児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年09月

「おもしろ古典落語」の85回目は、『もう半分(はんぶん)』という「お笑い」というよりちょっと怖いお話の一席をお楽しみください。

江戸の隅田川の永代橋のたもとに、夫婦二人きりの小さな居酒屋がありました。「こんばんは」「やぁ、おいでなさい八百屋さん。こん夜は、ずいぶんと遅うございますな」「へぇ、ちょっと用足しに手間取りましてな。こちらの前を通ると、もうがまんができなくて入ってきたんですよ。すみませんけど、いつもの通り、半分いただかせてもらいたいんで」「ええ、よろしゅうがす、どうぞ」「へへぇ、ありがとうござい…、うまいですね、こちらのお酒は、うまくって安いときてる。ほんとは飲まないつもりだったんですがね……、へぇ、もう半分」

「えー、お客さんに向かってはなはだ失礼ですがね、うちへも、ずいぶんお客さんがくるけど、半分ずつの人は、あなただけですよ。ちゃんと量りますから、一杯も半分も、おんなじなんですがね」「へへへ、それがね、酒飲みっていうのはいやしいもんで、1杯ずつ3杯飲むより、半分ずつ6杯にすると、なんだか余計に飲める気がしましてねぇ、すみませんが、もう半分」というぐあいで、6杯ばかり飲むと、すっかりいい気持になった白髪まじりの八百屋のじいさんは、礼をいって帰っていきました。

じいさんが帰った後、店の片づけをしていると、なんと、じいさんの座っていたところに、ふろしき包みが置き忘れてあります。よく見ると、小判で五十両という大金が入っています。当時は、十両盗めば首を切られた時代です。「ははぁ、あのじいさん、だれかに金の使いでも頼まれたらしい。気の毒だから」と、追いかけて届けてやろうとすると、奥から女房が顔を出してきました。「ちょっとこっちへおいでよ、おまえさん」「なんだい?」「おまえさんは、人間が正直すぎるよ。わたしはこんな身重で、もういつ産まれるかわからないから、金はいくらでもいるよ。しじゅう貧乏暮らしで、おまえさんだって嫌になったといってるじゃないか。じいさんが取りにきたら、そんなものはなかったと、しらばっくれりゃいいんだよ。あたしにまかせときな」

女房に強くいわれれば、亭主は気がとがめながらも、自分に働きがないだけに文句がいえません。そこへ、真っ青になったじいさんが飛びこんできました。女房が「金の包みなんてそんなものはなかった」といっても、じいさんはあきらめません。「わたしは、いぜん深川で、少しは知られた八百屋でございました。それが、酒が好きなもんで、かせぐそばから飲んじまって、とうとう店を閉じて、天秤棒かつぎの八百屋になってしまいました。この金は、娘が私を楽させるため、身を売って作ってくれたものなんです。あれがなくては娘の手前、生きていられないので、どうか返してください」と泣いて頼んでも、女房は聞く耳を持たず、追い返してしまいました。

亭主はさすがに気になって、とぼとぼ引き返していくじいさんの後を追いましたが、すでに遅く、永代橋からドボーンと、身を投げてしまいました。「しまった、悪いことをした」と思っても、あとの祭り。いやな心持ちで家に帰りました。それから2、3日すると女房が産気づき、産んだ子が男の子。顔を見ると、歯が生えて白髪まじりで「もう半分」のじいさんと、うり二つです。それがギョロっとにらんだものだから、女房は「ギャーッ」と叫んだまま、あの世の人になってしまいました。

泣く泣く葬式を済ませると、赤ん坊は丈夫に育ち、あの五十両を元手に店も新築して、奉公人も置く身分になりました。ところが、こまったことがひとつありました。赤ん坊をまかせておいた乳母が、五日と居つきません。何人目かに、ようやくわけを聞き出すと、赤ん坊が夜な夜な行灯(あんどん)の油をペロリペロリとなめるので「こわくてこんな家にはいられない」といいます。さてはと思ってその真夜中、戸を少しあけて見張っていると、丑三ツの鐘と同時に赤ん坊がヒョイと立ちあがり、行灯から油皿をペロペロとなめるではありませんか。思わず持っていた棒をふりあげ「こんちくしょうめッ」と飛び出すと、赤ん坊がこっちを見て油皿をさしだし……、

