児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年10月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 59]

むかしむかし、この世をつくった神さまが、それぞれの生き物たちの寿命を何年にするかを考えていました。そこへ、ロバがやってきたので、神さまはロバにたずねました。「おまえの寿命を、30年にしたいが、どうじゃな」 「いいえ、神さま、30年は長すぎます。わたしのつらい生活をお考えください。わたしは朝から晩まで重い荷物を運んだり、他人がパンをたべるための麦の入った袋を水車場まで引っぱっていかなくてはなりません。それなのに、ぶたれたり蹴られたりして、働け働けってせきたてられるばかりなんです。どうか寿命を、もう少しおへらしください」……と。そこで神さまは、ロバの寿命を18年にしました。ロバがほっとして立ち去ると、こんどはイヌがやってきました。

「今、生き物の寿命を考えているのだが、おまえはどのくらい生きたいかな? ロバは30年では長すぎるといったが、おまえはそれでよかろう」するとイヌは、こう答えました。「神さま、わたしがどんなに走らなくてはならないかをお考えください。それなのにわたしの足は、30年も走れるほど丈夫ではございません。それに歯も、10年やそこらで抜けてしまいます。走ることできず、かみつく歯もぬけてしまっては、部屋のあちらの隅からこちらの隅までウーウーうなるほかありません」「なるほどな」そこで神さまは、イヌの寿命を12年にしました。

イヌが帰ると、次にサルがやってきました。「今、生き物の寿命を考えているのだが、おまえはどのくらい生きたいかな? ロバやイヌは30年は長すぎるといったが、おまえはロバやイヌのように働く必要がないせいか、いつも陽気だ。30年は生きたいだろう」「いいえ、神さま、そう見えるだけのことでございます。わたしの人生は、いつも人を笑わすためにおかしなイタズラをしたり、変な顔をしたりしなくてはなりません。そのくせ、人からリンゴをもらって食べてみるとすっぱかったり、いつも泣き笑いというふうなんです。ふざけているかげでは、どんなに哀しい思いをしているかわかりません。30年なんて、まっぴらでございます」「なるほど」そこで神さまは、お慈悲をもってサルの寿命を10年にしました。

それから、人間がやって来ました。「今、生き物の寿命を考えているのだが、おまえはどのくらい生きたいかね? ロバもイヌもサルも30年は長すぎるといったが、おまえは30年でかまわないね」ところが、人間はがっかりして答えました。「30年とは、なんて短い寿命でしょう。やっと自分の家をたて、自分のかまどで火をたくようになって、これから人生を楽しもうという時に、なぜ死ななくてはならないのでしょう。お願いです。もっと寿命をお伸ばしください」「そうか、ではロバの分の18年をたしてやろう」と、神さまはいいました。

「18年たしても、たったの48年です。それではたりません」「ではイヌの分の12年も、たしてやろう」「12年いただいても、たったの60年です。まだまだ、少なすぎます」「よし、それではサルの分の10年もたしてやろう。もうこれ以上はやれないよ」神さまはそういうと、人間を帰らせました。

こんなわけで、人間の寿命は70年となりました。はじめの30年は、人間が元から持っている寿命です。人間はその30年間に、子どもをつくって家をたて、元気で人生を楽しみます。次に来るのが、ロバの18年です。この18年間は、いろいろな重荷を背負わされ、打ったり蹴られたりして、いっしょうけんめい働かなくてはなりません。そして次に、イヌの12年がやってきます。この頃になると足腰が弱くなり、歯も抜けていき、隅っこにころがってうなっています。そして最後に来るのが、サルの10年です。その頃はだんだんと頭がにぶくなり、笑われるつもりはなくても、へんてこりんなことをして、子どもたちの笑いものになります。

このお話は、ドイツに伝わる昔話をグリム兄弟が収集してまとめた約200編の中のひとつです。あなたは今、元からもらった人間の時代? ロバの時代? イヌの時代? それともサルの時代かな? ちなみに私は最近、すべての時代を使い果たしました。ということは、おまけの時代に入ったということかな? 


