児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年09月

今日9月6日は、フランスの絶対君主ルイ14世の財務総監を長く務めたコルベールが、1683年に亡くなった日です。

1619年、フランス北部の町ランスの毛織物商人の家に生れたジャン・バティスト・コルベールは、20歳のころから政府関係で働きはじめ、1651年からルイ14世の宰相マザランの財政管理を任され、その手腕が認められようになりました。1661年にマザランが死去するとルイ14世の財務担当となって実権を握り、1664年、財務総監に就任すると以後20年以上にわたって、「太陽王」ルイ14世による絶対主義絶頂期の財務を担当しました。

陸軍大臣や外務大臣と並ぶルイ14世の側近となったコルベールは、財政再建に取りかかり、政府とゆ着していた金融業者を摘発、赤字解消に尽しました。はん雑な間接税を整理して、特定の個人との一括請負契約とする徴税請負制を確立、直接税の軽減につなげました。さらに、貨幣の獲得を重視する「重商主義」を打ちだしました。この政策は、金銀鉱山を開発して貨幣をたくわえる「重金主義」と、輸出を増やして国内に貨幣を蓄える「貿易差額主義」の2つの政策からなるものでした。

また、外国からの労働者の移入を禁じ、輸入品への関税を重くするなど保護主義的な政策をとり、マニュファクチュア(工場制手工業)の設立・保護や外国人技術者の招へいと技術の発達、国内の道路整備・運河開拓、ガラス・織物・陶磁器などぜいたく品の製造にも力を尽くしました。

いっぽう、イギリスやオランダに対抗してフランス東インド会社を再建させたり、西インド会社などを設立してフランス市場の開拓や植民政策を推進しました。17世紀前半に発見されたカナダのケベックに初めて大規模な植民団を派遣したり、フランス領ルイジアナにも植民をうながし、貿易船の防衛のため海軍の強化も行うなど、こうした一連の政策は、のちに「コルベール主義」とよばれています。

そのほか、パリ天文台や科学アカデミー(現在のフランス学士院)の設立にも関わり、文化人や科学者を援助するなど文化面でも影響を与え、ルイ14世を称えるために王をモデルとした彫刻や絵画を描かせ、芸術に理解のある王という評判のけん伝にも尽くし、フランス文化の向上・発展にもつなげました。

きわめて有能な人物でしたが、近寄りがたい性格からか、宮廷内では「大理石の人」とあだ名されていたそうです。


「9月6日にあった主なできごと」

1522年 初の世界周航…スペイン王と西回りでアジアの香辛料を入手する契約を結んだマゼラン隊の一せきが、人類初の世界一周をはたしました。

1858年 広重死去…「東海道五十三次」などの風景版画の傑作を描き、フランス印象派の画家やゴッホ、ホイッスラーらに大きな影響を与えた、浮世絵師・安藤(歌川)広重 が亡くなりました。

1998年 黒沢明死去…『羅生門』『生きる』『七人の侍』『赤ひげ』 など、数多くの名作映画を生み出し「世界のクロサワ」と讃えられた映画監督 黒沢明が亡くなりました。

今日9月5日は、江戸時代中・後期に、農民の出でありながら武士となり、江戸幕府の探検家となって活躍した最上徳内(もがみ とくない)が、1836年に亡くなった日です。

1754年、出羽国(現在の山形県村山市)の貧しい農家に生れた徳内は、幼いころから算術や測量が好きで、学問を志し、家を弟たちに任せて、たばこの行商をするなど各地をめぐりました。青森で蝦夷地(北海道)の話を聞くうち興味をおぼえ、地元の漁師にたのんで蝦夷地へ渡ったといわれています。

1781年江戸へ出て、本多利明の音羽塾に入門、天文や航海、測量、経済論などを学び、最上徳内と名乗って長崎への算術修行へ出かけたりしました。1785年老中の田沼意次は、ロシアの南下に対する備えと交易を目的に蝦夷地探検を企画、徳内は病気だった師の利明に代わって、下人扱いながら調査隊に同行しました。蝦夷地では幕府の役人らとともに釧路から厚岸(あつけし)、根室、千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されて国後島へも渡りました。活躍を認められた徳内は、翌年には単身で再び国後へ渡り、択捉(えとろふ)島、ウルップ島へも渡っています。択捉では交易のため滞在していたロシア人ともあって、アイヌを仲介して交友し、ロシア事情を聞きだしています。

