児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年10月

今日10月17日は、テネシー・ウィリアムズと並び「アメリカ現代演劇の旗手」といわれた劇作家アーサー・ミラーが、1915年に生れた日です。

ミラーは、オーストリアのユダヤ系商人の家にニューヨークで生まれました。ミシガン大学に入学しましたが、大恐慌によって父親の支援がなくなり、2年ほど資金をかせぐために自動車生産工場で働かざるをえませんでした。再挑戦して同大学で演劇を学びながら、戯曲を書きはじめました。卒業後はラジオドラマの脚本を書いたりするうち、1944年に『幸運な男』でブロードウェーへの進出を果たしました。この作品の興業は失敗に終わりましたが、次回作の『すべてわが子』が1947年に初演されると成功をおさめ、劇作家ミラーの名が広く知れわたりました。作品は、第2次世界大戦中に欠陥飛行機を納入したことで事故をおこした工場主一家の悲劇を描いたものでした。

そして1949年、代表作となる『セールスマンの死』を発表すると大ヒット。老セールスマンが仕事にも家庭でも失敗し、自滅する姿を斬新な手法で描いた作品で、トニー賞やピュリッツァー賞を受賞しています。

『セールスマンの死』の舞台は、1940年代のニューヨークのブルックリン。主人公である60歳を過ぎたセールスマンのウィリーが夜遅く帰宅するシーンで始まります。アメリカンドリームを実現する近道はセールスマンだと信じ、40年近くがんばってきたウィリーでしたが、社会情勢の変化に押し流され、固定給はなくなって成績のよくないウィリーの手取りはほとんどありません。妻に内緒で友人に借金して給料を渡していましたが、それもついにばれてしまいます。辛い現実からのがれるために過去に逃避するウィリー。たくさんの注文をとることができた景気のいい時代であり、長男がフットボール選手として華々しく活躍している時代であり、その息子が父を敬い、愛し、賞賛の言葉をかけてくれた佳き時代でした。現実を見ようとしない自分と、現実をしっかり見つめる息子には何の接点もないことにやっと気づいたとき、ウィリーに残された道は、ひとつしかありませんでした……。

さらにミラーは、17世紀にあった魔女裁判を素材にマッカーシズムへの警鐘を鳴らした『るつぼ』(1953年)、身内の密入国者をかくまう沖仲士の家庭での葛藤を描いた『橋からのながめ』(1955年)、長い空白ののち1964年『転落のあと』を上演しました。この作品は、女優マリリン・モンローとの劇的な結婚生活(1956-61)の影響がうかがわれるといわれています。その後、罪のつぐないをテーマにした『ビシーでのできごと』や『代価』を発表しています。

ミラーの作品は、不安に満ちた現代社会と個人の接点からドラマを構築し、社会の矛盾、人間疎外を批判したものが多いのが特徴で、日本でも数多く繰り返し上演され、大きな共感を呼び起こしました。また『るつぼ』は、2001年の9・11同時多発テロ以降のアメリカ国内の動きを先見したと話題を呼んでいます。

ミラーは、2004年にシカゴで上演した『フィニッシング・ザ・ピクチャー』を最後に、2005年に89歳で亡くなりました。


「10月17日にあった主なできごと」

1849年 ショパン死去…ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開いた「ピアノの詩人」と呼ばれた作曲家ショパンが亡くなりました。

1887年 横浜に日本初の水道…江戸時代末に開港したものの人口の急増のために水不足となり、コレラが流行したこともあって、近代的な水道が急がれ、この日横浜で使用されるようになりました。

今日10月16日は、飛鳥時代の645年に始まった「大化の改新」に、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の基礎を築いた藤原鎌足(ふじわらの かまたり)が、669年に亡くなった日です。

聖徳太子が40歳だった614年、大和国(奈良県)で生まれた鎌足のもとの姓は、中臣(なかとみ)です。中臣氏は先祖から、朝廷の神の祭りをつかさどってきた家柄でした。鎌足は、幼いころから学問にはげみ、19歳になると、中国の留学からもどってきた僧の旻(みん)のもとで、海のむこうの国ぐにのすぐれた文化を学び始めました。そして、政治についても新しい知識を深めていくうちに、日本の政治を正しく進めていくためには、そのころ天皇以上に権力をふりまわす蘇我氏を倒さねばならないと考えるようになりました。しかし、朝廷につかえてはいても自分の力だけでは、どうにもなりません。鎌足は、かしこくて勇気のある中大兄皇子に近づくことを考えました。やがて、皇子と言葉をかわせる日がきました。

法興寺(飛鳥寺)という寺で、けまりの会が開かれた日のことです。皇子がまりをけったはずみに、靴がぬげてとんでしまいました。このとき、そのかたわらに鎌足がいました。鎌足は、靴をひろうと、名を名乗りながら、皇子にさしだしました。すると心が通じあい、それからのち二人は、共に学びながら、蘇我氏を討つことを話しあうようになりました──。これは『日本書紀』に書かれている話です。

