児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年08月

「おもしろ古典落語」の81回目は、『道灌(どうかん)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「ご隠居さんの家には、いろんな絵が掛かってますね」「掛け軸が好きでな」「これはどういう絵なんですか? ちょろちょろ流れてる細い川のそばに、しいたけがあおりをくらったような帽子をかぶった男が、虎の皮のももひきはいて突っ立ってる。こっちにゃ、洗い髪の女が、お盆の上にレェスカレーをのっけて、おじぎをしてる…」「何てぇ絵の見方するんだ、八っつぁんにかかっちゃ、かなわねぇな。しいたけがあおりをくらったような帽子てぇのはあるか、騎射(きしゃ)笠といって、騎馬から弓を射るときにかぶる笠だ」「へぇー」「洗い髪でなく、さげ髪。お盆にのってるのは、山吹の花だ」「で、このさむらいってのは、誰なんです?」

「太田道灌。江戸城を造った人だ」「うそだい。『江戸城は徳川家康が造った』って、あっしのじいさんがいってましたよ」「江戸を大きな都市に発展させたのは家康だが、最初に城を築いたのは道灌だ」「そうか、じゃ、徳川さん、太田さんから城を買ったんだ。安く買ったんだろうな家安(家康)というくらいだ」「妙なシャレだな」「その道灌さんがどうかしたのかい?」「お鷹狩りに出かけた。すると、にわかの村雨だ」「夕立じゃねぇか」「夕立とは違うな。春先に降る雨が春雨、その次に降るのが村雨。五月が五月雨(さみだれ)」「六月が耳だれ」「そんな雨があるか、六月は梅雨(つゆ)だ。夏が夕立、冬は時雨(しぐれ)という」「夕方、暗くなるやつ」「それは日暮れだろ。道灌公、雨具の用意がない。かたわらを見ると一軒のあばら屋があった」「油屋ですか?」「あばら屋、粗末な家をあばら屋という。雨具を借用したいと訪れると、中から二八(十六歳)あまりの女が出てきて、顔を赤らめて、山吹の花を一枝盆にのせ『お恥ずかしゅうございます』と差し出したのがこの絵だ」「田舎娘で気がきかねぇんだな、殿さまが雨具を貸してくれっていうのにね、雨を払っていけっていうのかい」

「おまえさんにわからないのは無理もない。道灌公にもわからなかった。考えていると、ご家来の一人に豊島刑部(ぎょうぶ)という人がいて、『おそれながら申し上げます。むかし、醍醐天皇の皇子に、兼明(かねあきら)親王というおかたがあり [七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき] というのがございます。山吹というのは実のないもの。これは [実]と[蓑(みの)] を掛けたもので、お貸しする蓑はございません、というナゾでございましょう」』。こういわれた道灌、小ひざを打って、『ああ、余は歌道に暗いのう』と、そのまま城へ帰ったが、その後一心不乱に勉強してりっぱな歌人になった」

「へぇー、一枚の絵にも、いろんな物語があるもんなんですね。そういや、あっしの家にもちょくちょく友だちの道灌がくるから、今度その手を使ってやろう」ご隠居に、ひらがなで歌を書いてもらって表に飛び出した八っつぁん、折からの夕立。長屋に帰ると、いいぐあいに友だちのクマ公が飛びこんできました。しめたとばかり「傘を借りにきたんだろ」「いや、傘は持ってる。ちょうちんを貸してくんねえかな。これから本所の方に用足しに行くんだが、暗くなると困るんだ」「ちょうちん? へんな道灌がきやがったな。傘貸してくださいっていえ、そうすりゃ、ちょうちん貸してやらぁ」「じゃ、しょうがねえ。傘貸してくれ」

「へっ、来やがったな。てめえが道灌で、オレが女だ。こいつを読んでみな」「ななへやへ はなは さけども やまぶきの……こりゃ都々逸(どどいつ)か?」「てめえは、歌道に暗えな」

「かどう? ああ、角が暗えから、ちょうちん借りにきたんだ」


「8月10日にあった主なできごと」

1232年 御成敗(貞永)式目制定…鎌倉時代の執権北条泰時は、武士の権利、義務、罰則などを51か条に定めた日本で初めての武士の法律『御成敗式目』を制定しました。その後長い間、武家社会に関するとり決めるときのお手本となりました。

1693年 井原西鶴死去…江戸時代に「浮世草子」とよばれる庶民のための小説を数多く著した井原西鶴が亡くなりました。

1830年 大久保利通誕生…明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた指導者大久保利通が生まれました。

 

