児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年09月

今日9月28日は、江戸時代後期の蘭学者で、『解体新書』の翻訳で名高い杉田玄白・前野良沢の弟子として『解体新書』の改訂版を著わし、わが国初の太陽暦の元日を祝う「オランダ正月」を催すなど、蘭学をさかんにした大槻玄沢(おおつき げんたく)が、1757年に生れた日です。

仙台藩の支藩である一関藩の藩医の子として生れた大槻玄沢(本名・茂質[しげたか])は、13歳で同じ郷里の医師である建部清庵に師事して、早くから医学や語学に才能を示しました。

1778年に江戸への遊学を許されて、杉田玄白の私塾で学び、医術を修めるかたわら、前野良沢にオランダ語を学びました。(「玄沢」の名は、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名といわれています) 1782年にいったん一関に帰郷した後、1785年には長崎遊学を許されて語学力を磨くと、1786年には仙台藩の藩医に抜てきされて、江戸詰を命じられました。

これを機に、江戸京橋に住んで私塾「芝蘭堂」をひらいた玄沢は、多くの人材育成に当たりました。宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人の弟子は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」といわれたほどでした。そして、1788年に蘭学の入門書『蘭学階梯』(2巻)を著すと、蘭学研究総論、文字、発音、文法など、初学者の教科書となって、江戸蘭学界での中心的な地位を確立させていきました。

1790年には、外科医向けの翻訳書『瘍医(ようい)新書』を完成させ、1794年11月11日が西暦の1795年1月1日に当たることから、多くの蘭学者らを芝蘭堂に招き、「オランダ正月」と呼ばれる西洋の暦に合わせた新年会を、日本で初めて開きました。オランダ正月はそののち数十年にわたって毎年開かれました。さらに1798年には、師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、1804年にほぼ完成させ、『重訂 解体新書』(14巻)として1826年に刊行しています。

1811年には江戸幕府の天文方の翻訳員となり、フランスの『ショメール百科事典』の蘭語版を翻訳、『厚生新編』の完成者のひとりとして名を連ねています。生涯に玄沢の手がけた著訳書は300巻を越えるほどで、たくさんの功績を残して1827年に亡くなりました。


「9月28日にあった主なできごと」

1895年 パスツール死去…狂犬病ワクチンを初めて人体に接種するなど、近代細菌学の開祖といわれるフランスの細菌学者・化学者パスツールが亡くなりました。

1970年 ナセル死去…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトのナセルが亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の87回目は、『権兵衛(ごんべえ)たぬき』というお笑いの一席をお楽しみください。

ある山の近くの村に権兵衛という男が、床屋を営んでいました。話ずきなひとり者で、人が集まらない日がないというくらい評判のよいお店でした。仕事を終え、寝る前に酒を一杯飲んで床に入るのが何よりの楽しみの権兵衛、その夜も、いい気持ちになってうとうとしていました。すると、ドンドン、ドンドンと戸をたたく音がして「権兵衛、権兵衛」と呼ぶ声がします。「おぅ、誰だぁ、忘れものか。寝ちまっただ、明日にしておくれ!」

「(トントン)権兵衛、(トントン)権兵衛」「まだ、呼ぶだか、待ってろ、いま開けるから」と、戸を開けても誰もいません。「ははぁ、たぬきのいたずらだな、こらっ! (闇にむかって) 悪さしちゃだめだぞ」と戸を閉めて、ふとんに入って寝入ろうとすると、「(トントン)権兵衛、(トントン)権兵衛」「また来たな、悪いたぬきだ。よし、捕まえてやろう」

ところで、たぬきはどうやって戸をたたくかご存知ですか? いろんな説がありまして、一つは尻尾でたたくという説です。これは違いますね。尻尾ではバサ、バサっというだけで、人間がたたくようにはまいりません。もうひとつは手でたたくという説。これも違います。たぬきの手は小さすぎていい音は出ません。じゃ、どうやるのか? 戸に背中をむけて立ちあがり、頭でトントンと戸をたたくんだそうです。それを知っていた権兵衛、そっと土間へおりて戸に近づき、トントン……ときた拍子に戸を開けました。たぬきは後ろ向きに、もんどりうって転がりこんで、目を回しました。すばやく権兵衛は、荒縄でたぬきの手足をまとめてしばって、いろりの上のはりにぶらさげました。

