児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年09月

「おもしろ古典落語」の86回目は、『鍬形(くわがた)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「甚兵衛さん、いるかな? こんにちは」「おや、留さんかい、おあがり」「あがってますよ、火鉢のかげです」「あっ、いたいた、かくれんぼかい?」「そんなものやりませんよ、ねぇ、甚兵衛さん、あたしはどうして、こんなに小さいんでしょ。二尺二寸(68センチ)しかありません」「そりゃ、生れつきだよ。気にすることないじゃないか。浅草の観音さまへいってごらんよ。観音さまは一寸八分(5.5センチ)しかないのに、大きな仁王を門番にしたがえて、18間(33メートル)四方のお堂に住んでるじゃないか」「なるほど…」「着物をつくるときだって、ほんの少しの生地ですむ。おかみさんだって、金がかからないって喜んでるだろう」「それにしても小さすぎます。なにかいい方法はありませんかね?」

「そうだ、相撲のけいこをしてみる気はないか?」「大きくなりますか?」「なるとも、それに強くなる。むかし大坂に、鍬形という力士がいた。これが小さかった。とはいってもおまえより少し大きいが、三尺二寸(97センチ)だった」「それじゃ、弱かったでしょう」「それが、関取というくらいだから、強かった」「へぇ、どのくらい強かったんです?」

「ある時大坂の相撲が江戸へきて、鍬形が無敵の大関・雷電為右衛門(らいでんためえもん)をやっつけたという話がある」「えっ、あの雷電為右衛門をですか?」「その雷電だ。六尺五寸(197センチ)、45貫(170キロ)はあろうという大男、身長はゆうに倍以上、まともならぶつかったら、勝てっこない。そこで鍬形は考えた。体じゅうに油をぬってはかわかしして、つるつるにした。立ち上がると土俵の中をくるくる回って逃げ回るので、なかなかつかまらない。それでも、やっとのことで追いつめて捕まえようとすると、つるっとすべりぬけてしまう。そのうち鍬形は、すきをみて雷電の股をくぐってうしろへぬけると、力いっぱい膝のうしろのへこんだところを突いた。すると雷電ばたっと両手をついて負けてしまった」「へぇ、たいしたもんだ」「前代未聞の大一番。満場は爆笑の渦。のちに鍬形は、この雷電と義兄弟の縁を結び、名力士として名をなしたということだ」

「そりゃー、すごい。こんど友だちが馬鹿にしやがったら、この話をしてやります。これからあたしも力士になって、二代目の鍬形になりたいと思いますが、なれるでしょうか」「おまえも、いっしょうけんめいやったらなれないこともないが、しんぼうできるかな」「力士になれるんなら、どんなしんぼうもします」ということになって、小男の留さんは甚兵衛さんに紹介されて、ある相撲部屋に入って修行を積みはじめました。ある日、稽古につかれて、腹ペコで家に帰ったものの、めしのしたくはまだなので、ひと寝入りします。

「さぁ、おまえさん起きな、ごはんのしたくができたよ」「うむ、おや、おや…」「どうしたの?」「おっかぁ、こりゃてぇしたもんだ」「なにがさ」「相撲のけいこをすると、ふしぎなもんだ」「なにがふしぎなのよ」「だって、おめぇ、からだがどんどん大きくなる。ふとんから、足が三寸(10センチ)ばかり出てる」

「そりゃおまえさん、出るのがあたりまえだよ。座ぶとんだもの」


「9月21日にあった主なできごと」

1933年 宮沢賢治死去…「雨にも負けず」などの詩や 『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』 などの童話を著した宮沢賢治が亡くなりました。

1954年 御木本幸吉死去…真珠養殖の成功と、そのブランド化などで財をなした御木本幸吉が亡くなりました。

今日9月20日は、信長、秀吉、家康に仕え、妻「千代」の内助の功で立身出世したことで知られる武将で、初代土佐藩主となった山内一豊(やまのうち かずとよ)が、1605年に亡くなった日です。

岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の子として1546年に生れた一豊でしたが、岩倉織田氏が同族の織田信長と対立するうち、父や兄も戦死して一族は離散、諸国を流浪するようになりました。やがて1568年ころに一豊は、織田信長に仕え、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の与力となったことがわかっています。

1570年9月、信長と浅井との戦いとして名高い「姉川の戦い」に初陣をはたし、1573年8月の朝倉氏との戦いでは、重傷を負いながらも敵将を討ちとった功績で近江国長浜に400石を与えられ、安土城下に住むようになりました。「妻・千代」と結婚したのもこの年のことでした。さらに、秀吉の中国地方経略に加わって活躍し、1577年には播磨国を中心に2000石を領するようになりました。

