児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年10月

今日10月31日は、『兎の眼』『太陽の子』など児童文学のベストセラーを著わした作家の灰谷健次郎(はいたに けんじろう)が、1934年に生れた日です。
 
神戸市の貧しい家庭に生まれた灰谷健次郎は、働きながら定時制高校に通いました。大阪学芸大学(現・大阪教育大)卒業後は、神戸の小学校教師を務めるかたわら、児童詩誌『きりん』の編集に携わりながら、創作活動をはじめました。その後、1967年に長兄の自殺や母親の死などが重なり、自分が教師であることの意味を見失ったことで、1971年に17年間勤めた小学校教師を退職しました。

インドやタイ、沖縄などを放浪した後の1974年、大阪の工場地帯の一角にある小学校を舞台にした『兎の眼』を発表、児童文壇デビューをはたしました。この作品は、自らの教師体験を基に、大学を卒業したばかりの若い女性教師が直面する出来ごとや出逢いを通して、多感で繊細な子どもたちと正面から向き合いながら成長する個性あふれる教師を描いたことで、子どもたちばかりでなく、広く大人にも読まれて100万部をこえるベストセラーとなりました。さらに、国際アンデルセン賞特別優良作品にも選ばれ、テレビドラマや映画にもなって大きな話題を提供しました。

1978年には、神戸の琉球料理店の少女が太平洋戦争と沖縄に思いを深めていく『太陽の子』を出版すると、この作品も50万部のベストセラーとなりました。その後も、少年の成長を追った大河小説『天の瞳』など、ヒューマニズムにあふれた作品を発表したことで、1979年、山本有三記念『路傍の石』文学賞を受賞したほか、短編には『せんせいけらいになれ』『ろくべえまってろよ』『いっちゃんはね、おしゃべりしたいのにね』などがあります。

1983年には教師時代の同僚たちと、[子どもが中心] を理念とする「太陽の子保育園」を神戸市に開設したり、教員体験や独自の死生観をもとに、子どもや教育をめぐる問題にも積極的に発言しました。

2006年72歳で死去するまで、沖縄県の渡嘉敷島に住居を移して漁をしながら暮らしましたが、1997年、新潮社の写真週刊誌「フォーカス」が殺人容疑の少年の顔写真を載せたことに怒り、同社との出版契約をすべて解消して抗議の意を表したことはよく知られています。「子どもを大事にしない社会」を憂い続けた灰谷らしい行動でした。


「10月31日の行事」

ハロウィン…カトリックの諸聖人の祝日である「万聖節」の前夜祭で、古くはケルト人の行っていた収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされています。ハロウィンをアメリカに伝えたのは、1840年代のアイルランド移民でした。名物のおばけちょうちんは、カブで作っていましたが、アメリカには大きなカブがなかったためにカボチャを使うようになったようです。おばけちょうちんを持ち、魔女や妖精、お化けなどに仮装した子どもたちが、近くの家を1軒ずつ訪ねては Trick or treat. (お菓子をくれないといたずらをするよ)と大声をたてます。子どもたちがきた家では、用意しておいたお菓子をわたして、仮装をほめてあげるという楽しいお祭りです。最近は、日本でもよく目にするようになりました。


「10月31日にあった主なできごと」

1517年 95か条の論題…ドイツの神学者ルターは、ローマ教会の免罪符の発行などを批判する「95か条の論題」を、ビッテンベルク城教会の扉にはりだしました。これがきっかけとなって、キリスト教の「宗教改革」がはじまりました。

今日10月30日は、明治期最大の流行作家として、幸田露伴とともに「紅露時代」を築いた尾崎紅葉(おざき こうよう)が、1903年に亡くなった日です。

1868年、江戸(現在の浜松町)に男芸者といわれる幇間(ほうかん・たいこもち)を兼ねた彫職人の家に生れた尾崎紅葉は、4歳のときに母と死別し、母方の祖父母のもとで育てられました。府立第一中学(現・日比谷高校)で学びましたが中退、1883年に東大予備門(のちの第一高校)に入学すると文学への関心を深め、1885年には山田美妙らと日本初の文学結社「硯友社」をつくり、機関誌『我楽多文庫』を発刊して、小説や詩や紀行文などを書いて評判になりました。

1888年に東京帝国大学政治科に入学。翌1889年に国文科に転科すると『二人比丘尼 色懺悔』を刊行しました。この作品は、戦国時代を舞台に、二人の女性が戦で死んだ若武者をとむらうストーリーと、会話を口語体にしながら地の文は文語文という雅俗折衷の文体が、当時の新しい文学のあらわれとして評価され、紅葉はいちやく流行作家として広く知られるようになりました。

