児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年10月

今日10月10日は、日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて大きな活躍をした軍人大山巌(おおやま いわお)が、1842年に生れた日です。

薩摩(鹿児島県)藩士の子として生まれた大山巌は、いとこの西郷隆盛の指導を受けて育ちました。同藩の有馬新七らに影響されて過激派に属し、1862年「寺田屋事件」をおこして公武合体派によって鎮圧されますが、帰国謹慎処分とされて難を逃れました。

1863年の「薩英戦争」で初陣をはたすものの、イギリスの軍事力に衝撃を受けて江戸に出、江川太郎左衛門の塾で砲術を学びました。政府軍と旧幕府軍との戦いである「戊辰戦争」では、政府軍の砲隊長として新式銃隊を率い「鳥羽・伏見の戦い」や「会津戦争」など各地で大きな手柄をたてました。

新政府入りした大山は、1869年にヨーロッパに渡り、1870年には普仏戦争をプロシア側から視察してフランスに勝利したことを確認後、1873年までジュネーブに留学しました。帰国後、陸軍の建設を推し進めるいっぽう、フランスに留学して、軍制や砲術の研究にとりくみました。1877年の「西南戦争」では、第1旅団司令長官として出征して反乱を鎮圧したものの、西郷ら同郷である薩摩士族を討つという苦い体験をしました。

1880年以後は、陸軍卿(のちの陸軍大臣)、参議、参謀本部長をつとめ、1884年には桂太郎らを率いてヨーロッパ各国を視察、特にプロイセンの軍制を手本に軍制改革をはかりました。「日清戦争」では陸軍大将として第二軍司令官をつとめて勝利に貢献し、1898年には元帥、翌年には参謀総長となって、1900年には中国でおきた「義和団事件」を鎮圧するために出兵しました。

1904年の「日露戦争」開戦時の作戦の指導にあたるとともに、開戦後には、元帥・陸軍大将として満州軍総司令官に就任して出征、日本の勝利に大きく貢献しました。同藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と讃えられました。

1907年には華族の最高位である「公爵」に、1914年からは内大臣となって大正天皇を補佐しましたが、1916年に病に倒れて生涯を閉じました。薩摩閥を代表する最長老で、温厚な人柄の軍人として、多くの人に理想的将校と高く評価される人物だったようです。


「10月10日にあった主なできごと」

1911年 辛亥革命…中国の清に対し、湖北省の武昌で兵士による反乱(辛亥革命)がおこりました。これがきっとかけとなり、翌年1月に古代から続いた君主制が廃止され、孫文を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が南京に成立しました。

1964年 東京オリンピック開催…第18回オリンピックが、東京・国立競技場で開会式が行われ、この日から15日間、94の国と地域から選ばれた5558人の選手が競いあいました。日本は、重量挙げ、体操男子、レスリング、柔道、女子バレーなどで過去最高の金16、銀5、銅6のメダルを獲得、国民の多くはテレビに釘付けとなりました。

今日10月9日は、フランスの新古典派の作曲家で、さまざまな分野でその能力を発揮したサン=サーンスが、1835年に生れた日です。

パリの官吏の家に生まれたカミーユ・サン=サーンスは、幼いころから音楽の天分をあらわし、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたといわれるほどの神童でした。1846年の初の演奏会では、バッハ、モーツァルト、ベートーベンらの作品を暗譜で弾いて聴衆を驚かせました。

1848年に13歳でパリ音楽院に入学して作曲とオルガンを学び、卒業後は作曲家兼オルガニストとして活躍。オルガンの即興演奏に特に優れ、1858年には、当時のパリのオルガニストの最高峰といわれたマドレーヌ教会のオルガニストに就任、20年間もその職をつとめました。そのかたわら、ニーデルメイエル音楽学校のピアノ教授として、フォーレやメサジエらを教え、1871年にはフランク、フォーレらとともにフランス国民音楽協会を設立し、フランス音楽普及のために力をそそぎました。

音楽史上、サン=サーンスほどさまざまな分野で能力を発揮した人物はいないといわれています。オルガンの壮麗な響きが加わることで知られる『交響曲第3番』、名手サラサーテにささげた叙情的名曲『バイオリン協奏曲第3番』、歌劇『サムソンとデリラ』、友人のルビンシュテインとの共演で発表された『ピアノ協奏曲第2番』など数々の作品を残した作曲家、オルガニストでピアニスト、指揮者、音楽学者、評論家として一家をなしたばかりでなく、ラテン語を解して、天文学や占星術にたけ、詩や小説を書き、絵画、科学、哲学にも通じていました。しかも旅行好きで、社交上手のきっすいのパリっ子でした。