「もう半分」


「9月13日にあった主なできごと」

1592年 モンテーニュ死去…世界的な名著 「随想録」の著者として、400年以上たった今も高く評価されているフランスの思想家モンテーニュが亡くなりました。

1733年 杉田玄白誕生…ドイツ人の学者の書いた人体解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』という医学書を、苦労の末に『解体新書』に著した杉田玄白が生まれました。

1975年 棟方志功死去…仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家 棟方志功が亡くなりました。

今日9月12日は、歴史家として『ヨーロッパ文明史』などを著わし、フランス「七月王政」期には主導的政治家として活躍したギゾーが、1874年に亡くなった日です。

1787年、フランス南部の都市ニームに生れたフランソワ・ギゾーでしたが、8歳のときに、弁護士だった父親が「フランス革命」に巻きこまれてギロチンで死刑に処されてしまいました。父親との連座をおそれた母親は、ギゾーを連れてスイスのジュネーブに逃れました。やがてフランスがナポレオン時代に入ったことで、1805年、ギゾーはパリに帰国して法律家をめざしました。

1812年、イギリスの歴史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を翻訳したことが評価され、ギゾーはパリ大学に招かれて近世史の教授となりました。1816年に『フランスの代議制と現行制度について』を出版すると、立憲君主主義の論陣を張りました。ナポレオン失脚後の王政復古期には、王党派の復古主義に反対して、政治的な自由を主張する反政府側の一人として行動したため、大学での講義を停止させられたり、投獄されたりしました。しかし、政治的に優れた人物だったため、内務省秘書官や法務省の要職などを歴任しました。

1828年に再開された大学での講義『ヨーロッパの文明史』は、反政府派の学生や知識人に大好評で、名講義としてヨーロッパじゅうにギゾーの名を広めるとともに、2年間続いた講義録をもとに書かれた著書は、ギゾーの代表的歴史書として知られています。ヨーロッパの政治や社会制度にはじまり、宗教・思想・文学などを加え、ヨーロッパ社会の中心をなす精神を、独自の概念に基づいた分析を行なって深く追求した書は、福沢諭吉らに大きな影響を与えています。

1830年、7月革命が起こってブルボン朝が滅亡すると、オルレアン朝のルイ・フィリップ国王を助けて「七月王政」を行い、内相となり次いで1832年から40年までは文相を務め、フランス国民に対しての教育の普及、教育法の改革を行なういっぽう、歴史や科学研究を推進し、歴史的建造物を保護するなど大きな功績を残しました。 1840~48年は外相を務め、七月王政の実質的な主導者として君臨するとともに、イギリス・オーストリアなどと友好的な政策をとったため、フランスの国際的地位を向上させました。

しかし、内政面では銀行や大工業の有力資本家を支持して国民の社会的・政治的自由を抑圧、選挙権においても制限を加えたりしため、国民の不満を招いてしまいました。1847年に首相となるとまもなく、普通選挙権を求めるデモがあちこちで発生しました。これに対し、ギゾーは、「選挙権が欲しければ金持ちになれ、そうすれば有権者になれる。すぐにデモを解散しろ」といったことが国民の反発を買い、ウィーン体制打破の動きがフランスにも浸透したことなどが要因になって、1848年に「フランス2月革命」が発生しました。

ルイ・フィリップ国王に首相を解任されたギゾーは、ベルギーからイギリスに亡命。1849年にフランスに帰国したものの、政界には関わらず、歴史家としてノルマンディーで余生を送り、88歳で死去しました。政治家としてよりも、歴史家としての評価が高く、『ヨーロッパ文明史』以外にも、『フランス文明史』『イギリス革命史』『現代史の回想』などの歴史書を残しています。