同年、大学(1890年中退)在学中ながら読売新聞社に入社して、明治の風俗を美しくえがいた『三人妻』、親しみやすい文章でつづった『二人女房』などを次々に読売新聞紙上に連載し、高い人気を得ました。特に『源氏物語』の影響を受け、知識人の愛情の微妙な揺れをえがいた心理小説『多情多恨』(1896年)は、話し言葉と書き言葉をひとつにする(言文一致)の口語体で書かれたことから、幸田露伴とともに明治期の文壇の重鎮とされ、「紅露時代」と呼ばれるようになりました。

そして、1897年に代表作となる『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の連載が始まると、貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は日清戦争後の社会という時流にのって、一大人気作品となりました。大衆に後押しされて続編に次ぐ続編と、6年にわたって新聞紙上をかざりつづけましたが、その無理がたたって、最後は紅葉36歳での死で未完に終わりました。「紅葉門下の四天王」といわれる泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉らたくさんの弟子を育てたことでも知られています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、のちに、芝居や映画でも演じられるようになった『金色夜叉』(前編・中編・後編・続金色夜叉・続続金色夜叉・新続金色夜叉)を読むことができます。


「10月30日にあった主なできごと」

1850年 高野長英死去…『夢物語』を著して江戸幕府批判の罪で捕らえられるものの脱獄、自ら顔を焼き人相を変えて逃亡していた蘭学者高野長英が、幕府の役人に見つかって自殺をはかりました。

1890年 教育勅語発布…この日「教育に関する勅語」(教育勅語)が発布され、翌日全国の学校へ配布。以来、1945年の敗戦まで55年もの間、皇室中心の国家的教育が進められました。

1938年 火星人来襲パニック…アメリカのラジオドラマで、オーソン・ウェルズ主演『宇宙戦争』(原作H・Gウェルズ)を放送、演出として「火星人がニュージャージー州に侵入」の臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いした人々が大パニックをおこして町から逃げ出す人、発狂する人まで現れました。

今日10月29日は、「ニューヨーク・ワールド」の新聞経営者でジャーナリストだったピュリッツァーが、1911年に亡くなった日です。

1847年にハンガリーのユダヤ家系に生まれたジョゼフ・ピュリッツァーは、1864年のときアメリカ南北戦争の北軍募集に応募して従軍、その後帰化してミズーリ州のセントルイスに定住しました。1868年にドイツ語新聞にレポーターとして入り、市政の腐敗を暴露するなど、興味深い記事が評価されて、1869年にはミズーリ州議会議員に選任されました。

1878年には、経営不振になっていた地元の新聞社を買って夕刊紙を創刊、編集と経営に当たることで人気をえると、1883年には「ニューヨーク・ワールド」を購入しました。ワールド紙上に、巨大企業モルガンなどへの専横に対する攻撃や「イエローペーパー」といわれるスキャンダラスでセンセーショナルな記事を満載させることで、1880年代後半には購入時の40倍もの購読者を獲得し、アメリカ最大の新聞部数に伸長させました。

しかし、ライバルの「ニューヨーク・サン」の編集者が、1890年にピュリッツァーを「信仰心を放棄したユダヤ人」と紙上で攻撃したことがきっかけとなって健康を急速に悪化させ、主筆を辞任しました。特別製のヨットで療養生活をしましたが、社主として亡くなるまでワールド紙への編集方針への助言をし続けました。1896年には、ワールド紙は当時の革新技術であるカラー化を始めるなど、広告費で支えられた巨大な新聞産業を作り上げました。1903年、ピュリッツァーは新聞記者の質の向上を願って、コロンビア大学に100万ドルを寄贈すると、同大学は1912年に新聞学部を創設させています。

なお、有名な「ピュリッツァー賞」は、ピュリッツァーがコロンビア大学に遺贈した50万ドルを基金として、1917年から毎年5月に、ジャーナリズムの中でも新聞等の印刷報道、文学、作曲などを対象とした賞で、コロンビア大学が運営を行い、米国で最も権威のある賞のひとつとなっています。


「10月29日にあった主なできごと」

1815年 井伊直弼誕生…開国論を唱え「安政の大獄」を引き起こして尊攘派を弾圧、1860年「桜田門外の変」で水戸浪士らに殺害された江戸末期の大老 井伊直弼が生まれました。

1922年 トルコ共和国宣言…オスマン帝国を倒したトルコは、この日共和国の成立を宣言。初代大統領にムスターファ・ケマルを選びました。アタチュルク(トルコの父)として、現在に至るまで、トルコ国民に深い敬愛を受けつづけています。