1583年の「賤ヶ岳の戦い」では、その前しょう戦の伊勢亀山城攻めで一番乗りの手柄をあげ、1585年には、近江長浜城主として2万石を領するようになり、1590年の小田原征伐に参戦後、遠江国掛川に5万1000石もの所領を与えられるなど、出世街道をすすみました。

1598年の秀吉死後は、五大老のひとりとなった徳川家康に乞われて会津の上杉景勝の討伐に参加し、石田三成らが挙兵すると家康の東軍に加わりました。関ヶ原の戦いでは毛利・長宗我部軍などの押さえを担当、大きな手柄はなかったものの、掛川城を家康に提供するなど、戦前の功績が高く評価され、徳川方にくみした軍功により土佐国9万8千石を与えられ、その後の加増により20万2600石を領するまでになりました。

さて、良妻賢母を称えるときに、必ずあげられるのが「山内一豊の妻(千代)」の名です。それは1581年、織田信長が「京都馬ぞろえ」という、軍馬を集めて検分するという儀式を行ったとき、みごとな駿馬をみつけ、それが一豊のものと知って賛辞を与えたという次のようなエピソードが残されているためです。

一豊は、安土の城下で売りに出されていた駿馬を見かけ、馬ぞろいに出したいと思ったものの、黄金10両という金がありません。それを惜しむ一豊に、千代は10両を差し出しました。嫁入りのとき、母から10両を授かりましたが『どんなに貧窮しても手を付けてはならぬ。夫の火急の折にこそ用立てよ』と念をおされていました。今こそ火急の時と知った千代は、一豊に10両を差しだしたものでした……。


「9月20日にあった主なできごと」

1806年 喜多川歌麿死去…江戸時代に活躍した「美人画」の浮世絵師 喜多川歌麿が亡くなりました。

1943年 鈴木梅太郎死去…ビタミンB1が脚気の治療に効果があることをつきとめ、糠から「オリザニン」を取りだすことに成功し、脚気の不安から人びとを救った農芸化学者 鈴木梅太郎が亡くなりました。

1945年 墨ぬり教科書…敗戦後のこの日、文部省は新しい教科書の印刷が間に合わないため、戦時中につくられた教科書で、軍国主義的内容を削除するように通達しました。そのため先生は、生徒に削除する部分を墨でぬりつぶさせました。

今日9月19日は、太平洋戦争敗戦後、「エリザベス・サンダース・ホーム」を創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた社会事業家の沢田美喜(さわだ みき)が、1901年に生れた日です。

三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘として東京の本郷に生まれた美喜は、何不自由のない恵まれた環境で育てられました。東京女子高等師範学校(いまのお茶の水女子大学付属高校)を中退後、津田梅子らの家庭教師について学習しました。

美喜の大きな転機は、1922年に外交官の沢田廉三と結婚したことでした。廉三は、島根県生れのクリスチャンで、大正から昭和にかけて、アルゼンチン、中国、イギリス、アメリカ、フランスの外交官や大使となり、戦後は国際連合初代大使を歴任した人物です。結婚後、美喜もクリスチャンとなって夫にしたがって世界各地に移り住むうちに、さまざまな国際的な環境や社会へ目を向けることになりました。たくさんの友人たちと、各地の聖書集会にも積極的に参加しました。とくにロンドンで、「ドクター・バナードス・ホーム」という孤児院でボランティアをした経験は、のちの美喜に大きな影響を与えることになります。

1941年、日本は太平洋戦争に突入、3年半の戦争を経て連合国に無条件降伏し、1945年8月15日に終戦を迎えました。大多数の国民は敗戦の悲しみのなかにも、「平和」をかみしめることになりましたが、その陰で新たな悲劇が生みだされていました。川や沼、トイレなどに無惨に捨てられる混血孤児の急増でした。

1946年のある日、美喜は東海道線の列車の中にいました。ガタッと列車が揺れた拍子に、網だなから風呂敷が、下にいた美喜の膝の上に落ちたため、美喜は網だなにもどそうとしました。そこへ不審に思った警官がやってきて、開いて見せることを要求しました。いわれた通り、風呂敷きを開けてみると、それは、生まれたばかりの黒人の遺体だったのです。遺体の母親と間違われた美喜でしたが、若い女が網棚に置いて降りていったという乗客の証言で、この件から無事放免されました。

しかし、この事件が美喜にはどうしても偶然とは思えず、これまでだれも手を差し伸べようとしなかった戦争混血児たちの孤児院建設のために戦う決意をすることになります。当時夫は公職追放され、三菱財閥・岩崎家の娘とはいえ、戦後の財閥解体で財産を接収されたために、ほとんど資金はありません。美喜は必死で、自分の持ち物を全てお金に換え、借金までして大磯の別荘を買いもどして孤児院を開設しました。ちょうどそのころ、日本に長く暮していたエリザベス・サンダー女史が亡くなり、その遺産が孤児院に贈られることになり、美喜はこれを記念して、孤児院の名称を「エリザベス・サンダース・ホーム」としました。