「9月12日にあった主なできごと」

1571年 延暦寺の焼き討ち…織田信長は、比叡山延暦寺を攻め堂塔を焼き払い、僧徒らを皆殺しにしました。領地をめぐる確執から、近江の浅井氏、越前の朝倉氏の軍勢を延暦寺が受け入れたこと、延暦寺が広大な寺領を誇り、大勢の僧兵をかかえて信長に反抗的だったのが原因でした。

1821年 塙保己一死去…「群書類従」という、わが国有史以来の文献のうち価値ある研究資料3373点を25部門に分類した叢書を著した、盲目の国学者 塙保己一が亡くなりました。

1872年 新橋─横浜間に鉄道が開通…新橋と横浜をむすぶ約29kmでわが国初の鉄道が開通、この日明治天皇を乗せた祝賀列車が走りました。翌日から旅客や貨物の輸送がはじまり、これまで1日かかったところを53分に短縮しました。上り下り共毎日8往復、料金は1円42銭5厘、75銭、37銭5厘の3階級でした。

1940年 ラスコーの壁画発見…フランスの子ども4人が遊んでいるうち偶然に発見。洞窟の側面と天井面には、たくさんの馬や山羊、野牛、鹿などの絵があり、旧石器時代後期(1万5000年ほど前)のクロマニョン人によって描かれたものと推定されています。

今日9月11日は、平安時代中期の僧で、浄土教の先駆者とされる空也(くうや・こうや)が、972年に亡くなった日です。空也は、当時の仏教のほとんどが貴族のためのものだったのを、一般庶民に「南無(なむ)阿弥陀仏」の名をとなえて祈る「念仏」を広めたことから「阿弥陀聖(あみだひじり)」と讃えられています。

空也は、903年ころ醍醐天皇の皇子、仁明天皇の孫として生れたとする伝承もありますが、出自や生地はほとんどわかっていません。若いころから、四国から東北など各地の名山霊峰を訪ね、やがて阿弥陀仏の名を唱えながら道路や橋を造るなど、社会事業を行いました。

922年、尾張国の国分寺(今の愛知県西部)で出家して「空也」を名のり、幅広い帰依者を得るようになります。やがて、938年ころからは、京都の市中を、胸にかけた金鼓をたたきながら、念仏を唱えて回ったために、市聖(いちのひじり)とか、市上人(いちのしょうにん)とよばれるようになりました。

948年、比叡山にのぼった空也は、座主の延昌(えんじょう)に師事して僧となり、光勝の名を与えられ、貴族層と接近するようになりました。しかしあくまで空也の名を改めず、生涯庶民たちへの心配りを忘れませんでした。そして、貴賤を問わず念仏をとなえることの大切さや、十一面観音像などさまざまな像を造ることをすすめました。

951年には、「大般若経」600巻を、金粉をニカワ液で溶かした「金泥」による写経を発願、963年に鴨川の岸べで、完成した「大般若経供養会」が行われ、京都・東山の西光寺(現在の六波羅蜜寺)におさめられました。

空也は70歳で、西光寺で亡くなりましたが、ここに有名な「空也上人像」が残されています。鎌倉時代に運慶の子の康勝の作といわれていますが、粗末な衣を着て胸に金鼓をかけ、空也が口から「南無阿弥陀仏」の6字を唱えると、その一字一字が阿弥陀仏になるという珍しい立像で、国指定の重要文化財に指定されています。空也の弟子たちは、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の「一遍」にも、大きな影響を与えました。


「9月11日にあった主なできごと」

1900年 初の公衆電話設置…それまでは電話局にのみおかれた公衆電話が、この日東京の新橋駅と上野駅の通路に設置されました。当時は交換手を呼びだしてからお金を払って、相手を呼びだしてもらうしくみでした。