1929年 悲劇の火曜日…1920年代、永遠に続くと思われていたアメリカの繁栄に大ブレーキがかかりました。5日前(暗黒の木曜日)に1日1300万株が売られて株が大暴落したため、ニューヨークの取引の中心であるウォール街は、不安にかられた投機家でごったがえし、大損して自殺する人まであらわれました。さらにこの日1630万株も売られ、ウォール街最悪の日となって、午後には株式取引所の大扉を閉じました。株価はその後も売られ続け、世界中をまきこむ大恐慌となっていきました。

1945年 宝くじ発売…政府はこの日、戦後復興の資金集めのために、第1回宝くじの販売を開始しました。1枚10円、1等賞が10万円で副賞に木綿の布が2反、はずれ券4枚でたばこ10本がもらえました。評判が良かったために、翌年には1等賞金が100万円となりました。戦後数年間の宝くじには、敗戦後の物資不足を反映して、革靴、地下足袋、人口甘味料のズルチンといった景品がつき、1948年1等の副賞には木造住宅がつきました。

「おもしろ古典落語」の91回目は、『つぼ算(ざん)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「源さん、いるかい?」「おお、甚兵衛さんか、上がんなよ」「上がっちゃいられねぇんだ。実は家の水がめが割れちゃってさ、新しいのを買うことにしたんだ。これまでは一荷入りの水がめだったんだが、小さすぎるんで、この際二荷入りにしようということになった。『じゃ、俺が買いに行くぞ』っていったら、かかぁのやつが『源さんは買い物上手って評判だから、いっしょにいってもらえ』って、こういうんだ」「そういわれちゃ、しょうがねぇな。じゃ、そこにある天びん棒持って、ついてきな」「こんなもん持って、どうするんだ」「水がめを持って帰るしたくよ。こうやると店じゃ『この人は、買い物慣れしてるな』って思ってくれるんだ。足元見られないようにな」

源さんは、甚兵衛を連れて瀬戸物屋に入ります。「いらっしゃいまし。水がめですね。ここに並んでおりますのが一荷入りで、うしろが二荷入りです」「なるほど、で、この一荷入りはいくらだい?」「さようですな、まだ朝商いでございますので、勉強させていただきまして、どうでしょう2円50銭ということで」「そうかい。俺は自分の買い物で来たわけじゃねぇんだ。こいつのかみさんに頼まれてきたんだ。だから、少しでも安く買ってやりてぇ。その50銭っていうのが気に入らねぇな。そいつをどっかに片づけてくんねぇか」「それはちょっと無理で」「無理はわかってるよ。ここで、無理を承知で50銭をどけてごらんよ。こいつのかみさん喜ぶよ。『無理を聞いてくれたんなら、これからは、買い物はずっとそこにしよう』ってなるじゃねぇか」「買い物上手ですな。しかし、正直申しあげまして、2円はつらいです」「こっちは、家から天びん棒を持ってきてるんだ。運んでもらおうってんじゃねぇ。その分、店は浮くはずだぜ、どうだ」「あなたにはかないませんな。ようがす、2円にしときましょう」

「話がわかるね。じゃ、縄をからげて天びんに通してくんねぇかな」「承知しました。(小僧に)その一荷入りの水がめだ。天びんで担げるようにしておくれ」ということになりまして……。「(源さん甚兵衛に)決まったよ。おい、金出しな」「だって兄貴、かかぁがいったのは一荷入り…」「いいから、黙って出しとけ。おい2円、ここに置いとくぜ」「ありがとうございます」

甚兵衛、しぶしぶ担いで歩きながら「これじゃないよ、源さん、二荷入りだよ。かかぁに怒られる」「心配するな。これがそのうち二荷入りになるんだ」と、左に曲がってまた左に曲がると、何のことはない、元の瀬戸物屋へもどりました。「おや、お忘れ物で」「いやね、まぬけな話でさ、買うのは二荷入りの水がめだったんだよ。二荷入りはいくらだ?」

二荷入りは倍値だから、本来は5円。さっき一荷入りを2円に値切ったので、その倍の4円とさせた上で、狭い台所に水がめが二つあっても邪魔だから小さい方を「元値で引き取ってくれ」と、源さんは再交渉します。おやじが承知すると「さっき、2円渡したな。で、この一荷入りの水がめを2円で引き取ってもらうと、2円と2円で4円だな。じゃぁ、二荷入り水がめをもらっていくよ」「……へぇ、さいですな」