「10月24日にあった主なできごと」

1708年 関孝和死去…江戸時代前期の数学者で、「和算」とよばれる数学の理論を世界的なレベルまで発展させた関孝和が亡くなりました。

1929年 暗黒の木曜日…アメリカのニューヨークにある株式市場で、株が史上最大の暴落をしました。その日が木曜日だったため「暗黒の木曜日」といわれています。5日後にもまた値下がりが続き、わずか2週間ほどで株価が半分以下となって、アメリカ経済は大混乱となりました。多くの人が財産を失い、失業者があふれ、自殺者もでる騒ぎになりました。こうしてアメリカではじまった大恐慌は、全世界をまきこむ「世界恐慌」へつながっていきました。

今日10月23日は、イギリス出身の博物学者・作家でボーイスカウト運動にも貢献したシートンが、1946年に亡くなった日です。

アーネスト・シートンは1860年、イングランド北東部にある港町サウスシールズに12人兄弟の末っ子として生まれました。商人だった父の事業の失敗から、シートンが5歳の時にカナダに移住し、オンタリオ州のリンゼーの町から6キロも離れた森林で、開拓者の生活を始めました。シートンにとっての開拓地での暮らしは、胸のワクワクするような素晴らしい毎日でした。ところが4年後に一家はトロントに移りました。荒々しい開拓の仕事が父母にはつらいものだったためです。シートンは公立学校へ通いましたが、自然あふれるリンゼイでのさまざまな鳥や動物たちとふれた日々が忘れられません。14歳のときには、トロント郊外にみつけた原始林に、週末ごとにでかけては自分だけの秘密の小屋を建てて過ごすほどでした。やがて高校を卒業したシートンは、博物学者になる夢をふくらませていました。しかし、厳しい父親の反対にあい、画家の道を歩み始めました。

1879年、オンタリオ美術学校を優秀な成績で卒業すると、さらに絵の勉強をするためにイギリスに渡り、絵画の名門ロイヤル・アカデミー美術学校に入学しました。この地でシートンは、ふたたび博物学者を志すきっかけとなる出来ごとがありました。世界一の博物館といわれる「大英博物館」との出会いです。はじめは、ロイヤル・アカデミーの入学試験の課題だった絵を描くために、名画を見に行くためでしたが、そのうち、博物館の館内には図書館もあり、世界中の博物学の図書がたくさんそろっていたのがわかりました。こうしてシートンはそれから毎日のように、昼は博物館で絵を描き、夜は10時に図書室が閉館するまで、博物学の本を読みあさりました。しかしその生活も長くは続きませんでした。資金がつづかず、食事も満足にとれなかったために身体をこわしてしまったためです。

トロントに帰郷後、まもなく体調を回復したシートンは、カナダ西部で農場を経営する兄のところへ行き、農場の手伝いをしながら、森林や草原に現われるさまざまな動物を観察してこまかく記録するなど1年半ほどを過ごしました。1883年には、ニューヨークへ出て、出版社に勤めながら動物の絵を書く仕事をしました。絵は好評でしたが、都会にいると大自然への憧れを抑えることができず、カナダにもどってしまいました。

1890年、動物画家として生活する自信をえたシートンは、さらなる絵の勉強をするためにパリへ出て、動物園に通い続けてオオカミの絵を描き、その絵は展覧会に入賞するほどでした。しかし、2年もすると、また大自然が恋しくなってまたカナダへ帰ってきてから1年後の1893年、33歳のシートンへ、ニューヨークで知り合ったアメリカの実業家から「牧場の牛がオオカミに襲われて困っているので動物に詳しいあなたに助けて欲しい」という手紙が来ました。ニューメキシコへ向かったシートンは、5年かかってもつかまらないというオオカミ王ロボと出会いました。4か月後にようやくロボを捕獲したシートンは、偉大なロボを讃えて、その生涯を物語にしたのでした。

1896年、ニューヨークで生活を始めたシートンは、1898年に、数年間雑誌に発表した物語のうち8編(「オオカミ王ロボ」「銀の星」「ギザ耳ウサギ」「ビンゴ」「スプリングフィールドのキツネ」「だく足のマスタング」「ワリー」「赤襟巻」)を集め、第一作品集『私の知る野生動物』を刊行すると、大評判となりました。シートンの名前は全米で知られるようになり、続いて出版した『ハイイログマの生涯』『動物の英雄たち』なども大評判となって、アメリカ各地で講演依頼が殺到するほどでした。

さらにシートンは、少年たちに野外生活の楽しさを体験させたいと、ニューヨークのはずれにある広い土地を手に入れ、インディアン団を作りました。この組織は、のちにボーイスカウト団に発展し、長い間この委員会の議長をつとめるなど、大自然と動物、そして子どもたちを友としながら、86年の生涯を閉じました。