当時幕府では、10代将軍・徳川家治が死去、失脚した田沼意次にかわって松平定信が老中となり「寛政の改革」により、蝦夷地開発は中止されたことで、徳内は江戸へもどりました。しかし、1787年に再び蝦夷へ渡り、松前藩の寺に入門しましたが、正体が発覚して蝦夷地を追放されるものの、野辺地で知り合った船頭の紹介で1788年には酒造や廻船業を営む商家の婿となりました。翌年、アイヌの騒動に巻きこまれて捕われましたが、本多利明らの運動で釈放され、1790年には無罪となったばかりか、蝦夷地に関する豊富な知識を松平定信に認められ、幕府の役人「普請役」となって、幕府が松前藩に命じていたアイヌ待遇改善の調査のために、蝦夷地へ派遣されました。

その後も徳内は、北方の詳細な地図をこしらえたり、樺太や千島列島の探検をしたり、アイヌの人々の暮らしや言葉の研究、松前藩のロシア・満州との密貿易や、アイヌへの弾圧も察知して幕府に報告したりしました。ロシア語の勉強もし、1792年にロシアの使節ラクスマンが根室に来航した時は、その応対をしています。

1798年には、幕臣の近藤重蔵にしたがって択捉島へおもむき、領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てたことはよく知られています。1823年に長崎へ来日したドイツ人医師シーボルトは、1826年に江戸へ参府した際、徳内はシーボルトと親しく交わりました。徳内の北方研究の数々は、シーボルトの著書によってヨーロッパに広く知られることになり、間宮林蔵とともに、近世日本最大の探検家と評価されています。


「9月5日にあった主なできごと」

1566年 スレイマン死去…オスマン帝国第10代スルタンとして13回にもおよぶ遠征の末、地中海の制海権をにぎって「世界の帝王」と呼ばれたスレイマンが亡くなりました。

1638年 ルイ14世誕生…フランスブルボン王朝の第3代国王で、「朕は国家なり」と絶対専制君主として勢力を誇ったルイ14世が生れました。

1903年 棟方志功誕生…仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家 棟方志功が生れました。

今日9月4日は、日本初の公害事件といわれる「足尾銅山鉱毒事件」を告発した田中正造(たなか しょうぞう)が、1913年に亡くなった日です。

1841年下野国(現・栃木県)の村役人の頭である名主の家に生れた田中は、若いころから正義感が強く、父のあとをついで名主となったものの、幕末には領内の悪政改革運動にのりだしたことから、明治維新直前の1868年に投獄され、出所後は領内追放となってしまいました。1870年に、いまの秋田県鹿角市で役人になりましたが、翌年上司を殺害した容疑で逮捕され、投獄されてしまいます。これには物的証拠もないものの、田中の性格や言動が上役たちに反感を持たれたのが影響したようです。ここでも厳しい取り調べを受け、疑いがはれて釈放されたのは3年後のことでした。

故郷にもどり、隣の石塚村(現・佐野市)の造り酒屋の番頭をつとめた田中でしたが、おりから高まった自由民権運動に共鳴して、1879年に「栃木新聞」(現・下野新聞)の編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えるいっぽう、政談演説会を開催したりしました。1880年には、県議会議員に選ばれ、当時、鬼・県令(知事)とよばれた三島通庸(みちつね)と議会ではげしく対立、三島追放運動を展開したために捕らわれるも、決して屈しませんでした。さらに、三島暗殺事件(加波山事件)に関係したとして1885年逮捕されますが、三島が栃木県を去るとまもなく釈放され、1886年には県会議長を務めました。やがて田中は、「渡良瀬川鉱毒問題」に関心を向けるようになります。渡良瀬川は、栃木と群馬の県境を流れる川で、川上には足尾銅山があり、銅のとりカスを川に流すために洪水がおこると、毒物が田畑をだめにするといわれていました。

1890年田中は、第1回衆議院議員総選挙に初当選を果たしました。この年に渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、大騒ぎとなりました。これが、日本初の公害事件といわれる「足尾銅山鉱毒事件」で、田中はこの事件を再三議会にとりあげ、鉱山操業停止と被害民の救済を政府にせまりました。演説のときには、鉱毒で枯れてしまった稲や竹などをみんなに見せたりしたものの、政府も経営する古河財閥もなんの対策をしようとしません。1897年になって、農民の鉱毒反対運動が激化したことで、政府と足尾銅山側は予防工事を確約し、脱硫装置などを着工しましたが、根本的な解決にはほど遠いものでした。

1900年2月、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、警官隊と衝突して流血の惨事(川俣事件)を引き起こし、多くの農民が捕えられました。この事件に怒った田中は、政治家の限界を知って翌年議員辞職、2か月後の12月10日、東京・日比谷において、帝国議会開院式から帰るとちゅうの明治天皇に対し、死を覚悟の上で「足尾鉱毒事件」について直訴を行いました。警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗しましたが、東京じゅうは大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は全国に広く知れわたりました。