おやじ、何か変だと思ったが、へぇ、と答えて二荷入りと取りかえたものの、どう考えてもおかしいので源さんをよびとめます。「おいしっかりしなよ。算盤を持ってきな。いいか、持ったら俺が渡した金2円、入れてみな。……引き取ってもらった一荷入りの水がめ、2円入れてみてくれ、4円になるだろ」「ですから、(泣き声になって)その4円がないんですよ」「なにも泣くこたぁねぇだろ。いいか、この現金2円は俺がおまえさんにやったんだから、この店のものだ。返した2円の一荷入りの水がめも店のもんだ。この二荷入りは4円だったな」「はい、確かに」「俺が買ったんだから、俺のものだな」「わかりました。二荷入りはあなたのものです。ああ、それがあると目ざわりになってわからなくなりますので、早く持ってってください」

「(甚兵衛へ)さぁ、早く出よう、早く」「アッハッハッハ、でも源さんよ、どうしてこうも、うまくいったんだい?」

「壺(つぼ)にはまったのさ」


「10月26日にあった主なできごと」

1909年 伊藤博文死去…尊王攘夷運動をへて維新後明治政府に入り、初代総理大臣として明治憲法の制定に努めた伊藤博文が、日韓併合の一歩をふみだすなか、朝鮮の独立をめざす青年に暗殺されました。

1963年 日本初の原子力発電…茨城県東海村の日本原子力研究所が日本で初めて原子力発電を行ないました。これを記念して、政府は1964年から10月26日を「原子力の日」と制定しました。

今日10月25日は、『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』『古寺巡礼』などの写真集を著わし、戦後の日本を代表する写真家として活躍した土門拳(どもん けん)が、1909年に生れた日です。

山形県の酒田市に生まれた土門拳は、7歳のときに一家で東京へ移住しました。旧制中学在学中は考古学者や画家をめざしましたが、卒業後は逓信省の役人となりました。反骨精神旺盛だった土門は、1932年に農民運動に参加し検挙されてしまいます。1933年、宮内幸太の写真館に住みこんで働くうち、ここにある書庫のカメラ雑誌や写真集を見て、写真の基礎を学びました。1935年には写真家名取洋之助の「日本工房」に写真技師として入社し、報道写真の技術や精神を身につけて、写真家として立つことを決意しました。

ただ土門は考古学に憧れていて、当初から古いものを撮ろうとしていました。古いものは「新しい日本」ではないのかと問い続け、いつも建っている寺の門、昔からの仏像や壷、舞台で次々に動いていく文楽、雨が落ちる社の屋根、庭の苔や誰も上り下りしていない石段……等々、ここにはどんなニュースもないにもかかわらず土門はこれらを撮りつづけました。1943年、第1回アルス写真文化賞を受賞した作品を見た詩人の高村光太郎は、「土門の作品は不気味である。土門のレンズは人や物を底まであばく」と評しています。

戦後は、「リアリズム写真運動」を主唱し、カメラ雑誌の審査員をしながら、アマチュア写真家たちに大きな影響を与えました。特に、原爆で心と身体に障害を負った子どもたちを撮った写真集『ヒロシマ』(1958年)、閉山となった筑豊炭田の子どもたちを撮った写真集『筑豊のこどもたち』(1960年)の二つのドキュメンタリー写真集は、現実を厳しく見つめる作品として、大反響をひきおこして、土門の名は全国に広がりました。

さらに土門は、古典芸術にも心を傾け、15年以上にもわたって寺や仏像を記録した『古寺巡礼』は、1971年に菊池寛賞を受賞しています。1983年、生地の酒田に日本の写真家として初めての写真美術館「土門拳記念館」が開設され、「怒りの土門」「ねばりの土門」、晩年は「鬼の土門」と呼ばれ、1990年に亡くなった土門の作品の数々が一般公開されています。

なお、ネットで公開されている「土門拳画像検索」では、土門の作品、著書、記念館など、土門にかかわりのあるたくさんの写真を見ることができます。


「10月25日にあった主なできごと」

1637年 島原の乱…島原・天草地方のキリシタンの農民たち37000人が、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年 天草四郎 を大将に一揆を起こしました。3か月余り島原の原城に籠城して抵抗しました。

1825年 ヨハンシュトラウス誕生…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家 ヨハンシュトラウス(2世) が生まれました。

1838年 ビゼー誕生…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家 ビゼー が生まれました。

1881年 ピカソ誕生…画家であり、彫刻家であり、また歴史家、詩人、学者でもあった情熱的芸術家 ピカソ が生まれました。

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