児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年08月

「おもしろ古典落語」の82回目は、『かぼちゃ屋(や)』というお笑いの一席をお楽しみください。

二十歳になっても、ボーっとしている与太郎を心配して、八百屋のおじさんが商売を覚えさせようと、かぼちゃを売らせることにしました。元値は大きいのが十三銭、小さいのが十二銭。勘定のしやすいように大小十個ずつかごに振りわけてやり、上を見て売るんだと、よくいい聞かせて送りだしました。

「かぼちゃ! かぼちゃ!」「なんでぇ、この野郎。なにがかぼちゃだ」「かぼちゃ、買ってくれ」「かぼちゃ売りか、いきなりかぼちゃなんていうから、おれをかぼちゃ呼ばわりしたのかと思ったぞ。かぼちゃを売る時は、『唐茄子(とうなす)屋でごさい』っていいな」「そうか、じゃいうぞ、『とうなす屋でござい』…、売れねぇじゃねぇか。あーあ、暑くって重くって、目がまわってきたな。ありゃ、行き止まりだ」

路地裏に入りこんだ与太郎、動きがとれなくなってしまいました。「おい、だれだ、人んちの格子に、なにかぶつけてんのは?」「まわれなくなっちゃったんだ、路地広げてくれぇ」「あんなこといってやがる。路地が広がるか」「じゃ、前の蔵どけろ」「てめぇ、天びんかついだまま回ってんじゃねぇか、天びんおろして、身体だけまわってみろ」「ふふふ…、まわれた」「あたりめぇだ、この野郎、おれんとこの格子を傷だらけにしやがって、張り倒すぞ」「張り倒してもいいから、とうなす買ってくれ」「なんだ、おめぇ、殴られてもいいから商いしようってのか、いい度胸だ、気にいった。とうなす買ってやろう、いくらだ」「大きいのが十三銭、小さいのが十二銭」「安いな、よし、売ってやろう…、おぅい、お園さんにお光っちゃん、このとうなすは安いぜ。えっ、買うかい、十三銭と十二銭。大きいのがいい? おいおい、お客さんがこんできたよ。とうなす屋、おまえ、なにやってんだ」「うん? 売るときゃ、上見てなくちゃいけねぇんだ」

親切な人があるもんで、与太郎のかわりにみんな売ってくれました。「おじさん、行ってきたぞ」「早ぇな、えっ、みんな売れた? そいつはすげえな、売り上げは…二円五十銭、こりゃ元値だな。おまえが上を見たやつがあるだろ。それをここに出してみろ」「そらぁ、出せねぇ」「どうしてだ。おじさんだっていくらもうけたか知りてぇ、ちゃんと上を見たんだろ?」「上見たよ、かんかん照りで、のどの奥のほうまで陽がへえってきやがった」「売るときに、空を見てるやつがあるか、上を見るってのは、かけ値だよ。十三銭を十五銭、十二銭を十四銭で売るから、もうけが出る。かけ値ができなけりゃ女房子どもが養えねぇだろ」「そんなものいねぇや」「ばかったれ、ありゃってことだ。もう一度行ってこい」と追い出しました。

与太郎、またかぼちゃを持たされて、さっきの路地裏へやってくると…。「おう、とうなす屋じゃねぇか、忘れもんか?」「とうなす買っとくれよ」「よせよ、さっき買ったばかりじゃねぇか。とうなすばっか食っちゃいられねぇが、まあ安いから、十三銭のをもうひとつもらうか」「こんどは十五銭だ」「えっ、なんだってきゅうに値があがっちまうんだ」「おじさんにおこられた。十三銭と十二銭は、元なんだって。おじさんが上見ろっての、おれ知らねぇから空見てたけど、ほんとはかけ値をすることなんだってさ」「ぼんやりだな。おめぇ、いくつだ?」「六十だ」「おい、ばかなこというな、見たとこ二十歳(はたち)ぐれえだな」「二十歳は元値で、四十は掛け値だ」「年にかけ値をするやつがあるか」

「だって、かけ値をしなきゃ、女房子どもが養えねぇ」


「8月24日にあった主なできごと」

79年 ポンペイ最後の日…イタリアのナポリ近郊にあった都市ポンペイが、ベスビオ火山の噴火による火山灰で地中に埋もれました。

1594年 石川五右衛門刑死…豊臣秀吉が愛用する「千鳥の香炉」を盗もうとして、捕えられた盗賊の石川五右衛門とその親族は、京都の三条河原で、当時の極刑である[釜ゆでの刑]に処せられました。これ以降、釜型の風呂のことを「五右衛門風呂」と呼ぶようになりました。