さて、翌朝。朝飯を食べ、店のしたくを始めるころ、村の連中もやってきます。「おい、このたぬき、どうする気だ」「たぬき汁にすべぇよ、うめぇぞ」「皮はおれにくれねぇか」「殺すことはなんねぇ、今日は父っつぁまの命日だで」「たぬき汁を、真っ先に仏さまに供えればいいでねぇか」「だめだ、殺生はならねぇ」と、権兵衛は、たぬきが二度と悪さをする気が起きないように、こらしめて放してやることに決めました。「今度悪さをしたら、皮はいでたぬき汁にするぞ、いいな」こうして権兵衛は、カミソリでたぬきの頭をクリクリ坊主にした上、縄をほどいて逃がしてやりました。さすがにこたえたと見え、たぬきはしばらくやって来ません。

やれやれと安心していると、半月ほどした晩のこと。「(トントン)権兵衛さん、(トントン)権兵衛さん」「また来やがったな、あれほどいってきかせたのに。今度はさん付けだ。おべっかを使おうったって、そうは問屋がおろさねえだぞ。この前のように痛い目にあいてぇか?」 外でたぬきが、「もう決していたずらはしないからちょっと開けてください」と、しおらしく頼むので、権兵衛、しかたなしに戸をガラリと開け「何しにきたんだ!」 すると……

「親方、今夜はひげをあたってください」


「9月27日にあった主なできごと」

1825年 蒸気機関車初の開業…イギリスの発明家 スチーブンソン が蒸気機関車を実用化してから11年後、ストックトン~ダーリントン間19kmを走る世界初の鉄道が開通しました。蒸気機関車はその後数十年で世界中に広まり、産業革命に大きな貢献をしました。

1917年 ドガ死去…「舞台の踊り子」(エトワール)などたくさんの踊り子の絵を描いた画家ドガが亡くなりました。

1925年 日本初の地下鉄…地下鉄銀座線(浅草─渋谷)の起工式が行なわれました。世界で14番目、アジア・オセアニア地域では初めての地下鉄路線でした。

1940年 日独伊三国同盟…日本・ドイツ・イタリア3国間で、軍事同盟が締結されました。この同盟により、結果的にアメリカ、イギリス、オランダとの利害対立を深めることになり、対日石油輸出禁止などの措置をとったアメリカとの交渉がいきづまって、太平洋戦争を引き起こすきっかけとなりました。

今日9月26日は、「民族的古典主義」を代表する作曲家・ピアノ奏者として活躍するいっぽう、民俗音楽研究家として7千曲もの民謡を収集したハンガリーのバルトークが、1945年に亡くなった日です。

1881年に、ハンガリー・トランシルバニア地方のナジセントミクローシュの音楽愛好家の両親のもとに生まれたバルトークは、幼いころから音楽の素質をみせはじめ、5歳ころからピアノ教育を受けはじめました。しかし7歳の時に父が32歳で急死したため、ピアノ教師として一家を支えることとなった母の仕事の都合で各地を転々としますが、10歳の時には、バルトークも自作のピアノ曲を面前で披露するほどの腕前となりました。

1899年ブダペスト王立音楽院に入学すると、ピアノをリストの弟子のトマーンに、作曲をケスラーに師事して実力をつけ、在学中からピアニスト・作曲家として注目を浴びるようになりました。1903年にはワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの影響を受けて、ハンガリー独立革命の英雄を称えた交響詩『コッシュート』を書きました。

1907年、26歳で母校のピアノ科教授となったバルトークは、ハンガリーの農民階級に古くから伝わる民謡の研究に向きあうようになり、生涯の友となるコダーイと協力して民謡の採集をすすめました。その活動はハンガリーからルーマニア、旧チェコスロバキア、さらにトルコや北アフリカまで広がり、7000曲以上もの民謡をあつめて出版。これらのすべてが、バルトークの創作の基礎となっていきました。

1914年に始まった第一次世界大戦により、民謡の収集活動ができなくなったために作曲活動にもどったバルトークは、1914年から16年にかけてバレエ音楽『木彫りの王子』を発表すると国際的な名声をえるようになり、生涯に作曲した6曲の『弦楽四重奏曲』は、ベートーベン以後の最大傑作と高く評価されています。1917年に書かれた「第2番」の野性的な舞曲の第2楽章と、葬送曲風の第3楽章の対比が有名で、「第3番」「第4番」「第6番」は、12音技法を採り入れて、戦禍にまきこまれたヨーロッパの人々の悲しみを描いたといわれています。