「朝鮮からの使者がきたときに、蘇我入鹿を宮中で殺そう」という計画ができあがった645年6月、ふだんはでてこないのに、朝鮮からの使者の、みやげものを受けとりにでてきた入鹿を、あっというまに討ちとりました。この事件で蘇我氏はほろび、鎌足は、斉明天皇の皇太子として国の政治を進めるようになった中大兄皇子を助けて、「大化の改新」に力をつくしました。鎌足は皇子よりも12歳上でしたが、二人は身分はちがっても、心のなかは兄弟のように結びついていたようです。

668年に皇子が天智天皇となった翌年、鎌足は天皇から、26段階あるうちの「大職冠」という最高の位と藤原という姓をさずけられて、55歳の生涯を終えました。日本の歴史の中で1000年以上もつづいた藤原氏は、このときに始まったのでした。


「10月16日にあった主なできごと」

1012年 藤原道長絶頂期の歌…藤原氏の全盛をきずいた道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば」という有名な歌を作りました。長女を一条天皇、次女を三条天皇の皇后とし、そして三女を後一条天皇の皇后にしたこの日の祝宴で、自分の栄華を満月にたとえたものです。

1793年 マリー・アントワネット死去…フランス国王ルイ16世の王妃で、フランス革命の際に国外逃亡に失敗、この日38歳の若さで断頭台に消えました。

1946年 ナチス戦犯の絞首刑…南ドイツの都市ニュールンベルクで行なわれた、第2次世界大戦中にドイツが行なった戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュールンベルク裁判)は1日に最終判決がなされ、ヒトラーの片腕だった航空相ゲーリング、外相だったリッベントロップら12名は死刑をいいわたされていましたが、この日11名が13階段を登って絞首台に立ち処刑されました。(ゲーリングは処刑される寸前に拘置所で服毒自殺)

今日10月15日は、日本海軍の育ての親といわれ、海軍大臣として日露戦争に勝利し、2度首相を務めた山本権兵衛(やまもと ごんべえ)が、1852年に生まれた日です。

薩摩国(鹿児島)の藩士の子として生れ育った権兵衛は、1868年から69年にかけて新政府軍と旧幕府軍との間で戦われた「戊辰戦争」に従軍しました。維新後の1869年、当時の政府高官だった西郷隆盛の紹介で勝海舟の指導を受け、開成所、海軍操練所、海軍兵学寮と海軍軍人への道を歩むことになります。

1877年、26歳で海軍少尉となった権兵衛は、ドイツ軍艦に乗りこんで世界各地をめぐって見聞を広げながら訓練を重ねました。1887年には海軍大臣伝令使となって1年あまりの欧米視察旅行後の1889年に大佐に昇進、「高雄」や「高千穂」艦長を歴任しました。

1891年に海軍省官房主事に任命されると、日清戦争時には海軍大臣副官となって作戦指導を担当。陸軍と協働しながら戦争をスムーズに展開させることに貢献すると、戦後は、将来のロシア帝国の脅威に対抗できる海軍とするために、人事を含む大規模な海軍改革を断行しました。

1898年には中将となり、第2次山県有朋内閣の海軍大臣に就任すると、海軍の軍事力をさらに強化して日露戦争を勝利に結びつけるなど、1906年までの約8年、海軍のトップとして君臨しました。その間、日露開戦を急ごうとする流れに対し、あくまで対露外交折衝の重要性を強調しながらひそかに開戦準備をすすめ、東郷平八郎を連合艦隊総司令官長に任ずるなど臨戦態勢をととのえました。いっぽう、海外留学を奨励し秋山真之・広瀬武夫ら多数の青年士官を米国、英国、ロシア他へ派遣するなど士官の教育に力を入れたことは、大いに評価されています。

その後も海軍の長老として大きな発言力をもち、1913年には大正政変で桂太郎内閣が倒れた後、政友会の支持をえて内閣総理大臣となりました。民衆の支持をえて、行政・財政の改革を実現させるなどの成果をあげましたが、翌年におきた海軍高官の汚職事件(ジーメンス事件)により総辞職しました。また、1923年関東大震災の翌日、ふたたび首相となって震災復興のための緊急対策をとるなど期待されましたが、朝鮮人虐殺、無政府主義者や社会主義者惨殺事件などが多発するなか、「虎の門事件」という無政府主義者による摂政官(のちの昭和天皇)狙撃事件がおき、その責任をとって、4か月で総辞職しました。