1897年 陸奥宗光死去…イギリスとの治外法権を撤廃、日清戦争後の下関条約締結の全権大使をつとめるなど、近代日本の外交を支えた陸奥宗光が亡くなりました。

今日8月23日は、日本の伝統的な水墨画や大和絵の技法に、西洋画の写実画法からヒントをえた独自の画法を創造した竹内栖鳳(たけうち せいほう)が、1942年に亡くなった日です。

1864年京都の料亭に生まれた竹内栖鳳(本名・恒吉)は、幼いころから絵を書くのが好きでした。10歳上の姉のはげましを受けて13歳のときに四条派の土田英林に絵を習い始めました。そして、17歳の時に同派の名手として知られた幸野楳嶺(ばいれい)の私塾へ正式に入門すると、ほどなく頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、楳嶺塾「四天王」の筆頭と呼ばれ、師から「棲鳳」の号を贈られました。

1887年には、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)を修了すると、内国勧業博覧会などに出品して受賞を重ね、写実の新進画家の先鋭として注目を浴びるようになります。

1900年、パリの万国博覧会に出かけたのを期に、7か月かけてヨーロッパを旅行し、名だたる美術館をほとんど見学したことでギリシャ時代からルネサンス、さらに印象派に至るまでの主要画家の作品に接したことで、帰国後「棲鳳」の号を西洋の「西」をとりいれた「栖鳳」に変えました。とくに、ターナーやコローの風景画に感銘を受けたと語っています。

帰国後の栖鳳は創作意欲に満ちあふれ、神社や寺をまわっては、宝物の模写にはげんだり、特に動物画に創作意欲をつぎ込みました。雀や猿、兎など、動物を描けば、体臭までえがくとまでいわれました。1907年に文展(文部省美術展覧会)がはじまると同時に審査員のひとりとなり、1913年に「帝室技芸員」に推挙されたことで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立し、1937年には第1回文化勲章を受章しています。

また、長年にわたり京都府画学校など後進の指導や育成にも力を入れ、門下生に上村松園や土田麦僊、小野竹喬ら名だたる俊英を多数輩出して、東の大観、西の栖鳳と称されるほどの巨匠となりました。

なお、代表作『班猫(はんびょう)』 のモデルとなった猫は、栖鳳が沼津に滞在していた時、偶然見つけた近所の八百屋のおかみさんの愛猫でした。その姿に絵心がかき立てられ、交渉して譲り受けて京都に連れ帰り、日夜、画室に自由に遊ばせながら丹念に観察して作品に仕上げました。


「8月23日にあった主なできごと」

1868年 白虎隊の最期…明治新政府軍と旧幕府との間の戦争を戊辰戦争といいますが、旧幕府軍の拠点である会津藩(福島県)に、白虎隊という16歳~17歳の会津藩士の子弟343人で構成された組織がありました。8月に入ると新政府軍は会津の鶴ヶ城へせまり、落城寸前になった22日、白虎隊の出陣が許され激しい戦いにいどみました。そして翌日、城が煙につつまれているのを見た生き残りの隊員20名は、飯盛山で命を絶ったのでした。

1879年 滝廉太郎誕生…明治時代の洋楽揺籃期に、『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した滝廉太郎が生まれました。

1914年 日本対ドイツ戦に参戦…第1次世界大戦がはじまり、日英同盟を結んでいた日本は、ドイツに宣戦を布告しました。ヨーロッパ諸国がアジアから撤退しているすきに、中国に手を伸ばすのが日本のねらいでした。

今日8月22日は、『牧神の午後への前奏曲』『海』『月の光』『子どもの領分』など、音楽の印象派といわれる独自の和声を採り入れたフランスの作曲家ドビュッシーが、1862年に生れた日です。

パリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーに瀬戸物商の長男として生まれたクロード・ドビュッシーでしたが、事業に失敗した父にかわり叔母の援助を受けて育ちました。ほんの一年ほど基礎的なピアノレッスを受け、10歳のときにパリ音楽院に入学、自ら学資をかせぎ出しながら4年間ピアノや和声学、対位法の基礎を学びました。1880年、作曲学教室に入ってさらに4年間作曲を学んだのち、カンタータ『放蕩息子』で卒業の最優秀賞ともいえるローマ大賞を受賞しました。

