児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年11月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 62]

ある村にお人よしの、老人夫婦がありました。二人はとても仲がよく、これまでに、二人がけんかをしたことを見たことがないと評判でした。その夫婦は、牛を2頭飼っていましたが、あいにく牛に引かせる荷車を持っていません。町へ出かける用事があるときは、頭を下げて、となり近所に借りるほかありませんでした。それがあまり重なると、近所の人も、ことわるようになりました。

「おじいさん、こうなったら牛を売りましょうよ。あの2頭を売って、そのお金で荷車を買えばいいじゃありませんか」「おばあさんのいう通りだ」おじいさんはさっそく、2頭の牛を引いて町をめざしました。すると、とちゅうで、町へ荷車を売りに行くという若い男に出会いました。「もしもし、お若い方、あんたの荷車をわたしに売ってくれないかな」「ちゃんとお金を払ってくれるなら、いいですよ」「あいにく、お金の持ち合せがなくてね、どうだね、この2頭の牛と、その荷車と取りかえてくれないかな」「2頭の牛と荷車1台?」若い男は、びっくりして叫びました。2頭の牛の値打は、荷車10台分以上もあります。「いいですよ、おじいさん、喜んで取りかえましょう」「そうかい、それはありがとう」若い男は、おじいさんの気が変わらないうちにと、大急ぎで立ち去りました。

おじいさんは、これで町まで行かなくてすんだとうれしくなりましたが、車を引かせるかんじんの牛を手ばなしたことに気がつきました。「まあ、いいや、わしが引っぱって帰ろう」けれども、なにぶんにも年寄りですから、すぐに息切れがしてしまいます。木かげで休んでいると、ひとりの農夫がヤギを2頭引っぱってやってきました。おじいさんは、農夫に声をかけました。「どうでしょう、この荷車と、そのヤギ1頭ととりかえてくれませんかな」「おじいさん、からかっちゃいけません。その荷車があれば、ヤギなんかいくらでも買えるでしょ」「ごらんの通り、わたしは疲れてしまって、車を引く力がありません」「わかりました。2頭のうち、好きなほうを連れてってください」「ご親切に、ありがとう」

おじいさんがヤギを連れてしばらくいくと、むこうからきれいな布で作った袋を、たくさん腰にぶらさげた商人がやってきました。それを見たおじいさんは、その袋がほしくなってたまらなくなりました。「もしもし、このヤギと、その袋ひとつと、とりかえてくれませんか?」「この袋ひとつと、ヤギ1頭! いいですとも、さぁどうぞ」またまた、おじいさんは、うれしそうにお礼をいって、袋をひとつ受けとりました。

しばらくいくと、大きな川に出ました。おじいさんは、渡し船に乗りましたが、向こう岸につくと船頭によびとめられました。「おいおい、おじいさん、渡し賃を忘れては困るね」お金のないおじいさんは、「船頭さん、この袋を渡し賃の代わりにとっておくれ」「ほう、こんなきれいな袋をくれるんですかい」渡し賃はわずかでしたから、船頭は大喜びでした。こうして、2頭の牛を引いて家を出たおじいさんは、とうとう手ぶらになってしまいました。それでも、いっこうに平気な顔で、のんびり家路につきました。

またしばらくいくと、馬や牛を売り買いする商人(ばくろう)たちが、道端でたき火をしながら、おかゆをすすっています。それを見るとおじいさんは、急におなかがすいてきました。「みなさん、おいしそうなおかゆですね、私にも一杯ごちそうしてくれませんか?」「いったいあんたは、どこの人かね」ばくろうの頭(かしら)がたずねました。「あそこに見える村の者です。町へ牛を2頭売りにいった帰りでしてね」「おかしな話だな、2頭も牛を売れば、たんまりお金が入っただろう。そんな金持ちが、何でこじきみたいに、おかゆをねだるんだい?」おじいさんは、それまでのことをすっかり話しました。ばくろうの頭は、面白そうに聞いていましたが、そのうち、まじめな顔でこういいました。「おじいさん、そんなわけならおまえさん、家に帰らないほうがいい。おばあさんは必ず怒って、おまえさんを家から追い出すから」

