児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年11月

「おもしろ古典落語」の96回目は、『浮世床(うきよどこ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸時代、ちょんまげというのを頭の真ん中にのっけていたころは、町内の暇な若い衆が、髪結い床に集まっては遊んでいました。床屋で遊ぶというのはおかしなものですが、ここには6畳ほどの小部屋がありまして、将棋盤に碁盤、貸本のようなものがそなえつけてあります。

ワイワイばか話の最中に、「だれだい、むこうの隅でもそもそしてんのは? やぁ、留じゃねぇか、なにしてるんだ」「講談本を読んでるんだ」「どんな講談だ?」「…えぇ、たいこやきってんだ」「太閤記じゃないのか。どういうとこ読んでる?」「あねさまの合戦」「えっ、そんな戦いってあったかなぁ?」「あの、本多と真柄の一騎打ち」「それじゃぁ、姉川の合戦じゃねぇか。そりゃ、おもしろそうだな、みんなたいくつしてるんだ、声を出して読んでくれよ」「だめ、本っていうのは黙って読むのがおもしろい」「そんな意地の悪いこといわずにさ」「じゃ、読んでやってもいいが、おれは読みにかかると、止まらなくなるぞ。立て板に水だ。同じところは二度と読まねぇ」「そうかい、それじゃ、そのつもりで聞くよ」「よーし、それじゃ始めるぞ。えー、えー、うー、うーん、まか、まか、まからから、じろふざへもんが…」

「なんだい、真柄十郎左衛門じゃねぇのか?」「そう、その十郎左衛門が、てき、てき、てきに、むか、むか、むかついて……」「おい、だれか、金だらいを持ってきてやれよ。むかついてるんだとさ」「敵にむかってだ」「ああ心配したぜ、むかってるんならわかるが、むかついてるっていうからよ」「戦なんてものは、両方の大将がむかついてはじまるもんだ……敵にむかって、一尺八寸の大太刀を……まつこうっ」「おい、松公、呼んでるぜ?」「何だよ」「今、松公って呼んだだろ」「違う。真っ向だ」一尺八寸は長くないから、大太刀は変だといわれ、これは横幅だとこじつけているうちに、向こうでは将棋が始まっています。

「おいおい、ちょっと待ってくれ」「どうかしたか?」「おれの、王さまがなくなっちまった」「ああ、そんなことか。さっき、おれが、王手飛車とりってやったら、『どっこい、そうはいくものか』っておまえの飛車が逃げたじゃねぇか、だからそのとき王さまをとったんだ」「ああそうか、油断がならねぇ…しかし、おまえの王さまは、おれがとらねぇのに、いねぇじゃねぇか」「おれのは、最初(はな)っからない。ふところへ隠してあるんだ、取られるといけねぇからな」「こんなわからねぇ将棋なんてあるもんか、もうやめだ」

「おや、この最中(さなか)にグウグウいびきをかいてる奴がいる。半公だ。よく寝てんな。こいつの寝てるざまは、どうもいい面じゃねぇな。ありゃりゃ、鼻から提灯を出したぜ……あれっ、消しゃがった、またつけたよ。祭りの夢なんか見てるな、おい半公、起きろ、おい半公」「こいつを起こすのは簡単だ。食いしん坊だから『半ちゃん、ひとつ食わねぇか?』といやぁ、すぐ目をさますよ」「そうか、…おい、半ちゃん、ひとつ食わねぇか?」「ええ、ごちそうさま」「おや、寝起きがいいね。だが、いまのはうそだ」「じゃ、おやすみ」「現金な野郎だ、いいかげんに起きろよ」「眠くて眠くて、身体がつかれてるんだ」「そんなに仕事が忙しいのか」「いやぁ、女で疲れるのはシンが弱ってね」「あれっ、変な奴を起こしちまったな、女でも出来たのか? でも、まぁいいや、みんなたいくつしてんだ、その女の話をしてくれよ」