1885年から1887年にかけてイタリアのローマへと留学したものの、ローマの生活や雰囲気になじめず、期間をくり上げてパリへもどりました。当時のパリは、新しい思想や芸術の運動がおこりはじめていて、特にマラルメの家ではボードレールら新進の文士や画家のモネなど、さまざまな芸術家が集まり、ドビュッシーもたった一人の音楽家として会合に加わりました。やがて、パリの一部の音楽関係者のあいだで、印象主義を音楽の世界に採り入れたドビュッシーの作品が注目されるようになってきました。

そして1894年、マラルメの詩による『牧神の午後への前奏曲』が発表されると、若い人たちの圧倒的な支持をえて、いちやく名声を高めました。詩は、ある夏の夜の午後、半獣神の牧神が湖のほとりで昼寝をしながら水浴するニンフの幻を見るといったような内容で、その印象を、これまでになかった感覚の楽風で作られたものでした。

このドビュッシーの、はっきりしたメロディや構成をさけ、音色や情緒をたいせつにしたまさに印象派の絵を音楽に移しかえたような作曲スタイルは、さらに磨きがかけられ、交響詩『海』『月の光』『亜麻色の髪の乙女』、管弦楽曲『夜想曲』などを成功させ、近代フランス音楽を代表する作曲家としての地位を確実なものにしました。

晩年には、40歳を過ぎて生れた娘シュシュを溺愛し、3歳になったとき彼女のために「グラドス・アド・パルナッスム博士」「人形のセレナーデ」など6曲からなるピアノ曲集『子どもの領分』を発表、その美しいメロディの数々は名曲として定評があるばかりでなく、ピアノを学ぶ子どもたちに人気のある練習曲となっています。


「8月22日にあった主なできごと」

1358年 足利義満誕生…室町幕府第3代将軍で、南北朝の合一を果たし、「金閣寺」を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた足利義満が生れました。

1910年 日韓併合…日本は明治のはじめころから、朝鮮半島を勢力範囲にしようと乗りだしていましたが、日清戦争・日露戦争に勝利してからはじょじょに植民地化していました。やがて軍事、外交、警察権を奪い内政にまで干渉するようになったことに対し、反日運動が強まり、1909年に初代統監となった伊藤博文射殺事件がおきました。日本政府はこれを期に、朝鮮政府に圧力をかけ、日韓併合の条約に調印をさせました。

1943年 島崎藤村死去…詩集『若菜集』『落梅集』で、近代詩に新しい道を開き、のちに『破戒』や『夜明け前』などを著した作家 島崎藤村が亡くなりました。

1981年 台湾で飛行機事故…台北市に本拠をおいていた遠東航空の旅客機が、台北─高雄間を飛行中に空中分解して墜落、乗員乗客110人が全員死亡しました。この中に直木賞作家の向田邦子が含まれていて、日本社会に衝撃がおこりました。

今日8月21日は、1917年におきたロシア十月革命の指導者の1人であり、レーニンに次ぐ中央委員会の一員だったソ連の政治家トロツキーが、スターリンと対立して亡命先のメキシコで1940年に暗殺された日です。

1879年、ウクライナ南部のユダヤ系富農の家に生れたレオン・トロツキー(本名レフ・ダビドビッチ・プロンシュタイン)は、黒海の北西岸にあるオデッサの有名校に学びました。トロツキーは在学中、トルストイ、シェークスピア、プーシキン、ディケンズらの文学に傾倒するいっぽう、ドイツの社会主義者ラッサールの思想に共鳴し、17歳で秘かに革命運動に加わったため1898年には逮捕され、シベリアに流刑されました。

1902年の夏、シベリアを脱走したトロツキーはスイスを経てロンドンに逃れましたが、第1次ロシア革命のおきた1905年にロシアに帰国して地下活動に入り、サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となりました。しかし、ロシア全土で起こったゼネストに関与したことで12月に逮捕され、シベリアへの終身流刑を宣告されました。このときも、護送中に脱走。ウィーンへ亡命して、雑誌『プラウダ』に革命理論の基本「永続革命論」を提唱しました。

1914年に第一次世界大戦が始まると、スイス、フランス、アメリカへ居を移し、1917年ロシアに二月革命が起こったことを知ると帰国。ボリシェビキ(多数派)と歩調をあわせて革命運動に参加し、ソビエト議長に就任。十月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導し、印刷所、郵便局、発電所、銀行などの要所を制圧するなどして、メンシュビキ(少数派)からボリシェビキの権力奪取に貢献しました。レーニンが革命政権である人民委員会議の議長に就任すると、外務人民委員(外相)として外交問題を担当しました。