最も有名な作品は、1886年51歳のときに作曲した『動物の謝肉祭』でしょう。ウィーンへの演奏旅行の途中に謝肉祭にであい、その印象をさまざまな動物が登場する管弦楽曲にしたものです。1・序奏とライオンの行進 2・おんどりとめんどり 3・ろば 4・かめ 5・ぞう 6・カンガルー 7・水族館 8・耳の長い登場人物 9・森のカッコウ 10・鳥 11・ピアニスト 12・化石 13・白鳥 14・終曲 以上14曲からなり、13曲目の『白鳥』は、チェロの独奏に編曲され、静かに澄んだ湖水の面に浮かんだ純白の白鳥を描いた名曲として、特によく知られています。

1921年に86歳で亡くなったとき、フランス政府が国葬を行ったことは、その驚くべき才能に敬意を払ったためといわれています。当時の作曲家ブラームスやチャイコフスキーほどの人気をえられませんでしたが、最近になってサン=サーンスを再評価する動きが出はじめ、ピアノ作品全集の出版ばかりでなく、演奏会の曲目にひんぱんに見かけるようになっています。


「10月9日にあった主なできごと」

1547年 セルバンテス誕生…ユーモア、風刺、空想に満ちた作品『ドン・キホーテ』を著したスペインの作家セルバンテスが生れました。

1874年 万国郵便連合スタート…さまざまな国の人々が、国際交流や協力ができるように、世界の加盟国間に安い料金で郵便が送れる「万国郵便連合」(UPU)ができました。日本は1877年2月にUPUに加盟しました。

1946年 男女共学の実施…文部省(現・文部科学省)は、「国民学校令」の一部を改め、男女共学の実施を指示しました。それまでは別々にされていた男子と女子の授業は、同じ教室で受けるようになりました。

今日10月5日は、詩人の高村光太郎と結婚し、光太郎の詩集『智恵子抄』や「切り絵」を残した洋画家の高村智恵子(たかむら ちえこ)が、1938年に亡くなった日です。

1886年に、福島県二本松市の酒造業を営む家に生れた長沼智恵子は、福島高等女学校を卒業後に日本女子大学に入学しました。油絵に興味を持つようになり、1907年に大学を卒業した後は、洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学びましだ。1911年には、大学で同期だった平塚雷鳥が新しい女性の生き方めざして創刊した雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として注目されるようになっていました。

そんな折、智恵子は詩人の高村光太郎と出会いました。当時の光太郎は、社会や芸術に対する、怒り、迷い、苦悩に満ちたものでしたが、1914年に二人は結婚しました。智恵子と出会ってからの光太郎は、人間の自由や尊さをうたう人道主義につつまれるように変化しだし、同年に発表した第1詩集『道程』はその表れでした。「私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出されることが出来た」と、のちに語っています。

金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも制作活動を続けていた智恵子でしたが、しだいに絵が描けなくなり、1918年の父の死、長沼家の破産など心労が多く、草木染めや織物を試みるものの、心は満たされませんでした。1931年には精神異常があらわれだし、翌年大量の睡眠薬を飲んで自殺を図りましたが、命はとりとめられました。

ところが1935年に精神障害が進行、品川の病院に入院することになりました。しかし、この病室で、たくさんの紙絵を生み出したことは幸いでした。入院後半年ほどして少し落ち着いたころ、病室を訪れた光太郎が持っていった千代紙にとても喜び、千羽鶴を折り始めた智恵子でしたが、やがて「マニキュアに使う小さな、尖端の曲がったはさみ」で、色紙を切り抜き、さまざまな形を作り出していきました。食膳が出ると皿の上のものを紙で作らないうちは箸をとらないため看護婦さんを困らせたそうですが、「千数百枚に及ぶこれらの切紙絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、この世への愛の表明である」と光太郎は回想しています。そして、1938年の最期の日、紙絵をひとまとめに整理したものを光太郎に手渡し、安心したように微笑みながら、静かにこの世を去っていきました。
 
1941年、智恵子の他界から3年後、光太郎は30年に及ぶ二人の愛を綴った詩集『智恵子抄』(詩29篇、短歌6首、3篇の散文)を刊行しました。その一つ「あどけない話」を次に掲げましょう。