「じつは昨日、芝居の前を通ったんだ。別に見る気はなかったんだが、看板を見てるうちに、急にのぞきたくなったんで、木戸番の若い衆に顔見知りがいたもんだから、そいつにたのんで立ち見でいいからって、一幕のぞかせてもらったんだ」「ふーん」「ひいきの音羽屋のすることにオツなとこがあったんで『音羽屋』って、声をかけた。するてぇと、4人桟敷席に女の二人連れがいて、ひとりはそうとうの年配だが、もう一人は、歳も盛りのいい女、振りかえってニッコリ笑った。おれもニッコリ。ニッコリとニッコリで四ッコリだ」「なにつまらねぇこといってるんだ」「その女がね、『音羽屋がごひいきなのですね。よろしかったらこちらの桟敷にお入りになって、声をおかけください』っていうんだ」「へえっちゃったのか、ずうずうしいやつだな」「女が、声をかけてほしい時におれの膝をつつくから、そのたびに『音羽屋』『音羽屋』ってほめた。女は大喜びでね、もっと大きな声でっていうから、これ以上出ない声をはりあげて『音羽屋!』『音羽屋!!』『お・と・わ・や!!』」「うるせぇな、この野郎」「のべつ膝をつっくんだよ。ここが忠義のみせどころだと思ってやったからね。夢中になってると、まわりのもんが笑ってやがる。女がおれの袖を引っ張って『もう、幕が閉まりました…』」「おれもバツが悪いから『幕!!』」「ばか、幕なんぞほめるな」

「芝居のあと、茶屋の若い衆に呼ばれて、茶屋の裏ばしごをトントントンと二階へあがったんだ。ふすまを開けるってぇと、なんと、4畳半にさっきの若い女がひとりでいて、『先ほどのお礼というわけでもございませんが、一献(いっこん)さしあげたいと存じまして』っときた」「一献ってぇのは酒だな」「そーよ、ふたりで差しつ差されつしているうち、すきっ腹へ飲んだせいか、頭が痛くなってきやがった。で、『姉さん、ごちそうになった上に、こんなことをいっては申し訳けございませんが、少し頭が痛くなったので、ごめんをこうむって、失礼させていただきます』ってぇと、『同じ休むんなら、ここでお休みになったら』って、隣座敷にふとんを敷いてくれたんで、おらぁ、そこへ入って寝ちまった。そのうち、障子が開いたんで、だれかと思ったら、その女が入ってきたんだ」「ふーん、それで?」「女が枕元で、もじもじしてたが『あのー、私もお酒をいただきすぎたので、たいそう頭が痛んでなりません。休みたいと存じますが、ほかに部屋がございませんので、おふとんの端のほうにでも入れてもらえませんでしょうか?』っていうんだ」

「おーい、みんなこっちへこい。たいへんなことがはじまるぞ」「で、『ごめんあそばせ』ってんで、長い帯巻の、赤い長襦袢になって…ずうーっと……」「こんちきしょうめ、入ってきたのか?」「入ってきたとたん『半ちゃん、ひとつ食わねぇか?』って起こしゃがったのはだれだ?」「あれれ、夢かよ」

「そういう、うまい口があったら、世話してくれ」


「11月30日にあった主なできごと」

1667年 スウィフト誕生… 『ガリバー旅行記』 などを著したイギリスの風刺作家スウィフトが生まれました。

1835年 マーク・トウェーン誕生…少年文学『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』や『王子と乞食』など、ユーモアのなかにするどい社会風刺をもりこんだ数々の作品を著したアメリカの作家マーク・トウェーンが生まれました。

1874年 チャーチル誕生…第2次世界大戦の際、イギリス首相として連合国を勝利に導くのに大きな力を発揮したチャーチルが生まれました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 63]

昔むかし、ある山寺の小坊主が、栗ひろいに行きたくなりました。「和尚(おしょう)さん、うら山へ栗ひろいに行ってもいいですか?」小坊主が聞くと、「だめだよ、あの山には山んばがいるぞ。食われてもいいのか」と反対しました。でも、あんまり小坊主が行きたがるので、和尚さんは三枚のお札(ふだ)を渡して、「それならこれを持って行きなさい。こまったことがあったら、このお札に願をかけて使うんだよ」と、小坊主を送り出しました。

小坊主は山に入ると、あるわあるわ、食べごろの大きな栗がたくさん落ちています。小坊主が夢中で栗ひろいをしているうち、時のたつのをすっかり忘れていました。ふと気づくとあたりは暗くなっています。と、そのときです。「おや、可愛い小僧さんだこと」という声がしたので振り向くと、目の前に一人のおばあさんが立っていました。「ああ、びっくりした、山んばかと思った」「はっはっは、寺からきたのかい。わたしの家においで、栗をゆでてやろう」おばあさんが、やさしくいうので、小坊主は、安心してついていきました。

さびしげな山奥の家につくと、おばあさんは大きな鍋にたくさんの栗を入れると、グツグツゆでてくれました。「さぁ、腹いっぱいお食べ」小坊主は、お腹がいっぱになるまで食べたので眠くなって、いろりばたに横になりました。「えっへっへ、ゆっくり眠るがいい」おばあさんが、気味の悪い笑いかたをしたのも知らず、小坊主は眠ってしまいました。