1918年2月、軍事人民委員・最高軍事会議議長に就任したトロツキーは、大衆の人気に支えられて「赤軍」の組織に着手すると、赤軍の指揮者として反革命軍(白軍)の撃破や外国の干渉の排除に大きな功績をあげました。ところが1924年レーニン死去後に、中央委員会で七人組が台頭すると、スターリンら中央委員会の多数派と対立しました。トロツキーの「永続革命論」より、スターリンらの「一国社会主義論」が優勢になり、1927年には政府・党の全役職を解任され、1929年に国外追放をいいわたされました。メキシコに亡命したトロツキーでしたが、第四インターナショナルを結成し、反スターリン運動を展開しましたが、スターリンの刺客によって暗殺されてしまいました。

なお、トロツキーの革命論は、「革命はロシア一国で成し遂げられるものでなく、欧米の革命による支援をうけ、世界的な規模までも革命を拡大しなくてはならない」というもので、トロツキズムといわれています。


「8月21日にあった主なできごと」

1862年 生麦事件…今の横浜市鶴見区生麦で、薩摩藩の島津久光一行の前をイギリス人が乗馬のまま横切ったことで、一部の藩士が4人を殺傷。これが原因で、翌年8月に薩英戦争がおこりました。

1911年 「モナリザ」盗難…パリのルーブル美術館から、レオナルド・ダ・ビンチの代表作「モナリザ」が盗まれました。2年後、フィレンツェのホテルで無事発見されましたが、盗みだしたイタリア人のペンキ職人は「レオナルドの故国イタリアへ絵を返してもらっただけだ」と豪語したと伝えられています。

今日8月20日は、明治中期から大正・昭和前期にわたり、キリスト教社会主義組織「救世軍」活動にささげた山室軍平(やまむろ ぐんぺい)が、1872年に生れた日です。

岡山県の現・新見市の農家に生まれた山室は、家が貧しいため少年時代に叔父の家に養子へ出されましたが、叔父の反対を押し切って14歳で上京、印刷工となりました。働きながら、教会主催の夜学英語学校に学んでキリスト教に触れると、同志社の新島襄にあこがれ、1889年京都の同志社大学に入学しました。

赤貧の中で勉学に励むこと5年、健康を害したり、当時広まりつつあった自由主義神学への反発もあって卒業間近に大学を中退。ちょうどそのころ、岡山で孤児院を経営する石井十次のすすめで上京、イギリスで始まった新教の一派で、日本に伝わったばかりの貧しい人たちを救う社会運動「救世軍」に参加しました。パンフレット『鬨(とき)の声』を刊行したり、街頭募金をするなど大いに働き、1896年には中尉に任じられ、日本で最初の救世軍士官(伝道者)となりました。

精進ののち、「聖潔(きよめ)」という教理に出会って信仰上の苦悶を解決した山室は、赤いバンドのついた軍帽をかぶり、太鼓やラッパを鳴らし、わかりやすい言葉でキリスト教を伝道しました。1899年には伝道の言葉をまとめた『平民の福音』を著わし、これは従来のインテリ向けの福音書とは異質ともいえるものでした。この年、佐藤機恵子と結婚、夫人とともに二人三脚のめざましい活躍をすることになります。

公娼廃止運動(廃娼運動)、娼妓の自由廃業のすすめ、わが国初の無料職業紹介事業、貧民のための木賃宿の開設、婦人ホーム経営、年の暮れには貧民に餅を配布する運動等など…、後に東洋で最初の中将となり、日本軍国司令官となるなど、1940年に亡くなるまで生涯にわたり、社会福祉運動・事業にそそぎつくしました。

なお山室軍平は、石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれています。


「8月20日にあった主なできごと」

1241年 藤原定家死去…「小倉百人一首」の編さんや、万葉集、古今集と並び日本の3大和歌集の一つ「新古今和歌集」を編さんした鎌倉時代の歌人 藤原定家が亡くなりました。

1839年 高杉晋作誕生…吉田松陰の松下村塾に学び、農民や町民を集めて奇兵隊を組織し倒幕に力をそそいだものの、明治維新を前に若くして病死した長州藩士 高杉晋作が生まれました。

1988年 イラ・イラ戦争停戦…1980年ペルシャ湾岸地域を優位に支配しようとするイラクのフセイン大統領が、革命後の不安定なイランへ攻撃を開始して、イラン・イラク戦争が始まりました。一進一退のくりかえしだったため、国連の即時停戦の要請を受けて、停戦が実現しました。双方の犠牲者は100万人を超えたといわれています。

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