まもなくこの孤児院に、混血児たちが次々と送られてきました。列車の中、駅の待合室、公園、道端におき捨てられた、髪のちぢれた子、色の黒い子、目の青い子ども。栄養失調や病気で生死の境をさまよっているそんな子どもたちを、美喜はまよわず引き取り、懸命な看護を続けたのです。

その一方で、世間の冷たい視線、さまざまな圧力や偏見との戦いがありました。孤児院の懸命な働きにもかかわらずは、米軍からも解散のおどしを受けたり、邪魔をされたりしました。混血児の誕生は、アメリカ人の恥と考え、公けにされたくなかったためです。美喜は、「外からのどんな根拠のない中傷も、妨害も、子どもたちが私を失望させない限り、私の希望は消えません」とつっぱり続けましたが、ぐれて犯罪を重ねる少年たち、就職先を世話しても、水商売に流れてしまう少女たちには苦しめられたようです。しかし、あきらめず、創設から32年間に2000人以上の孤児を育てあげ、1980年78歳で急死するまで戦い続けたのでした。


「9月19日にあった主なできごと」

1870年 平民に苗字…明治政府は戸籍整理のため、これまで武士の特権とされてきた苗字の使用を、平民にも許可しました。しかし、めんどうがってなかなか苗字をつけない人が多く、5年後の1875年2月には、すべての国民が姓を名乗ることが義務づけられました。

1902年 正岡子規死去…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の正岡子規が亡くなりました。

今日9月18日は、岡倉天心の愛弟子として日本美術界に大きな足跡を残した日本画家の横山大観(よこやま たいかん)が、1864年に生れた日です。

水戸藩士の長男として水戸に生まれた大観(本名・秀麿)は、10歳のときに一家で上京し、府立一中や東京英語学校時代から絵画に興味をもつようになりました。渡辺文三郎に鉛筆画や、狩野芳崖らに日本画を学ぶうちに画家をめざすようになり、1889年に新設したばかりの東京美術学校(現・東京芸大)に第一期生として入学しました。菱田春草、下村観山らの同級生とともに競いながら、明治の先覚者といわれる校長の岡倉天心、主任教授の橋本雅邦らからたくさんの影響を受けました。

美術学校卒業すると、予備校の講師をつとめた後、京都に移って京都美術工芸学校の教師をしながら、古社寺の名画の模写をするなど仏画の研究をしました。1896年に母校・東京美術学校の助教授に就任し、日本絵画協会の中心となって、意欲的な作品を発表、とくに幼い子どもが一人立つ姿を描いた『無我』(1897年・下の絵)は、新人画家として注目されるきっかけになりました。ところがまもなく岡倉天心への校長排斥運動が起こると、天心を師とあおぐ大観は、雅邦らとともに職を辞して、日本美術院創設に参加することになりました。

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美術院の活動の中で、大観は菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新しい画風の研究を重ねました。やがて線描をおさえて色彩を中心とする「没線描法」という絵画を次々に発表しました。ところがその先進的な画風も、画壇の反対派から猛烈な批判を浴びてしまいました。いまではその画風を的確に表す言葉とされる『朦朧体』も、当時は批判的に使用された言葉でした。国内での活動が行きづまりを見せたことで、大観は菱田と共に海外に渡り、カルカッタ、ニューヨーク、ボストン、さらにロンドン、ベルリン、パリでも次々と展覧会を開き、高い評価を得たことは大きな自信につながりました。

この欧米での高評価は、日本国内でも評価され始め、1907年には第1回「文部省美術展覧会」(文展)の審査員をつとめ、1913年には活動がとだえていた「日本美術院」を再興し、のちに近代日本美術史に大きな足跡を残す「院展」の中心人物となるに至りました。こうして日本画壇の重鎮として確固たる地位を築いた大観は、1934年朝日文化賞受賞、1935年には帝国美術院会員となり、1937年にはこの年制定された第一回文化勲章の受章者となっています。戦後になると、「富士山」を描くことが多くなり、いくつもの傑作を残し1958年89歳で死去しました。