「10月23日にあった主なできごと」

1849年 西園寺公望誕生…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した政治家 西園寺公望が生れました。

1873年 征韓論争勃発…朝鮮への派兵をめぐって、この日政府内に激しい論争がおこりました。西郷隆盛や板垣退助らは鎖国を続ける朝鮮を武力で開国させようと主張したのに対し、岩倉具視や大久保利通らが内政を優先させることが先決とこれに反対しました。結局、西郷と板垣らは論争に破れて、翌日要職を辞任して政府を離れました。

1973年 オイルショック…10月はじめに第四次中東戦争が勃発。石油輸出国機構(OPEC)に加盟しているペルシア湾岸産油6か国は、原油公示価格の21%引き上げ、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸をこの日に発表、第1次オイルショックの引き金となりました。原油価格と直接関係のないトイレットペーパーや洗剤などの買占め騒動がおきたり、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生するなど、日本の高度成長にストップがかかる事態に陥りました。

今日10月22日は、詩集『山羊(やぎ)の歌』『在りし日の歌』など、350編もの詩を残して夭折した詩人・中原中也(なかはら ちゅうや)が、1937年に亡くなった日です。

1907年、山口市湯田温泉に陸軍軍医の子として生まれた中也は、幼い頃は父の転任のため広島、金沢に移り住みました。父が山口の医院を受け継ぐことになったため、1918年に山口師範小学校に転校。成績優秀で、すぐれた文才を小学時代から現わし、雑誌『婦人画報』などに短歌が採用されるほどでした。

ところが、旧制山口中学に入学後、友人との共著で歌集を著わすなど文学にのめりこみすぎたために落第、1923年に京都の立命館中学に転入学しました。このころから、高橋新吉の影響を受けて、ダダイズムに傾倒するようになるいっぽう、この年の冬に劇団女優の長谷川泰子と知りあい、まもなく同棲することになりました。また富永太郎と出会って、ランボーやボードレールなどフランス象徴詩への興味を抱きはじめ、1925年3月には泰子とともに上京しました。のちに評論家として大成する小林秀雄と知り合いましたが、11月に泰子が小林と同棲するという事件がおきたり、富永太郎が病死するなど深い傷を負ったのでした。

それ以後の中也の心は詩作でいっぱいになり、詩の世界ではだれにも負けないという自信がめばえてきました。1926年に「朝の歌」によって詩人としての方向性を自覚すると、河上徹太郎や大岡昇平らと交友しながらに同人誌『白痴群』を1929年に創刊し、翌年6月に廃刊となるまでに「寒い夜の自画像」「妹よ」「汚れっちまった悲しみに」など、傷ついた青春の魂の詩を発表し続けました。1934年には40編もの詩を収録した処女詩集『山羊の歌』を自費出版すると、少数ではあっても広く詩を愛する人々に認められるに至りました。さらに『ランボオ詩集』を翻訳出版するなど、フランスの詩人の紹介にもつとめました。

やがて、小林秀雄らが中心となっていた「文学界」や「歴程」などに「一つのメルヘン」「月の光」など次々と作品を発表することで、詩壇での評価を高めていきましたが、1936年11月に結婚後に生れた長男が死去したことで精神的な変調をきたして入院してしまいました。1937年2月に退院後は鎌倉で静養しながら、第2詩集の原稿を整理し、出版を小林秀雄に託して帰郷を決意しました。ところが脳膜炎を発症し、30歳で急死してしまいました。この第2詩集は、死後『在りし日の歌』として刊行されました。

わが国の文学史上に大きな足跡を残した中也でしたが、生前は、ごく一部の人々が評価をするのみで、志半ばにして異郷の地で亡くなりましたが、その名声は死後になって高まり、各社から出版された詩集や全集は数十点に及びます。今や近代日本文学を代表する叙情詩人として、ゆるぎない地位を得ているといってよいでしょう。1994年には、山口市湯田温泉の生家跡地に「中原中也記念館」が開館しています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、中也の代表詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』の他、翻訳詩『ランボー詩集』や評論など21編を読むことができます。


「10月22日にあった主なできごと」

794年 平安京に遷都…桓武天皇はこれまでの長岡京から、この日平安京に都を移しました。南北を38町に区切り、39の大路・小路を東西に通して1条から9条に分けた京の都は、東京に移るまで1100年近くも続きました。