夜中のことです。小坊主は、ギコギコいうもの音で、目をさましました。ふしぎに思って障子のかげからのぞいてみると、おばあさんが、月明かりのなかで、包丁をといでいるのです。おまけに、部屋の隅には、人の骨らしきものが、ゴロゴロころがっています。(やっぱり、山んばだ) あわてて、逃げようとしましたが、足がすくんで動けません。すると、「どこへ行くか、小僧」キバをむいて大きな口を開いた山んばの、恐ろしい声がきこえます。(たっ、大変だ。食われてしまう) 小坊主はとっさに、「お・おれ、ウンチがしたい!」と、いいました。「なに? ウンチだと……うむ、あれはくさくてまずいからな。仕方ない、はやく行って出してこい」山んば、小坊主の腰になわをつけて、便所に行かせてくれました。

中に入ると小坊主は、いそいでなわをほどき、それを柱に結びつけると、お札をはりつけて、「お札さん。おれの代わりに、返事をしておくれ」というと、便所の裏窓から逃げ出しました。「小坊主、ウンチはまだか?」すると、お札が答えます。「もう少し、もう少し」しばらくして、山んばがまた聞きました。「もう少し、もう少し」またしばらくして、山んばが聞きます。「もう少し、もう少し」と、同じことばかりいうので、「もうガマン出来ん! 早く出ろ!」と、便所のとびらを開けてみると、中は空っぽです。「うむむ! よくもいっぱい食わせたな。待てぇー!」山んばは大声で叫びながら、夜道を走る小坊主を追いかけました。

けれども、山んばの風のような速さには、とてもかないません。だんだん追いついてきます。そこで小坊主は、二枚目の札を取り出し、「大きな川、出てこい!」と後ろに投げました。すると、あらあら不思議、すごい流れの川が現れ、山んばは流されそうになりました。ところがさすがは山んばです。大口を開けると川の水をガブガブと飲みだしたではありませんか。またたくまに飲み干すと、また追いかけてきます。

小坊主は、三枚目の札を出すと、「火の海になれ!」といって、投げました。すると後ろで山火事のような火の海ができ、山んばを通せんぼしました。ところが、山んばはさっき飲んだ川の水を吐き出すと、またたくまに火事を消してしまい、またまた小坊主を追いかけます。小坊主は命からがらお寺にたどりつくと、和尚さんに助けを求めました。

「助けてください! 山んばです!」そのとき、和尚さんはもちを食べていました。小坊主を戸棚にかくしたとたん、山んばが飛びこんできました。「こらぁー、小僧を出せ」「はてな、どこの小僧じゃな」「うそをつくと、おまえから先に食っちゃうぞ」「ふぅーん、そうか。よし、それじゃわしと化け比べをしよう。おまえが勝ったら、食われてやろう。聞くところによると、おまえは山のように大きくなることも、豆粒のように小さくなることも出来るそうじゃな」「ああ、そうだ」「よし、では豆粒のように小さくなってくれや」「お安いご用だ」山んばはそう答えて身体を小さくすると、豆粒のように小さくなりました。和尚さんはその時、さっと山んばをもちの中に丸めこむと、ムシャムシャ食べてしまいました。

「はっはっは。ざっと、こんなもんじゃい……うん、だが腹が痛いな。ちと便所に」和尚さんが便所でウンチをすると、ウンチの中からたくさんのハエが飛び出してきました。だからね、ハエは、山んばが生まれ変って、ふえてったものなんだって。ふっふっふ。


「11月29日にあった主なできごと」

1529年 王陽明死去…儒教の流れをくむ「朱子学」に対し、日常生活の中での実践を通して人の生きるべき道をもとめる「陽明学」という学問の大きな流れを作った思想家 王陽明が亡くなりました。

1875年 同志社創立…新島襄らが京都に、キリスト教精神に基づく「良心」を建学精神に掲げ、漢学以外はすべて英語で教育するという「同志社英学校」(現・同志社大学)を創設しました。

1987年 大韓航空機爆破事件…イランのバクダッドから韓国のソウルに向かう航空機が、ミャンマー沖で爆破され、乗員・乗客115人が死亡・行方不明になりました。北朝鮮の工作員金賢姫(キムヒョンヒ)らが実行犯と判明しましたが、北朝鮮は関与を否定しているため、真相は不明のままです。

今日11月28日は、プロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書『天路歴程』を著わしたことで知られるイギリスの説教師・文学者バニヤンが、1628年に生れた日です。