「なぁに、だいじょうぶですよ。うちのばあさんは、一度だって、私に文句をいったことがありませんから」「そんな馬鹿なことがあるもんか。おまえさんは、牛を2頭引っぱって家を出たんだよ、それが手ぶらで帰るんだ。この世の中に、それを怒らないかみさんがいるもんか」「それが、いるんですよ」「よし、それほどいうなら、一つ賭けようじゃないか。もし、おばあさんがおまえさんに文句をいわなかったら、わしの牛を10頭やろう。文句をいったら、おまえさんは、一生わしの手下になるんだよ」

こうしてばくろうの頭は、おじいさんについて、おばあさんの待っている家にいき、戸口に立って中のようすをうかがいました。「ただいま、おばあさん、今帰ったよ」「おや、おじいさん、お帰りなさい。牛はうまく売れましたか」「ああ、大きな荷車と取りかえたよ」「それはよかった、それで荷車はどこに?」「荷車はヤギととりかえた」「それはよかった、ヤギはどこに?」「ヤギは、きれいな袋ととりかえた」「それはよかった、その袋はどこに?」「袋は渡し船の船頭さんにやってきた」「それはよかった。おじいさん、遠い道をよく無事で帰ってくれましたね、さぁ、夕ご飯にしましょう。牛がいなくなったおかげで、これからは荷車を借りずにすみますよ、うまくいきましたね、おじいさん」

ばくろうの頭は、「賭けはわしの負けだ、明日、牛を10頭とどけよう」と、信じられないという顔で立ち去っていきました。


「11月15日にあった主なできごと」

1630年 ケプラー誕生…惑星運動に関する3つの法則を発見し、近代天文学におおくの業績をのこしたドイツの天文学者ケプラーが生れました。

1835年 カーネギー誕生…鋼鉄で利益をあげた大実業家で、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家カーネギーが生まれました。

1867年 坂本龍馬死去…薩長同盟を成立させ、徳川慶喜による大政奉還を実行させ、明治維新への道を切り拓いた土佐藩出身の志士・坂本龍馬が、33歳の誕生日に暗殺されました。

今日11月14日は、『日本人の精神史研究』『大和古寺風物誌』『愛の無常について』など、ぼう大な著作を残した評論家の亀井勝一郎(かめい かついちろう)が、1966年に亡くなった日です。

1907年、地元銀行の支配人の子として北海道函館に生まれた亀井勝一郎は、旧制函館中学から旧制山形高校(現・山形大学)に入り、ドイツ語でゲーテやハイネの文学作品に親しむいっぽう、共産主義思想に魅かれるようになりました。そして1926年、東京帝大美学科に入学すると、中野重治らと知り合って、共産青年同盟員として評論活動を開始しました。1928年、大学生活に意義をみいだせなくなって退学するとまもなく、治安維持法違反の疑いで投獄されてしまいました。

2年半の監獄生活を体験後に保釈されると、プロレタリア文学が芸術や自己の内心の声を軽んじていることに違和感をおぼえはじめました。1934年に最初の評論集『転形期の文学』、1937年に『人間教育』を刊行して、長い思索の末に転向に至る苦悩がうかがえます。やがて、日本の古典文化に関心が向くようになり、古代・中世の日本仏教との出会いによって開眼し、「文学界」同人となって宗教論、美術論、文学論などを連載しました。1943年に刊行した『大和古寺風物誌』は、今もなお、奈良の古寺を巡る人々のよきガイドブックとして定評があります。