1947年 教科書の検定制度…1886年の「小学校法令」で国定教科書(政府が定めた教科書)が使用されてきましたが、この日教科書検定制度を発表、文部省が認めたものだけを教科書に採用することになりました。この検定制度は憲法違反に当たると、家永三郎は国を相手に裁判をおこしましたが、32年間にもわたる審議の結果、1997年に敗訴が確定しました。

1971年 フルシチョフ死去…スターリンの死後、ソ連の最高指導者となり、スターリン批判によって、その独裁と恐怖政治を世界に暴露して世界に衝撃を与えたフルシチョフが亡くなりました。

2001年 同時多発テロ事件…アメリカでハイジャックされた旅客機3機が、ニューヨークの世界貿易センタービル(ツインビルに各1機)とワシントンの国防総省(ペンタゴン)に突入、数千人の死者を出す大惨事となりました。ブッシュアメリカ大統領は、この犯人をウサマ・ビンラディンを首謀者とするイスラムのテロ組織アルカイダと断定し、潜伏するアフガニスタン政府に引渡しを要求。しかし、彼らを保護するタリバン側が拒否したことから、アメリカはアフガニスタンを攻撃しました。

今日9月10日は、紀元前3世紀の終わりころ、中国で初めての統一国家をきずいた始皇帝(しこうてい)が、紀元前210年に亡くなったとされる日です。

紀元前247年に秦の襄(じょう)王が亡くなり、13歳の王子政(せい)が王位をうけつぎました。政王がじっさいに政治を手がけるようになったのは、23歳のときからです。それから38歳までに、韓、趙、魏,楚、燕、斉の国ぐにをつぎつぎにほろぼして、中国のほとんどを秦の領土にしてしまいました。紀元前221年、天下をまとめた政王は、みずから「皇帝」というよびかたを考え、いちばんはじめの皇帝という意味で「始皇帝」と名のることにしました。こうして中国は、歴史の上で初めて大きく統一され、皇帝は、その後2000年以上もつづくことになりました。

始皇帝は、まず、全国を36の郡にわけ、その下に県をおき、県から郡、郡から中央の政府に、権力が集まるしくみをつくりました。文字も統一しました。十何億人もいる大きな中国が、これまでに政治や文化でまとまってきたのは、秦の時代から文字が同じであったおかげでしょう。始皇帝は、巡幸といって、領土のあちこちにでかけていきました。皇帝の威厳を示すためでもありましたが、これによって道路づくりがすすみました。北方に巡幸したときは、匈奴という敵に大軍をむけて追いはらい、二度と攻めこんでこないように、「万里の長城」を築きました。始皇帝の時代だけでも、2400キロメートルにもおよぶ城壁です。

皇帝の専制政治をすすめるためには、批判をさせたり、反乱をおこさせてはならないと考えました。そこでまず、人民の武器をとりあげてしまいました。そして、思想を統一するため、法家(政府がもちいた学問)以外の教えを書いた書物は、全て焼き捨てさせました。学者たちは抗議しました。始皇帝は,抗議するものをかたっぱしからとらえて、460人あまりを生きたまま穴埋めにしてしまいました。「焚書坑儒」といって、始皇帝の歴史にのこる悪政です。人の意見に耳をかさず、自分の思いどおりにすすめる始皇帝の政治は、だんだんひどくなっていきました。都に阿房宮というぜいたくな大宮殿を建てたり、驪(り)山に等身大の兵馬俑(へいばよう)で知られる秦始皇帝陵の建設などを行いました。

これらはみな、人民の血と汗と涙によって、なしとげられました。工事にかりだされ、税をしぼりとられて、人びとは苦しみ、皇帝をうらみました。やがて始皇帝が亡くなると、各地で反乱があいつぎ、わずか3年にして秦はほろんでしまいました。


「9月10日にあった主なできごと」

1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の武田信玄と、越後(新潟)の上杉謙信の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。4回目のこの日の戦いがもっとも激しいもので、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。