イングランド・ベドフォード州の片田舎に、貧しい鋳かけ職人の子として生まれたジョン・バニヤンは、学校教育はほとんど受けず、父の職業を手伝いながら、徒弟修業をしました。1644年に「清教徒革命」(1642-49年。国王と議会が対立し、王朝を倒した市民革命)に、議会軍に参加して国王軍と戦ったのち、信仰心のあつい娘と結婚しました。妻が持っていた宗教書を読んで感銘したバニヤンは、ある清教徒系の教会に加わると、やがて熱狂的な説教師となって、街頭に立ってクエーカー教徒と論争したり、本を著わすなど頭角をあらわすようになりました。

しかし1660年王政復古されると、イギリス国教に反対の立場にあったことで、法に反して説教をしたかどで捕えられ、1961年から短期間の釈放を含めると、チャールズ2世が信教自由令を出すまで、監禁は12年にわたりました。この投獄中にバニアンは、『あふれる恩寵』を著わしています。釈放後も、ふたたび積極的に説教活動や伝道を続けましたが、チャールズ2世が信教自由令を撤回したため、1675年、またも逮捕され、ウース川にかかる石橋の上にあった監獄に投獄されてしまいました。このときは、6か月で釈放されましたが、その監禁中に書かれたのが、代表作となる『天路歴程』の第1部でした。

それからのバニヤンは、高い評判のために再び逮捕されることはありませんでしたが、1688年に亡くなるまでに『天路歴程』以外に、罪に堕ちていく人物の一生を対話形式で寓話風に描いた『悪太郎氏の生涯と死』などを遺しています。

なお、『天路歴程』は、2部構成で書かかれ、第1部は1678年に、第2部は1684年にロンドンで出版されています。この書は、「破滅の町」に住んでいた男が、「虚栄の市」や破壊者アポルオンとの死闘など、さまざまな困難な通りぬけ、「天の都」にたどり着くまでの旅の記録の体裁をとっています。聖書を除けば、プロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書とされ、特にアメリカへ移住した清教徒へ与えた影響は大きなものがあるとともに、いまも世界中で愛読されつづけています。


「11月28日にあった主なできごと」

1262年 親鸞死去…『南無阿弥陀仏』と念仏をとなえれば来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然に学び、その教えを発展させて「浄土真宗」を開いた親鸞が亡くなりました。

1883年 鹿鳴館開館…日本初の洋式社交場が、東京・内幸町に開業。外国人を歓迎する舞踏会がさかんに行われ、欧化主義風潮の拠点となったため、1887年ころまでの狂熱的な一時期を「鹿鳴館時代」とよんでいます。

今日11月27日は、エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家として活躍した藤田嗣治(ふじた つぐはる)が、1886年に生れた日です。

1886年、東京・牛込の医者の家に生まれた藤田嗣治は、1910年に東京美術学校(現・東京芸術大)西洋画科を卒業後、精力的に展覧会などに出品しましたが、当時黒田清輝らの勢力が支配的だった文展などでは全て落選してしまいました。

1913年に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた藤田は、第1次世界大戦が勃発してもパリにとどまり、モジリアーニやピカソらと交流を深めながら研さんを続けるうち、エコール・ド・パリの一員として評価されはじめました。やがて、シェロン画廊で開催された最初の個展で、浮世絵の技法を油彩画に取り入れた「乳白色の肌」とよばれる独自の技法で描いた裸婦像やネコの絵が、アンドレ・サルモンという当時の著名な美術評論家に絶賛されると、いちやく注目されるようになり、1919年には、サロンに出品した6点すべてが入選、翌年もキキの裸像として有名になる作品を出品すると、一連の細密描法は高値で売買されるようになり、パリの人気を独占する勢いとなりました。

1921年にはサロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、フジタの名はフランスでは知らぬものはいないほどの人気となり、1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章が贈られ、1926年には2人の裸婦を描いた『友情』はフランス政府の買上げとなり、エコール・ド・パリの画家として、国際画壇で重きをなしました。

1941年に第2次世界大戦を避けて帰国すると、軍部の依頼を受けて仏印(フランス領インドネシア)やマレー半島をまわって、数多くの戦争画を描きました。そのために、戦後は画壇から非難され、藤田の日本嫌いを助長させました。(その後、藤田のすぐれた描写力で記録された戦争画は、1970年にアメリカから返還され、東京国立近代美術館に収蔵されています)