太平洋戦争後も、日本的なものへの模索は続き、1959年から「文学界」に、ライフワークとして『日本人の精神史研究』の連載を開始しました。この作品は、1965年に菊池寛賞を受賞しましたが、翌年の死去により全6巻の予定が5巻目の半ばで未完となってしまいました。著作は多方面にわたり、ロングラセーとなっている『愛の無常について』などの人生論、『現代文学にあらわれた知識人の肖像』、『我が精神の遍歴』などたくさんの著作を残し、21巻もの「全集」に収められています。

なお、私もよく利用する吉祥寺北口にある「ハモニカ横丁」は、近くに住んでいた亀井勝一郎が、100店ほどの小さな店舗が立ち並ぶさまを、楽器のハーモニカの吹き口に例えて命名したそうです。


「11月14日にあった主なできごと」

1630年 貝原益軒誕生…独学で儒学、国文学、医学、博物学を学び、わが国はじめての博物誌 「大和本草」 などを著わした貝原益軒が生まれました。

1889年 ネルー誕生…イギリスの植民地だったインドを独立に導き、インド発展に全力を注いだネルーが生まれました。インドでは、ネルーの誕生を祝う日であるとともに「子どもの日」になっています。

1930年 浜口首相狙撃される…東京駅で狙撃されて重傷を負った浜口雄幸首相は、「男子の本懐」と語って話題になりました。軍部の反対を押しきって行った金輸出解禁などが右翼の反感を買ったのが原因でした。

今日11月13日は、『告白』や『神の国』などを著わし、キリスト教発展の基礎を築いた古代キリスト教会指導者・教父のアウグスチヌスが、357年に生れた日です。

キリスト教徒の母と異教徒の父の子として、北アフリカのヌミディアという田舎に生まれたアウレリウス・アウグスチヌスは、若いころから弁論の勉強をし、370年からカルタゴで弁論術を学びました。当時カルタゴは貿易などで栄える大都市だったことで、誘惑に負けてふしだらな生活をおくるうち、19歳のとき同棲中の女性との間に私生児が生まれました。アウグスチヌスは当時を回想した著書『告白』のなかで、「肉欲に支配され、欲望のままになっていた」と記しています。

しかし、この頃から自分の暮らしぶりと理想とのあまりの違いに苦しみ、当時流行していた「マニ教」というゾロアスター教系の宗教に魅かれ、徹底してその教義を追究しました。いっぽうキケロの『ホルテンシウス』を読んで哲学的な精神に燃え立ち、哲学を志しました。やがて、9年近くも続いたマニ教と距離をおくようになり、383年当時ローマ帝国の首都だったイタリアのローマに行き、翌年にはミラノに移って司教のアンブロシウスの説教を聞くうち、386年カトリック教会の信仰に生きる決意を固めました。その地で『幸福の生』など、初期哲学的対話論を著しています。

387年に洗礼を受けてキリスト教徒となった(回心)アウグスチヌスは、まもなく母が亡くなったことでアフリカに帰り、息子や仲間たちと修道者的な生活を行い、その時定めた規則は「アウグスチヌスの戒則」といわれ、キリスト教修道会規則の一つとなっています。391年には、北アフリカのヒッポという港町の教会の司祭になり、396年には司教になって以後30年以上にわたり、マニ教などの異教やキリスト教内の異端と論争を繰り広げました。その間、たくさんの講話や著書によって、全ヨーロッパに影響を与え、カトリック教会の理論的指導者として活躍しました。

400年ころからは、若いころの心の迷いを正直に告白した『告白』(11巻)を執筆し、さらに代表作となる『神の国』は、キリスト教最初の歴史哲学という大著で、人類史の中でイスラエルと教会の位置、キリストの予言とその成就がもたらした歴史の意味を明らかにしました。430年、ヨーロッパから北アフリカに侵入したゲルマン系のバルダン人によってヒッポが包囲される中で、古代キリスト教最大の教父は、76歳でこの世を去ったのでした。