政界引退後も海軍、薩摩閥の長老として存在感を発揮しましたが、1933年82年の生涯を終えました。


「10月15日にあった主なできごと」

1564年 ベサリウス死去…16世紀神聖ローマ帝国の支配下にあったベルギーの解剖学者で、現代人体解剖の創始者といわれるベサリウスが亡くなりました。

1582年 グレゴリオ暦開始…4年ごとに閏年をおく「ユリウス暦」は1500年以上も使われてきましたが、すでに10日間もの遅れが出ていました。そのため教皇グレゴリウス13世は、以後100で割れても400で割れない年については閏年としないこと、この年の10月4日の翌日は10月15日とすることを決めました。これが今世界のほとんどの国で使用されている「グレゴリオ暦」で、これに変えなかったイギリスは1752年まで、ロシアは1918年までユリウス暦を使用したため、日付にずれが生じています。

1929年 官吏給与1割カット発表…政府はこの日、官吏の給与を1割カットすると突然発表しました。大蔵大臣井上準之助は、長引く不況を乗り越えるには、国民が節約につとめることによって物価を下げ、金輸出解禁にふみこむことが必要と主張。それには政府が模範を示さなくてはと給与カットを発表しましたが、反対にあって1週間後に撤回。しかし、昭和不況が深刻化した2年後の6月に実施されることになりました。

「おもしろ古典落語」の89回目は、『松竹梅(しょうちくばい)』というお笑いの一席をお楽しみください。

松五郎、竹蔵、梅吉の3人は、長屋の「なかよし三人組」といわれていました。3人揃うと「松・竹・梅」となり、名前がおめでたいというので、出入り先の伊勢屋から、お嬢さまの婚礼に招待されました。ところがこの3人、名前だけでなく、頭のほうもおめでたいので、席上どうしたらよいかわからないと、隠居に相談に行きました。

「そうか、せっかくめでたい名前をもった3人でごちそうになるのだから、ただ飲み食いしただけで帰ってくるのじゃ興がないな。どうだ、3人でお祝いの余興をやってあげたらどうだ、喜ばれるぞ」「ご隠居さんがいつか、ウーウーって豚が風邪ひいたような声を出してた、あれですか?」「おいおい、ひどいことをいいなさんな、あれは謡曲、謡(うたい)というもんだが、なかなか急におぼえられるもんじゃない。3人でやるのに、ちょうどいいのがあるから、教えてあげよう」「どんなことするんです?」

「ごちそうになって、お開きというときにだな」「お開きってなんですか?」「婚礼などのおめでたいときには、帰るだの戻るだのと、縁起の悪いことはいわない。必ずお開きというんだ」「わかりました、嫁にいったり婿にいった者が帰ったり戻ったりしたら困るからですね」「その通りだ。それで、いよいよお開きになったら、松さんが少し前へ出て『あたしたちで、ご当家のお婿さんをお祝いもうして、余興をやってみたいとぞんじます』っていうんだ。旦那は喜んで、ぜひやってくれっていうにちがいない。

まず、『なったぁ、なったぁ、じゃになった、当家の婿さん、じゃになった』とこういう」「へぇ、あっしがね」「そう。うまくなくってもいいよ。かえって愛きょうがあっていいからね。こんどは竹さんが『なんの、じゃになぁられた』とやる。それから梅さんが『長者(ちょうじゃ)になぁられた』といって、3人で『おめでとうございます』といやぁいいんだ。いいね、練習してみよう。まず松さんからだ」

「なった、なった~、なったぁ~」「おい、おい、納豆売りじゃないよ」「なったぁ、なったぁ、じゃになった、当家の婿さん、じゃになった」「うまい、うまい、今度は竹さんだ」「へぇ…、なんの、じゃになぁられた」「梅さんだよ」「へぇ、あっしですね。やりますよ、えーっと、『大蛇(だいじゃ)』になぁられた」「ばかぁ、そんなこといったらぶちこわしじゃないか。『長者になぁられた』だよ」「長者になぁられた」隠居は心配して、もういっぺん稽古したらといいいますが、もう大丈夫と、3人はそろって帰ります。

伊勢屋についた3人、いきなり「まことにご愁傷さま…」とやりかけて肝を冷やしますが、旦那は、おめでたい余興と聞いて大喜び。親戚一同も一斉に手をたたくものだから、三人、あがってボーッとなってしまいます。それでも、松五郎と竹蔵はどうやら無事に切り抜けましたが、梅吉がまた「長者になられた」を忘れ、「番茶(ばんちゃ)」だの「風邪(ふうじゃ)」だのと、とんでもないことをいいいだしたので、その都度やり直し。「なんの、じゃになぁられた」…竹蔵にぎゅっとひざをつねられた梅吉は、大きな声で……

