児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年08月

「おもしろ古典落語」の80回目は、『皿屋敷(さらやしき)』というお笑いの一席をお楽しみください。

播州赤穂の江戸屋敷に「皿屋敷」というのがありまして、お菊という幽霊が出るといううわさがありました。「ご隠居さん、そんな話知ってますか?」「なんだ熊さんは、そんな有名な話も知らねぇのか?」「知らねぇから聞いてるんです」 「むかし、青山鉄山というさむらいが住んでいて、腰元にお菊という絶世の美女が奉公していたんだ」「ふーん」「鉄山はこのお菊が好きになって、わがものにしようと口説いた。ところがお菊には三平という夫のある身だから、いかに主人の命とはいえ、どうしてもなびかない」「なーるほど」「そこで鉄山、可愛いさあまって憎さ百倍ということになる。家宝の皿十枚をお菊に預け、一枚をそうっと隠し、客があるから皿を出して数えてみろと、こういったんだ」

「一まい二まい三まい四まい五まい六まい…」「その次はあっしにやらしておくんなさい。七まい八まい九まい十まい…でしょ。そんな勘定なら、あっしでもできらぁ」「その十まい目がない。『一まい足りないじやないか、さぁどうした』『わたしは、知りません』『知らぬことはあるまい、おまえが盗んだにちがいない』ということで、鉄山はお菊をなぐる、ける。あげくのはてに、お菊を井戸につるすと、上げたり、下げたり…」「そんなことしたら、お菊さん死んじまうじゃないですか」「そんなことはおかまいなく、鉄山はビシビシ何十回となく、打ちたたいた」「なんだか、聞いてるこっちの身体が痛くなっちまう」「お菊は息も絶えだえに『たとえこの身はなくなっても、盗みの汚名が悲しゅうございます』といったが、おのれっ、強情女めっ、と斬り捨てた」「ひでぇことする野郎だ」

「すると、人の恨みは恐ろしい。それ以来、毎晩、井戸からお菊の幽霊が出て、うらめしそうな声で『一まい二まい三まい四まい…』と、皿の数をかぞえるんだ。九枚までかぞえ終わると「ヒヒヒヒヒ」と笑うから、鉄山は悪事の報いか、ノイローゼが高じてとうとう狂い死にして、家は絶えたということだ」「そいつはいい気味だ。で、それはいつごろの話なんで?」「ずいぶん昔の話だ。しかし、幽霊は今もでるよ」「えっ、今も?」「うそだと思ったら、行って見てくりゃいい」

こういうことを聞くと、すぐに自慢したがるのが人の常で、たいくつしのぎに見物に行こうという罰当たりな連中が続出して、毎晩井戸の周りは、押すな押すなの大盛況。人出をめあてに、屋台のうどん屋は出る、一杯飲ます酒店も出る。なかには「お菊さんへ」と書いて、贈り物をするような人も出て、まるでお祭りのよう。いよいよ丑三ツ時(うしみつどき=今の夜中2時ころ)、なま暖かい風が吹いてきたかと思うと、井戸のまわりに青い火がチョロチョロと燃え上がると、お菊が登場して、「いちまーい、にまーい……」数えはじめると、「お菊ちゃん、こっち向いて」と、まあ、うるさいこと。お菊もすっかりその気になり、常連には、「まあ、だんな、その節はどうも」と、あいきょうを振りまきながら、張り切って勤めるので、人気はいや増すばかりです。

ところがある晩。いつもの通り「一まぁい、二ぃまぁい」と数えだしたはいいものの、「九まぁあい、十まぁい、十一まぁい」……とうとう十八まいまできました。「おいおい、お菊ちゃん。皿は九まいで終わりじゃねぇのか?」

「明日休むから、二日分数えとくのさ」


「8月3日にあった主なできごと」

1792年 アークライト死去…水力紡績機を発明するなど、イギリスにおこった産業革命の担い手となったアークライトが亡くなりました。

1862年 新渡戸稲造誕生…国際連盟事務局次長などを通じ、日本の国際的な発展に寄与した教育者 新渡戸稲造が生まれました。

今日8月2日は、江戸時代中期の思想家・自然哲学者の三浦梅園(みうら ばいえん)が、1723年に生れた日です。

豊後(ぶんご)国(今の大分県国東市)に代々医者を営む家に生まれた梅園は、年少のころから天地万物のあらゆる現象に疑問ををもちはじめました。「お日さまって何なのだろう。あんな高いところにいて、どうしてひとりで動いていくのだろう。また、どうして毎日決まりよく同じ道を通っていくのだろう。お月さまも、お星さまも…」「目はなぜ物を視ることができるのに、なぜ聴くことができないのだろう」──等など、こんな疑問を生涯もち続け、ときにはノイローゼになるほど苦しみながらも、1789年に67歳で亡くなるまで、ほとんど師らしい人につかず、学問の流派にも属することなく、宇宙や自然のなりたちを考え続けた人物です。郷里を離れたのは、ヨーロッパの科学思想にふれるために長崎へ2度でかけたのと、伊勢参りだけだったそうです。