1940年に第2次世界大戦が勃発すると、バルトークはファッシズムの嵐を嫌い、不本意ながらアメリカ合衆国へ移住しました。しかし、白血病にむしばまれ、経済的な困窮のなかで最後の力をふりしぼって『管弦楽のための協奏曲』(村上春樹のベストセラー「1Q84」に登場して話題になりました)『無伴奏バイオリン・ソナタ』を書き、妻のために『ピアノ協奏曲3番』を最後の17小節を残して、ニューヨークで亡くなりました。代表曲に、オペラ『青ひげ公の城』バレー音楽『中国のふしぎな役人』などがあります。


「9月26日にあった主なできごと」

1904年 小泉八雲死去…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が亡くなりました。

1943年 木村栄死去…日本の天文観察技術の高さを世界に知らせた天文学者・木村栄が亡くなりました。

今日9月25日は、戦前は「東洋経済新報」のジャーナリストとして、戦後は政治家として独自の業績を残した石橋湛山(いしばし たんざん)が、1884年に生れた日です。

日蓮宗の僧侶の長男として、東京に生れた石橋は、家庭の事情で山梨の田舎に育ち、1902年に上京して早稲田大学哲学科に入学、プラグマティズム哲学者田中王堂に強い影響を受けました。

卒業後は、島村抱月の推薦で「東京毎日新聞」に入社しましたが、同社の内紛にあって1911年に「東洋経済新報」に移ると、まもなくその主幹となって、同社の急進的自由主義の立場を継承しました。国内においては民主的政治体制の樹立をさけび、国外には帝国主義外交を廃止して植民地放棄をさけぶいっぽう、独学でケインズ経済学の理論を学びました。1930年浜口内閣がうちだした金解禁は経済界に大打撃を与えると、経済評論家としての名声を高めました。日本が戦争へと傾斜していった昭和初期にあっては、ひとり敢然と軍部を批判しつづけ、政治・経済・文明はどうあるべきかを主張しつづけ、主幹から同社の専務・社長に就任後、1946年に退くまで35年間、独自の論を展開したのでした。

敗戦後は、経済復興計画を実現しようと、1946年に第1次吉田茂内閣の大蔵大臣となって、ケインズ流の積極財政を展開して、経済再建や生産回復をはかりました。翌年に自由党から衆議院議員に立候補して当選をはたしたところ、戦時中の言論を悪意にとられてGHQから公職追放を命じられました。しかし1951年に解除されると、鳩山一郎内閣の通産大臣を3次にわたってつとめ、1956年12月には自由民主党初の総裁公選で、岸信介をやぶって「石橋内閣」をつくりました。しかし、病に倒れてわずか2か月で退陣。その後は、中国やソ連と友好に力をそそぎ、1973年に亡くなりました。

なお、『昭和史』(戦前編・戦後編 平凡社刊)など昭和史に関する人物論・史論を多く書いている評論家の半藤一利は、『戦う石橋湛山』という著書の中に、石橋が1920年頃の「東洋経済新報」誌上に綴った次の文章を引用し、大正時代末期の先見性ある論調を高く評価しています。

「例えば満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか。また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常な苦境に陥るであろう。なんとなれば彼らは日本にのみ、かくのごとき自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保ちえずに至るからである。その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、日本が台湾・朝鮮に自由を許したごとく、我にもまた自由を許せと騒ぎ立つだろう。これ実に我が国の位地を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の位地に置くものではないか。我が国にして、ひとたびこの覚悟をもって会議に臨まば、思うに英米は、まあ少し待ってくれと、我が国に懇願するであろう。ここにすなわち「身を棄ててこそ」の面白味がある。遅しといえども、今にしてこの覚悟をすれば、我が国は救われる。しかも、これこそがその唯一の道である。しかしながらこの唯一の道は、同時に、我が国際的位地をば、従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である。
以上の吾輩の説に対して、あるいは空想呼ばわりをする人があるかも知れぬ。小欲に囚わるることの深き者には、必ずさようの疑念が起こるに相違ない。朝鮮・台湾・満州を棄てる、支那から手を引く、樺太も、シベリアもいらない、そんなことで、どうして日本は生きていけるかと。キリストいわく、「何を食い、何を飲み、何を着んとて思い煩うなかれ。汝らまず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらのものは皆、汝らに加えられるべし」 ─と。