1951年 「羅生門」グランプリ…黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞しました。

1960年 カラーテレビ本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。

「おもしろ古典落語」の84回目は、『蚊戦(かいくさ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「ごめんください、剣道の先生」「これはこれは八百屋の久六さん。最前、稽古を終えて帰られたばかりなのに、また出張ってまいったか?」「じつは先生、しばらくの間、稽古を休ませてもらいたいんです」「稽古は毎日続けるからこそ、実になる。一日休むと身体はなまってしまうぞ」「あっしもつづけたいんですが、夜な夜な蚊がでますもんで」「おかしなことを申すのう。なんで『蚊が出るから稽古を休む』のじゃ」「じつは蚊帳(かや)を質屋に入れたんですが、銭がないもんで、出せないんです。で、かかぁのお里が『稽古を休んで商いに身を入れろ。おかげでこの夏じゅう、親子で蚊にくわれ通し。ほとほと愛想が尽きたから、別れて子どもをつれて家を出る』と、こういうんです」

「では、蚊が出てこなくなりゃ、稽古もつづけられるであろう。今宵、蚊と一戦交えなさい」「えっ、蚊と戦うんですか? それじゃ、あっしは大将ですね」「ただの大将じゃ敵にあなどられる。大名になりなさい。城持ち大名じゃ」「城なんてありませんよ」

先生がいうには、住まいの長屋が城、おかみさんは北の方、子は若君。家の表が大手、裏口がからめ手、引き窓が櫓、どぶ板が二重橋。蚊と戦をするのだから、暮れ方になると大名の陣から、ノロシを上げる。つまり、長屋中いっせいに蚊いぶしの煙を上げるが、久さんの「城」にだけはノロシを上げない。敵は空き城だと油断して一斉に攻めてくる。そこを十分に引きつけて、大手、からめ手、櫓を閉め、そこでノロシ(蚊いぶし)を上げて、敵が右往左往するところで四方を明け放てば、敵軍は雪崩を打って退却する。あとをしっかり閉めて「煙くとも末は寝やすき蚊遣かな」で、ぐっすり安眠できるといいます。怪しげな戦法ですが、久さん、すっかり感心して、家に帰ります。

「お里さん、向こうから変なかっこうで帰って来たのお前さんの亭主じゃないかい。肘はって、妙に威張って歩いているよ」「あ、そうだよ、どうしちまったんだろ」「寄れーい、寄れい。今日からおれは大名だ。お前は北の方」というぐあいに、先生のいった手順通りことを進めます。「……それ、敵が攻めてきた。北の方、ノロシの支度を」「なんだい、ノロシってのは」「蚊いぶしを焚けってんだ」ゴホンゴホンとむせながら、それでもようやく敵を退散させて勝ちいくさ。

「やぁやぁ、蚊の面々。敵に後ろを見せるとは卑怯千万、尋常勝負、返せ、もどれ」「よびもどすことはないだろうよ」「どうだ、北の方、蚊はこれにこりて、二度と攻めてこないぞ」「安心して寝られそうだね」ブーーーーン……。「北の方、どうやら落武者でござる」ブーーーーン。ポンとつぶして、「大将の寝首をかこうとは、敵ながらあっぱれ、死骸をそっちへ」ブーーーーン。「またもや、落武者」「お前さんのおでこに止まってるよ」「今度は縞の股引きをはいているから、雑兵だな。旗持ちの分際で大将に歯向かうとは……ポン」ブーーーーン、ポン。ブーーーーン、ポン……。「お前さん、大変な落武者だよ、なんとかしておくれよ」

「仕方がない。北の方、城を明け渡そう」


「9月7日にあった主なできごと」

1533年 エリザベス一世誕生…1558年、25歳のときから45年間イギリスをおさめ、おとろえかけていたイギリスを、世界にほこる大帝国にたてなおしたエリザベス一世が生まれました。

1962年 吉川英治死去…『宮本武蔵』『新・平家物語』『新書太閤記』など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価された吉川英治が亡くなりました。

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