* 13日から夏季休暇が入るため、次回は20日となります。 

今日8月9日は、イタリアのオペラ作曲家、台本作家のレオンカバッロが、1919年に亡くなった日です。

マスカーニの作曲した『カバレリア・ルスティカーナ』と並んで、ベリズモ(現実主義)オペラの代表作として名高いのが、レオンカバッロの『道化師』です。このふたつのオペラは、あわせても普通のオペラの1作分ほどの長さのため、こんにちでは2本立てで上演されるのが普通になっています。そのため、俗に「ベリズモ・オペラの双生児」といわれます。

1857年、ナポリの裁判官の子として生まれたルッジェーロ・レオンカバッロは、ナポリ音楽院とボローニャ大学で学んだ後、楽士としてヨーロッパ各地を放浪しました。ワーグナーを尊敬し、自作の台本によるオペラを上演する機会を得ようと努力しましたが、果たせませんでした。

1890年、5つ年下のマスカーニが懸賞で入選した『カバレリア・ルスティカーナ』の上演をみて大感動を覚えたレオンカバッロは、自分もすばらしい「ベリズモ・オペラ」を残そうと決意。一幕物のオペラ懸賞募集に、自作の二幕物の『道化師』を応募したため、入賞できませんでした。ところが、審査員のひとりだった楽譜出版社の社長が気に入り、等外入賞とされ1892年にミラノで上演されると、迫力ある劇的効果に人気を博し『カバレリア・ルスティカーナ』と優劣つけがたい大成功をおさめたのでした。

物語は、ある田舎回りの道化芝居の一座におこった恋の悲劇を描いたものです。「みなさん、われわれ道化師も人の子です。喜びも悲しみも、恋もあり嫉妬もあります。そんなことを、皆さんに見ていただきたいのです…」というプロローグの歌ではじまり、幕があがります。

主人公のカニオは、一座の座長で道化師を担当しています。妻のネッダは劇の中で座員のトニオと不倫を演じることになっていますが、実はネッダは村の青年シルビオといい仲になっています。トニオもネッダが好きなため彼女に迫るものの相手にされず、腹を立ててネッダとシルビオの密会の場を、カニオに見せてしまいます。不倫を知ったカニオは、ネッダに「相手の名をいえ」と責めますが、ネッダは拒みます。カニオは、怒りも悲しみも隠して道化芝居を演じ、客を笑わせなければならない役者の悲しみを歌い、男泣きします。(第1幕)

美しい間奏曲に続いて、第2幕の劇中劇がはじまります。その内容は、亭主の留守に女房のところに色男が忍びこむという、二人の私生活とそっくりのストーリーだったため、劇がすすむにつれてカニオは、劇中でネッダが「今夜からずっとあたしはあんたのもの」と歌うのを、芝居と現実のみさかいがつかなくなり、本気に「相手の名をいえ」と妻ネッダに迫り「おれはもう道化師ではない」と叫ぶカニオの迫真の演技に、村人は拍手喝采。ネッダは危険をさとって逃げ出そうとしますが、カニオは彼女を刺殺し、ネッダを助けようと舞台に上がってきたシルビオもまたカニオに殺されます。村人たちが大混乱の中、カニオは「喜劇はこれで終わった」(ベートーベンの言葉として有名)と、つぶやいて、その場にくずれ折れ、幕がおります……。こうして、「ベリズモ・オペラの双生児」は、情熱的なイタリア人の魂をとらえて、大ヒットしたのでした。

レオンカバッロは、その翌年に『メディチ家の人々』、1896年に『チャタートン』を発表しますが、どちらも興行的には失敗に終わりました。1897年にプッチーニと同じ素材で『ラ・ボエーム』を発表して成功させましたが、その名声はプッチーニに譲り、その後もいくつかの歌劇や歌曲、ピアノ曲を残すものの、『道化師』の成功には、はるかにおよばないものでした。


「8月9日にあった主なできごと」

1192年 源実朝誕生…鎌倉幕府第3代将軍で、歌人としても著名な源実朝が生まれました。

1945年 長崎へ原爆投下…8月6日の広島に続き、長崎に原爆が投下されました。広島の原爆はウラン爆弾だったのに対し、プルトニウム爆弾という広島より強力なものでした。しかし平地の広島に比べて長崎の地形が複雑なため、被害は浦上地区に集中しました。それでもこの原爆で数か月以内に7万人が亡くなり、その後に亡くなった人を入れると、15万人ほどの人が命を落としました。

今日8月8日は、「子どもの幸せと平和」をテーマに、にじみやぼかしを生かした水彩画を描きつづけた画家・絵本作家のいわさきちひろが、1974年に亡くなった日です。

1918年、福井県武生市(現・越前市)に生まれたちひろ(本名・知弘)は、翌年東京に移り住みました。幼少のころから絵を描くのが得意で、小学校の学芸会では舞台の上で即興で絵を描くほどでした。東京府立第六高等女学校(現・三田高校)2年在学中に、岡田三郎助にデッサンや油絵を学びました。卒業後は小田周洋に師事して書を習いはじめ、書でも、ちひろはその才能を発揮して小田の代理として教えることもあるほどでした。