「亡者(もうじゃ)になぁられた」


「10月12日にあった主なできごと」

1492年 コロンブスアメリカ発見…スペイン女王イサベラの援助により、西回りでインドをめざしたコロンブス隊が、71日目のこの日、中央アメリカのバハマ諸島にある島(今のサンサルバトル島)に到着しました。

1694年 芭蕉死去…各地を旅しながら紀行文『野ざらし紀行』『笈(おい)の小文』『おくのほそ道』などを遺し、「俳句」を文学の域に高めた松尾芭蕉が亡くなりました。

1769年 青木昆陽死去…江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者 青木昆陽が亡くなりました。

1960年 浅沼稲次郎死去…「日本社会党」の委員長だった浅沼稲次郎が、演説会の席上で、17歳の右翼少年に暗殺されました。

今日10月11日は、季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」をよんだ種田山頭火(たねだ さんとうか)が、1940年に亡くなった日です。

種田山頭火(本名・正一)は、1882年に山口県防府市の大地主の家に生れました。村の助役を務めていた父でしたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になるような人で、これに苦しんだ母は自宅の井戸に身を投げて自殺、10歳の山頭火の心に深い傷が残りました。

旧制山口中学(現・防府高校)を主席で卒業した山頭火は、早稲田大学文学部に入学するものの神経症のため中退して帰省、療養のかたわら家業となった造り酒屋を手伝いました。そのかたわら、「山頭火」を名乗って、翻訳、評論など文芸活動を開始し、荻原井泉水が主宰する自由俳誌『層雲』に寄稿。まもなく井泉水に認められ、1916年には『層雲』の選者の一人になりました。

ところが、家業の造り酒屋が破産して父は家出、山頭火は妻子を連れて熊本市に移住しました。古書店(後に額縁店)を開業しましたがうまくいかず、いきづまった山頭火は、1920年に新たな職をもとめて単身上京、図書館で勤務するようになりました。しかし、神経症を再発したために退職においこまれ、妻からは離婚をいいわたされてしまいました。1923年の関東大震災で焼け出された山頭火は、熊本の元妻のもとへ逃げ帰り、居候となりましたが、熊本市内で泥酔し、路面電車を急停車させる事件を起こしたところ、顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺に放り込まれました。

山頭火が自己の本性を知り、息を吹き返すきっかけとなったのは、この報恩寺で「禅語録」と出会い、出家して耕畝(こうほ)を名乗ってからでした。生きるために托鉢を続けて1年余が経った1926年、山頭火は、やはり漂泊の俳人で3歳年下の尾崎放哉が41歳の若さで死去したことにショックを受け、句作への思いが高まりました。法衣と笠をまとい食物の施しを受けながら西日本各地をめぐる行乞(ぎょうこつ)の旅は、7年間も続くことになり、その中でたくさんの句を生み出し、旅先から『層雲』に投稿を続けました。宮崎、大分、九州山地を歩いたとき「分け入っても 分け入っても 青い山」と詠んだことはよく知られています。

1932年、友人たちの援助で、郷里に近い小郡に「其中庵(ごちゅうあん)」という草庵に入って7年間をすごしました。山頭火の深酒は半端なものでなく、本人曰く泥酔への過程は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」で、最初の「ほろほろ」の時に3合といいますから、1升酒どころではなかったようです。この草庵に入ってまもなく、第1句集『鉢の子』にはじまり、57歳で亡くなるまでに7つの句集を刊行しました。漂泊の旅は、九州から中国、四国、近畿、中部、関東、東北の平泉にまでわたり、生涯に8万6千句というぼう大な作品を残しています。

山頭火の生きざまは、死後になってたくさんの人たちが知るにつれ、句の人気はどんどん高まり、1970年代には17か所だった句碑は、今では全国で500か所を越すほどで、個人の文学碑の数としては、山頭火を上回る人はいないだろうといわれています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、種田山頭火のたくさんの句、日記、随筆を読むことができます。


「10月11日にあった主なできごと」

1841年 渡辺崋山死去…江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』で幕政批判をしたとして「蛮社の獄」に倒れた渡辺崋山が亡くなりました。

1915年 ファーブル死去…昆虫の行動研究の先駆者で、『昆虫記』を著わしたことで知られるフランスの生物学者ファーブルが亡くなりました。

1945年 GHQが5大改革を指令…連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーは、「女性の解放」「労働者の団結」「教育の自由化」「専制政治の廃止」「経済の民主化」という5つの改革を指令。戦後の民主化をすすめる第1弾となりました。

1947年 栄養失調で判事死亡…戦後の食糧不足のなか、国民の多くは配給で足りない分を、違法な「闇米(やみごめ)」や闇市でまかなっていましたが、東京地方裁判所の山口判事は、食糧管理法違反という闇米を取り締まる役目をおっていた責任感から、闇米など違法な買い出しをいっさい拒否したため栄養失調で死亡しました。

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