「11月13日にあった主なできごと」

1523年 インカ帝国皇帝捕えられる…15世紀から16世紀にかけてペルー南部に栄えたインカ帝国は、クスコを中心に石造建築や織物、金銀細工など優れた文明を築きましたが、この日スペインのピサロは、帝国のアタワルバ皇帝をだまして捕えました。翌年インカ帝国は滅亡、スペインは南アメリカ大陸のほとんどを長い年月支配することになりました。

1614年 高山右近国外追放…織田信長、豊臣秀吉、徳川家康につかえた高山右近は、築城術もたけ茶道にも長じたキリシタン大名でしたが、禁止されたキリスト教を捨てなかったためにこの日国外追放、40日後にマニラで亡くなりました。

今日11月12日は、生涯にわたり蛙をテーマとした詩を書きつづけた詩人・草野心平(くさの しんぺい)が、1988年に亡くなった日です。草野は、宮沢賢治の才能を高く評価し、世に送り出したことでも知られています。

1903年、事業家の5人兄弟の次男として福島県上小川村(現・いわき市)に生まれた草野心平は、家の事情で心平だけが祖父母に預けられて育ちました。1919年、旧制磐城中学を4年で中退したのち上京、慶応普通科に編入しましたが、海外に活路を求めて英語と中国語を学んだ後、1921年中国の広東にある嶺南大学に進学しました。この頃から病死した兄の民平に刺激されて詩作をはじめ、1923年には二人の詩をおさめた『廃園の喇叭(らっぱ)』を自費出版しています。1925年におこった排日運動によって帰国すると、本格的に詩作を開始し、詩の雑誌『銅鑼(どら)』を主催しました。

1928年、第1詩集『第百階級』を刊行。そのほとんどが蛙をテーマにしたもので、蛙の姿に労働者の活力をなぞらえた作品は、詩壇に大きな衝撃を与えました。さらに、1938年に刊行した詩集『蛙』は、第1詩集以後の蛙の詩18篇おさめたもので、新聞社の校正係、焼き鳥屋、貸本屋など職業を転々としてきた、みずからの体験を蛙の姿に生かした作品が多く、まさに蛙の中に「人間」を見ようとする意気ごみが感じられます。

草野の残した詩集には、『富士山』『天』『日本砂漠』などがありますが、何といっても上記2作を含め、蛙をテーマにした作品群でしょう。1950年には『定本蛙』で第1回読売文学賞を受賞したほか、蛙に関する全作品を収録した『蛙の全体』もあります。

なお、草野は早くから、宮沢賢治を高く評価しており、その思いいれは半端なものでなく、「現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある天才は宮沢賢治だと言いたい。世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。彼の存在は私に力を与える」と記し、賢治の死後まもない1933年12月には、「最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線の上の一つの類まれなる大光芒で宮沢賢治があることはもう断じて誰の異義もはさめない一つのガンとした現実である」と追悼文に記しています。

なお、1987年には文化勲章を受章。没後の1998年には、心平の功績が称えられ、福島県いわき市立「草野心平記念文学館」が開館しています。


「11月12日にあった主なできごと」

1840年 ロダン誕生…19世紀を代表する彫刻家で『考える人』『カレーの市民』『バルザック』などの名作を数多く残したロダンが生まれました。

1866年 孫文誕生…「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」 と呼ばれている孫文が生まれました。
 
1871年 日本初の女子留学生… 岩倉具視を団長に、伊藤博文、木戸孝允ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、その中に後に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。
 
1898年 中浜万次郎死去…漂流の末アメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した中浜万次郎(ジョン万次郎)が、亡くなりました。
 
1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機 ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。