「9月25日にあった主なできごと」

1829年 シーボルト国外追放…1年ほど前に、幕府禁制品とされていた日本地図などを国外に持ち出そうとしたこと(シーボルト事件)で、捕えられていたシーボルトが、国外追放・再渡航禁止処分となりました。

1936年 魯迅死去…20世紀初頭の旧中国のありかた・みにくさを鋭く批判した「狂人日記」「阿Q正伝」を著した魯迅が亡くなりました。

今日9月24日は、明治・大正期に実業家として活躍した大倉喜八郎(おおくら きはちろう) が、1837年に生れた日です。

越後国(現・新潟県)新発田の名主の家に生れた大倉は、18歳のとき商売で身を立てようと江戸に出て鰹節店に奉公し、3年後に乾物店を開業しました。1867年に鉄砲商に転業すると、幕末から維新の動乱期だったために大当たり、官軍、幕府軍の双方から注文が舞いこんで大きな利益をあげました。

やがて外国貿易に注目した大倉は、米国から欧州を一年以上かけて回る旅に出ました。その途中、ロンドンやローマで岩倉使節団の大久保利通や木戸孝允、伊藤博文らと殖産興業を話し合う機会をえたことが、大倉の運命を大きく変えることになりました。帰国後の1873年、東京・銀座に日本初の貿易商社大倉組商会を設立すると、政府や陸軍と深く結びついて、台湾出兵、西南戦争とつづく軍需品の輸入を中心に、貿易および用達事業に乗り出しました。

1878年には渋沢栄一と大倉の二人が発起人となって東京商法会議所を設立して財界活動にも力を入れ、1887年には藤田伝三郎の藤田組と大倉組の土木部門を合併した「日本土木会社」(現・大成建設)を設立、帝国ホテル、東京電灯(現・東京電力の前身)、日本銀行、歌舞伎座、碓氷トンネルなどの建造物を請け負うなどの業績をのこしました。日清戦争では、軍御用達として食料、兵器の納入をおこなって巨万の富をえた大倉は、「死の商人」とか「政商」「御用商人」と呼ばれましたが、1900年には、世界共通の商業知識を持った人材の育成が必要と考え、大倉商業学校(現・東京経済大学)を私財50万円で設立しています。

日露戦争でも膨大な利益をえた大倉は、1906年にはビール3社・大阪麦酒(アサヒビールの前身)・日本麦酒(恵比寿ビールを製造)・札幌麦酒(サッポロビールの前身)を合併し、大日本麦酒を創設しています。いっぽう朝鮮や中国にも数多くの企業をおこし、軍の力を背景に貿易・鉱山・製鉄などたくさんの事業を経営するなど、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする「大倉財閥」を確立しました。

1917年には、日本初の私立美術館「大倉集古館」を設立、1923年には関東大震災で被害を受けた多くの人を見て、保険事業の必要性を感じ、大倉火災海上保険(後の千代田海上火災保険)を設立するなど、1928年に92歳で亡くなるまで一代で財を築き上げたその行動には、義侠心あふれる人間性をみることができます。


「9月24日にあった主なできごと」

1744年 石田梅岩死去…正直、倹約、堪忍という徳目をわかりやすく示し、町人の道を教える 「心学」 をはじめて説いた江戸時代中期の学者 石田梅岩が亡くなりました。

1877年 西郷隆盛自刃…木戸孝允と大久保利通とともに倒幕・維新に尽力し「維新の三傑」の一人とうたわれた西郷隆盛は、士族(もと武士)たちの不満を解消させるために征韓論を主張しましたが、木戸、大久保らに反対されたため、明治政府の要職をすてて郷里鹿児島へかえりました。私塾を開いているうち、やがて下級士族たちにかつがれて8か月にわたる「西南戦争」をおこしました。西郷軍は政府軍と奮闘しましたが、最新式武装をした政府軍の力に及ばす、最期をさとった西郷は、たてこもった城山で、腹心に介錯を頼み自刃しました。

1965年 みどりの窓口開設…国鉄(いまのJR)は、コンピューターを使った指定券発売の窓口「みどりの窓口」を全国152の主要駅と日本交通公社の83営業所に設置しました。これにより、長い時間待たされたり、ダブルブッキングがほとんど解消されました。

↑このページのトップヘ