1949年には日本を脱出し、アメリカを経由して再びパリにもどり、1955年にはフランス国籍をとって、レオナール・フジタと名乗って帰化しました。1966年には、ランスのノートルダム寺院の礼拝堂のフレスコ壁画の制作に没頭し、情熱的に生きた晩年を飾り、1968年にスイスのチューリッヒで死去しました。

なお、藤田のたくさんの絵などは、オンライン「画像検索」で見ることができます。また、藤田の画集が日本で出版されないのは、最後まで日本画壇を許さなかったためだといわれています。


「11月27日にあった主なできごと」

1095年 十字軍の提唱…ローマ教皇ウルバヌス2世は、この日フランス中部クレルモンの宗教会議で、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために、聖なる戦いを勧告。これにより、胸に十字の標識をつけた兵士・キリスト教徒が聖地にむけて出発する「十字軍時代」が始まりました。

1769年 賀茂真淵死去…江戸時代中期に活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が亡くなりました。

1894年 松下幸之助誕生…パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者であるとともに、PHP研究所を設立して倫理教育に乗りだ出す一方、松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも意を注いだ松下幸之助が、生まれました。

1958年 皇太子婚約発表…皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)の婚約が、この日に発表され、美智子さんが民間から出た最初の皇太子妃となることで日本中がわきたち、ミッチーブームがおこりました。

1959年 デモ隊2万人が国会構内に突入…1951年に締結された日米安全保障条約(安保)は1960年に改定がおこなわれることになり、アメリカ軍の日本駐留・配備を続けること、その活動範囲を極東全域に拡大するといった内容でした。この日、改定に反対する学生や市民らが国会周辺に押しよせ、デモ隊2万人余りが国会構内に突入しました。

今日11月26日は、近代日本を代表する言論人・哲学者・評論家として活躍した三宅雪嶺(みやけ せつれい)が、1945年に亡くなった日です。

1860年、加賀藩(石川県)の家老・本多家の儒医の子として生まれた雪嶺(本名・雄二郎)は、近代学校制度草創期の官立東京開成学校を経て、東京大学哲学科に入学しました。フェノロサからドイツ哲学、外山正一からスペンサー哲学、ほかに中国哲学、インド哲学などを学んで卒業後、いちじ文部省に入りましたが1887年に辞職すると、以後は官職に就かず、民間人としての立場を貫き通しました。

1888年、志賀重昂(しげたか)、辰巳小二郎らと「政教社」を設立し、政府の専制主義や欧化主義に反対をとなえ、日本に古来から伝わる文化と伝統を重視する国粋主義の立場を主張するために『日本人』を創刊しました。同誌を自己の思想発表の場とするいっぽう、「東京朝日新聞」社友、「江湖新聞」主筆となって新聞や雑誌に寄稿をしました。特に陸羯南(くが かつなん)の「日本新聞」には協力をおしまず、高島炭鉱の鉱員虐待事件などの社会問題を鋭く論じ、明治中期の代表的論客として注目を集めました。

1907年には『日本人』を『日本及日本人』に改題して主宰するかたわら、1920年には妻の花圃(かほ・歌人で作家)とともに『女性日本人』も発行しました。1923年の関東大震災を期に政教社を離れ、個人雑誌『我観』を創刊、同誌に連載をつづけたのちに刊行された『同時代史』(6巻)は、独自の歴史論として高く評価されています。

1943年には文化勲章受章。著書には他に『真善美日本人』『偽悪醜日本人』『自伝』『宇宙』など約50点があります。生涯在野の立場を貫き、林内閣において文部大臣への入閣の要請があったものの辞退するなど、一貫した姿勢が人々の信奉を集めたばかりか、旺盛な好奇心と和漢洋におよぶ学識の広さに「哲人」と称された生涯でした。


「11月26日にあった主なできごと」

1086年 院政のはじまり…白河天皇がわずか8歳のわが子に、堀川天皇として位を譲りました。上皇となった白河は、幼い天皇の後見役として政治の実権を握り続けました。上皇のいるところが「院」と呼ばれ、そこで政治が行なわれたために「院政」とよばれます。

1906年 満鉄設立…日露戦争に勝利した日本は、ロシアが建設した東清鉄道を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)として経営することになりました。満鉄は、鉄道事業を中心に広範囲にわたる事業を展開、日本の満州(中国東北部)進出の中核となりました。

1911年 小村寿太郎死去…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官 小村寿太郎が亡くなりました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジアの探検にそそぎ、砂にうずもれた楼蘭の町や、インダス川の水源や、ヒマラヤ山脈の北にあるもう1つの山脈トランスヒマラヤなどを探りあてたスウェーデンのヘディンが、亡くなりました。

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