1939年、ちひろは結婚して夫の勤務地である満州に渡ったものの、夫の自殺という不幸な結果により帰国。1944年には女子開拓団に同行して再び満州に渡るものの戦況悪化のためまもなく帰国しました。翌年には空襲で東京の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開、ここで終戦を迎えました。ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感したということです。

1946年、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、戦前、戦中期から一貫して戦争反対を貫いてきた日本共産党の理念に深く感銘して入党。上京して新聞記者として働きながら、丸木俊に師事してデッサンを学びました。その頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、1949年に発表した紙芝居『お母さんの話』をきっかけに、画家として自立する決心をしました。

こうして画家・絵本作家としての多忙な日々を送っていたちひろでしたが、1949年、党支部会議で演説する22歳の松本善明と出会って1950年に結婚、翌年長男猛を出産しました。ちひろは弁護士をめざす夫を、絵を描くことで生活を支え、1952年には練馬の下石神井に自宅兼アトリエを建てるまでになりました。

当時の日本では、絵本というと、文が主体で絵はあくまでそえものにすぎないと考えられていました。至光社社長の武市八十雄は、欧米の絵本のような「絵で展開する絵本」の制作をしたいと、ちひろに呼びかけ、1968年『あめのひのおるすばん』にはじまり、それ以降ほぼ毎年のように新しいスタイルの絵本を制作しました。その努力が実り、1972年『ことりのくるひ』がボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞、国際的に高い評価を得ることになりました。ところが、1973年秋に肝臓ガンが見つかり、翌年、55年の生涯を閉じてしまいました。

生涯に描いた作品は9000点にものぼり、絵本の代表作には上記以外に『おふろでちゃぷちゃぷ』『戦火のなかの子どもたち』などがあります。夫の松本善明と一人息子の猛は、ちひろの足跡を残すために、1977年、下石神井の自宅跡地にちひろの個人美術館を開館。さらに1997年には、長野県に広い公園を併設した「安曇野ちひろ美術館」を開館させています。


「8月8日にあった主なできごと」

1506年 雪舟死去…日本水墨画の大成者として知られる室町時代の画僧・雪舟が亡くなりました。

1962年 柳田国男死去… 『遠野物語』『雪国の春』『海南小記』などを著し、日本民俗学を樹立した柳田国男が亡くなりました。

1973年 金大中事件…韓国の政治家で、後に第15代韓国大統領となる金大中が、宿泊している東京のホテルから拉致される事件がおこりました。5日後、ソウル市内の自宅前で発見されました。

今日8月7日は、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などの小説、『街道をゆく』などのエッセイで人気を博し、今もたくさんの著書が愛読されている作家・文明批評家の司馬遼太郎(しば りょうたろう)が、1923年に生れた日です。

大阪の薬局を経営する家に生れた司馬遼太郎(本名・福田定一)は、生後まもなく乳児脚気にかかり、3歳まで奈良にある母の実家で養育されました。その後、大阪にもどり、1941年に大阪外語学校モンゴル学科に入学しました。しかし1943年、太平洋戦争が激化したことで兵力不足を補うための学徒出陣により同学校を卒業させられ、兵庫県加古川の戦車第19連隊に入営後、見習い士官として満州の戦車第一連隊に配属されました。1945年に本土防衛のために内地に帰還し、栃木県佐野市に配属され終戦を迎えたのでした。22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に生れたのだろう」という疑問を持ち、この地での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点だったといわれています。

戦後「新日本新聞」に入社しましたが、1948年に同社の倒産により、「産経新聞社」京都支局に入社しました。1950年に大阪本社へ移り、文化部長、出版局次長を勤めるかたわら寺内大吉らと同人誌「近代説話」を創刊、1955年『名言随筆・サラリーマン』などを本名で発表、1956年には寺内のすすめで司馬遼太郎のペンネームで書いた小説『ペルシャの幻術師』を講談倶楽部賞に応募したところ、海音寺潮五郎の絶賛を受けて同賞を受賞し、文壇デビューをはたしました。

1960年『梟(ふくろう)の城』が直木賞を受賞すると、翌1961年に産経新聞社を退社し、執筆活動に専念しました。1962年から『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年から『国盗り物語』を連載し歴史小説家として旺盛な活動を本格化させました。これらが完結されるや、圧倒的な反響をひきおこし、たちまち人気作家となりました。その後も『国盗り物語』『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を刊行しました。