このころから「足尾鉱毒事件」に対する世論が高まりをみせ、政府も対策をたてざるを得なくなり、渡良瀬川下流の「谷中村」をつぶして遊水地を造って解決しようとしました。これでは、根本的な解決にならないと考えた田中は、1904年に谷中村に住まいを移して、村民と寝起きを共にしながら廃村に抵抗しましたが、70歳をこえる年齢には勝てず、激しい一生を終えたのでした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、田中正造の天皇への「直訴状」、「議会に提出した質問状」など5編を読むことができます。


「9月4日にあった主なできごと」

1943年 猛獣薬殺命令…太平洋戦争中、上野動物園の猛獣が空襲で檻から逃げ出すのを防ぐため、27頭の猛獣すべてを薬殺する命令が下され、この日慰霊祭が行われました。

1965年 シュバイツァー死去…アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、生涯を原住民への医療などに捧げたドイツの神学者・医師のシュバイツァーが亡くなりました。

1994年 関西国際空港開港…大阪・泉州沖の人工島に、関西国際空港が開港しました。世界初となる本格的な海上空港で、わが国初の24時間運用空港となりました。

今日9月3日は、民俗・国文・国語学者として大正・昭和期に活躍した折口信夫(おりぐち しのぶ)が、1953年に亡くなった日です。折口は、創作するときは釈迢空(しゃく ちょうくう)の号を使い、歌人としても有名です。

1887年、大阪(現・浪速区)に薬屋をかねる医家に生れた折口は、4歳で小倉百人一首を暗唱、8歳から短歌の創作をはじめ、天王寺中学時代には、万葉集など日本の古典を愛読し、日本初の近代的国語辞典『言海』を精読するほどの早熟な少年でした。1905年に新設された国学院大学予科に入学し、平田篤胤国学につらなる三矢重松の教えうけました。また、根岸短歌会に出入りするうち島木赤彦、伊藤左千夫らと知り合いました。

大学を卒業後、大阪へ帰り中学教師などをしたあとに上京、短歌雑誌「アララギ」の同人となりましたが、のちに離れ、人間の孤独感を詠いあげる独自の自由な短歌を創るようになりました。いっぽう柳田国男の『石神問答』や『遠野物語』に感銘を受け、柳田の主宰する「郷土研究」に投稿しつづけるうち、柳田に認められました。とくに沖縄や信州の民間信仰や芸能に興味をもち、何度もおとずれては研究を深め、民俗調査によって日本古典や古代信仰を解き明かす「折口学」という学風を打ちたてました。柳田は、折口の古代人の霊魂信仰論ともいえる「まれびと」論を決して認めませんでしたが、折口は終生柳田を師として仰ぎつづけました。こうして二人は、民俗学の二大創始者といわれています。

1916年、折口は国学院大学内に郷土研究会を創設すると、『万葉集』全二十巻(4516首の口語訳 上・中・下)を刊行しました。国文学者としての折口の実力は大学内で早くから認められていたものの、柳田国男の民俗学を標榜していたことから保守派にうとまれ、身分が安定せず1919年に講師となり、3年後にようやく教授となりました。

1924年、初めての歌集『海やまのあいだ』を上梓し、折口が民俗学探訪の旅のなかで詠んだ、海や山やそこでひっそりと暮らす人々への共感の歌の数々は、歌人釈迢空の名を一気に高めました。

折口は、国学院大学以外に慶応大学教授にもなって多くの弟子を育て、小説『使者の書』や民俗学書『古代研究』などたくさんの著書を遺しましたが、太平洋戦争が多くのものを折口から奪っていきました。日本の「神」や「古代」がうとまれ、可愛がっていた養子を失ったためです。戦後は「芸術院賞」も授与され、著作や歌集、詩集などが次々と刊行されて華やかにみえたものの、心は空虚のままで、孤独な晩年をすごしたようです。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、折口信夫=釈迢空の著書146編を読むことができます。


「9月3日にあった主なできごと」

1189年 奥州藤原氏滅亡…平泉(岩手県)を中心に藤原清衡・基衡・秀衡と3代、およそ100年も栄えた藤原氏でしたが、秀衡が源義経をかくまったことがきっかけとなって、4代目の泰衡が源頼朝軍に滅ぼされました。清衡の建造した中尊寺金色堂(国宝)には、藤原氏4代のミイラが残されています。

1658年 クロンウェル死去…イングランド共和国の初代護国卿(王権に匹敵する最高統治権を与えられた職名) となったクロンウェルが亡くなりました。

1841年 伊藤博文誕生…明治時代の政治家で、初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣になった伊藤博文が生まれました。

1969年 ホー・チ・ミン死去…ベトナムの革命家で、フランス植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導したホー・チ・ミンが亡くなりました。

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