていて、留守のあいだにこっそり入ってきて、とられちゃったら困るしな、さぁーて、どうしよう……」いろいろなことが頭に浮かんで、よく眠れません。

そしてあくる日、小判を大きな風呂敷へくるんで、戸棚にあるつづら中のボロ布の下に、そうっーと隠してふたをしました。「うん、これなら大丈夫だな……。だが、待てよ、泥棒なんてやつは盗むのが商売だから、戸棚を開けて、つづらを出して、ふたをとって、ボロの下をかきまわすな、こりゃだめだ」そのうち神棚に乗せて、神様に守ってもらおうと気が変わりました。ところが、よく考えると、神棚に大切な物を隠すのはよくあること。泥棒が気づかないわけがないとまた不安になりました。結局、畳を一枚持ちあげで床板をはがし、その下の丸太が一本通っているのに五寸釘を打ちこみ、先を曲げて金包みを引っかけ、上へ床板をはって、畳をもと通りにおさめました。これで一安心と商売に出ましたが、すれ違った人相の悪い男が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、一時も気が休まりません。帰ってきて、夜になると、竹竿を持ってきて縁の下をかきまわし、コツンと金包の音がするかを確かめ、小判の真上あたりにふとんを敷いて寝ました。

ウトウトすると夜中に、「やいやい、起きろ! てめぇんとこは、富に当たったんだろ、さぁ、出せやい」「そ、そんなものは、あ、ありません」「なに? ないってことがあるか、八百両をどこへ隠した。出さねぇと、ほら、これが目に入らねぇか」キラッと光る氷の刃がほっぺたへ…。ブルブル震えながら、はっと起きると夢でした。強盗に入られるこんな夢を、毎晩のように見てうなされるうち、今でいうノイローゼになってしまいました。

ちょうどそのころ、隣の長屋に人相のよくない男が引っ越してきました。きまった仕事もないとみえて、朝から酒を飲んでぶらぶらしてるうち、水屋が毎朝、竹竿を縁の下に突っこみ、帰るとまた同じことをするのに気がつきました。これはなにかあると、留守に忍びこんで畳をはがすと、案のじょう金包み。取り上げるとずっしり重い。しめたと狂喜して、そっくり盗んでそのままどことなくドロンをきめこんでしまいました。日暮れに帰ってきた水屋、いつものように、竹竿(たけざお)で縁の下をかき回すと「おや? 音がしないぞ」畳をはがしてみると、金は影も形もなくなっています。

「あッ、とうとう盗られちゃった。やれやれ、これで苦労がなくなった」


「11月2日にあった主なできごと」

1755年 マリー・アントアネット誕生…フランス国王ルイ16世の王妃で、フランス革命の際に国外逃亡に失敗、38歳の若さで断頭台に消えた悲劇の王妃マリー・アントアネットが生まれました。

1942年 北原白秋死去…『赤い鳥小鳥』『あわて床屋』『からたちの花』など800編もの童謡の作詞を手がけた詩人・歌人の北原白秋が亡くなりました。

1973年 トイレットペーパー買いだめ騒動…10月におきた第4次中東戦争が引き金となり、第1次オイルショックと呼ばれる石油価格高騰がおこり、品不足への不安から全国のスーパーにトイレットペーパーを求める主婦が殺到しました。

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