なお、大観のたくさんの作品は、ネットの「横山大観の画像検索」で見ることができます。


「9月18日にあった主なできごと」

1927年 徳冨蘆花死去…長編小説『不如帰(ほととぎす)』を著し、一躍ベストセラー作家となった明治・大正期の作家で随筆家の徳冨蘆花が亡くなりました。

1931年 満州事変勃発…満州の支配をねらう日本陸軍の関東軍は、中国の奉天郊外の「柳条湖」付近で、満州鉄道の爆発事故をおこしました。これを中国のしわざとして軍事攻撃を開始し、数日のうちに満州南部を占領。しかし、中国側から依頼を受けた「国際連盟」は、中国に調査団を送って1932年3月に「満州国を認めない」決議をしたことに日本は反発、国際連盟を脱退。中国は同年5月に結ばれた協定により、「満州国」の植民地支配を認めました。

今日9月14日は、イギリスの軍人・政治家で、ナポレオンを2度にわたって討ち破ったウェリントンが、1852年に亡くなった日です。

アイルランド地方の貴族の子としてダブリンに生まれたアーサー・ウェルズリー・ウェリントンは、1781年、父の死に伴いブリュッセルに移住して、フランスの陸軍士官学校に学びました。1787年にイギリス軍に入隊、インドでイギリス軍に抵抗するインド軍を破るなど、軍人としてのキャリアを積みました。

1790年、アイルランド議会の議員に選出され、1794年には対仏連合軍傘下の軍人として実戦参加をするようになりました。1797年インド歩兵部隊の司令官としてカルカッタに赴任、ベンガル地方の治安警備を担当となったウェリントンは、その間に、第4次インド・マイソール王国との戦争(1799年)、デカン高原などを支配するマラータ同盟との戦闘(1803年)などで功績をあげ、1804年にナポレオンによるフランス第一帝政が成立すると、翌年ナポレオンとの対決を予測して依頼帰国しました。

1806年にイギリス議会の下院議員に選出され、翌年にはアイルランド担当大臣に就任、コペンハーゲンに遠征してナポレオンと提携するデンマーク軍を破り、その功で陸軍中将となりました。さらに1808年、イベリア半島で戦争が勃発すると、ナポレオンに反抗するスペイン・ポルトガルの民衆を支援するために出兵し、フランスのポルトガル遠征軍を破って帰国しました。

しかし、ナポレオン本隊がイベリア半島に侵入してスペイン全土を制圧すると、イギリス軍の総司令官として再度半島に派遣されたウェリントンは、大激戦の末フランス軍を破り、ポルトガルを拠点にフランス軍への抵抗を続け、1810年にはリスボンに侵入してきたフランス軍を撃退し、ポルトガル攻略を断念させました。

1812年にはスペインにおけるフランス軍の勢力が衰退しているのを見て同国に侵入、マドリードを攻略してスペインを占領下に置くことに成功しました。やがてロシア遠征の失敗などでナポレオンが苦境に陥ったことを知ると、1813年にはピレネー山脈を越えてフランス領内に入り、1814年4月ナポレオンが退位したことで凱旋帰国し、国民の熱狂的な歓迎を受けました。この功で元帥となり、「ウェリントン公爵」という王族でない貴族の登れる最高位を、わずか45歳の若さで叙されています。

ナポレオンがエルバ島に流されたあとに開かれた「ウィーン会議」には、1815年カッスリー外相にかわってイギリス全権代理を務め、ナポレオンがエルバ島を脱出してパリに復帰(100日天下)すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行、「ワーテルローの戦い」でプロイセン軍と協力してナポレオン軍を打ち破り、セントヘレナ島へ流してその野望を打ち砕いたのでした。

その後も、ウェリントンは政治家として活躍し、1828年には首相に就任、さまざまな差別を受けていたカトリック教徒の人権を擁護した「カトリック解放令」は評価されているものの、全般的には保守主義が目立ち、選挙法の改正に反対して1830年に下野し、上院の指導者として過ごした後に死去しました。

なお、1813年にベートーベンは、管弦楽曲『ウェリントンの勝利』を発表して大喝采を浴びました。スペインの「ビトリアの戦い」においてウェリントン率いるイギリス軍がフランス軍に勝利したことを讃える曲で、イギリスはもちろん、当時ナポレオンの野心に牛耳られていたヨーロッパじゅうに、大きな賞賛の声があがったことを物語っています。


「9月14日にあった主なできごと」

1321年 ダンテ死去…イタリアの都市国家フィレンツェに生まれた詩人で、彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』や詩集『新生』などを著し、ルネサンスの先駆者といわれるダンテが亡くなりました。

1822年 ロゼッタストーン解読…1799年、ナポレオンがエジプト遠征の際に持ち帰ったロゼッタストーンを、フランスのシャンポリオンが解読に成功。古代エジプト文明の存在を解明するきっかけとなりました。

1849年 パブロフ誕生…消化腺と条件反射の研究で、ノーベル賞を受賞したロシアの科学者パブロフが生まれました。

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