「おもしろ古典落語」の93回目は、『十徳(じっとく)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「こんちは、ご隠居さん。教えてください」「何だい、八っつぁん、いきなり『教えてくれ』ってぇのは?」「実はさっき、あっしは床屋でみんなと馬鹿っ話をしてたんですが、ご隠居さん、店の前を通って行きましたよね」「たしかに、用足しの戻り道だったからな」「そのとき、妙なものを着てましたよね。あっ、その後ろの壁にかかってる、あれです」「ああ、確かにこれを着てましたよ」「みんなが見てまして、『ご隠居の着ている妙ちくりんな着物は何てぇんだろう』ってことになりましてね。ところが誰もわからねぇんです。あっしも知らねぇもんですから、そーっとぬけだしまして、こちらに来たってわけなんです。あっしにだけ教えて下さい。で、床屋へもどって『あれはこういうもんだ』って自慢してやろうと思ってね」

「若い者が知らないのは無理もない。茶人や俳人が良く着るという『十徳』だ」「『十徳』っていうんですか、どんなわけで、そんな名がついたんですか」「うーん、それはわからないが、強いて理屈をこねると、わしがこれを着て立ち上がると、衣の如(ごと)く。座ると羽織の如くだ。如く(五徳)如く(五徳)で十徳だ」「なーるほど。こいつをみんなの前でやってみます」「おいおい、およしよ、これはこじつけなんだから」「いいえ、構いません。どうせ誰も知らねぇんだから…」

「みんな、まだいるか」「どうしたんだ、いつの間にかいなくなったな、どこへ行ってた?」「利口になってきたのさ、ご存じか? さっきご隠居さんが通っていった時に着ていたものを」「そいつは、誰も知らなかったじゃねぇか」「ところが、おれは知っていた。『十徳』よ 」「ああ、そうかい」「ここでだ、『どういうわけで十徳なの?』って聞いてみてくれ」「やだよ」「そんなこといわずに、聞いてくれよ」「じゃ、どういうわけで『十徳なんだ』」「あれを立って着てると、衣のようだ。ところが、座ると羽織のようだな。で、よう(四)だとよう(四)だで『や(八)~だ』」「やなら、よしなよ」「ちょっと待ってくれよ。あれれ、二つ足りなくなっちまった…

立ったところを見ると、衣…みてぇ…」「うん、衣みたいだ」「座ったところ見ると、羽織みてぇ」「うんうん、羽織みてぇか」「み(三)てぇ、み(三)てぇで、む(六)てぇよ」「なんだい、むてぇってのは、眠てぇのか」「ちょっと待ってくれ、だんだん足りなくなっちまったな」「どうしたんだよ」

「立ったところを見ると、衣に似たりよ」「なるほど、今度は、衣に似たりか」「座ったところは、羽織に似たりよ」「羽織に似たりか」「似(二)たり、似(二)たりで」「どうしたい?」

「うーん、こいつはし(四)たり」


「11月9日にあった主なできごと」

1872年 太陽暦の採用…明治政府は、西欧の国ぐにならって太陽暦を採用しました。具体的には、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることで、太陽暦(新暦)に切りかわりました。これまでの日本の暦は、月の満ち干の周期をもとにした太陰暦(旧暦)が使われていました。

1876年 野口英世誕生…黄熱病・梅毒・狂犬病・蛇毒などの細菌の研究に、大きな成果をあげた野口英世が誕生しました。

1970年 ド・ゴール死去…フランス建国史上最も偉大な指導者のひとりと評価されている政治家ド・ゴールが亡くなりました。

1989年 ベルリンの壁崩壊…第2次世界大戦に敗れたドイツの首都だったベルリンは、ソ連を中心とする社会主義国が管理する「東ベルリン」と、アメリカ、イギリス、フランスなどの資本主義国の管理する「西ベルリン」に分断されました。さらに1949年には、ドイツという国も社会主義国の「東ドイツ」と、資本主義国の「西ドイツ」の2つに分かれてしまいました。1961年8月に作られた壁のために、行き来のできなくなった東西ベルリンでしたが、この日東ドイツ政府は通行を認めると発表。東西ドイツをへだてる象徴だった「ベルリンの壁」の崩壊がはじまりました。こうして、翌1990年10月3日にドイツは統一されました。

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