20歳のころには西洋の天文学の書を読み、天球儀を自作して宇宙の原理を学び、30歳のころに、天地万物の自然現象には根本原理があることに気づき、その原理を「条理」と名づけました。そしてその条理探求の書『玄語』の初稿を著しました。そして、以後20年以上も費やして53歳のころ、膨大な宇宙論をほぼ完成させました。

梅園は、そのほかに中国や日本の医書、杉田玄白らによる西洋医学書の『解体新書』などを引用しながら論じた「贅(ぜい)語」、人の生きる道を説いた「敢語」があり、特に「贅語」「敢語」「玄語」は「梅園三語」と呼ばれています。これ以外にも、詩学概論、経世論、医学書、読書日記などを遺しています。

慎み深く、誠実な人柄に、梅園は「豊後聖人」としたわれていましたが、高い地位や名誉などを求める望みはなく、自藩や他藩からの招きにも応ずることはありませんでした。そのため、生前はほとんど知られることはありませんでしたが、明治の終わりになって、その学問体系は三枝博音らによって高く評価され、世間に広く認められるようになり、その旧宅や梅園三語、天球儀、顕微鏡、遺稿は国の重要指定文化財となって保存されています。


「8月2日にあった主なできごと」

1922年 ベル死去…聾唖(ろうあ)者の発音矯正などの仕事を通じて音声研究を深めているうちに、磁石式の電話機を発明したベルが亡くなりました。

1970年 歩行者天国…東京銀座・新宿・渋谷などで、歩行者天国が実施され、ふだんの日曜日の2.4倍もの人びとがくりだしました。この日の一酸化炭素濃度が、ふだんの日の5分の1になったことから、車の排気ガス汚染を食い止め、汚染のない環境をとりもどそうと、全国各地に広まるきっかけになりました。

今日8月1日は、奈良を愛し、美術評論家・歌人・書家として大正、昭和期に活躍した会津八一(あいづ やいち)が、1881年に生れた日です。

新潟市の旧家「会津屋」に生まれた八一は、中学生のころから『万葉集』や良寛の歌に親しみ、子規の文学革新に共鳴して俳句を地元の新聞に発表したりしました。1906年に早稲田大学英文科を卒業後は、新潟県にある高校の英語教員をしながら、多くの俳句・俳論を残します。1908年、最初の奈良旅行をしたことで奈良の仏教美術に深い感銘をおぼえた八一は、俳句から短歌に興味がうつり、古寺風物を詠った20首を作りました。

1910年、早大時代の恩師坪内逍遙の招きによって上京すると、早稲田中学教師となってのちに教頭、1925年には早稲田高等学院教授、翌年には早稲田大学文学部講師を兼ねて英文学や美術史関連の講義をおこなうようになりました。その間、いくどとなく奈良を旅行し、石仏や原始宗教にも関心をもつようになるいっぽう、『万葉集』にあるような、奈良を素材にしたのびやかで生き生きした歌を次々に作っていきました。

1933年には、仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』を刊行すると、この著書で文学博士の学位を受け、1935年に早大に芸術学専攻科が設置されると同時に主任教授に就任しました。1945年、太平洋終戦まぎわに早大を退職、戦後は郷里の新潟で文化活動をしながらたくさんの歌をつくり、1951年には『会津八一全歌集』を編みました。さらに、自作の短歌に注釈をつけた『自註鹿鳴集』というめずらしい著作を遺し、1956年に亡くなりました。

八一は書家としても著名ですが、子どものころは字があまり上手でなく、中学時代の習字の成績が悪かったことに奮起したのがきっかけで、やがて本格的な書家となり、晩年は大家といわれるまでになりました。人に書を頼まれると決して拒まず、次のような自作の歌を「かな文字」だけで記し、渡す時「いい悪いはいわないでくれ、これ以上は書けない」というほど心をこめて書いたそうです。

「かすがのに おしてる つきの ほがらかに あきの ゆふべと なりにけるかも」
「あたらしき まちのちまたの のきのはに かがよふ はるを いつとかまたむ」 


「8月1日にあった主なできごと」

1590年 家康江戸城へ…豊臣秀吉から関東4国をもらった徳川家康が、太田道灌の建てた江戸城へ入城。粗末だった城を、じょじょに様式のある城に整えていきました。

1931年 初のトーキー映画…これまでの日本映画はサイレント映画で、スクリーンの横に弁士がついてストーリーを語るものでしたが、初のトーキー映画『マダムと女房』(五所平之助監督) が封切られました。

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