智恵子は東京に空が無いという。
ほんとの空が見たいという。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言う。
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が智恵子のほんとうの空だという。
あどけない空の話である。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『智恵子抄』やエッセイ『智恵子の紙絵』『智恵子の半生』を読むことができます。


「10月5日にあった主なできごと」

528年 達磨死去…「七転び八起」のことわざでおなじみのダルマさんのモデルとなった中国禅宗の開祖・達磨が亡くなりました。

1274年 文永の役…元(今の中国)の皇帝フビライは日本を属国にしようと、2万人の軍隊と朝鮮(高麗)軍1万5千人を率いて対馬を占領後、博多に上陸しました。しかし、おりからの嵐にあって朝鮮へ引き上げました。1281年にも再上陸(弘安の役)を企てますが、このときも嵐にあって失敗。この2度にわたる元の襲来を「元寇(げんこう)」とよび、人々はこれを「神風が吹いた」と語りついできました。

1392年 南北朝が合一…北朝と南朝に分かれて対立していた朝廷でしたが、「明徳の和約」によって交互に天皇を出すことを約束、50年にわたる南北朝の争いを終えました。

「おもしろ古典落語」の88回目は、『やかん』というお笑いの一席をお楽しみください。

天地が開けて以来、この世に知らないものは何もないと豪語する隠居。長屋の八五郎は、一度は隠居をへこましてやろうと物の名の由来を次から次へと質問します。ところが隠居もさるもの、妙ちきりんなこじつけでケムにまきます。

「魚ってのは、いろんな名前がついてますね。マグロってのは、どういうわけで?」「あの魚の皮は黒いだろう。だから、むかしは『まっ黒』っていったのを、だれか気の短いのがまちがえて、マグロになったんだ」「でも切り身は赤いじゃありませんか」「切り身で泳ぐ魚がどこにいる」「あ、そうか、じゃ、ホウボウは?」「あれは行儀の悪い魚でな、あっちこっち、ほうぼう泳ぎまわるからだ」「オコゼは?」「あれは寝ぼうなやつでな、昼も夜も暇さえあれば寝ている。他の魚どもが、みんなで起こせ、起こせといったのを、だれかがまちがえてオコゼになった」

「インチキくさいな。じゃヒラメは?」「平ったいところに目があるから、ヒラメにきまっとる」「だったら、カレイだって同じようなもんでしょ」「あれは、ヒラメの家来だ」「魚に家来なんてあるんですか?」「あるともさ。ヒラメは身分の高い、魚の華族さまだな。華族さまには家令がつきもの、だからカレイ」

ウナギはというと、昔はのろいのでノロといった。あるとき鵜がノロをのみこんで、大きいので全部のめず四苦八苦。鵜が難儀したから、鵜、難儀、鵜、難儀、鵜難儀でウナギ。コチは、こっちに泳いでくるから。向こうにも泳ぐといえば、向こうで待ってればこっちになる……。「信用できねぇな。じゃ魚全体の名前は、だれがつけたんです?」「うるさいな。あれはイワシだ」「イワシなんて魚は、いちばん身分の低い魚でしょ」「あれで魚仲間ではなかなか勢力がある。イワシがいうにゃ、みんなの名前があれば、わしはいらないといったんだな。そうしたら、他の魚どもが、それじゃ困るといった。そこでイワシの親分が『いいたいやつには、何とでもでもいわしとけ』とやった。そうこうするうちに、イワシの名前が、自然についちゃったんだ」

「なんか、すっかりごまかされてるみたいだな。じゃ、隠居の前の土瓶ね、どうしてドビンなんです?」「ああ、これか、土でこしらえたから土瓶にきまっとる」「それじゃ、鉄瓶は?」「わからん男だな、鉄でできてるからだろ」「なるほど、それじゃ、やかんは? 矢でできてるわけじゃないですよ」「昔は……」「ノロといいました?」「いや、これは水わかしといった」「それをいうなら湯わかしでしょ」「だからおまえは愚者だ。水を沸かして、初めて湯になる」「はあ、それじゃ、なぜ水わかしがやかんになったんで?」「これには物語がある。昔、川中島の合戦というのがあった」「ああ、それならあたしも知ってます。武田信玄と上杉謙信の決戦でしょ」