1906年 セザンヌ死去…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家セザンヌが亡くなりました。

1962年 キューバ危機…ソビエトがキューバに攻撃用ミサイル基地を建設中との情報を入手したアメリカのケネディ大統領は、この日全米に「海上封鎖を予告する」とテレビで演説、ソビエトのフルシチョフ首相に対し「封鎖を破るものは、ソ連船でも撃沈する」と警告を発しました。ソビエトはこれをアメリカの海賊行為と非難したため、核戦争の始まりかと世界中を震撼させました。しかし28日、ソビエトはミサイル基地の撤去を発表、危機は回避されました。

「おもしろ古典落語」の90回目は、『クモ駕籠(かご)』というお笑いの一席をお楽しみください。

むかしの街道には、駕籠をかつぐ「くも助」というのがいました。なぜこんな名がついたかといいますと、住んでいるとこが決まっておらず、今日は東、今日は西と、浮雲のようにフワフワしているからという人と、所どころに網を張ってお客をつかまえるから、ちょうど虫のクモのようだという人がいますが、どちらが正しいか、こんどクモにあったら聞いてみてください。

「ええー、駕籠、駕籠はいかがですか」「今日はまだお客さんがありません。ひとつ乗ってくださいよ」「いらないよ」「そんなこといわずに、お安くしときますから」「乗ってやらねぇこともないが、もう一度、よび声をやってみてくれねぇか」「へぇ、では、ええー駕籠、ええー駕籠」「ええ駕籠って聞こえるが、ちっともよくねぇや、ずいぶんきたねぇ駕籠だな」「それじゃ、へぇー駕籠、へぇー駕籠」「屁ぇ駕籠だと? そんな駕籠じゃ、くさくっていけねぇ」「くだらないこといってないで、人間二人助けると思って、乗ってくださいよ」「じゃあ乗ってやろうか。よっこらしょ、そら乗ったぞ」「で、どちらまで?」「すぐ向かいの家だ」5、6歩あるいたら、もう家についています。ひどい客がいるもんで……。

「これ、これ、駕籠や」「おう、相棒よ、こんどの客はお侍だ。言葉をていねいにしろよ」「駕籠は二丁であるぞ」「へい、ありがとう存じます」「前の駕籠がお姫さま、後ろが乳母さまじゃ。その駕籠のうしろから荷持ちが二人いく。その後を供ぞろいのものが十人ほど……」「たいそうな行列でございますな。じゅうぶん気をつけて、かつがせていただきます。もう一丁は仲間を呼びます。で、そのお姫さまは、どちらにいらっしゃるんで」「いや、そういう駕籠がここを通らなかったか、聞いておるのじゃ」またまたギャフン。

次は酔っぱらい。「だんな、いいごきげんだね」「なにぃ? おれが機嫌よく酒をのんだのか、やけくそで飲んだのか、おまえは知ってるのか?」「こりゃ、悪い酒だよ……だんな、お駕籠はいかがですか?」「そんな大きなもんはいらん。持って歩けん」「持って歩くんじゃなくて、お乗りになりませんか? それにしても、ずいぶんお飲みになりましたね」「おまえ、おそめって仲居を知ってるか? 色の白い、鼻の横にホクロのある、可愛いらしい仲居さん。おそめは進め上手でな、お銚子を15本も空にしてきた。安い上に、ほれ、肴の残りを竹の皮に包んでくれたぞ。おまえ、ウソだと思ってるだろ」「思ってませんよ」「おまえ、おそめって知ってるのか?」「はいはい、色白の、鼻の横にホクロのある可愛い仲居さん」「おまえは、なんでおそめを知ってるんだ……」「ありゃりゃ、駕籠に頭つっこんで寝ちまいやがった。こら、起きろ」

「ああ、もうこりゃさんざんだなぁ」とグチっていると、置きっぱなしにしておいた駕籠の中から顔を出して呼ぶ声がします。「品川まで、すぐにやってくれ」「がってん、承知のすけ」やっとまともな客が乗ってくれたと、二人の駕籠屋は肩を入れて、ヨッコラショとかつぎます。「おう、相棒よ、何だか重くないか?」「うん、重い、相撲取りでも乗せたんじゃないのか」それもそのはず、駕籠の中では、ふたりの男がほくそえんでいました。「ふふふ、うまくいきましたな」「一人分の駕籠代で二人とは、いい思いつきでしたな」「駕籠屋も気がついてないみたいですよ」「でも、さすがに狭いですな。こう抱きあってると、相撲でもとってるみたいで…」「このあいだ、回向院で見た相撲はよかったなぁ」「そうそう、大関同士がこう右を差して、頭をつけてググーッと押した」「こっちは、なにくそと土俵際まで押しかえす…」「そうきたか、ドッコイショとのこる」駕籠の中で相撲をはじめたからたまりません。メリメリっと駕籠の底がぬけ、かついでいる駕籠屋はびっくりぎょうてん。「お客さん、冗談じゃないよ。二人も入っていて、おまけに底がぬけたじゃないか」