1971年から、紀行エッセイ『街道をゆく』を「週刊朝日」に連載を開始するいっぽう、1972年には秋山真之・好古兄弟や正岡子規らの人間群像を通じて明治日本の夜明けを描いた大作『坂の上の雲』、幕末を扱った『世に棲む日日』を発表すると、「国民的作家」の名が定着しはじめ、「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観が注目されるようになりました。

その他、明治初期の『翔ぶが如く』『胡蝶の夢』、江戸後期の『菜の花の沖』、戦国期の『箱根の坂』などを著し、清朝興隆の時代を題材にした『韃靼(だったん)疾風録』を最後に小説を打ちきり、週1回連載の『街道をゆく』月1回連載のエッセイ『風塵抄』『この国のかたち』にしぼって、日本とは、日本人とは何かを問いかける文明批評を行いました。

1993年に文化勲章を受章、1996年に72歳で亡くなりましたが、生涯に刊行した二百数十点にわたる著書群は、今もほとんど版を重ねているのは、まさに驚異的なことです。なお、司馬の自宅の隣地には「司馬遼太郎記念館」が建てられ、司馬の著書や資料本2万点以上を収納しています。


「8月7日にあった主なできごと」

1831年 十返舎一九死去…弥次郎兵衛と喜多八(やじさん・きたさん)の旅行記『東海道中膝栗毛』などで知られる江戸時代後期の戯作者・十返舎一九が亡くなりました。

1941年 タゴール死去…『ギーターンジャリ』の詩でアジア初のノーベル文学賞を受賞し、東洋最大の詩人と讃えられたタゴールが亡くなりました。

1942年 ガナルカナル島の戦い…アメリカ軍の海兵隊が西太平洋ソロモン諸島のガナルカナル島とツラギ島に上陸し、日本軍との戦いがはじまりました。激しい闘いのすえ日本軍は21日までにほぼ壊滅し、ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘といわれています。

今日8月6日は、小説『青銅の基督』、戯曲『項羽と劉邦』、自伝『一夢想家の告白』などを著わした長与善郎(ながよ よしろう)が、1888年に生れた日です。

東京の麻布に代々医者を営む名門の家に生れた長与は、学習院高等科に学び、柳宗悦、木戸幸一らと交遊しました。1911年に東京帝国大英文科に入学すると、武者小路実篤の著書に感動し、志賀直哉や武者小路らの雑誌『白樺』同人となりました。そして、トルストイやニーチエ、徳冨蘆花、内村鑑三らの著作に親しみ、特に漱石の『それから』によって、文芸に開眼されたと記しています。

1912年に東大を中退し、文学の道を志す決意をした長与は、1914年『白樺』に自らの失恋と恋愛を描いた『盲目の川』や、中国史に取材した長編戯曲『項羽と劉邦』を発表。この劇は宝塚歌劇団初の一本立てミュージカル『虞美人』の原作として人気をよび、新進作家として注目をあびることになりました。以後、踏絵用にみごとなキリスト像をつくりすぎたために、信者と疑われて処刑された青年芸術家の苦悩を描いた短編『青銅の基督(キリスト)』など多くの小説や戯曲、人道主義を擁護する評論を発表し、白樺派の中心人物として活躍しました。

1923年におきた関東大震災で『白樺』が廃刊になった後は、武者小路、志賀、倉田百三、千家元麿、岸田劉生らに呼びかけて『不二』を主宰し、自らの人生観を竹沢先生に託して語る長編小説『竹沢先生と云ふ人』を連載しました。

敗戦後は、戦時中の自分の愚かさや他者のありかた、日本文化へのきびしい反省を率直につづった『一夢想家の告白』や、自己の精神史ともいえる『わが心の遍歴』を雑誌に3年間も連載し、1961年に亡くなる晩年の最大作品を完成しました。読売文学賞を受賞したこの著書は、自伝小説の傑作といわれています。

なお、インターネット図書館「青空文庫」では、長与の代表作のひとつ『青銅の基督』を読むことができます。


「8月6日にあった主なできごと」

1660年 ベラスケス死去…スペイン絵画の黄金時代を築いた17世紀を代表する巨匠ベラスケスが亡くなりました。

1881年 フレミング誕生…青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせたフレミングが生まれました。

1945年 広島に原爆投下される…アメリカ空軍B29爆撃機が、人類史上はじめて原子爆弾を広島に投下しました。爆心地から半径500m以内の人々はほとんどが即死、2km以内の建物は全壊、爆発とそののちの火災で、市内95000戸の9割が灰となりました。市民およそ31万人のうち、罹災者は17万人をこえ、死者および行方不明者92000人以上、重軽傷者123000人以上と、日本占領軍アメリカ総司令部は翌年発表しましたが、じっさいの死者は1945末までに14万人をこえていたといわれます。

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