「そう。片方が夜討ちをかけた。かけられた方は不意をつかれて大混乱。ある若武者が自分の兜をかぶろうと、枕元を見たがない。あるのは水わかしだけ。そこで湯を捨て、兜の代わりにかぶった」「うわーっ、熱そうですね」「この若武者、馬に乗るや、敵の真ん中に突っ込む。敵が一斉に矢を放つと、水わかしに当たってカーンという音。矢が当たってカーン、矢カーン。それでヤカンだ」「あっ、とうとうやかんにしちまったな。じゃフタは?」「ボッチをくわえて面の代わり」「じゃ、つるは?」「あごにかけて、やかんの兜が落ちないようにした」「注ぎ口は?」「ちょうど耳に当たるから耳代わり」「耳なら両方ありそうなもんだ」

「ない方は、枕をつけて寝る方だ」


「10月4日にあった主なできごと」

1669年 レンブラント死去…「夜警」 「フローラ」 「自画像」 など数々の名画を描き、オランダ最大の画家といわれるレンブラントが亡くなりました。

1814年 ミレー誕生…『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家ミレーが生まれました。

1957年 初の人工衛星…ソ連が世界初となる人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功しました。これ以降、アメリカとソ連の宇宙開発競争が激しさを増していきました。

今日10月3日は、長編教養小説『次郎物語』(全5部)や『論語物語』などを著わした作家の下村湖人(しもむら こじん)が、1884年に生れた日です。

佐賀県に生れた湖人(本名・内田虎六郎)は、母親が病弱だったため生後まもなく里子にだされ、4歳のときに実家にもどりましたが、9歳で実母を失いました。家業が次第に傾きはじめたため、熊本の旧制第五高等学校入学後に下村家の学資援助をうけて学業を続け、東京帝国大学英文科を卒業しました。

中学時代から雑誌に詩歌を投稿し、五高時代は天才詩人とうたわれるほど文学に傾倒、大学卒業後は、学資支援等を受けていた下村家の長女と結婚して養子に入りました。しかし下村家の没落により文学をあきらめ、佐賀中学教師、唐津中学教頭・鹿島中学校長、唐津中学校長を経て台湾に渡り、台中第一中学校長、台北高校校長を歴任後、1931年に日本にもどり、東京の青少年教育団体の役員をしながら、講演と文筆の生活を送るようになりました。

そして、1936年から代表作となる『次郎物語』の連載を雑誌「新風土」で開始し、1941年に自伝的な第1部を刊行、1954年までに第5部までを発表しましたが、1955年に70歳で死去したことで、7部まで予定したシリーズは未完に終わりました。第1部のあらすじは、次の通りです。

本田家の次男として生まれた次郎は里子として、村の小学校の学校番をするお浜に預けられ、お浜の子のお兼、お鶴姉妹とともに生き生きと育てられていきました。ところが6歳になった夏のある日、むりやり実家に連れもどされてしまいます。実家には祖父母、両親、兄恭一と弟俊三がいましたが、慣れない環境の中で祖母のえこひいきや、きびしく育てようとする母のやり方は、次郎の幼い魂をゆがめるばかりでした。そんな中でも、たまに帰宅する父俊亮は、誠実に次郎を愛し、次郎の性格を素直に伸ばそうと努力しました。こうして、家族や母の実家の正木家の人々に見守られながら成長していく次郎でしたが、祖父の死、結核に侵される母、父も連帯保証人になった相手が破産したため、次郎は母の療養を兼ねて正木家に引き取られます。懸命に母の看病をする次郎でしたが、日に日に母は衰弱していき、よびよせられた遠い炭鉱で働くお浜らに看取られながら亡くなりました。生れてはじめて、母の澄みとおった愛を知った次郎の生活は、見ちがえるほどしっとりと落ち着いたものになるのでした……。

『次郎物語』は本ばかりでなく、ラジオやテレビドラマ、佐賀県をロケ地にして映画にもなっており、私自身、中学時代に愛読したもっとも印象に残るシリーズです。湖人の著作には、孔子の言葉を記した『論語』を28編のストーリーにまとめた『論語物語』があり、とてもわかりやすく論語にふれられる書として、最近人気が高まっています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『次郎物語』全5部を読むことができます。


「10月3日にあった主なできごと」

1804年 ハリス誕生…アメリカ合衆国の外交官で、江戸時代後期に初代駐日本公使となり、日米修好通商条約を締結したハリスが生れました。

1990年 東西ドイツ統一…第2次世界大戦後、東西に分裂していたドイツは、45年ぶりに統一されました。

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