「ごめんごめん、つくろい代は払うから、そのままやってくれよ」「底がぬけた駕籠なぞ、かつげないよ」「あたしたちも中でかついで歩くから、大丈夫だよ」「こんな駕籠、かついだこたぁない」「こっちも、こんな駕籠かつがれたことがない。まぁ、いいじゃないか、はじめて同士でおもしろいから、このままいこうよ」

こうして、世にも不思議な珍道中が出現しました。「おとっつぁん、へんな駕籠が来たよ! 駕籠のなかから足が四本でててね、駕籠屋の足とあわせると八本あるよ。あの駕籠いったい、なんという駕籠だろうね?」

「そうかい、それが本当のクモ駕籠だ」


「10月19日にあった主なできごと」

1956年 日ソ国交回復…「日ソ共同宣言」をモスクワで正式調印し、国交が回復することになりました。1951年に日本と連合国48か国とのあいだで講和条約が成立していましたが、ソ連がこの条約調印をしなかったため、国交がとだえたままでした。これにより、日本は国際連盟に加盟することができました。

1987年 ブラックマンデー…ニューヨークの株式市場で、株価が22.6%の下落という史上最悪の下げ幅を記録し、世界各国の経済を大混乱におとしいれました。

今日10月18日は、中国・北宋期の儒学者・歴史家・政治家の司馬光(しば こう)が、1019年に生れた日です。『資治通鑑(しじつがん)』という、古代の戦国時代(BC403年)から五代末期(959年)まで1362年間の中国の歴史を294巻にまとめた通史を著した人物で、その主張は儒学に受け継がれ、水戸学などわが国にも大きな影響を与えました。

現在の山西省に役人の子として生れた司馬光は、幼少のころから才能にめぐまれて育ちました。少年時代に大きな水甕に落ちておぼれかかった友人を、とっさに石を投げこんで甕をこわし、命を救ったという逸話をのこしているほどです。

1038年に役人となるための試験「進士」に合格すると、20年ほど地方官となって各地で勤務後、中央政界の官職につき、王安石とともに、若手の政治家として期待されるようになりました。

しかし1067年に、神宗が即位すると、王安石を起用して「新法」という改革を断行すると、王安石が官僚の既得権をとりのぞいて政治の一新を図りました。それに反対をとなえたことで司馬光は政界を退き、洛陽で隠居生活を送ることになりました。洛陽での19年間は、かねてから構想していた『資治通鑑』の執筆に従事しますが、その間、神宗による国家の全面的な援助と、当代一流のスタッフの協力を得て、司馬遷の『史記』以来の壮大な歴史書を、1084年に完成させました。

1085年に神宗が亡くなり、哲宗が10歳で即位すると、『資治通鑑』によって人気をえた司馬光は、宰相となって中央に復帰しました。着任するやライバルだった王安石の「新法」を全面的に廃止し、すべて「新法」実施以前の法にもどそうと画策しましたが、余りの極端な手法に政治混乱をおこし、在任8か月で病死してしまいました。

なお、『資治通鑑』という名称は、「政治に資益するところがあり、天子の鏡とするに足る」という意味で、神宗が命名したものです。


「10月18日にあった主なできごと」

1866年 シーボルト死去…江戸後期に長崎のオランダ商館つき医師として来日したシーボルトが亡くなりました。シーボルトは、すぐれた西洋医学を広めたものの、1829年に帰国の際、禁じられたた日本地図などを持ち去ろうとしたことで、江戸幕府から国外追放を申し渡されました。(シーボルト事件)

1881年 日本初の政党…国会開設をを求めていた自由民権派は、板垣退助を党首に選び、日本初の全国組織による政党「自由党」が誕生しました。

1931年 エジソン死去…映画、レコード、電信機、電話機、電球、蓄電池など、生涯におよそ1300もの発明をしたアメリカの発明家・事業家のエジソンが亡くなりました。

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